最終更新日:2023/02/19
古代史を解明する会(解明委員会)
活動記録 バックナンバー 3
- 日本人の起源「沖縄と宝貝」(2022年2月12日)東京 実施済
- 弥生時代から古墳時代「水田稲作と弥生人渡来」(2022年3月12日)東京 実施済
- 邪馬台国「魏の外交情勢」(2022年4月16日)東京 実施済
- 「年輪年代法の情報公開請求とそれに関する訴訟について」(2022年5月14日)東京 実施済
- 解明委員会で取り上げるべきテーマ(2022年6月11日)東京 実施済
- 長江文明(2022年7月9日)東京 実施済
14.「日本人の起源『沖縄と宝貝』」(2022年2月12日)
2022年2月12日 第14回解明委員会(日本人の起源『沖縄と宝貝』)は、13:00より17:30オンライン開催された。出席者 9名。
- テーマ:「沖縄と宝貝」
- 沖縄から宝貝が明国に供給されていたことが判明したことから、古代からの宝貝が沖縄から供給されたと推定する。すると、沖縄と九州・日本本土の古代に関する様々な疑問が解消する。
1.レポートの内容
丸地から、資料を示しながら、基本レポートを行った。
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前半では、前2回分の説明をまとめ、一部DNAに関する新しい情報を加えた。
- ① 古代人の絶滅に関して: 古代の沖縄は、海面低下で面積が広く、生活しやすく、古代の九州は、火山の爆発が続き、人類絶滅や重大被害が続き、3万年前の姶良カルデラ爆発では、旧石器人が死に絶え、沖縄から渡来した縄文人も、桜島サツマ火山灰で、死滅し、その後、再び沖縄から移住した縄文人も、鬼界カルデラの破局的噴火で、甚大な被害を受けたことなどを示した。
- ② 常識となっている沖縄の歴史(死に絶えた説)は成立しないことを再確認。
- ③ 1万年前以降に、中国の品物が、日本各地で出土。米・土器・青銅・装飾品など、中国と日本の交流が進んだ。 何故、このような事態が起きたのか? この解明を行う。
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後半では、通貨としての宝貝とその供給元が沖縄であったことを紹介。
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① 二種類の宝貝を通貨として、二つの地域に、数千年に渡って、生産・供給してきたのが沖縄であることから様々な事実から判る。
- 生産地の宮古島の住民のDNAは倭人のもので、沖縄の住民は、縄文人とその混血者であること。
- そこで使用される言語が琉球祖語で、その言語は、日本本土で使われる以前に分岐したこと。
- 従って、宝貝を生産し供給してきたのが、倭人であることが判明する。
- 沖縄の人々が、1万4千年前から海路で九州・日本海沿岸・北海道までの交易路を持っていたことから、中国本土から沖縄に移った倭人と、縄文人との混血者が、九州等に移住し、中国の品物を日本各地に流通させていたと解釈すると、1万年以降の中国の品物が出土する事実が自明のこととなる。
- ② 魏志倭人伝の旅程中に割り込んで記載された「投馬国」は沖縄と推定される。魏の外交課題を考慮すると、敵国の呉と交易を行って来た倭人と九州の倭人が区別されることが必要で、外交上の重要事項として、特記するために、旅程中に割り込ませたものと推定する。
- ③ 通貨としての宝貝を廃止した秦の始皇帝が、秦の支配地域を東の海上に拡大することを望んでいた。宝貝の供給者を探し出し、任命し、当方支配拡大のために、徐福とその一行を送り出したと解釈する。宝貝の権益を失った倭人グループの長であった徐福は、始皇帝の意図とは異なり、民族集団移住を行った。始皇帝の目的は達成されず、嘆くことになった。
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① 二種類の宝貝を通貨として、二つの地域に、数千年に渡って、生産・供給してきたのが沖縄であることから様々な事実から判る。
2. 質疑応答
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日本人の二重構造論をベースに論を展開しているが、二重構造論自体には、最近、異論があり、異論が主流になっている。
- この異論に対して、長い論議が行われた。
- 残念ながら、宝貝その外の論議にはならず、時間が来て終了した。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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日本人の起源「沖縄と宝貝」の前半 基本レポート 1時間10分
https://youtu.be/oNpO37lGIO8 -
同上の前半 基本レポート 1時間23分
https://youtu.be/VZCG3BsbMSM
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日本人の起源「沖縄と宝貝」の前半 基本レポート 1時間10分
- ➤ 資料
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- 「沖縄と宝貝」 基本レポート 丸地三郎 PDF、約12.0MB。
15.「弥生時代から古墳時代『水田稲作と弥生人』」(2022年3月12日)
2022年3月12日 第 15 回解明委員会(弥生時代から古墳時代)『水田稲作と弥生人』)は、13:00より17:30オンライン開催された。出席者7名。(2名が Zoom の技術的問題で参加できなかったことは、残念)
- テーマ:「水田稲作と弥生人」
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弥生時代の始まりを示す水田稲作とそれを持ち込んだ弥生渡来人を議題とする。
- 歴博の説く「弥生時代の始まりは500年遡った」を科学的に否定する所から、問題を追及して行く。
- 水田稲作は、縄文人が始めた? 弥生渡来人が始めた? 異なる議論がある。
- 弥生時代の開始時期に、何時・誰が・どんな米・どんな文化を持って到来したのか?
