最終更新日:2022/02/24
古代史を解明する会(解明委員会)
活動記録 バックナンバー 1
- 「日本人の起源」(2021年1月23日)
- 「弥生時代から古墳時代」(2021年2月27日)
- 「邪馬台国論」(2021年3月27日)
- 「科学的年代測定法とその適用」(2021年4月24日)
- 「一書と天孫族・出雲族の系図」(2021年5月22日)
- 「大陸との交流『徐福論』」(2021年6月26日)
2.「日本人の起源」(2021年1月23日)
- 2021年1月23日 第2回 解明委員会(テーマ:日本人の起源)は、13:00から15:50 オンラインで開催されました。出席者は12名。
- 一週間前に基本レポートのプレゼン資料:45頁が委員会メンバーにネット配布。
- 2日前に、委員の山内さんより6頁「日本人の起源 -論点」とする資料が提示され、配布。
議事は、
- 丸地より基本レポートの説明が行われた。 時間は1時間50分。
- 内容は、今後、日本人の起源をテーマに解明委員会を開催するに当たって、全体のワク組みと方向性を示した。
- ① 取り扱う時期・範囲
- ② 起源論の現状
- ③ 解明の材料と方法
- ④ 留意事項
- ⑤ 現在の有力な起源論
等枠組みを示した。
- 有力な説として、「日本人二重構造論、及び、縄文人の起源を東アジアの共通祖先から」をとりあげた。
- 凡そ4万年前の日本への渡来ルートが複数提示されていること、弥生渡来人に関しては、時期・源郷・ルート・等、検討すべき内容が山積みで多いことを挙げた。
- 検討・解明に当たって留意すべき点として、
- ① 歴史年代で判明している人の移動
- ② 移動ルートの基本となる地形が、移動の有った氷河期には異なっていたこと(気温・海面高さ)
- ③ 縄文・旧石器時代の遺跡から居住した地域と時期が判ること。日本は密度が高く、石器も最先端の物だったこと
- ④ 6万年の長い時間をかけた移動は、移動期間を考慮した検討が必要なこと。(その視点を忘れた起源論へ警鐘)
- ⑤ DNAからの解明に関して、基本的な理解の仕方を示し、医学的な研究を含め注目すべき研究を、Y染色体、mtDNA、免疫グロブリンG(Gm)、ATLウィルスなどの分野で上げた。
- 琉球・沖縄に関しては、上記の注目する研究・論文で、特異性を指摘されていることを上げ、現状の歴史認識との基本的な違いを示し、重要な検討項目であることを示した。
- 弥生渡来人に関しては、一般的な理解を紹介し、課題の多いことを示した。
- ① 二種類の人・文化と、二つの渡来時期があることを示し、課題とした。
- ② 源郷に関して、倭人についての古代中国の記録を示した。
- 山内千里委員より、「論点」が説明された。
- ✓ 主な内容は、
- 自然環境(天変地異)との関係
- 長江文明(渡来人の祖先が関わる)
- 縄文人(稲作が大陸から直接伝播・現代人にもY遺伝子を相当な割合で残す)
- 倭人(出自への疑問・倭人=弥生人か?倭人は農耕民か海洋民か?)
- ✓ 主な内容は、
- まとまった話が終わった処で、これらに関するコメントとご意見を参加者に求めた。
- ✓ 幅広いテーマで論議が必要なことが判ったが、この先は、個別にテーマを定め、1テーマに2-3時間かけて検討することが必要だろう。
- ✓ 専門事項につき、再度、DNA1回、考古学1回、土器1回などと個別に検討が必要だ。
- ✓ 領域があまりにひろすぎて、消化不足。考古学・DNA等、1回でも足りない。
- ✓ 倭人が中国に居たとは知らなかった。
- ✓ 講演内容を基本に支持。世界史的、広い視野で取り組むことが必要。
- ✓ (会長)テーマが多すぎるので、月1回のペースを速めるべきでは?
- ✓ 日本人が中国から来たのならば、何故中国語を話さないのか?
