最終更新日:2022/05/13


解明委員会

活動記録 バックナンバー 3

解明委員会2022年2月 オンライン開催

2022年2月12日 第14回解明委員会(日本人の起源『沖縄と宝貝』)は、13:00より17:30オンライン開催された。出席者 9名。

テーマ:「沖縄と宝貝」
沖縄から宝貝が明国に供給されていたことが判明したことから、古代からの宝貝が沖縄から供給されたと推定する。すると、沖縄と九州・日本本土の古代に関する様々な疑問が解消する。
1.レポートの内容

丸地から、資料を示しながら、基本レポートを行った。

  • 前半では、前2回分の説明をまとめ、一部DNAに関する新しい情報を加えた。
    1. ① 古代人の絶滅に関して: 古代の沖縄は、海面低下で面積が広く、生活しやすく、古代の九州は、火山の爆発が続き、人類絶滅や重大被害が続き、3万年前の姶良カルデラ爆発では、旧石器人が死に絶え、沖縄から渡来した縄文人も、桜島サツマ火山灰で、死滅し、その後、再び沖縄から移住した縄文人も、鬼界カルデラの破局的噴火で、甚大な被害を受けたことなどを示した。
    2. ② 常識となっている沖縄の歴史(死に絶えた説)は成立しないことを再確認。
    3. ③ 1万年前以降に、中国の品物が、日本各地で出土。米・土器・青銅・装飾品など、中国と日本の交流が進んだ。 何故、このような事態が起きたのか? この解明を行う。
  • 後半では、通貨としての宝貝とその供給元が沖縄であったことを紹介。
    1. ① 二種類の宝貝を通貨として、二つの地域に、数千年に渡って、生産・供給してきたのが沖縄であることから様々な事実から判る。
      • 生産地の宮古島の住民のDNAは倭人のもので、沖縄の住民は、縄文人とその混血者であること。
      • そこで使用される言語が琉球祖語で、その言語は、日本本土で使われる以前に分岐したこと。
      • 従って、宝貝を生産し供給してきたのが、倭人であることが判明する。
      • 沖縄の人々が、1万4千年前から海路で九州・日本海沿岸・北海道までの交易路を持っていたことから、中国本土から沖縄に移った倭人と、縄文人との混血者が、九州等に移住し、中国の品物を日本各地に流通させていたと解釈すると、1万年以降の中国の品物が出土する事実が自明のこととなる。
    2. ② 魏志倭人伝の旅程中に割り込んで記載された「投馬国」は沖縄と推定される。魏の外交課題を考慮すると、敵国の呉と交易を行って来た倭人と九州の倭人が区別されることが必要で、外交上の重要事項として、特記するために、旅程中に割り込ませたものと推定する。
    3. ③ 通貨としての宝貝を廃止した秦の始皇帝が、秦の支配地域を東の海上に拡大することを望んでいた。宝貝の供給者を探し出し、任命し、当方支配拡大のために、徐福とその一行を送り出したと解釈する。宝貝の権益を失った倭人グループの長であった徐福は、始皇帝の意図とは異なり、民族集団移住を行った。始皇帝の目的は達成されず、嘆くことになった。
2. 質疑応答
  • 日本人の二重構造論をベースに論を展開しているが、二重構造論自体には、最近、異論があり、異論が主流になっている。
    • この異論に対して、長い論議が行われた。
    • 残念ながら、宝貝その外の論議にはならず、時間が来て終了した。
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
  1. 日本人の起源「沖縄と宝貝」の前半 基本レポート 1時間10分
    https://youtu.be/oNpO37lGIO8
  2. 同上の前半 基本レポート 1時間23分
    https://youtu.be/VZCG3BsbMSM
➤ 資料
  1. 「沖縄と宝貝」 基本レポート 丸地三郎 PDF、約12.0MB。

解明委員会2022年3月 オンライン開催

2022年 3 月12日 第 15 回解明委員会(弥生時代から古墳時代)『水田稲作と弥生人』)は、13:00より17:30オンライン開催された。出席者7名。(2名が Zoom の技術的問題で参加できなかったことは、残念)