- この問題をなおざりにしては、弥生時代の正しい理解ができないはず。
レポートの内容:
丸地から、資料を示しながら、基本レポートを行った。
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✧ 2003年から国立歴史民俗博物館(歴博)が科学的な年代測定法で計測した結果、弥生時代は500年遡り、紀元前10世紀とする新説が出され、考古学者反対が有りながら、一般的に認められるようになってきた。
- ➢ この新説に対して、出された疑問に対して歴博から出された反論の論拠に従い、調査/計測した遺跡について検討し、古代地理を調べると、歴博が調査/計測対象としないとした臨海遺跡であることが明白であることを示した。従って、歴博の科学的な方法は、論拠にならないことが示された。
- ➢ 歴博の調査/計測内容を、別事例で確認した処、連続するはずの縄文時代から弥生時代の遺物の年代の測定結果が逆転しており、計測の正確性に問題があることが示された。
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✧ 課題となっている「弥生時代の始まり」の時期を見直すと、水田稲作の渡来が2つの時期に、異なった人々によって行われたことが判る。違いは、人種/土器/イネの品種/住居/墓制/武器に及ぶ。
- ➢ 最初に水田稲作を始めた西北九州縄文人と次に渡来した弥生人との間に戦争があり、戦傷遺跡として残る。
- ✧ 「弥生時代の始まり」の時期は、歴博の提唱する500年遡ることは無く、2回の水田稲作の渡来から見直すと、従来から考古学者の提唱してきた、紀元前500年頃に初期の水田稲作が始まり、本格的な水田稲作と弥生渡来民の到来は紀元前3世紀とすることが妥当となる。
質疑応答:
- 縄文時代/弥生時代と言う時代区分は、生活用具で区分するのは、見直すべきではとの議論があった。
- 歴博の言う通り3000年前から水田稲作が始まったとするならば、水田稲作の始まった時期は中国では周の時代。その時に、中国の何処の誰が日本に稲作を持ち込んだのか、歴博は、説明すべきだ。
- 水田稲作より前に、日本では農耕が行われていたはず。組織的な農耕・組織的な水田稲作が始まったのが、弥生時代の始まりではあるが、それ以前に、縄文稲作・縄文農耕が行われてはず。
- 2011年に「AMS年代と考古学」という書籍が出されている。歴博の炭素14の測定に関して、九州大学の田中良之氏が厳しく批判している。海洋性リザーバ現象に加えて、土器付着ススの解析が、年代測定には不適切であることを論じている。これらの論旨に、今日の話は沿っており、同意する。
- 縄文農耕は、現在では当たり前のこととなっている。水月湖の花粉データでも明確に示されている。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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15 「弥生時代から古墳時代」『水田稲作と弥生人』 基本レポート 2時間34分
https://youtu.be/EVLRQ6hXoQ8
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15 「弥生時代から古墳時代」『水田稲作と弥生人』 基本レポート 2時間34分
- ➤ 資料
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- 「水田稲作と弥生人」基本レポート 丸地三郎 PDF、約13.2MB
16.「邪馬台国『魏の外交情勢』」(2022年4月16日)
2022年4月16日 第16回解明委員会(邪馬台国)『魏の外交情勢』)は、13:00より17:00オンライン開催された。 出席者10名。
- テーマ:「卑弥呼の使者を迎えた中国・魏の外交情勢」
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卑弥呼の使者を迎えた魏は、大歓迎し、金印の贈呈、豪華な贈り物を与えた。その意図は? 又、迎えた魏の王は、明帝だったのか? 誰だったのか? その時は何年だったのか?
