古代史を解明する会(解明委員会)
活動記録 バックナンバー 5
- 「先史時代の日本語と中国語の関係」2023年2月11日(2023/06/27 追記!)
- 「欠史八代 大王非存在と神武=崇神説の検証」2023年3月11日(2023/05/18 New!)
- 「動画『科学で検証/神武東征はあったのか!』を論評する」2023年4月8日(2023/04/25 New!)
- 「朝鮮半島の古代歴史を学ぶ」2023年5月13日
- 「寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』について」2023年6月10日
- 「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる」2023年7月8日
26.「先史時代の日本語と中国語の関係」(2023年2月11日)
2023年2月11日 26回 古代史を解明する会 「先史時代の日本語と中国語の関係」は、13:00より16:00 オンライン開催された。出席者10名。
- テーマ
- 「先史時代の日本語と中国語の関係」
日本語と中国語は大きく異なっている言語である。しかし、先史時代からの人の移動・交流などをふまえると、同根であるとする期待も持たせるものである。
- <構成>
-
- 野口和夫氏によるPPTを用いた解説
- 解説に対する質疑応答
- 丸地三郎氏による追加解説
<1 解説>動画あり
- 最終氷期には東シナ海は陸地だったが、その後の海面上昇で、そこに住んでいた人は九州や、朝鮮、山東半島、長江流域に移った
- 鬼界カルデラの爆発で九州は全滅した。縄文時代は西日本の人口は少ない。弥生時代に増える
- 魏志倭人伝には言葉が通じなくて困ったという記述はない
- 日本語の同系言語は不明
- 同系を示すには、語彙、文法、音韻、類型がある。
- 日本語と中国語が同系であるという仮説を立てる。
- 語彙、文法、音韻、類型は変化するので、上古のことはわからない
- 中国語に起源がある日本語の語彙がある
- 徐福が日本に来たのなら、少年、少女たち中心の社会だった。よって日本で中国語が変化した可能性がある
<2 解説に対する質疑応答>
- 日本語は中国語の影響が大きい
- 音読みと訓読みは別々のものではなくグラデーションである
- 秦や漢までは上古音だがいつまでの時代が上古音かは明らかではない
- 中国の異民族支配の時代に急速に中国語が変化した
- 古事記は上古音で書かれている可能性がある
<3 丸地三郎氏による追加解説>2023/06/27 New!
- 日本に人類がきたのが4万年前。当時の海水面は-80m。最も海面が低下した時期で -128m。
- 稲作が開始された1万年前の海面は -30m。日本との距離が遠かった。8000年前は黒潮・対馬海流ともにあるので日本に来るのは容易ではない。
- 黒潮があるので福建省付近から日本には来るが、逆に日本からの移住は困難。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
-
-
「先史時代の日本語と中国語の関係」 野口和夫 121分
https://youtu.be/_q1LexLl0tI -
追加解説 丸地三郎 17分 2023/06/27 New!
https://youtu.be/b3fnNk2ukQA
-
「先史時代の日本語と中国語の関係」 野口和夫 121分
- ➤ 資料
-
- 「先史時代の日本語と中国語の関係」 野口和夫 PDF約5MB
- 日中韓漢字音比較 野口和夫 PDF約55KB 2023/06/27 New!
- 基礎語彙表 野口和夫 PDF約71KB 2023/06/27 New!
- 「追加解説」 丸地三郎 約2.5MB 2023/06/27 New!