この件に関して論議が交わされ、- ➤ 日本語はSOV(主語・目的語・動詞の順)、北方・遊牧民系はSVOで違う。長江文明は、SOV。
- ➤ 長江文明の一派が6千年前、「中原」に進出、遊牧民文化と融合し黄河文明が誕生。やがて、長江文明を圧倒した。
- ➤ 漢字・漢文は、書き言葉として、中国全土で共有の言語だった。
- ➤ 中国の話言葉は一つではない。民族ごとに違う言語を使い、多数の言語が使われてきた。その中で、3千もの民族と言語が失われたとも云われる。
- ➤ 日本語は、中国の中で失われた言語のひとつではないか。
今後は、特定のテーマを定めて、開催して行くこととなった。
解明委員会は月1回のペースを予定しているが、当面はこれ以上の回数は難しい。
次回(日本人の起源は)7月で、テーマは「沖縄の古代歴史の真実は?」と決定。
丸地が基本レポートを行うこととした。
- ◆ 動画と資料
-
- ➤ 基本レポートの説明は、当日の録画では有りませんが、再録し、YouTube の動画としてアップしましたので、ご覧いただけます。
- ➤ 基本レポートの説明で使用しましたプレゼンテーション資料及び山内委員から説明された論点の資料もご覧いただけます。
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
- 日本人の起源-基本レポート 前半 https://youtu.be/yK1KUBxKBkY
- 日本人の起源-基本レポート 後半 https://youtu.be/uk0n81-Jh-0
- 日本人の起源-論点 https://youtu.be/skle1e1SkbA
- ➤ 資料
3.「弥生時代から古墳時代」(2021年2月27日)
2021年2月27日第3回解明委員会(テーマ:弥生時代から古墳時代)は、13:00~15:50分オンラインで開催された。出席者13名。
- 議事は
-
- 1) 丸地より「弥生時代から古墳時代」の基本レポート説明が行われた。1時間50分。
- 2) 山内氏より「-論点-」の提示が行われた。
- 3) 説明・提示に付き、意見が交換された。
- 4) 次回以降のテーマ・発表者が選定された。
1)の基本レポートの内容
- *新しい参加者が複数いるため、初回の古代史研究の方法論の資料を示し、当委員会の方針と方法論について、再確認を行った。
-
*基本レポートに入り、
- ☑ 文献歴史学者の取り扱わないテーマである「弥生時代から古墳時代」の歴史に取り組むこと。
- ☑ 歴史の読み方として、①天岩戸事件②天孫降臨③出雲国譲り④神武東征 の順となること
-
☑ 構築する歴史の事件・出来事をリストし、概要を示した。
- ➤ 弥生渡来人 水田稲作の普及 北九州に成立した王権 - 漢倭奴王 天孫族と出雲族の対立 天孫降臨 出雲の国譲り 神武東征・大和朝廷成立 天皇の全国支配確立 古墳時代成立
-
☑ 検討のポイントとして、下記のものを示し、各項目につき説明した。
- 史料評価(史料批判)の例 科学的年代論 ・年代推定(天皇の即位年代の粉飾・神武即位年代の推定) ・戦傷人骨・戦争遺跡 ・埋納の理由 ・銅鐸・青銅製武器型祭器(生産者、副葬) ・勾玉・管玉(翡翠(ヒスイ)の加工技術・勾玉・管玉の生産・流通) ・出雲族の拡大範囲(埋納青銅器から・神社の分布から) ・高地性集落 ・出雲一族の主役達
- 弥生時代の俯瞰図試案(弥生・古墳の両時代のものではない)
2)の論点の内容
- 國際情勢(大陸・半島の動向)との関係
- 小国家の形成・倭国登場(~2C)
- 大和王権
纏向の状況 北九州との関係 出雲との関係 半島との関係
大和王権の実像 通説よりはるかに強大な軍事・経済力、権力
について資料を見せ、説明。
3)意見交換
- 出雲系の認識が、参加者各々で、違いが大きいことが判明。素戔男尊と大国主の関係が、親子とする日本書紀本文と、間に6代あるとする古事記の間に、大きな差があり、この違いは、系図認識の違いとなり、年代論にも大きく響く。
- 天孫族自体の出自も歴史理解のポイントと指摘され、水田稲作を開始した人々との関係や、弥生人の中での位置づけもはっきりしないと指摘された。
4)次回のテーマなど
テーマは、神武東征とし参加者から3者が話すこととなった。
- 古事記・日本書紀の違いなど論点・材料を提示。
- 自作の動画を示し、たたき台として出す。
- 20分ほどまとめ、話す。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
-
✧「弥生時代から古墳時代」の基本レポート
https://youtu.be/FK-lhCRY0X4 -
✧「弥生時代から古墳時代-論点-」
https://www.youtube.com/watch?v=ptMrWEys2T8
-
✧「弥生時代から古墳時代」の基本レポート
- ➤ 資料
4.「邪馬台国論」(2021年3月27日)
2021年3月27日第4回解明委員会(テーマ:邪馬台国論)は、13:00より15:50オンライン開催された。 出席者 14名。
- 資料配布
-
- 基本レポートの資料36頁を、1週間前に委員会メンバーに、ネット配布。
- 「邪馬台国論-論点 」とする資料を、前日にネット配布。
- 議事は、
-
- 1) 丸地より基本レポート「邪馬台国論」邪馬台国の探し方の説明が行われた。時間は1時間30分。
- 2) 山内氏より「-論点-」の提示と説明が行われた。約20分
- 3) 説明・提示に付き、意見が交換された。
- 4) 次回以降のテーマ・発表者が選定された。
1)の基本レポートの内容:
*邪馬台国論に関しては、江戸時代から300年検討されてきたが、答えが出ない。従来と同じような方法で検討しても、同じ結果が予想される。距離・方位だけでない探し方を提示し、検討する。
*基本レポートに入り、
- 1) 魏志倭人伝より後の中国史書の資料批判を行った。
- ① 邪馬台国vs邪馬壱 問題の解明を、史料批判と文献整理により行った。
- ② 後漢書・宋書・梁書・隋書の史料批判を行い、魏志と異なる部分に関して、新規情報に基づいて記述されたと推察できないため、信憑性に欠けることが示された。
- ③ 梁書・北史・翰苑・太平御覧について、信憑性が無いことが具体例をもって示された。
- 2) 魏の公式使節について検討を行った。
- ① 漢の時代・三国時代の事例を検証して、魏の使者の人員規模を推定した。500名から数千人規模と推定
- ② 中国国王が派遣した正式の外交使節としての、目的を明示し、一般的な外交使節訪問の計画立案・配慮すべきこと、相手国との情報交換など、使節団の概要を検討した。
- ③ 倭国側の対応・待遇について検討し、最恵国待遇を想定した。
- ④ 魏の使節のコース設定を検討
- ☑ コース検討には、倭国の情報提供や最適コースの提案もあったと推定。
- ☑ 複数の大型帆船の使用を推定
- ➤ 当時の中国の帆船の規模、実績、造船遺跡から大型帆船の規模を推定。
- ⑤ 魏の使節が、邪馬台国の女王に面会しなかったとする説は、有り得ない、意味のない説であることを検証。
- 3) 人口論
-
① 小山修三氏外の人口論では、弥生時代の人口:九州で10万人とされるが、倭人伝の戸数から推定される人口50万人以上との記述を見ると、倭人伝の記述は、誇張が過ぎる、虚偽だとする説について検証。
- ☑ 小山修三氏の理論的根拠が、当時発見されていた遺跡数・密度と規模に準拠していたことを示し、1978年当時の北九州の発見遺跡数と現状の遺跡数の大幅な増加を考慮すると、50万人は誇張・虚偽とは言えないことを検証。
-
① 小山修三氏外の人口論では、弥生時代の人口:九州で10万人とされるが、倭人伝の戸数から推定される人口50万人以上との記述を見ると、倭人伝の記述は、誇張が過ぎる、虚偽だとする説について検証。
- 4) 魏の使者の旅程検討の留意事項
- ① 使節の規模検討から、500名以上の団員規模を前提とすること。
- ② 大型帆船で九州に到来。
- ③ 事前に、魏側と倭国側で十分な計画が練られた安全で最適なコースが練られたこと。
2)論点の内容
- 国際情勢と「倭国」をめぐる戦略環境 ・・・・・・ 魏の対呉戦略
- 『倭人伝』 編纂の背景 ・・・・・ 司馬懿の功績・晋の正統性の強調
- 『倭人伝』
- ① 原文解釈の壁-中国専門家の解釈との齟齬
- ② 景初二年・三年問題
- ③ 上陸地
- ④ 「女王卑弥呼」に対面せず?