- 景初2年説と景初3年説に分かれている。
魏志倭人伝の解釈が、ここでも大きく違い、邪馬台国論争の原因にもなっている。
三国の戦いの最中の魏の外交情勢を分析することで、問題が解明できると考え、 魏の外交情勢を検討する。
レポートの内容:
丸地から、資料を示しながら、基本レポートを行った。
- ✧ 景初2年/3年の問題の内容と代表的な論者及び安本説/渡辺説の内容など
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✧ 魏と蜀との戦略と外交を絡めた戦争状況を三国志の魏志・蜀志・呉志の記述から紹介
- ➢ 蜀の脅威のなくなった魏のターゲットと外交戦略
- ➢ 明帝と司馬懿仲達の計画した公孫氏撲滅作戦を推論
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✧ 公孫氏撲滅作戦は、東方・北方への退避ルートを断ってから司馬懿の正面作戦を行ったと推定。
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➢ この作戦通りに行われたと考えると、景初2年6月に倭国の使者が来ることに問題は発生しない。
- ✓ 景初3年3月には呉の軍が遼東を襲い、守将を撃ち捕虜をとった戦乱があったとの呉志の記述を示し、景初3年説の問題を指摘。
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➢ この作戦通りに行われたと考えると、景初2年6月に倭国の使者が来ることに問題は発生しない。
- ✧ 魏志倭人伝の記述への疑問を提起 1.帯方・楽浪の占領支配の時期 2.海船製作時期
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✧ 最後の決戦を前にした軍事情勢と激しい外交戦略を考慮する中で、倭国への使者の使命・役割を検討。
- ➢ 呉志にある呉の会稽に交易に来る倭人と魏に朝献に来た邪馬台国との関係は、戦時の外交戦略上重要な問題と見るべきで、魏の使者の解明すべき重要な課題であった筈。
- ➢ 魏志倭人伝を見直し、初回の使節の報告書の記述を引いた部分に、陳寿が、別の箇所・文書から挿入したと理解される異質の部分があることを指摘。 その一つは、南水行20日の投馬国の記述。
- ➢ 挿入された投馬国の記述は、投馬国が呉の会稽と交易を行っている国:琉球・沖縄と推定する。
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✧ 外交情勢を上記により、旅程の問題・景初2/3年問題が解決する。
- ➢ 景初3年説の根拠として挙げられた翰苑・太平御覧は、史料批判の結果、信ぴょう性に欠けることを指摘した。
質疑応答:
- 投馬国を沖縄とする説は、どんな人が言っているのか? → 有力な説は今までない。
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投馬国20日の出発地点は? → 図上は不彌国からと記し、邪馬台国付近から20日と考えると回答。
☆ 質問者は帯方郡からの説をとる。
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明帝が、劉昕と鮮于嗣を、帯方・楽浪郡守に任命し、秘密裡に海から攻め入り平定させた時期は、公孫淵が反旗をひるがえした後ではないか? との指摘。 → 秘密裡と記していることから、反旗を翻す前と考える。
☆ 質問者は、反旗を翻した後が妥当と考える。
- 使者:梯儁が詔書印綬を与えた後の文章:并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物の説明が間違っていることを指摘。「齎」詔を斎王芳の斎詔との説明は誤りで、詔書を「もたらした」と読むことが正しいと指摘。 → 後日、了解
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「邪馬壱国、一大国、伊都国の戸数:千戸。 この3つについては転記ミスと考えるが、どう考えるか?」、「末盧国から伊都国の方向が東南と記載しているが実際は東北東、伊都国から奴国へも東南と記載しているが、実際の方角と違う。この違いとどう考えるのか?」との質問があった。
→ 回答は、邪馬壱国に関しては、解明委員会のはじめの頃に、史料批判の例として、根拠を示して誤記と説明した。一大国は壱岐国の誤記と考える。この2例は、説明したよう書籍中に一ヵ所しかない固有名詞は誤記の可能性が有るとした例。戸数千戸は、魏志倭人伝に千戸とあり、魏略逸文に万戸とあると、同時期の文章にある場合には、史料批判だけでは、明快にどちらが正しいとの判定は付けられないが、旅程の正しい解釈ができれば、自然に解消する問題。