27.「欠史八代 大王非存在と神武=崇神説の検証」(2023年3月11日)
2023年3月11日 27回 古代史を解明する会 「欠史八代」は、13:00より16:00 オンライン開催された。 出席者11名。
- テーマ
- 「欠史八代 大王非存在と神武=崇神説の検証」
古事記・日本書紀を読んで古代史を検討すると、直面するのが、「欠史八代」と云う言葉。綏靖天皇(2代)から開化天皇(9代)は存在しなかったという説です。
初代神武天皇の称号と10代崇神天皇の別名が、どちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読めることが、一つの根拠とも、言われます。一方、歴史書で記載された事柄を否定するには、相応の根拠が必要と云われ、「欠史八代」を認めないとする説もあります。
「欠史八代」「神武=崇神」説を取る飯田眞理さんに、資料をまとめ、説明を受けることにしました。
レポート内容
欠史八代大王の和風諡号と系譜/王后・妃/系譜と子女/皇子を祖とする氏族/陵墓について、一覧表にまとめ、見易い形で、説明を行った。陵墓については、図・写真・地図を示し紹介。
神武の年代を、15代の天皇の没年齢・在位年数から考察。奈良盆地の弥生時代を考古学者・関川尚功著の『考古学からみた邪馬台国大和説』をベースに様相を紹介した。
ヤマト王権の成立の年代を、14C 年代測定や考古学(庄内式土器)から4世紀中ごろと推定。
神武=崇神説を検証した。
まとめとして、「欠史八代の実在を弁明することの「非現実性」を認めざるをえないであろう。」として、『欠史八代の非存在説と実在説のどちらが、より適切であるか、我々自身の「古代史感」にかかっていると思われる。』と締めた。
議論や意見交換
- 1.意見:
-
神武とその後の政権が離れていても歴史として問題ない。
会社でも、諸国の始まりでも、初代は名前が残るが2-3代など後継者の名前は残らない。
王権とし権力には、違いが有るのでは? 神武と崇神それ以降では権力に大きな違いが有るのでは? - 2.質問:
-
神武/崇神の年代は? 神武は九州から?
- 飯田回答:
-
4世紀中ごろ、350年頃。神武東征はその10年前。関川さんの年代観を一緒。
北部九州の可能性が80%、南(宮崎)が20%
東征の時期は、新羅/百済の政変と同時期と考えている。
- 3.意見:
-
飛鳥座(います)神社に触れて頂き、有難うございます。
主祭神は大国主・事代主外の出雲系で、神主は、設立は崇神天皇の時代と云っていた。
奈良盆地の葛城/明日香の地には、元々、出雲族が居て、その後に神武東征があった筈。
我々、出雲系が先で、後から天皇一族が来た。
葛城(南西部)のこと:今日は磯城:奈良盆地南東部の話は出てきたが、葛城の話は重要。
明日香に近い処に初代4代が居て、次の2代が葛城に居た。
その次2代は少し離れた処、開化に至って、奈良市内に墓が遺っていると云うことは、葛城など南西部に8代分の人達が力をもって居たことを、記紀が示しているのではないか。
神武も崇神も九州から来たとしても、神武とは100年位の時間差があった筈。
又、饒速日も九州から来ていた。崇神が東征したとするのが難しい。崇神と神武同一は無理が有る。- 飯田回答:
-
それは、解釈の問題。
崇神などの記述を読んでみると、奈良盆地内の狭い部分のことしか、書かれていない。
広い地域を支配したと思う人が居ると思うが、活動地域は広くないことが判る。
崇神と神武の共通性/類似性から判断すると、東征を神武として、崇神の業績を書き残し、あいだを業績無しで記し、その後の業績を崇神のものとして記述した。これが私の解釈。
崇神の前のことは判らない、書いてないから。これをどう解釈するかの問題。
- 4.質問:
-
崇神が九州から東征してすぐに、いきなり、四道将軍の派遣や伊勢神宮のことなど、大きな仕事は出来なかったはず。
- 飯田回答:
-
纏向を見ると、その時代には、中京地区との交流が大きかったことが窺える。
四道将軍は征服に行ったわけではない。使節として派遣されたと考えられる。だからできた。
出雲に関して。ヤマト政権は、出雲を恐れていた。
- 5.意見/質問:
-
欠史は3代~4代と考えている。
取り巻きの人々の家系図が、合わなくなる。ニギハヤヒ一族の可美真手命は、神武と関わり、その子孫は崇神と関わる。ニギハヤヒの子孫の系図を示して、欠史8代が無いとすると、その間の取り巻きの人々の子孫達は、いなかったことになる。家系図が成立しなくなる。
8代全てが無かったのでは無く、数代が無かったということでは無いかと考える。そうすると、神武=崇神との説は、成り立たない。- 飯田回答:
-
欠史8代は初めから8代では無く、5代位が欠史で、それが追加されて8代になった。