- ⑤ 張政の派遣 ・援軍要請 ・卑弥呼の死 ・その後の倭国の動向
3)意見交換
- ☑ 使節の人数が、今までのイメージと違い、疑問が有る。朝鮮通信使・阿倍比羅夫の大船団での遠征が有ることは判るが、信じ難い。遣隋使・遣唐使が日本の使節は大人数だったのか? 五百名・千名の人数が上陸し、陸路を行く時は、ホテルも宿屋も無い時代にどうしたのか? 疑問?
- ✧ 遣隋使の船舶は中型だったが、遣唐使の人数は、四隻の大船で行き、千名を越える。と丸地より説明。それだけの人員が居たのなら、大人数だったこともあると考える。
(一隻150名の乗員で、全体で600名~650名との推定が有ると、同日メールで訂正)
- ✧ 遣隋使の船舶は中型だったが、遣唐使の人数は、四隻の大船で行き、千名を越える。と丸地より説明。それだけの人員が居たのなら、大人数だったこともあると考える。
- ☑ その後、次の2件の意見が出たが、旅程の話に入るため、話題・意見として取り上げなかった。
- ✧ 上陸後、「草木が茂り前を行く人が見えない」との記述が有るが......。
- ✧ 伊都国が糸島市であると云うのが定説で、それを否定する説に説得力が無いので、伊都国:糸島市を定点としたい。すると、末盧國は糸島の西側になる。
- ☑ 大人数が良いか、少人数が良いか、二つの考え方が有る。卑弥呼の時代も同様の判断が有ったはずだが、大人数で、ロジスティックスが無理なら、少人数になるはずと疑問が有った。帆船が使えるなら、大人数でも可能となるため、使節団が大人数であったことの可能性が有ると考え始めている。
- ☑ 大人数に関しては、大名行列を考えても、威厳を示すことを考えると、納得。
- ☑ 人口論は、魏志は誇張していると考えていたが、今日の説明を聞き、それも有るかと思い、50/50位に思い始めて居る。
- ☑ 大人数ならば、博多上陸、少人数ならば唐津・松浦。大人数は有り得ない。優れた船があったとは思えない。千人規模は考えられない。邪馬台国の私の評価は低い。馬も牛も居ない、知的な痕跡も無い、レベルの低い国で、中国からそんなレベルの低い国に大人数を出すことは絶対に有り得ないとする意見が有った。議論が続いたが、これ以上、深入りしても、話が進まないので、終了する。
- ☑ 今日の基本レポートは、目新しく、初耳のことも多かったと思う。特に中国の帆船(ジャンク)に関しては、書物が無く、作家の司馬遼太郎が、調査した時も、全国の古書店で探したが、2冊しか見つからなかったとのこと、中国側の本も少なく、皆様に帆船の情報が殆ど無い状態で、大型の帆船が、この時代に活躍していたことを初めて知ったのではないかと思う。
4)次回のテーマなど
- 5月22日予定の「古事記・日本書紀・風土記の世界」は、「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」と「天孫族と出雲族の系図」をテーマに実施
- 6月26日予定の「大陸との交流」については、「徐福論」について実施
- 9月の邪馬台国論は「唐津上陸説は根拠が有るのか」のテーマで実施
以上でこの日の解明委員会は終了。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
- ✧「邪馬台国論①」の基本レポート
https://youtu.be/9zrKtZlKdGU - ✧「邪馬台国論①-論点-」
https://youtu.be/GAqH9JXkRpkk
- ✧「邪馬台国論①」の基本レポート
- ➤ 資料s
5.「科学的年代測定法とその適用」(2021年4月24日)
第5回解明委員会(2021/04/24)は、「科学的年代測定法とその適用」をテーマとして 13:00 より Zoom オンライン開催された。出席者は15名。
- 発表画面の設定が出来ず、開始が予定時刻より、20分以上遅れたこと、参加されたメンバーの方には、謝罪いたします。
- 議事は、
- 1) 鷲﨑会長より、基本レポート「年輪年代法の問題点――弥生古墳時代の 100 年遡上論は誤り」の発表が行われた。時間は約50分。
- 2) 司会の丸地より、事前に行われた解明委員会メンバーの一人と発表者のあいだで行われたメールによる方法提供と議論が有ったことを紹介。
- 3) 説明・提示に付き、意見・質問が出された。
1)基本レポートの内容
- 年輪年代法は、奈文研の光谷拓実氏が発表してきたが、
- ① 使っている標準パターンが二種類あるが、内、旧パターンは間違っており、新しい木曽系新標準パターンは合っている。
- ② 旧パターンを使って多くの発表が行われているが、測定値が記録と100年違い、間違っている。
- 記録と測定値が違う例を上げて説明を行った。
- ① 法隆寺の心柱
- ② 元興寺禅室の部材
- ③ 紫香楽宮跡出土の柱根
- ④ 法起寺三重塔ヒノキ心柱
- ⑤ 東大寺正倉院 壁材
- 鷲﨑の指摘に対して、2019年5月に講演会で光谷氏が反論した内容を示し、説明を加えた。
- ① 新築と移築の論争
- ② 100年前の古材の利用
- ③ 100年分の外周を削り出す利用方法
- ☑ いずれも、反論にならないことを、資料を使い説明。
- ④ 炭素14年代測定法と整合性があること
- ☑ 反論で使った年代測定法で使った較正曲線に、新しい較正曲線Intcal20で適応し直してみると、間違いが明確。