→ 旅程の方向の違いに関しては、九州上陸地点を唐津にした場合に方向が異なるとの指摘で、特定の旅程の解釈により、誤記とされるケース。九州上陸地点を博多とすると、方向の問題は発生しない。又、博多上陸説をとると、伊都国の戸数:千戸も適切と考えられる数値となる。唐津上陸説の根拠となる古事記・日本書紀の解釈の間違いは、既に指摘。 -
意見が述べられた。
- ➢ 邪馬台国論は、旅程など字句の解釈を延々と行って来た。このやり方は気になる。マクロ的な見方の意見を言う。
- ➢ 中国の史書は、王朝が交代した後に、前の王朝の悪い点を指摘し、それを糺したのが次の王朝:政権であるとのパターンで書き連ねて来た。しかし、三国志だけは異なる。次の王朝となった晋の時代に三国志は書かれているが、晋王朝の前身となるのは、司馬懿仲達で、魏王朝の悪い点と指摘してそれを糺すとするパターンになっていない。 司馬懿の業績を讃え、それを引き継ぐとのパターンで書かれている。
- ➢ 司馬懿が魏王朝の中で飛躍したのは、五丈原で対峙し続け、諸葛孔明が病死したことで、洛陽に戻って来て、公孫氏を滅亡させたことで、これが飛躍の源となったことは間違いない。司馬懿は、明帝死後に失脚寸前まで行くが、最後にクーデターを起こし、ひっくり返して、権力を掌握した。
- ➢ この飛躍の源となった公孫氏撲滅作戦中に、倭国の使者が来たならば、それは司馬懿の功績となるが、一年後の失脚寸前の時期に、景初3年6月に、倭国の使者が来たならば、失脚させた曹爽がほぼ全権を握っていた時代で、倭国朝献の功績は曹爽のものとなる。景初3年説は、司馬懿の功績を讃える三国志の意図からは、外れている。
- ➢ 倭国の朝献の価値を大きく認めた理由は、「呉」との関係。 三国志の意図から察すると景初3年は有り得ない。司馬懿の功績と掲げるには、景初2年しかない。
- ➢ 「景初年間に密かに」二郡と支配した件も、司馬懿仲達が作戦の一環で行ったことで、正月に出撃した時には、上策とされる公孫氏の逃亡策を押さえて行った訳だから、それ以前のことになると考える。
- ➢ 魏が倭国に出した2回の使節は、初回の梯儁の時も、呉が遼東を襲撃した後のことで、呉の軍船との遭遇もある軍事的に緊迫した状況で、軍事的行動であると見るべきで、軍事使節団であったと考えるべきもの。中国の専門家も軍事使節と解釈している。
- ➢ 戦乱の時代の出来事は、大局的に、軍事的な観点から見るべきもので、字句の解釈・誤記・転記ミスなど細かいことだけに目が行って、それだけにとらわれ過ぎて、全体を見ない歴史解釈は、どうなのか? 字句の解釈だけにとらわれ過ぎるのはどうかナ?と思います。
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意見を承りましたが、今回の説明は、軍事的見方が不足しているとのご意見なのでしょうか? との説明者の質問に対して、
- ➢ 意見を述べた方から、「十分だ」との回答があった。「邪馬台国のこの時代に、朝鮮半島・高句麗ではすさまじい出来事・軍事行動が行われているので、軍事的背景を理解した上で、歴史解釈すべきことを強調した。」と言葉を加えた。
- 投馬国の発音に関して: 「とうまこく」と中国中古音の代表である隋唐音(唐代長安の発音)を反映した漢音で発音しているが、中国の上古音(じょうこおん)で云うべきでは? との指摘があった。上古音は、周代・漢代頃の音韻体系。上古音での「dugmăg」をふまえて、万葉仮名のように語尾の子音を省いて「ドゥマ」と発音したほうが良いとのことで、論議が行われた。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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16 『卑弥呼の使者を迎えた中国・魏の外交情勢』 前半 1時間40分
https://youtu.be/bJlpajo6vVs -
16 『卑弥呼の使者を迎えた中国・魏の外交情勢』 後半 約1時間
https://youtu.be/uOAxWTYWkb0
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16 『卑弥呼の使者を迎えた中国・魏の外交情勢』 前半 1時間40分
- ➤ 資料
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- 「卑弥呼の使者を迎えた中国・魏の外交情勢」基本レポート 丸地三郎 PDF、約2.3MB
17.「年輪年代法の情報公開請求とそれに関する訴訟について」(2022年5月14日)
2022年5月14日 第17回解明委員会「年輪年代法の情報公開請求とそれに関する訴訟について」は、13:00より16:00オンライン開催された。 出席者9名。
- テーマ:「年輪年代法の情報公開請求とそれに関する訴訟について」
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✧ 現在進行中の公判についての状況説明と勝訴後のことについて検討した。
レポートの内容:
