最終更新日:
2024/08/29

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「弥生人はなぜ神殿の柱に700年前の木材を使ったのか 紀元前1世紀の『大雨説』も謎深く」2024/08/04 産経ニュース NEW!

産経ニュース 2024/08/04 の記事より

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<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2024/08/25

1990年代に奈良文化財研究所の光谷拓実氏が調査・発表し、紀元前52年以降の建物であることが判明したことで、弥生時代の年代が約100年遡るということで話題になったのが、この池上曽根遺跡です。

光谷氏が30年後に再度計測した結果、当時調査した5本の柱根のうち、柱12の年輪は、前回と同じ紀元前52年でしたが、他の4本については大幅に異なっていました。その理由は、年代測定の「モノサシ」である暦年標準パターンを新たに作成し直したことによって判明したとのことです。計測結果によると、700年以上古い柱材が使用されていたため、光谷氏は酸素同位体比年輪年代法の測定グループに測定を依頼し、この再調査が行われました。

5本中4本の計測結果が異なっていたことから、年輪年代測定法の信憑性が改めて問題視される発表と言えるでしょう。

この計測結果を受け、考古学者たちは2種類の異なる科学的測定方法の結果が一致したことから正しいと判断しましたが、同一建築物に700年も違う年代の木材が使われたという現象とその理由に困惑しています。

新聞記事としては、朝日新聞や毎日新聞が関連記事を掲載していますが、そのいずれも年代測定自体の信憑性については論じていません。本当に問題はないのでしょうか?

年輪を使って歴史的な年代を調べる方法の基本は、まず2~3千年にわたる年輪の「モノサシ」を作成することにあります。「モノサシ」が完成して初めて、調べたい対象の樹木や板材の年輪を計測し、「モノサシ」と比較する作業が可能となります。比較して、最も近似している部分を探し、合致したところで年代が確定されます。この「モノサシ」を作成する作業は膨大であり、その精度が計測の精度を決定づけます。通常、樹木の寿命は数百年ですので、2~3千年にわたる「モノサシ」を作るには、その全ての期間に存在していた樹木とその年輪が必要です。全ての期間の年輪を集めることで、初めて「モノサシ」が完成するわけです。

今回の発表のもととなった「古代学研究240号」の論文では、光谷拓実氏の年輪年代法について、「現在までに蓄積してきた年輪データに基づき新規に作成したヒノキの暦年標準パターン(前1127年~後251年)を使用して再検討した」と記載されています。一方で、中塚武氏などの酸素同位体比年輪年代法では、「中部・近畿地方の針葉樹材(ヒノキとコウヤマキが主体)から作成した既存の標準年輪曲線(Nakatsuka et al.,2020:Sano et al.,2022)を紀元前1085年まで延長させた最新データを用いて」と記載され、いずれも新しい「モノサシ」を使用したことが示されています。両方とも、新しい「モノサシ」を作成し、計測が行われたことになります。その「モノサシ」は大丈夫でしょうか?

ご存知ない方も多いと思いますが、酸素同位体比年輪年代法の「モノサシ」である「標準年輪曲線」(従来は「マスタークロノロジー」と呼ばれてきました)は、年輪年代法の「暦年標準パターン」と密接な関係があります。酸素同位体比年輪年代法の開発には、日本学術振興会の科学研究費助成事業(科研費)が使用されています。科研費プロジェクトの内容は公開されており、誰でも知ることが可能です。ネット検索すると、「酸素同位体比を用いた新しい木材年輪年代法の高度化に関する研究」が見つかります。代表者は中塚武教授であり、研究協力者の筆頭として光谷拓実氏の名前があります。その「研究成果報告」によれば、「研究の方法」として「第一に、年輪幅によるマスタークロノロジーの構築のため、これまでに現生木や古建築材、遺跡出土材や埋没木などの多数の木材試料を取得してきた光谷拓実氏ら年輪年代学の研究者に呼びかけ、試料の提供と酸素同位体比年輪年代法への参加を募った」と記され、光谷氏の貢献が述べられています。