- ⑤ 適用したパターンを示し反論
- ☑ 示されたパターンは、単なる断片的な図で、データが全く示されていない。
- ⑥ 木材の部材取りを有効に行ったとすれば、問題解消する
- ☑ 部材取りの仕方を複数の図で説明し、光谷氏説明の方法が成り立たないことを説明。
- 以前に行われた新井宏氏との論争、2019年の光谷講演の資料などについて経緯や内容と結論を紹介した。
2)情報提供と事前のメール交換
- 「IntCal20」に基づく年代較正については、ネット上に「較正年代とそのグラフが出力される便利なサイト」があるとの情報が提供された。
- そのサイトを使い、池上曽根遺跡と纏向遺跡のモモ核の両遺跡のデータについて、検討を行った。
- 纏向のモモ核に関しては、名古屋大の中村俊夫氏の発表データでは、AD136~232年の長い期間(96年間)の年代推定になったが、そのサイトで、Intcal20を適用してみると、AD212~243年(31年間)と巾の狭い期間となった。年代帯は、後にずれた。但し、誤差の巾の取り扱い方により、年代の巾に大きな違いが出て、一概に決めつけられないことも判った。
- 池上曽根遺跡に関しては、柱自体の計測では無く、近くに有った小枝を計測したと云う問題がクローズアップされた。
3)意見交換
- 科学的年代測定法は、計測数値が出て信頼できるものと思っていたが、そんな単純なものでは無く、問題があることを認識した。
- マスコミや一般の人に判るように説明して欲しいとの強い要望があった。
- 年輪年代法と炭素14年代測定法・較正曲線の関係について質問が有り、相互依存関係の説明を行ったが、参加者にも、問題の複雑さが浮き彫りになった。
4)次回のテーマなど
5月22日予定の「古事記・日本書紀・風土記の世界」では、文献史料の全体を取り扱うのではなく、
- ① 日本書紀にある一書の取り扱い
- ② 日本書紀本文でスサノオの子が大国主命とされるが古事記などでは違う
この二つの特定テーマに絞ります。基本レポート:「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」と「一書と天孫族・出雲族の系図」を使用予定。
https://nihonkodaishi.net/info-research/pdf/kaimei/shiryou210522.pdf
6.「一書と天孫族・出雲族の系図」(2021年5月22日)
2021年5月22日第6回解明委員会(テーマ:一書と天孫族・出雲族の系図)は、13:00より16:00オンライン開催された。 出席者 13名。
- 資料配付
-
- 基本レポートの資料41頁を、2週間前に委員会メンバーに、ネット配布。
- 議事は、
-
-
1) 丸地より基本レポート「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」及び「一書と天孫族・出雲族の系図」の発表・説明が行われた。約2時間。
- 喉の調子が悪く、度々咳込み、聞き苦しいことが多かった。(申し訳ございません)
- 2) 発表・説明を受けて、意見が交換された。
-
1) 丸地より基本レポート「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」及び「一書と天孫族・出雲族の系図」の発表・説明が行われた。約2時間。
1.基本レポートの内容
- ① 今回のテーマに関して
-
- ☑ 古事記・日本書紀など文献史料の全体を取り扱うのでなく、日本書紀の本文に「スサノオと大国主命は親子関係」と記されていることの真偽を主に取り扱った。
- ☑ 史料批判に先立ち、「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」を明らかにし、議論の基盤とした。
- ☑ 又、日本書紀の本文と一書(異伝)の関係を明確にした。
- ② 古事記・日本書紀の編纂指示・編纂完了時、巻数など基本的な事項を取りまとめ紹介
-
-
☑ 現代の歴史家の評価を紹介。
- 古事記:日本国内向け・天皇家の歴史書
- 日本書紀:中国を意識した外国向け正規の日本史書
-
☑ 日本書紀の記述の特色を挙げた。
- 神代上下2巻は、例外的に紀伝体で記述。
- 本文に加えて、異説を一書として入れたが、その量が異常に多量で、一書を抜いては、全体の意味が捉えられない、奇妙な状況になっていること。
-
☑ 本文と一書
- 本文の文字数が、25%で一書のそれが75%と、一書の割合が高いこと。
- 本文に対して、4-5(最大11)の一書が記されていること。
- ☑ 登場人物(神)などを古事記・日本書紀の本文・日本書紀の一書に分け一覧表の表示を行い、その違いを明示した。(可児さんの資料が、大いに役立った)
-
☑ 現代の歴史家の評価を紹介。
- ③ 天孫族・出雲族の系図の差異を示した。
-
- 日本書紀・本文では、「スサノオと大国主命は親子関係」と記した。
- 古事記では、スサノウの6代の子孫が大国主命で記された。
- 世代数の差が大きく、古事記等に記された多くの出雲系の人々の名前が、日本書紀では消し去られた。更に、出雲に関わる神話が削除された。
- 日本書紀では、削除された出雲系の人々の名称は、一書として、多くは記述された。
- ☑ 日本書紀の本文については、信ぴょう性に疑念がだされた。