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✧ 丸地の方から
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年輪年代法の情報公開請求訴訟の進行状況について説明。
東京地方裁判所 第1回が3月24日開催され、ビデオ会議方式の法廷で第2回/3回が開催
争点は:「不開示の理由」と「文書不在」
- 年輪年代法に関するデータについて、記憶を新たにする意味で簡単に紹介
- 公開請求しているデータ内容について説明
- 勝訴後、私達は何をすべきか? を問い、その準備はどうすべきか、問題提起を行った。
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年輪年代法の情報公開請求訴訟の進行状況について説明。
- ✧ 公判へ出席している山内千里さん清水徹朗さんから公判の追加説明と感想などが述べられた。
- ✧ 清水徹朗さんがまとめた「年輪年代法について」について、本人から説明が行われた。
質疑応答:
- ✧ データを入手後、検証に関しては、外部の専門家の手で行われることが望ましい。古代史ネット内部で検証し発表しても、世の中から認められない。
- ✧ 外部の専門家にお願いするにしても、内部で検証すべく検討もしなければ、適切なデータか、十分なデータか把握できない。
- ✧ 若し、勝訴したとすると、今回公開請求したデータが不十分であっても、追加請求することで、入手することが可能となる。ここに大きな価値がある。
- ✧ どんな専門家、外部団体と連携をとるかが、問題となる。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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17 『年輪年代法について』 34分
https://youtu.be/qPz4ib2AxKQ
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17 『年輪年代法について』 34分
- ➤ 資料
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年輪年代法の情報公開請求とそれに関する訴訟について
丸地三郎 PDF、約315KB - 年輪年代法について 清水徹朗 PDF、約1.242MB
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年輪年代法の情報公開請求とそれに関する訴訟について
18.「解明委員会で取り上げるべきテーマ」(2022年6月11日)
2022年6月11日 解明委員会第18回「解明委員会で取り上げるべきテーマ」は、参加者同士の意見交換会として行われた。 13:00より15:30 池袋の会議室で対面で集まり、同時にオンライン開催された。出席者9名。
- テーマ:「皆様の提言/関心あるテーマ/自己紹介」
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- お互いに知ることを目的として、自己紹介
- 解明委員会への提案・提言
- 興味あるテーマ
- 会の名称変更の提案
意見交換の内容:
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✧ 丸地の方から、普通とは違い、「初対面の人同士の顔合わせ」、会場で「実際に顔と顔を合わせることが主目的
- 古代史のどんな処に興味が有るのか? 何を知りたいのか? などと
- 会の運営方法の変更に関する提言/会の名称に関しての提言 など、自由に話すように要請。
➢ 会場とオンラインと交互に発言
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✧ 知りたいこと/興味のあることなど
- ✧ 1.天皇のルーツ 2.神社・神道のルーツ 3.渡来人の実像 4.上毛野氏と群馬の古代史
- ✧ 国の成り立ち 古代の戦争を前提にした歴史 現実的な視点からの歴史
- ✧ 1.天皇のルーツ 2.神社・神道のルーツ 3.渡来人の実像 4.邪馬台国→大和王権 5.倭の五王
- ✧ C14/年輪年代法
- ✧ 四大文明 / 氷河時代から縄文時代 / 中国語の起源(黄河文明成立期前は日本語に近かった
- ➢ 昭和史 / 天皇とは何か? / 二千年の長きにわたり日本支配した・できた理由
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✧ 解明委員会の名称について
- ✧ 「委員会」は語弊がある。委員:一般人が入れないことを示す。
- ✧ 「委員会」は、階級・階層を感じる オープンで、誰でも参加できる会なのに! 「硬い!」
- ✧ 古代史を解明する会 古代史解明の会 古代史解明研究会 古代史解明勉強会 等提案あり。
- ✧ 「古代史を解明する会」 が柔らかい語感でよさそう!