この二つの「モノサシ」の関係については、光谷氏の年輪年代法の数値データが一切公開されていないため、残念ながら検証のしようがなく、不明です。光谷氏の年輪年代法については、数値データの公開を求める情報公開請求を行いましたが、拒絶されたため、現在裁判が進行中です。

この両者の関係については、当会ウェブサイト「古代史を解明する会」2023/10 の PDF 資料「科学的年代測定法」の27頁前後に記載されています。また、光谷氏の年輪幅を測定する方法と、中塚氏の酸素同位体を用いる方法の概要も図表とともに記載されていますので、ご興味のある方はぜひご覧ください。

「古代学研究240号」の論文では、対象樹木の年輪データと比較して決定した「モノサシ」である「暦年標準パターン」や「標準年輪曲線・マスタークロノロジー」について、折れ線グラフのみが表示されています。両方の計測法が同じ方式で発表されています。このやり方は、従来から光谷氏が年輪年代法で発表してきた方法と同様で、図表・グラフのみが表示され、数値データが公表されていないため、科学的とは言えません。現在、訴訟となっている問題点です。

科学であるならば、外部の科学者が再検証できるデータの公開が必須であるという常識があります。年代を決定する際に使用した、個々の年輪の数値データと「モノサシ」となる「暦年標準パターン」や「標準年輪曲線・マスタークロノロジー」の数値データを公開し、外部の科学者が再検証できるようにすべきです。

今回は、年輪年代法も酸素同位体比年輪年代法も、新しい「モノサシ」を用いて年代決定が行われています。両方の新しい「モノサシ」の作成データ、その作成に用いられた樹木とそのデータ、そして年代の基準としたデータを早急に公開し、外部の科学者が再検証できる条件を整えるべきです。

古代史関連で科学的な研究調査報告が行われる場合、科学の基本である「外部の科学者によって検証できるか」という再現性の確認が行われないことが続いています。今回の件も同様で、非常に残念なことです。

「紀元前1万2351年の史上最大の太陽嵐の痕跡を発見 放射性炭素年代測定法の校正作業の研究で正確な年代を特定」 sorae 2023/10/25

sorae 宇宙へのポータルサイト
2023/10/25 の記事より

▲ sorae 宇宙へのポータルサイト 当該記事のスマホ表示冒頭部分
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炭素14の濃度を年代別にグラフ化したもの。本来このグラフは直線的になるはずですが、約1万4300年前と約1万4000年前の2つの時期に炭素14の濃度が増加するピークがあることが分かります(Credit: Edouard Bard, et al.)=元記事より
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元記事:
https://sorae.info/astronomy/20231025-solar-storm.html
Yahoo! News にも 2023/10/26 に転載)

<コメント=野口和夫(当会理事)> 2023/11/02

sorae は「宇宙へのポータルサイト」であり、宇宙や天文学に関係したニュースが掲載されていますが、放射性炭素年代測定や年輪年代学に関連した記事がありましたのでご紹介いたします。

ご存知のように放射性炭素 14C は 5,730±40 年で半減します。生物は生存中に体内に放射性炭素を取り込みますが、死ぬと体内の放射性炭素は崩壊して減る一方となります。これを応用したのが放射性炭素年代測定法であり、1950 年を基点として ○○○○ BP(=Before Present。今から~年前)と表されます。現在の技術で約5万年前まで測定可能なので、人類(ホモ・サピエンス)の「出アフリカ」以降の年代測定に広く利用されます。

過去1万年の
ミヤケ・イベント
  • 西暦993年
  • 西暦775年(有名)
  • 紀元前663年
  • 紀元前5259年
  • 紀元前5410年
  • 紀元前7176年