- ④ 日本書紀は「中国を意識した外国向け正規の日本史書との評価」について検討
-
- 中国の正史:新唐書と宋史にある日本に関する記述から、日本書紀との整合性が見られるか検討した処、古事記の記述が引用されており、日本書紀の記述は引用されていないことが確認された。
- 日本書紀は、外国を意識した日本の正史などの評価は、実質上、適切では無いことが判明した。
- ⑤ 日本書紀の信ぴょう性について
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- 一例として、神功皇后紀について取り上げた。
- 日本書紀の一巻の全体が神功皇后に充てられた。(異例のこと)
- 日本書紀に記された神功皇后の事績は、外国の(中国・朝鮮半島)歴史書と対比できるものが有り、年代などから信ぴょう性の検討ができる。
-
古事記・中国と半島の歴史書と比較し見ると:
- ✧ 年代が120年前のことや60年後の外国関連の出来事を意図的に取り込み、虚偽の記述をしていることが判明。
- ✧ 古事記では、子の応神の時代として記述が日本書紀では、神功皇后の時代として記述されるなど、相違があり、疑念がある。
- 神代上下、神功皇后記の双方で、歴史的事実とは異なる記述が、意図的に組み込まれており、日本書紀の記述は信ぴょう性に欠けることが、明白になった。
- ⑥ 日本書紀から消された出雲系一族が、一書で復活している理由について
-
-
古事記・日本書紀の大和朝廷成立時の、天皇の婚姻関係、最高執政官を確認すると、天皇家及び政権担当者には、出雲系が極めて多いことが判る。
- ✧ 神武・綏靖・安寧天皇の正妃は、事代主の娘・孫娘
- ✧ 孝昭天皇・崇神天皇・景行天皇の正妃は、事代主の姉妹の天道日女命の子孫
-
日本書紀が完成し、披露された時に、「消された出雲一族」を知った出雲の血を引く、天皇一族、政権首脳、政権有力者も多かったと推定する。
- ✧ その場合、「消された出雲一族」の反発が大きかったと推定される。強固な抗議が上がり、日本書紀が認めない動きが出たものとも考えられる。
- ✧ その抗議を押さえるために、本文を否定する(消された出雲一族を復活させる)一書を書き連ねることで、妥協を図った結果が、現在残る日本書紀と推定される。
- ✧ 従って、編纂者を示す前文も破棄され、別巻の系図も伝えられない事態になったと推定する。
-
古事記・日本書紀の大和朝廷成立時の、天皇の婚姻関係、最高執政官を確認すると、天皇家及び政権担当者には、出雲系が極めて多いことが判る。
- ⑦ 結論
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- 日本書紀の本文は、信ぴょう性に欠ける。
- 神代上下巻の本文の内、一書で否定されている文章は、誤りである可能性が高く、一書の記述の側が正しい可能性が高い。
- 日本書紀・神代に記された「スサノオと大国主命は親子関係」は誤りで、古事記の記述の信ぴょう性が高いと判断する。
- ⑧ 付記 津田左右吉氏の神話の時代に関する認識について
-
- 日本書紀を検討する上で、役に立ったのが津田左右吉著「古事記及び日本書紀の研究 建国の事情と万世一系の思想」
- その中で、古代人とその伝承について「深刻な認識の誤り」を発見した。
-
津田左右吉は、文字が応神朝:4世紀後半に伝えられる以前の日本は、「とくに文化程度の低い時代」と評し、
- ✧ 「暦の知識も無く」、「年数も伝えられず」、「口碑は事件の順序が混乱し」、「事件の物語が精密でなかったり」する。
- ✧ シナ語(漢字・漢文)は、日本語と性質が異なり、学ぶことが困難で、日本語を表記し難く、数百年の困難な学習期間を経て、8世紀に初めて記紀がやっと成立した。
- ✧ 魏志倭人伝にも言及し、文字がつかわれた痕跡は、女王の上奏文にあるが、これも、文字の判るシナ人に書かせたものと断じて、倭人・日本人の文字使用を否定。
- 津田左右吉氏は、神話の時代は、『伝承が信頼できない時代』と考えていたことが判る。
-
文字が弥生時代に使用されていた証拠があること
- ✧ 魏志倭人伝には、魏からの詔書・檄文など多くの文書が魏から倭にしめされた事、税制・賦役、法律の存在、港での文書と品物の対応点検など、倭人が文字を使った証拠が挙げられること。
- ✧ 文字を使った証拠である「硯」の遺物の発掘の発表が相次ぎ、北九州だけでなく、山陰から近畿など広範な地域で出土している。
-
津田左右吉の古代人についての認識は、誤っていることが実証された。
- ✧ 神話の時代は、『文字が使えた文化レベルの高い時代』であり、『伝承が信頼できる時代』であることが判明した。
- ✧ 津田左右吉の誤った認識は、現代の歴史家の常識となっている可能性が高く、深刻な問題である。
2.意見交換
- 日本書紀には、著者・編集者が複数あることが指摘されている。巻によって、中国人が記述してとも見なされる当時の先端の中国語(漢文)で書かれた巻と、そうでない漢文の両方がある。
- 古事記・日本書紀を読んではいたが、今回の話は、頭の整理になった。
- 太安万侶の墓が発見された。
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① 津田左右吉の認識違いには、納得。