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✧ 会の進め方
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✧ 提言があった。
- ➢ 順に発表者を決め、発表。テーマは任せる
- ➢ テーマを決め、二人以上が発表
- ➢ 中国文献/記紀 読む 大和朝廷成立/神代に限る/神武東征 倭人/倭国 テーマを限定して読む
- ✧ この意見が多かった。
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✧ 提言があった。
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✧ 今後の予定
- ✧ 7月9日は、長江文明をテーマとする。丸地が基本レポート。従来と同様。
- ✧ 8月27日(日程変更)DNA・日本人の起源 2者でレポート
- ✧ 9月10日 稲作の起源 参加者レポート
- ✧ 10月8日「大和政権成立とその直後に起きたこと」 記紀と考古学から 丸地レポート
- ✧ 11月12日 「天孫降臨と神武東征」仮説 参加者レポート
- ✧ 12月10日 参加者レポート
- ✧ 1月/2月 参加者レポート
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✧ 参加できなかった常連参加者よりのメール
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✧ 何時も楽しく解明委員会のレクチャーを拝聴しており、知的好奇心を刺激されています。
事前に送られてくる資料は、予習をし、分からない所はインターネット等で調べ、一通り内容を理解した上で当日のレクチャーに参加しています。
最近は、新聞やニュースの古代史の記事はしっかり読み、ファイルしたりしています。
本日は都合が悪くなり解明委員会に参加できなくなりました。申し訳ありません。
今後もよろしくお願いします。ご盛会をお祈りします。 - ✧ こういう参加者の声も大切にしてゆきたいと、考えます。
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✧ 何時も楽しく解明委員会のレクチャーを拝聴しており、知的好奇心を刺激されています。
動画と資料
今回はなし
19.「長江文明」(2022年7月9日)
2022年7月9日 第19回古代史を解明する会『長江文明』は、13:00より17:00までオンライン開催された。 出席者9名。
- テーマ: 長江文明
- 日本人の起源、タミル語と日本語、弥生渡来人などをテーマに話してきた。その中で、長江文明との関係が取り上げられたが、「長江文明」自体について説明/紹介が無かったので、今回は、改めて紹介する。
レポートの内容:
- 丸地の方から、
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- ✧ 「長江文明」の基本レポートを、事前配布資料を補完したものを使って説明/紹介を行った。
- ✧ 2著書から遺跡/遺物の写真を借用し、長江文明の優れた文物や、日本の里山に似た景色を紹介。
- ✧ 日本の教育資料も中国のPR資料でも、長江文明の紹介の仕方に「妙な感じ」を持った。
- ➢ 「妙と感じた」理由は、発見以来大々的に報じられていた「長江文明」の古さ、素晴らしさ、重要性が、全て軽く扱われ、黄河文明と比べ、「大差ない」と評価される記述だったから。
- ➢ ここ10年位で、長江文明の評価が変わった理由は、何だったのだろうか? 不思議?