ただし、大気中の放射線炭素含有量が一定であるという仮定条件があります。実際にはいくつかの原因により大気中の放射線炭素の量が増加する(ミヤケ・イベント)が存在するので、年輪年代学を利用して較正こうせい(=calibration。記事中の「校正」は誤り)が行われます。較正を経た数字が「cal BP」です。

Bard 氏らが、2020年に確定した 13,900 cal BP までのC14法の基準(IntCal20)より前の炭素14濃度の較正を行うため、フランス南部ドゥルーゼ川で発掘調査を行い、合計172本の「ヨーロッパカラマツ」の亜化石から保存状態の良い140本を選び出して年輪年代較正を行ったところ、

  • 紀元前1万2351年から紀元前1万2350年までの1年間 (14,300~14,299 cal BP)
  • 紀元前1万2101年から紀元前1万2001年までの100年間(14,050~13,950 cal BP)

は、炭素14の生成量が平時と比べて約30%増大していることが突き止められました。特に前者がたった1年というピンポイントで特定されたことは注目に値します。このような太陽嵐が起きると放射性炭素年代測定が理論値通りにならなくなります。水月湖の年縞でも検証できるかも知れませんし、縄文草創期の土器年代測定にも影響がありそうです。

このように、年輪年代学は放射性炭素年代測定法と組み合わさると考古学、歴史学の強力な武器になります。しかしながら日本では年輪年代学の基礎データがブラックボックス化し、第三者による検証が行われないまま国立歴史民俗博物館の主張の資料となっています。当会の「情報公開請求訴訟」による現状是正が期待されます。

「縄文土器など数万点出土 南相馬の遺跡、石剣や首飾り一部も」 2023/08/10 福島民友新聞 福島民友ニュース

  • (写真上)発掘調査が行われている天神谷地遺跡=南相馬市原町区
    (写真下)発掘調査で出土した土器

福島県が発掘調査している南相馬市原町区の「天神谷地(てんじんやち)遺跡」で、縄文土器などが大量に発見された。県文化振興財団は「これほど大量の出土品が県内の遺跡で出るのは珍しい」と驚いている。4月から発掘を始め、数万点の出土品が確認された。出土品の多さから、大集落を形成していた可能性が高いという。

県道原町川俣線(下太田工区)の整備計画に伴う県の発掘調査で、調査面積は1600平方メートル。

道路の予定地となっていることから、工事が始まると遺跡を保存できないため、事前に調査している。工事開始は9月に予定されている。

遺跡は1960年代ごろに発見されたが、発掘は今回が初めて。縄文時代の後期から晩期(約3300~2800年前)にかけての遺跡とみられる。土器のほかに、子どもの墓や土器の廃棄場所も確認された。同財団によると、精巧な石剣や首飾りの一部も見つかっており、この地域に住んでいた縄文人の文化の豊かさを知ることができるという。

出土品は白河市の県文化財センター白河館「まほろん」に保管される。同財団は「集落の中心地は、過去の工事により残っていない可能性がある。今回の発掘現場は集落の外れで、物を捨てる場所だったために出土量が多いのではないか」と分析している。

県は9日、発掘調査の現場を一般公開した。

福島民友新聞の元記事
https://www.minyu-net.com/news/news/FM20230810-797534.php

<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2023/08/11

天神谷地遺跡は南相馬市原町区北部の水田地帯にあり、遺跡の南側には、鮭のやな場で有名な新田川があるそうです。縄文時代にも鮭が遡った格好の漁場で、豊かな営みが続けられる場所と推察されます。

天神谷地の位置
  • 国土地理院《電子国土Web》にて作成
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十字マークが今回の発掘地点。(上と下の地図も同様)

下の地図では、大河では無く、適度な流量を持つ川があり、洪水被害も少ないと見える場所で、鮭以外の食料の調達にも良い平地が広がり、南北には低い山地があり、縄文人にとっても、快適な地域であったように見えます。