それに合わせて、豪族達の家系は、5-6では引き延ばされた。大友/物部/忌部の家系図でも、5代位が合致。
その後、記紀では、更に引き延ばしをはかり、8代分引き延した。そのため、5代引き延された豪族の系図と整合性が無くなってしまった。
- 6.質問/確認:
-
飯田資料から、年表を作り表示し、飯田さんの説を確認した。
- 飯田回答:
-
- 神武東征の時期を紀元1世紀/2世紀とする説は、有り得ないこと説いた。
- 崇神の年代は4世紀半ば。東征はその10年程前。
- 東征から10年ほどしか期間(年代)が無いため、欠史8代は入る余地が無い。
- 崇神と神功皇后の年代差は、一般に言われるほどの年代差は無いと考えている。
飯田さんは、神功皇后没年は385年又は、神功皇后は存在しなかった説。
応神天皇以前の部分に別意見が有る。 - 弥生後期に大和盆地はどういう様相だったのか、この件に関して、関川さんの本/意見を良く理解して欲しい。
- 記紀に書いてあるというだけではダメで考古学と合わせる(整合性を持たせる)必要がある。
- 7.意見:
-
関川さんの本を読んだ。
奈良県で発掘をしてきた考古学者が、奈良県には、何も出てこないから、卑弥呼が居た筈がないと云っている。それを、未だに、関西の考古学者は認めていない。
関川さんをもっと、評価すべきだ。 - 8.質問/意見:
-
私(伊藤)は、飯田さんと同じ、神武=崇神説で、神武東征301年即位説。
八代は無かったとする説であることを確認。
飯田氏の説とは、年代は50年程違う。
8代のモデルとなった人は居ただろうが、その人は天皇では無かった。 - 9.質問:
-
飯田/伊藤両氏へ質問した。
神武/崇神の即位が350年とすると、魏志倭人伝の邪馬台国との関係はどうなるのか?- 飯田:神武/崇神の東征は、その10年程前と見る。卑弥呼=天照大神と考えている。
- 伊藤:飯田説とは50年異なる。神武が52才で、301年即位。生年は250年。
卑弥呼の死亡は248年。卑弥呼=天照大神となる。高天原=邪馬台国と考える。
邪馬台国は熊本で、狗奴国は宮崎/鹿児島。ニニギが宮崎に天孫降臨。子のホオリが東征の為、宮崎から294年出発。
畿内は、出雲系200年代前半に畿内を掌握していた。ニギハヤヒは、邪馬台国本体から出発して、畿内を制圧し、出雲国譲りを実行した。
その時、事代主は吉備に逃れていた。神武は吉備に行き、神武と事代主が協力して、饒速日を滅ぼした。それが神武東征で、ヤマト政権が成立した。 - 飯田:266年倭が晋に朝献した。台与の時代も九州に居てそれを行った。
天照=卑弥呼であって、オシホミミ=天忍穂耳尊の子のニニギ=邇邇藝命が宮崎に天孫降臨し、その子であるホオリが神武であり崇神である。(邇邇芸命=神武=崇神とする説) - 丸地:宮崎への天孫降臨から凡50年間で、東征が行われ、301年の神武即位となったと云うことですネ!
- 伊藤:ほぼその通りです。但し、ホオリ=神武の勢力はたいしたものでは無く、吉備に居た事代主が、勢力の主体で、畿内を制圧した。
- その後、飯田さんからも天孫降臨・出雲国譲り・神武東征の話が、伊藤さんの説明と少し違うが、行われた。
- 10.コメント 丸地
-
- 欠史八代とする場合には、考古学の成果と整合性を持たせることを考慮すると、卑弥呼=天照大神が247-8年に死亡し、その後、天孫降臨・出雲国譲り・神武東征が、50年又は100年の間に行われ、301年又は350年に大和王権が成立したことになる。従って欠史八代が存在する時間も無い。これが、欠史八代を前提とする年代になる。
- 丸地は、欠史八代に該当する8代の天皇は存在し、卑弥呼の死亡時期247-8年の前・後に、天孫降臨・出雲国譲り・神武東征があると考えている。
- 飯田さんの資料の最後に書かれた『欠史八代の非存在説と実在説のどちらが、より適切であるか、我々自身の「古代史感」にかかっていると思われる。』と云う言葉の如く、結論は出なかったが、「面白い議論ができ、良かった」として、会を終了した。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
-
-
「欠史八代 大王非存在と神武=崇神説の検証」 59分
https://youtu.be/uTNz2-VX0RE
-
「欠史八代 大王非存在と神武=崇神説の検証」 59分
- ➤ 資料
-
- 「欠史八代 大王非存在と神武=崇神説の検証」 飯田眞理PDF 1.4MB
28.「動画『科学で検証/神武東征はあったのか!』を論評する」(2023年4月8日)
2023年4月8日 第28回 古代史を解明する会「動画『科学で検証/神武東征はあったのか!』を論評する」が、13:00 より 15:10 オンライン開催された。出席者10名。