- ✧ 長江文明が、黄河下流域を通じて、黄河全域に拡散したことは、時代の順番と稲作の拡散状況、更に黒陶などの拡散状況を見ると明らか。
- ✧ 中国の最初の王朝となった夏王朝は、長江文明の産物であるか、強い影響を受けたことを紹介。
- ✧ 黄河/長江の長期間に渡る個々の文明の特色などを紹介。
- 質疑応答/意見:
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- ✧ 弥生時代の甕棺の渡来元が何処だったのか気にしていたが、中国に古くから甕棺があったことが判り、納得した。
- ✧ 騎馬民族説があったが、それは嘘/間違いと判明したが、それではどこから、誰が来たのか、この問題に対する回答が学会/専門家から出ないことは、不満に思っていた。長江文明の話が明確になると、弥生人の渡来元が、何処かは、分かりやすい。長江文明が発掘され、全体が明確になってきているのに、学者/専門家から、明確な意見が出ないのは、怠慢では無いかと感じる。
- ✧ 長江文明の進んだ文明が、遅れていたが武力に長けていた黄河文明と戦って負け、一部が日本に来たとの見方があるが、どうも、そう単純では無かったようだ。
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✧ 一般的には、稲作が開始し、米により、食料が増産し、食料が確保でき、人口が増加し、余剰米ができ、階級/階層が生まれ、権力層が生まれ、社会発展が生まれる。中国の、この歴史を見ると、そう考えることもできるかと思われる。自然発生的に、こういう状況が発生したと見ることもできそう。
- ➢ 処がこの図式は、移民や難民が移り住んだ場合に成り立つのかが、改めて気になって来た。
- ➢ 水田稲作の場合、労働集約型で、リーダーが居て組織的に運営しなければ水田開発/運営ができない。強いリーダーシップが不可欠。コムギ生産の「落穂ひろい」や「種まく人々」のような景色は成り立たない。年に2回:田植え/稲刈りの時には、集団で、組織的に行動しなければならない。
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➢ このような状況を考えると、難民と民族移動では違いがあると考える。
- 難民が三々五々、バラバラに来た場合、水田稲作の開拓/運営は有り得ない。
- 集団で、リーダーが居て初めて、水田稲作の開拓/運営が成り立つ。
- ✧ こういった違いを理解しないと、弥生の渡来がどうだったのか考える時に間違いを生じる。
- ヨーロッパのゲルマン大移動も、リーダーシップがあり、武器を持ち、集団で、目的をもって移動してきた。
- ✧ 古代の海面が下がっていた時代には、あれだけ中国の海岸線が東に来ていたならば、大陸と日本の間に交流があったとしても、おかしくない。
- ✧ 海洋民族が海を渡ることはあっても、大陸の水田稲作民=農民が、大挙して、海を渡り、大移動することは考えられない。
- ✧ 10年前に長江文明の本を読んでいたが、今回の話を聞き、もう一度、勉強し直さなければいけないと思った。
- ✧ 色々な処で文明が起きた。長江文明が黄河文明に滅ぼされたという訳ではないと考えた。
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✧ 海面の低下の話が有った。1万5千年前に海面が一番低く、北海道はサハリンと陸続きで、北海道とは繋がっていなかった。
- ✧ こういう話が有るが、これは、実際に調べられ、実証されたことなのか? 改めて疑問に思った。
- ✧ 丸地の回答:実証されている。第四紀学会などに報告がされていて、北海道の件も、朝鮮半島と日本(対馬)の間のことも、調べられ、ほぼ決着がついている。
- ✧ 稲作について、予定される稲作についての発表(清水さん)の時に、稲作と他の作物との違いを含めて発表してもらいたい。米/コムギ/雑穀の養える人口の大きさの違いを調べて教えてほしい。
動画と資料
- 動画 YouTube 動画リンク
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- 19 長江文明 前半 1時間26分
https://youtu.be/EIDTfgyMZfM -
19 長江文明 後半 1時間32分
https://youtu.be/diMG62iBaB8
- 19 長江文明 前半 1時間26分
- 資料
- 「長江文明」再録用改定版 19回基本レポート 丸地三郎 PDF 約12.6MB