天神谷地遺跡周辺の地形
  • 国土地理院《電子国土Web》にて作成
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「天神谷地(てんじんやち)遺跡」の東南1.4kmの場所には、古墳時代の初期に、この東北の地では珍しい大型の前方後方墳が存在する。縄文時代からの豊かな営みが、弥生時代から古墳時代に続いたものと推測される。東北地方の東南に、これだけ大きな古墳でしかも前方後円では無く、前方後方墳と云うことで、興味をそそります。

櫻井古墳の写真
櫻井古墳の近景
上空から見た櫻井古墳
  • 南相馬市のホームページの「その71 桜井古墳公園のあるき方(令和2年10月1日)」とウィキペディアより
  • 左右スクロール可能

この遺跡の存在した時代は、縄文時代の後期から晩期(約3300~2800年前)の遺跡とのこと。縄文海進が終り、海が退き、やや寒さが戻り、東北地方や関東地方から住居跡が消え、人口が半減したと歴史家達に云われる時代に、これだけ多くの土器片などが出土し、人々が豊かに暮らしていたことが判る遺跡は、貴重なものに見える。

もしかすると、縄文人が激減したとは言えない証拠が見つかったり、縄文時代の代表的な住居である竪穴住居(柱穴が残る)とは違った住居跡が見つかったりするかも知れない、興味深い遺跡の情報と思えてきます。

「卑弥呼は纒向に都を置いた」 遺跡から邪馬台国論争に区切り 考古学者の寺沢薫さん 2023/07/07 産経ニュースより

産経新聞の記事と「卑弥呼とヤマト王権」
中公選書「卑弥呼とヤマト王権」表紙画像
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産経新聞の記事(Web版)
https://www.sankei.com/article/20230707-PYQNSTRJOBMWRAFUKRL4FUH3NI/

<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2023/07/10

当会で7/8日に実施した「古代史を解明する会」のテーマが、丁度、このテーマだったので、翌日に、この記事を見て、ビックリしました。注目する考古学者が、ついに邪馬台国/卑弥呼について書いた「卑弥呼とヤマト王権」が、今年3月に発刊されたことで、期待感を持って、6月10日に紹介と解説するテーマで取り上げ、再び、7月8日に寺沢薫の邪馬台国論に絞ったテーマとして取り上げました。寺沢薫氏の邪馬台国論をまずは正確に理解することから始め、次に、その内容の検討を行いました。この2回の「古代史を解明する会」で使用した資料と説明の動画が私共のHPで公開されておりますので、詳細はそちらをご覧ください。

「卑弥呼は纒向に都を置いた」とする寺沢薫さんの解釈は、二つの理由で承服し難いことになりました。

  • 一つ目は、寺沢薫氏が論拠として上げる中国の文献史料とその内容は、信頼性の無い/歴史研究で使ってはならないものであったこと。
  • 二つ目は、考古学の成果である事実は信頼するが、寺沢薫氏の解釈に誤りが有ることが判ったこと。

「邪馬台国」は、中国の史書:魏志倭人伝のおよそ二千文字の文章の中に、一ヵ所だけ書かれたもので、「邪馬台国」はこの二千文字の文章の中でだけ語られており/定義されている。この邪馬台国の定義を不正確に行い/内容を不正確に理解した場合には、その内容を、いくら正確に考古学の成果を用いて論じても意味が無い。正確に理解して/定義して、科学的な考古学の手法で論じるべきもの。

寺沢薫氏は、『たかだか2000文字に満たない漢文をあれこれ詮索して、この国の三世紀史をうんぬんする時代は終わった。』と、魏志倭人伝を軽視し、正確に理解しようとしなかったことが、基本的な誤りの元となった。

寺沢薫氏は、考古学だけでなく、後漢書東夷伝/梁書/北史/翰苑などの中国の文献を縦横に駆使して、論理的な考証を行っているが、それらの『文献自体が信頼できるのか』という基礎的な検証を行って居ない。史料自体の検証のことを、歴史学では「史料批判」と言い、基本中の基本である。その作業を行っていないことは、誠に残念。考古学者ならば、出土品に対して、注意深く接し、本物であり、どのような性格のものであるか検証したうえで、考古論文・報告に記載するはず。それと同様のことを、文献についても行って欲しかった。