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✧ 津田左右吉の考え方は、歴史を学ぶ皆さんに刷り込まれていることに要注意。
- ✧ 考え方としては、ひどいもの。
- ✧ 卑弥呼の時代に朝見したが、殺し合い・戦争をやっている司馬懿仲達達が、文字も知らない蛮族に、金印・詔書など渡す訳がない。
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✧ 津田左右吉の考え方は、歴史を学ぶ皆さんに刷り込まれていることに要注意。
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② 日本書紀などを、ねつ造だとか、否定する人が居るが、国譲りの話、神武東征、欠史八代、神功皇后など色々ある。各々、理屈とか、事実などで裏付けがあり、神功皇后の場合も半島の方に記録もある。 国譲りの場合、崇神天皇の時に、神宝をよこせと云って、滅ぼすことが載っており、地方が歯向かったり、不都合が有った場合は、滅ぼすことが、普通の段取りだったはずにも拘らず、わざわざ、出雲の国譲りを書いたり、途中で消したり、修正かけたり、大事として書かなければいけない理由は、何故だろうか?皆さん、どう思いますか?
- ✧ 出雲に関しては、銅鐸など考えると、王朝まで行かなくても、かなりの勢力圏があって、そこから、譲り受けた訳で、皆殺しにした訳でなく、禅譲したとか、代替わりをして、譲り受けたたわけで、大和王権の正当性を語るために、出雲についてあれほど、書かなければいけなかったと云うのが、その時代のコンセンサスだったのではないのか?
- ✧ 出雲神話は、天孫族の海彦・山彦の話に比べ、活き活きとして、沢山・長い話ですね。この話を何故書かなければいけないのか? これは、気になる所。
- ✧ 出雲の勢力は、一大勢力で、それだけの力を持っていた。天孫族が支配権を確立するために、目の上のタンコブと云うか、それまでの勢力として一番重要だったわけで、それを支配下に置いたと云うことは重要なことで、又、その勢力がその後も影響力を持ち続けたためではないか? 先週も講演会が有ったが、長野県の建御名方神の勢力は、諏訪でずっと勢力を持ち続けたことが話された。建御雷神は鹿島へ行き、対蝦夷の最前線を保った。関東近辺は氷川神社を始め出雲系の神社だらけで、出雲の勢力は、大和王権にとって、無視できない、宗教的にも重要な勢力だったからこそ、出雲の記述が多くなったのだと考えている。
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✧ 出雲勢力は極めて大きかった。中国・四国・近畿・中部から関東まで広がっており、関東は出雲系だらけ。鹿島・香取だけが天孫系でそれ以外は全部、出雲系と云って間違いない。建御名方神の諏訪神社も越後では圧倒的で、秋田まで広がっている。神武東征の直前まで、出雲系が全国を支配していた。大和朝廷の初期の時代は、天孫族は非常に少なく、位置的には微妙。天孫族は極わずかで大和に入り、大和を制した。ごくわずかな数の天孫族で、多くの出雲族と出雲族に所属していた饒速日命の系統が、天孫族(天皇)の支配を支えた。ですから、出雲系を記紀に書かざるを得ない状況に有った。
- ➣ これが、出雲神話を書かざるを得なかった理由と考えられる。
- ✧ 越後のことを加えたい。弥彦神社も、主祭神が天香語山命で、出雲系とわかり、諏訪の出雲系、越後も出雲系、関東も出雲系、事代主も饒速日命も出雲系と判ると、天孫系はほんの一握りの勢力で来て、支配権を握ってしまったことになったと云うことになる。
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③ 私個人は氷川神社の近くで生まれ育ち、辺りには出雲系の神社ばかりしか記憶にないのですが、天孫族・天照大御神を祀る神社は、どれだけあるのでしょうか?
- ➣ 伊勢神宮の系統がありますが、天皇は殆ど、伊勢神宮には参拝していない。
- ➣ 云われているほど、天孫族は広がっていなかったのでは?
- ➣ 安本美典氏・寺沢薫氏が云うには、纏向は、鉄器の出土は少なく、九州に多い。大和朝廷成立後も、九州の方が出土する割合が多い状況がある。天孫族が九州から東征したのならば、鉄をいっぱい持って来たはずなのに、何故、畿内に、鉄の出土が少ないのだろうか? 天孫族が支配したとしても、出雲系が強かったのではないかと考える。
- ④ 天孫族を祀る神社が、九州では多いが、中国四国より東は、出雲系ばかりが目立つ。とは言え、関東などが、最初から出雲系であったとは云えない。関東にはいわゆる戦傷遺跡は無いが、弥生時代後半の環濠集落が出土し、その集落の多くが焼け落ちている集落が多くある。大国主命の神話では、日本全国を支配下に置くために、生涯の多くの時間を遠征に使い武力をもって支配下に置いて行ったとある。焼け落ちた集落もその時のことを物語っているのではないか? 大国主命とその前の数世代で、日本全国を遠征し、支配下に置いて行った結果として、出雲系神社が、日本全国に多く分布するのだろうと考えている。
- ⑤ 神社の系統から云うと八幡神社が重要で応神天皇(神功皇后の子)を祀っている。関東でも八万神社が多い。もう一つ重要な神社は稲荷神社。秦氏を祀っている。秦氏をどう理解するかも重要なことではないか?