- テーマ
- 「動画『科学で検証/神武東征はあったのか!』を論評する」
ご存知の方もあるかと思いますが、長浜浩明と云う方の動画 「神武東征は有ったのか」と云う主タイトルで、三部作が有ります。各々30分程度になっており、21万回の再生回数があるものもあり、社会的な影響度が大きいものです。 中々説得力のある動画ですが、何か不可思議な点が有ります。
この動画をご覧になって、どのように感じ、考えるのかを、参加者で討論しました。
- <構成>
-
- 動画を見た感想
- 丸地三郎氏による PPT を用いた解説
- 解説に対する質疑応答
<1 動画を見た感想>
- なぜ、このテーマが解明する会で選ばれたのか。
- 日本人の渡来ルートについては科学的だが結論には疑問がある。
- 神武天皇の東征時期については結論にいたる前提が甘い。
- DNAに関する研究成果の引用は明らかに間違っている。
- 全体にナショナリズム・皇国史観が強くでている。
- 記紀を皇国史観の肯定に利用してはならない。
- 河内湾、河内潟、河内湖に移る時期の特定方法が論理的でない。
<2 丸地三郎氏によるPPTを用いた解説>動画あり
- 長浜氏の研究手法は、科学的・多面的であり、古代史解明の会と類似している。
- しかし長浜氏の結論とわれわれ解明の会との結論は大きく異なっている。それはなぜか?
- 長浜氏はDNAと云う科学的根拠を持って、縄文以来、日本人は連綿と継続していると主張しているが、DNA研究成果を誤って理解して論を立て、主張している。アイヌ人・沖縄人が縄文系であり、縄文人のY遺伝子である「D」を持っているにも拘らず、アイヌ人は日本人/縄文人と関係の無い人であると説明している。渡来人が、弥生時代に日本に来たことにより、人種/文化が変わり水田稲作が開始され、Y遺伝子にO2b及びOのタイプが追加されたことを無視している。
- 同じく河内湖の炭素14による年代調査結果は、較正曲線を用いておらず、海洋リザーバ効果も考慮していない初期の結果である。そのため最新の研究結果より、500年前後古い年代と結論され、長浜説では、神武東征が古い時代とされている。
- 科学的な調査結果を、古代史に適用する際は、先端科学を正しく理解し、十分注意して利用しなければならない。
<3 解説に対する質疑応答>
- 長浜氏が解明の会の動画を見て自主的に動画の修正をされることを期待する。
- 学会では、紀年の復元が行われていないのが残念である。
- 富雄丸山古墳は物部系と思われるが、早い研究解明が求められる。
- 記紀は、政治的理由で中国への日本の朝貢を隠ぺいした。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
-
-
「動画『科学で検証/神武東征はあったのか!』を論評する」49分
https://youtu.be/_vt6M_u0lGg
-
「動画『科学で検証/神武東征はあったのか!』を論評する」49分
- ➤ 資料
-
- 「神武東征はあったのか!長浜浩明氏の動画の論評」 丸地三郎 PDF約2.1MB
29.「朝鮮半島の古代歴史を学ぶ」(2023年5月13日)
2023年5月13日 第29回 古代史を解明する会「朝鮮半島の古代歴史を学ぶ」が、13:00 より オンライン開催された。 出席者10名。
- テーマ
- 「朝鮮半島の古代歴史を学ぶ」
日本の古代史を解明する上で、朝鮮半島の古代史の理解は欠かせない。古代は日本海を媒介にして日本列島と朝鮮半島の間に、人の往来、文化・生活面の相互の影響があったことが当然に見込まれ、日本の古代史の形成に関与しているからである。
よって、朝鮮半島の古代史を俯瞰することで、日本の古代史の解明に役立てるため、古代朝鮮史に関心の深い清水徹朗さんが報告を行った。
- <構成>
-
- 清水徹朗氏によるPPTを用いた解説
- 解説に対する質疑応答
<1 清水徹朗氏によるPPTを用いた解説>動画あり
古代朝鮮史を時系列に解説された。
- 三国史記、三国遺事賀が朝鮮の歴史書である
- 壇君の即位は信仰的事実
- BC1122年 箕子朝鮮が建国、BC195年 衛満(燕の軍人)が衛氏朝鮮を建国
- BC108年 漢が3郡を置く。AD204年公孫氏が帯方郡を置く
- BC2世紀 3韓が成立
- 313年 高句麗が楽浪郡を滅ぼす
- 4世紀 百済、新羅建国
- 好太王碑「391年倭が百済を打ち破る」
- 6世紀初頭 日本が任那日本府を設置
- 676年 新羅が朝鮮統一
- 698年 渤海国建国
- 936年 高麗が朝鮮統一
- 1259年 モンゴルが朝鮮征服
- 1392年 李氏朝鮮建国
- 1636年 朝鮮が清に降伏
<2 解説に対する質疑応答>
- Q1 朝鮮半島に倭人は住んでいたか?