考古資料に関しては、注意深く検証された結果であると理解しているが、その解釈は、推論が入ることがあり、複数の解釈があり得る。解釈を示す場合には、何故そのような解釈をしたかは、明確に記述してもらいたい処。 勿論、同じ考古資料を対象としても、異なった解釈が生まれることがある。

考古資料の戦傷死遺跡/青銅祭器の埋納/イト倭国の勢力範囲について、寺沢薫氏の解釈の仕方を検討した。

  • 戦傷死遺跡:寺沢薫氏の解釈では、戦争の敗者とした。実は、これが間違いで、戦争の勝者側の死傷者。
  • 青銅祭器の埋納の目的:同氏の解釈では、地中に埋めたのは敵を呪う目的。これも誤りで、戦争に勝った側が、負けた側の祭器を取り上げ、人知れぬ山中等に埋め、二度と使えぬようにした。
  • イト倭国の勢力範囲は、同氏の解釈では、広形銅矛・銅戈の出土範囲で北九州全域と四国の南西部。これも誤りで、青銅器を甕棺/木棺などに埋納した地域で、三種の神器を墓に納めた地域と重なる。北九州の福岡平野の西側と吉野ヶ里などの筑後平野の北西地域が、イト倭国の勢力範囲。

解釈の仕方の違いについては、「古代史を解明する会」の記録に掲載しましたので、そちらをご覧頂きたい。この解釈の違いを正すと、残念ながら、寺沢薫氏の邪馬台国論は、全く成り立たない。

2023年7月8日 第31回 古代史を解明する会の記録
「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』に記載されたものを中心に」

ニホンヤモリの足跡を探ると、日本人の渡来時期と移動ルートが判る。

2023年1月30日 朝日新聞夕刊 記事
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<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2023/02/01

筆者が前に住んで居た家の玄関先には、時々ヤモリが姿を見せた。小さくて愛嬌のある動物で、人に害を与えず、益を与える。このヤモリのDNA解析を行い、古文書にどう記載されていたか調べることで、弥生渡来人のルーツや渡来時期まで検証できるとは、思いもしなかった。意外性の有る、面白い記事でした。

ニホンヤモリは、人の家屋を住み家としていて、寿命は5-10年位で、春から初夏に卵2個を生み、繁殖するとのこと。多く産んで一気に繁殖と云うタイプの生き物ではないようです。捕食の動作は素早いのですが、ゆっくりとしか移動しません。自力で長距離移動は出来ないようです。ヤモリがどうやって長距離移動するのかと考えてみると、記事が面白くなります。尚、ニホンヤモリの生息地は、中国大陸東部・朝鮮半島南部・日本(秋田県以南の本州、四国、九州、対馬、沖縄)。

記事の元となったニュースリリースや論文を見ると詳細がわかりますので、一部を紹介します。

想定されるニホンヤモリの移住ルート
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図A.
ニホンヤモリは中国東海岸に広く生息するようで、今回のサンプルは揚子江流域の南京に生息した複数個体で、ニホンヤモリの祖先個体群に近い系統である可能性が高いとのこと。
図B.
最初に日本に移動してきたのは、3000年前に長崎県五島列島の福江島。2400年前に九州全域へ、2000年前に九州から島根県と瀬戸内海沿岸へ、そして畿内へ。その後は、時間をかけて、北陸・東北・関東へ広がった。
図C.
1697年の文献では、関東にはヤモリは来ていなかった。(予想外のこと)

この年代は、ヤモリのDNAを特別なソフトウエア(個体数動態推定ソフトウェア)で解析すると算出できるそうです。(絶対的に正しい年代とは言えないようですが。――丸地)