4.最後に
- ☑ 今回のテーマを選んだ理由は、「スサノオと大国主命は親子関係」とする日本書紀の本文を信じているとする方が複数いて、古事記の6代の子孫とする説は受け入れ難いとしていたことから端を発しています。
- ☑ その方達との論戦になるかと期待して始めたのですが、残念ながら出席して頂けず、皆さんが基本レポートに賛同して頂いてしまいました。激論を戦わすことが出来ず、誠に残念でした。
動画と資料~「日本書紀・古事記・風土記の世界」の基本レポート
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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✧ 「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」及び「一書と 天孫族・出雲族の系図」
https://youtu.be/AqGINNxuuGI
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✧ 「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」及び「一書と 天孫族・出雲族の系図」
- ➤ 資料
7.「大陸との交流『徐福論』」(2021年6月26日)
2021年6月26日、第7回解明委員会(テーマ:大陸との交流「徐福論」)は、13:00 より 17:00 までオンライン開催された。出席者9名。
- 資料配布
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- 基本レポートの資料43頁を、6月14日に、2週間前に委員会メンバーに、ネット配布。
- 議事は、
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- 1)丸地より基本レポート「徐福論」を発表。
- 2)発表・説明を受けて、予定時間を越える活発な意見が交換された。
1.基本レポートの内容
- ① 大陸との交流の重大なテーマして、徐福の渡来を取り上げた。日本の徐福の情報は曖昧な『伝説』しかないが、中国には史記に複数の記述があり、徐福村が発見され事実と認められている。弥生人=倭人が徐福由来のものか検証した。
- ② 縄文時代から弥生時代への変化は、急激で極めて大きく、人口・人種(体格・骨格)・言語・水田耕作・墓制・武器・土器の変化を示した。
- ③ ここで掲げた人種(人骨)・墓制(甕棺)・米の品種(水田稲作)についてそのルーツを辿り、その可能性の残された範囲が、全て山東半島の付け根の部分の「斉の国」に重なることを示した。更に、倭人:弥生人のY遺伝子と見られる遺伝子を持つ「陳」一族が、その時期に居たのも「斉の国」と明らかにした。この範囲に、徐福村が存在する。 但し言語に関しては、多言語国家の中国では消失した言語が多く、日本語のルーツは辿れないとした。
- ④ 人口の増加に関しては、定説となっている小山修三の人口理論に準拠すると、論文発表以降に発掘された大量の数の遺跡など加味して、見直しを計ると、魏志倭人伝の示す人口が「多大過ぎることは無い」ことを示し、弥生時代の急激な人口増加を改めて示した。更に新たな人口拡大モデルを作りシミュレーションを行うと、縄文の村が消え弥生の村が拡大し、弥生の言語が母国語となる過程が示された。縄文人・弥生人の二重構造論の通りとなる結果が示された。
- ⑤ その外、一時期に多数の人の渡来を可能とする大型帆船の建造を可否も、中国に同時期の大型造船遺跡があることから、可能であったことをしめした。又、倭人:弥生人が渡来当初より漢字を使用できたことを示す考古学的資料(硯と文字付土器)が存在することを示した。
- ⑥ 結論:縄文時代から弥生時代の急激な変化の人種的・文化的ルーツが中国山東半島付け根の「斉の国」にあり、中国側の文献・考古資料とも一致し、徐福一行が、日本人のもう一つの起源になったことを事実で確認できたとした。
2.意見交換
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スケールの大きい徐福論であるが、これを機会に、検討する必要がある。外にこのような論を立てている人はいるのか?との意見と質問が有った。
- ✧ 丸地→他の徐福論者は、単に徐福が来たとの伝説と中国の情報だけで論を立てていて、証拠らしい証拠を出して説く人はいない。
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徐福と多数の人が日本に来たならば、漢字・漢文の文化が5-6世紀以降になるのか、解せない?