- A 朝鮮半島、中国沿岸に倭人は住んでいた。
- Q2 BC2000、朝鮮半島で雑穀栽培されていたのか?
-
A 出所根拠は不明である。5000年前に西遼河流域で始まったとされる。
米作りは中国の南部から船で朝鮮半島に渡ってきた。 - Q3 漢に追われて朝鮮から日本に逃れてきたのが弥生人か?
- A もしそうなら魏志倭人伝にかかれている文明レベルが240年以前に朝鮮にあったことになる。朝鮮から逃れてきた人々が縄文人を駆逐して弥生人として自分たちの文化を定着させることができただろうか? 難民としてならありえる。
- Q4 日本から朝鮮半島のルートもあるのではないか?
-
A 姶良カルデラ等の噴火をきっかけに沖縄・九州で人が移動し、一部が朝鮮に渡り、後に松菊里を作ったと考えられる。6300年前の朝鮮半島加徳島の遺跡では、現代の日本人に近いDNAがでている。
また最新の研究では,日本から朝鮮半島に渡った形跡のある土器が発見された。
土器の変遷で時代区分するのは,日本だけだし、DNA研究が発展しているのは時代遅れ。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
-
-
「朝鮮半島の古代歴史を学ぶ」72分
https://youtu.be/ThGfv-OWMxk
-
「朝鮮半島の古代歴史を学ぶ」72分
- ➤ 資料
-
- 「朝鮮古代史と日本」 清水徹郎 PDF約2.7MB
30.「寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』について」(2023年6月10日)
2023年6月10日 第30回 古代史を解明する会「寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』について」は、13:00 より オンライン開催された。 出席者13名。
- テーマ
- 「寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』について」
桜井市纒向学研究センター長である寺沢薫氏は有名な考古学者。畿内などの発掘調査に携わり、纒向遺跡についても論じている。
著書に『日本の歴史02 王権誕生』講談社、2000年があり、考古学によって、弥生時代からヤマト王権誕生までの日本の歴史を説いている。その他の著書も多く、図版が多く示されている。考古学の成果を地図上に置いて、地域の広がりを一望でき、年代順に土器や発掘物を並べ時代を一望できる視覚的にも整理された、明瞭な論理で、古代史を解説/紹介する寺沢さんの講演は、多くの人に感銘を与えて来た。
多くの古代史ファンの関心の的となっている「卑弥呼とヤマト王権」について、その寺沢氏が、著書を書き下ろした。明快な論理で卑弥呼の宮殿の有った場所が説明されるのか、期待する。
- <構成>
-
- 清水徹朗氏によるPPTを用いた解説
- 解説に対する質疑応答
<1 解説>動画あり
- 第1章 纏向遺跡論
-
- 寺沢氏は放射線炭素、年輪年代、酸素同位体による年代測定には批判的な態度
- 纏向遺跡は3世紀の初めに忽然として現れたとする
- 内外から強制的に多くの集団が集められて誕生した集落であるとする
- 第2章 日本国家の起源を求めて
-
- 日本での国家の誕生について通説を紹介
- 第3章 王権誕生への道
-
- イト国を盟主として2世紀初めに成立した北部九州の倭国が、2世紀末に混迷。
- 3世紀初めに、イト国が東遷し奈良盆地東南部に新たな「ヤマト王権」が誕生(纏向)し、部族的国家連合から王国へ飛躍
- 魏志倭人伝には説得力がなく、考古学的には邪馬台国九州説は困難
- 第4章 王権の系譜と継承
-
- 奈良盆地の農業生産力を過大評価しているとしてヤマト優越史観をを批判
- 畿内勢力が強大になって大和政権が成立したとは言えないとする
- 第5章 卑弥呼共立事情
-
- 奈良盆地は日本の中心地であり、当時、空閑地であったことから九州から纏向に移った
- 第6章 卑弥呼とその後
-
- 箸墓古墳は卑弥呼の死亡時期とずれている
- 箸墓の被葬者は卑弥呼、台与、台与後の男王のいずれか
<2 解説に対する質疑応答>
- 邪馬台国の文献上の存在であり考古学では邪馬台国の位置の結論は出ない
- 学者は在野の研究家を無視している。それは都合が悪いからではないか。文化庁の意向が働いている
- 森浩一先生「考古学は魂を失っている。これからは町人学者の時代だ」
- 日本の考古学会は非論理的であり国際的にレベルが低い