次の図を見ると地域ごとの、個体数の変化が判る。これを見ると、移動した時期に個体数が減少し、その後しばらくして個体数が増加すること(ボトルネックと云う)が記されている。この減少/増加の時期が、移動してきた時期とみなされている。

ニホンヤモリの個体数変動と移動時期 図A/B/C
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図A.
長崎県の離島の福江(FUKUE)に3000年前に移動・到着は、減少/増加で示された通り。
図B/C/D
その外の地域(中国/四国/近畿/東海/関東/北陸/東北)のヤモリも減少/増加で示される。

処が、図Aの九州(Kyushu)は、減少/増加の幅が他のケースに比べ小さい(ボトルネックとは言えない)。これは、外の移動状況と、九州への移動状況が違うことを示している。もしかすると、この移動では、比較的多くの個体が、一緒に移動してきた(多数の人と家財が一緒に移住したこと)ため、繁殖相手が沢山いたことを示しているのかも知れない。

調査した個体数と地域は、(1) 東北:酒田(N=15)、(2) 関東:宇都宮、野田、さいたま、多摩、川崎(N=15)、(3) 東海: 甲府、甲斐、熱海、富士宮、静岡、浜松、名古屋(N = 31)、(4) 北陸: 糸魚川、高岡、金沢、輪島、珠洲 (N = 39)、(5) 近畿: 宇治、京都、佐用、堺 (N = 16)、(6)中国:出雲(N=16)、(7)四国:高松、三豊、高知、室戸(N =16)、(8) 九州-T: 長崎(1 個体のみ)、福岡、対馬、宇久、壱岐(N=16)、(9) 福江島(N=6)、(10) 九州-F: 九州 1 と九州 2 の他の個体(N=13)、(11) 中国: 南京(N= 3)。

調査地域に北海道が含まれないのは、生息していないためと了解できますが、ニホンヤモリが生息する沖縄県が含まれないことは、明らかに片手落ちです。

弥生人の日本へ移住した時期が、この九州へのヤモリの移住した時期(2400年前)と捉えると、従来から云われている弥生時代の開始時期に一致している。

日本経済新聞の記事には、「およそ3000年前、稲作の伝来と同時期にニホンヤモリは大陸から九州地方に伝来した。」とあるが、五島列島の福江島への移住時期をもって、九州への移住時期としているのは、誤りでしょう。

福江島の所在地を示す地図
  • クリックすると別ウィンドウで福江島付近の「海しる」地図を表示
  • 画像は「海しる」地図に矢印と「福江島」を追加して画像化

ニホンヤモリが、日本に初めて入ったのが、長崎県の五島列島の福江島であることは、今後の検討されるべきことと考えます。福江島に関する情報を参考の為、地図と共に示します。

福江島には、縄文時代の遺跡が数多く存在し、島の海岸部に集中し、江湖貝塚や白浜貝塚、大板部洞窟等がある。

  • 白浜貝塚:縄文時代後期-鐘ヶ崎式土器/4000年前、北久根山山式土器/3500年前が出土。
  • 大浜地区の中島遺跡は縄文前期から弥生中期まで、縄文前期(7300年前以降)の曽畑式土器が出土。

ニホンヤモリが福江島に渡来した時期は、西北九州縄文人=海洋民族が活動した時期に重なる。

沖縄に居たニホンヤモリが、福江島に渡ってきた可能性も、考慮する必要がある。

沖縄本島南部・宮古島では、外の種類のヤモリも居るが、ニホンヤモリが多く存在している。(「沖縄産ヤモリ(Gekkonidae)の細菌学的調査」 仲宗根民男・徳村勝昌外、沖縄県公害衛星研究所報 第15号1981に記載)

沖縄のニホンヤモリのDNA調査も行われて居れば、人の渡来がもっと明らかになった筈と残念に思う。それは兎も角、古代史関連者には、思いがけない方法で、渡来の時期が判る面白い記事/論文です。