テーマ:「水田稲作と弥生人」

弥生時代の始まりを示す水田稲作とそれを持ち込んだ弥生渡来人を議題とする。

  • 歴博の説く「弥生時代の始まりは500年遡った」を科学的に否定する所から、問題を追及して行く。
  • 水田稲作は、縄文人が始めた? 弥生渡来人が始めた? 異なる議論がある。
  • 弥生時代の開始時期に、何時・誰が・どんな米・どんな文化を持って到来したのか?
  • この問題をなおざりにしては、弥生時代の正しい理解ができないはず。
レポートの内容:

丸地から、資料を示しながら、基本レポートを行った。

  • ✧ 2003年から国立歴史民俗博物館(歴博)が科学的な年代測定法で計測した結果、弥生時代は500年遡り、紀元前10世紀とする新説が出され、考古学者反対が有りながら、一般的に認められるようになってきた。
    • ➢ この新説に対して、出された疑問に対して歴博から出された反論の論拠に従い、調査/計測した遺跡について検討し、古代地理を調べると、歴博が調査/計測対象としないとした臨海遺跡であることが明白であることを示した。従って、歴博の科学的な方法は、論拠にならないことが示された。
    • ➢ 歴博の調査/計測内容を、別事例で確認した処、連続するはずの縄文時代から弥生時代の遺物の年代の測定結果が逆転しており、計測の正確性に問題があることが示された。
  • ✧ 課題となっている「弥生時代の始まり」の時期を見直すと、水田稲作の渡来が2つの時期に、異なった人々によって行われたことが判る。違いは、人種/土器/イネの品種/住居/墓制/武器に及ぶ。
    • ➢ 最初に水田稲作を始めた西北九州縄文人と次に渡来した弥生人との間に戦争があり、戦傷遺跡として残る。
  • ✧ 「弥生時代の始まり」の時期は、歴博の提唱する500年遡ることは無く、2回の水田稲作の渡来から見直すと、従来から考古学者の提唱してきた、紀元前500年頃に初期の水田稲作が始まり、本格的な水田稲作と弥生渡来民の到来は紀元前3世紀とすることが妥当となる。
質疑応答:
  • 縄文時代/弥生時代と言う時代区分は、生活用具で区分するのは、見直すべきではとの議論があった。
  • 歴博の言う通り3000年前から水田稲作が始まったとするならば、水田稲作の始まった時期は中国では周の時代。その時に、中国の何処の誰が日本に稲作を持ち込んだのか、歴博は、説明すべきだ。
  • 水田稲作より前に、日本では農耕が行われていたはず。 組織的な農耕・組織的な水田稲作が始まったのが、弥生時代の始まりではあるが、それ以前に、縄文稲作・縄文農耕が行われてはず。
  • 2011年に「AMS年代と考古学」という書籍が出されている。歴博の炭素14の測定に関して、九州大学の田中良之氏が厳しく批判している。海洋性リザーバ現象に加えて、土器付着ススの解析が、年代測定には不適切であることを論じている。これらの論旨に、今日の話は沿っており、同意する。
  • 縄文農耕は、現在では当たり前のこととなっている。水月湖の花粉データでも明確に示されている。
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
➤ 資料

解明委員会2022年4月 オンライン開催

2022年4月16日 第16回解明委員会(邪馬台国)『魏の外交情勢』)は、13:00より17:00オンライン開催された。 出席者10名。

テーマ:「卑弥呼の使者を迎えた中国・魏の外交情勢」

卑弥呼の使者を迎えた魏は、大歓迎し、金印の贈呈、豪華な贈り物を与えた。その意図は? 又、迎えた魏の王は、明帝だったのか? 誰だったのか? その時は何年だったのか?