- ✧ 丸地→今までの歴史家は、漢字伝来は5世紀以降と云っているが、硯が弥生時代から複数出土していること。倭人伝にも、倭人が文字を使っていた証拠が有るので、今までの歴史家の見解が、間違っている。
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徐福に関する本2冊を紹介する。① みほじろう小説 ②中公新書「倭国」岡田英弘
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✧ ②は、越人が山東半島に移動し、更に朝鮮半島南岸に移住し、九州・日本へ入り、倭人となったと紹介。
- ➢ 丸地→②と同様の話は聞いているが、朝鮮半島から日本へ移住したことに関しては、今回の話とは違いがある。丸地は、徐福一行が日本各地に移住する時に、一部が、朝鮮半島南部に上陸した。朝鮮半島南部から日本へ移住したのではない。と違いを説明。
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✧ ②は、越人が山東半島に移動し、更に朝鮮半島南岸に移住し、九州・日本へ入り、倭人となったと紹介。
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今日の話は説得力が有った。日本書紀・古事記は、天皇一族の正当化の為に、それ以外のことは、卑弥呼と徐福の到来などのことは、抹殺し、有っても偽書としたと考える。 言語の問題が残る。夏や殷の文明を持つ人々ならば、漢字などを知っていたはずなのに、日本書紀・古事記は、漢字伝来を後の時代として、天照大御神など以外、以前の情報を抹殺した勝ったために、知っていたにも拘らず、書かなかったと思います。稲作の伝来の話も、そうだと思う。
- ➢ タミル語は日本語と本当に類似している。大野晋氏の説は、無視できない。中国の南からインダス文明・タミル語へ行ったとの話が有ったが、それは無い。インドと日本を結ぶ過程に、どのように、越・雲南・チベットなどが入るかを解明する必要があると考えている。
- 徐福が出発した斉の国、その終末期に斉を支配していた「田」氏の発音は、天孫族の「天」と極めて近い。「田」氏を支えた「国」と「高」の二つの一族が居るが、天孫族=天=田ならば、国津神と「国」との関係になぞえられ、面白い。
- この話は、方法論から云って、この徐福の話は、物証が無い話だ。出た処、入った処(大陸側・日本側に)物証が無い。色々と話をしてくれたが、ビジネスの世界では、皆、風評の類のことで説得力はない。議論の対象にはならない。日本側に物証がない。古事記・日本書紀にも繋がらない。土器の編年の積み上げがあるが、そこにも物証が出てこない。ここをクリアしないと議論が進まない。
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今進んでいる技術・解析の手法から見ると、どうかな?と感じるものが有る。
- ✧ Y遺伝子で話をしているが、ゲノム解析の結果では、凡そ4万年から日本に人が居て、単一ルートでは無さそうで、9千年前から3千年前まで混血が行われていた。更にその後に混血が進んだとされている。斎藤成也氏などの解析がそう言っており、一時期に、ドサッと人が来て混血したとの解析は出ていない。スパコンを使った解析結果がそう出ているので、それを論破するためには、同レベルの内容・論拠で行う必要がある。
- ✧ もう一つは、稲作に関して。稲作に関しては、佐藤洋一郎さんのようにDNAを使って研究されている。水田が現在のように広がっている景色は中世になってからで、それまでは水田が主力ではないし、ある時までは、陸稲が主体だったはず。縄文人・弥生人のDNAを調べて行くと、食料事情としては、殆ど変わりがない。食べ物は同じだとすると、シミュレーショで示されていた縄文人と弥生人の自然増加率の違いは出ないはずだ。
- ✧ 斎藤成也・佐藤洋一郎の両氏が言っているように、今や、形態から論ずる理論は、もう古いんですよと。 お二人は、あからさまに言っていますので、DNAで勝負する時代です。
- ✧ コンピュータの能力のアップは著しく、最新のコンピュータで出された結論を使うべきで、否定するならば、同じようにコンピュータで出た結果で否定すべきで、古い形態学を使う論拠は、説得力がない。
- ➢ この意見に対して:丸地が反論
- ✧ 根拠が無いと云われることに異論あり。根拠を示して、説明した筈。
- ✧ 土器について:弥生土器は弥生人がもたらしたもの。現在の考古学では朝鮮半島から渡来としているが、見方が違う。日本と朝鮮半島で同じものが出土した時に、理由なく、朝鮮半島からの渡来としたもので、X地点から2か所に渡来したとの見方を検討すべきで、徐福論では、朝鮮半島と日本に同時に渡来説を説明。
- ✧ ゲノム解析について:3段階渡来説は承知しているが、ゲノム解析の場合には、モデルを設定し、解析を行うが、そのモデル設定の正しさとその結果を、正しく理解する必要がある。理解をしないで、発表者の言う結論を信じるのは、神を信じるのに似ている。数年前にも沖縄にゲノム解析したとする発表が有ったが、誤ったモデル設定により、誤った結果を得たもので、ゲノム解析の危険性を知った上で、判断すべき。
- ✧ 稲作について: 佐藤洋一郎氏の書籍も一部におかしな記述がある。中世以降に初めて現代の水田のイメージに合う水田耕作が行なわれたとの説は、注目すべきもので、正しい。縄文人と弥生人で食糧事情に差が無いとは言えず、弥生時代の甕棺墓の研究では、弥生人の人口増加率は大きく変わったことが出ている。「弥生人がたらふく米を食べられた」ことは無いが、縄文以来の食料に水田の米と雑穀が加わり、食糧事情は好転したことは明らか。
- ➢ 反論へのコメント
- ✧ 丸地の論は、針の穴を通すような理論で、ビジネス感覚では、納得できない。ビジネスをやって来た人で、信じる人は居ないだろう。
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この徐福論は、一時期の渡来ではなく、弥生時代とそれ以降に渡来した複数の、沢山の「渡来」を合わせた結果として見るならば、理解できる。とのコメント
- ➢ 丸地→ 一時期の渡来だとして説明した。多数回の渡来の結果ではない。
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日本語の観点から言っても、夏王朝に繋がる徐福が日本語を話していたと思えない。徐福一行の中に南方系の人々が多く居て日本語をもたらしたと考えるならば、可能性はある。
- ➢ (日本語は何処からきたものと考えますか?との質問に)日本語は、南方:インドから来ていると考えている。大野晋氏の論は否定できない。
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➢ 南インドに行ってきたしトンガルの祭りも見て来た。インダス文明も見て来た、更に中国の禹公の墓にも行って来た。6カ月後ならば、まとめて話しても良い。
- ✧ 6カ月後の解明委員会で話してもらうこととした。
- 時間が超過したため、5時近くなり、議論は収束しないまま、終了とした。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
- 大陸との交流 「徐福論」 解明委員会⑦ 基本レポート
- ➤ 資料✧大陸との交流 「徐福論」
- 大陸との交流「徐福論」PDF