- 中国では、邪馬台国は北部九州という認識
- 生物地理学の観点では、邪馬台国は九州となる
- 遺跡の管理は国(県)と市に分かれており交流がない
- 農地としては奈良より九州が圧倒的に適している。それでも国の中心は奈良になった
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
-
-
「寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』について」 清水徹朗 74分
https://youtu.be/rB0uwNLinZk
-
「寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』について」 清水徹朗 74分
- ➤ 資料
-
- 「寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』について」 清水徹朗 PDF 約2.5MB
31.「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』」に記載されたものを中心に」(2023年7月8日)
2023年7月8日 第31回 古代史を解明する会「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』」に記載されたものを中心に」は、13:00 より オンライン開催された。 出席者13名。
- テーマ
- 「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』」に記載されたものを中心に」
6月度に引き続き、寺沢薫氏の新著「卑弥呼とヤマト王権」を読み解く。寺澤氏を深く尊敬する丸地三郎氏が、同著を分析的に読解し、いくつかの論点を指摘した。
- <構成>
-
- 丸地三郎氏によるPPTを用いた解説
- 解説に対する質疑応答
<1 解説>動画あり
- 寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』(中公選書)2023年3月発刊
- 前半は氏の著作を丁寧に要点をまとめた報告となっている。そのなかで、① 地域勢力分布,② 戦傷死人骨、③ 青銅祭器の埋納,④ 高地性集落の4点について、問題を提起。
- 氏は青銅器の埋納と副葬をまとめてとらえ地域的な分布差を考慮していないが、埋納地域と副葬地域は異なっており、異なる勢力がいたとするべき。
- 氏は戦傷人骨は敗者の人骨とするが、埋葬されたのだから、勝者の人骨であるべきである。
- 氏は、青銅器の埋納目的を敵勢力への呪禁行為としているが、勝者側が敗者の青銅器を埋めたと考えるべき。
- 氏は高地性集落を有事に備える施設とするが、戦闘が多くあった北部九州で高地性集落がないことを説明できない。
- これらの認識の違いを踏まえた2~3世紀のシナリオを解説
-
引き続き氏の研究者としての問題点を指摘。
- 史料文献に対する史料批判が不十分。
- 氏は写本はミスが多いと包括的にあつかうが、写本には複数あり、十分に精度の高い写本がある。
- 史料を軽視する一方で,自説に都合のよい箇所のみ文献を引用している。
- 邪馬台国畿内説を前提としているため、本書は矛盾に満ちた内容となっているのが残念。
<2 解説に対する質疑応答>動画あり
- 氏は記紀を読み込まれていない印象。文献、神社伝承等も重要なはず。
- 氏の土器の編年一覧は大きな業績だが、さらに調査・深掘りは必要。
- 勝者が敗者の青銅製祭器等を埋納する際に丁寧に埋葬しているのはなぜか。祭器は敗者の所有物とはいえ、神聖な祭器であり、粗雑に扱うことは心理的にできなかったためである。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
-
-
「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』に記載されたものを中心に」丸地三郎 160分
(質疑応答 5分を含む)
https://youtu.be/yhkrPIALSCU
-
「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』に記載されたものを中心に」丸地三郎 160分
(質疑応答 5分を含む)
- ➤ 資料
-
- 「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』」に記載されたものを中心に」丸地三郎 PDF約7.2MB