  • 景初2年説と景初3年説に分かれている。

魏志倭人伝の解釈が、ここでも大きく違い、邪馬台国論争の原因にもなっている。

三国の戦いの最中の魏の外交情勢を分析することで、問題が解明できると考え、 魏の外交情勢を検討する。

レポートの内容:

丸地から、資料を示しながら、基本レポートを行った。

  • ✧ 景初2年/3年の問題の内容と代表的な論者及び安本説/渡辺説の内容など
  • ✧ 魏と蜀との戦略と外交を絡めた戦争状況を三国志の魏志・蜀志・呉志の記述から紹介
    • ➢ 蜀の脅威のなくなった魏のターゲットと外交戦略
    • ➢ 明帝と司馬懿仲達の計画した公孫氏撲滅作戦を推論
  • ✧ 公孫氏撲滅作戦は、東方・北方への退避ルートを断ってから司馬懿の正面作戦を行ったと推定。
    • ➢ この作戦通りに行われたと考えると、景初2年6月に倭国の使者が来ることに問題は発生しない。
      • ✓ 景初3年3月には呉の軍が遼東を襲い、守将を撃ち捕虜をとった戦乱があったとの呉志の記述を示し、景初3年説の問題を指摘。
  • ✧ 魏志倭人伝の記述への疑問を提起 1.帯方・楽浪の占領支配の時期 2.海船製作時期
  • ✧ 最後の決戦を前にした軍事情勢と激しい外交戦略を考慮する中で、倭国への使者の使命・役割を検討。
    • ➢ 呉志にある呉の会稽に交易に来る倭人と魏に朝献に来た邪馬台国との関係は、戦時の外交戦略上重要な問題と見るべきで、魏の使者の解明すべき重要な課題であった筈。
    • ➢ 魏志倭人伝を見直し、初回の使節の報告書の記述を引いた部分に、陳寿が、別の箇所・文書から挿入したと理解される異質の部分があることを指摘。 その一つは、南水行20日の投馬国の記述。
    • ➢ 挿入された投馬国の記述は、投馬国が呉の会稽と交易を行っている国:琉球・沖縄と推定する。
  • ✧ 外交情勢を上記により、旅程の問題・景初2/3年問題が解決する。
    • ➢ 景初3年説の根拠として挙げられた翰苑・太平御覧は、史料批判の結果、信ぴょう性に欠けることを指摘した。
質疑応答:
  • 投馬国を沖縄とする説は、どんな人が言っているのか?  → 有力な説は今までない。
  • 投馬国20日の出発地点は? → 図上は不彌国からと記し、邪馬台国付近から20日と考えると回答。

    ☆ 質問者は帯方郡からの説をとる。

  • 明帝が、劉昕と鮮于嗣を、帯方・楽浪郡守に任命し、秘密裡に海から攻め入り平定させた時期は、公孫淵が反旗をひるがえした後ではないか? との指摘。  → 秘密裡と記していることから、反旗を翻す前と考える。

    ☆ 質問者は、反旗を翻した後が妥当と考える。

  • 使者:梯儁が詔書印綬を与えた後の文章:并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物の説明が間違っていることを指摘。「齎」詔を斎王芳の斎詔との説明は誤りで、詔書を「もたらした」と読むことが正しいと指摘。 → 後日、了解
  • 「邪馬壱国、一大国、伊都国の戸数:千戸。 この3つについては転記ミスと考えるが、どう考えるか?」、「末盧国から伊都国の方向が東南と記載しているが実際は東北東、伊都国から奴国へも東南と記載しているが、実際の方角と違う。この違いとどう考えるのか?」との質問があった。
    → 回答は、邪馬壱国に関しては、解明委員会のはじめの頃に、史料批判の例として、根拠を示して誤記と説明した。一大国は壱岐国の誤記と考える。この2例は、説明したよう書籍中に一ヵ所しかない固有名詞は誤記の可能性が有るとした例。戸数千戸は、魏志倭人伝に千戸とあり、魏略逸文に万戸とあると、同時期の文章にある場合には、史料批判だけでは、明快にどちらが正しいとの判定は付けられないが、旅程の正しい解釈ができれば、自然に解消する問題。
    → 旅程の方向の違いに関しては、九州上陸地点を唐津にした場合に方向が異なるとの指摘で、特定の旅程の解釈により、誤記とされるケース。九州上陸地点を博多とすると、方向の問題は発生しない。又、博多上陸説をとると、伊都国の戸数:千戸も適切と考えられる数値となる。唐津上陸説の根拠となる古事記・日本書紀の解釈の間違いは、既に指摘。
  • 意見が述べられた。
    • ➢ 邪馬台国論は、旅程など字句の解釈を延々と行って来た。このやり方は気になる。マクロ的な見方の意見を言う。 
    • ➢ 中国の史書は、王朝が交代した後に、前の王朝の悪い点を指摘し、それを糺したのが次の王朝:政権であるとのパターンで書き連ねて来た。しかし、三国志だけは異なる。次の王朝となった晋の時代に三国志は書かれているが、晋王朝の前身となるのは、司馬懿仲達で、魏王朝の悪い点と指摘してそれを糺すとするパターンになっていない。 司馬懿の業績を讃え、それを引き継ぐとのパターンで書かれている。 
    • ➢ 司馬懿が魏王朝の中で飛躍したのは、五丈原で対峙し続け、諸葛孔明が病死したことで、洛陽に戻って来て、公孫氏を滅亡させたことで、これが飛躍の源となったことは間違いない。司馬懿は、明帝死後に失脚寸前まで行くが、最後にクーデターを起こし、ひっくり返して、権力を掌握した。 
    • ➢ この飛躍の源となった公孫氏撲滅作戦中に、倭国の使者が来たならば、それは司馬懿の功績となるが、一年後の失脚寸前の時期に、景初3年6月に、倭国の使者が来たならば、失脚させた曹爽がほぼ全権を握っていた時代で、倭国朝献の功績は曹爽のものとなる。景初3年説は、司馬懿の功績を讃える三国志の意図からは、外れている。
    • ➢ 倭国の朝献の価値を大きく認めた理由は、「呉」との関係。 三国志の意図から察すると景初3年は有り得ない。司馬懿の功績と掲げるには、景初2年しかない。
    • ➢ 「景初年間に密かに」二郡と支配した件も、司馬懿仲達が作戦の一環で行ったことで、正月に出撃した時には、上策とされる公孫氏の逃亡策を押さえて行った訳だから、それ以前のことになると考える。
    • ➢ 魏が倭国に出した2回の使節は、初回の梯儁の時も、呉が遼東を襲撃した後のことで、呉の軍船との遭遇もある軍事的に緊迫した状況で、軍事的行動であると見るべきで、軍事使節団であったと考えるべきもの。中国の専門家も軍事使節と解釈している。
    • ➢ 戦乱の時代の出来事は、大局的に、軍事的な観点から見るべきもので、字句の解釈・誤記・転記ミスなど細かいことだけに目が行って、それだけにとらわれ過ぎて、全体を見ない歴史解釈は、どうなのか? 字句の解釈だけにとらわれ過ぎるのはどうかナ?と思います。
  • 意見を承りましたが、今回の説明は、軍事的見方が不足しているとのご意見なのでしょうか? との説明者の質問に対して、
    • ➢ 意見を述べた方から、「十分だ」との回答があった。「邪馬台国のこの時代に、朝鮮半島・高句麗ではすさまじい出来事・軍事行動が行われているので、軍事的背景を理解した上で、歴史解釈すべきことを強調した。」と言葉を加えた。
  • 投馬国の発音に関して: 「とうまこく」と中国中古音の代表である隋唐音(唐代長安の発音)を反映した漢音で発音しているが、中国の上古音(じょうこおん)で云うべきでは? との指摘があった。上古音は、周代・漢代頃の音韻体系。上古音での「dugmăg」をふまえて、万葉仮名のように語尾の子音を省いて「ドゥマ」と発音したほうが良いとのことで、論議が行われた。
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