最終更新日:2022/02/24


古代史を解明する会(解明委員会)

活動記録 バックナンバー 1

2.「日本人の起源」(2021年1月23日)

議事は、

等枠組みを示した。

今後は、特定のテーマを定めて、開催して行くこととなった。

解明委員会は月1回のペースを予定しているが、当面はこれ以上の回数は難しい。

次回(日本人の起源は)7月で、テーマは「沖縄の古代歴史の真実は?」と決定。

丸地が基本レポートを行うこととした。

◆ 動画と資料

3.「弥生時代から古墳時代」(2021年2月27日)

2021年2月27日第3回解明委員会(テーマ:弥生時代から古墳時代)は、13:00~15:50分オンラインで開催された。出席者13名。

議事は
  1. 1) 丸地より「弥生時代から古墳時代」の基本レポート説明が行われた。1時間50分。
  2. 2) 山内氏より「-論点-」の提示が行われた。
  3. 3) 説明・提示に付き、意見が交換された。
  4. 4) 次回以降のテーマ・発表者が選定された。
1)の基本レポートの内容
2)の論点の内容
  1. 國際情勢(大陸・半島の動向)との関係
  2. 小国家の形成・倭国登場(~2C)
  3. 大和王権
    纏向の状況 北九州との関係 出雲との関係 半島との関係
    大和王権の実像 通説よりはるかに強大な軍事・経済力、権力

について資料を見せ、説明。

3)意見交換
4)次回のテーマなど

テーマは、神武東征とし参加者から3者が話すこととなった。

  1. 古事記・日本書紀の違いなど論点・材料を提示。
  2. 自作の動画を示し、たたき台として出す。
  3. 20分ほどまとめ、話す。
動画と資料

4.「邪馬台国論」(2021年3月27日)

2021年3月27日第4回解明委員会(テーマ:邪馬台国論)は、13:00より15:50オンライン開催された。 出席者 14名。

資料配布
  • 基本レポートの資料36頁を、1週間前に委員会メンバーに、ネット配布。
  • 「邪馬台国論-論点 」とする資料を、前日にネット配布。
議事は、
  1. 1) 丸地より基本レポート「邪馬台国論」邪馬台国の探し方の説明が行われた。時間は1時間30分。
  2. 2) 山内氏より「-論点-」の提示と説明が行われた。約20分
  3. 3) 説明・提示に付き、意見が交換された。
  4. 4) 次回以降のテーマ・発表者が選定された。
1)の基本レポートの内容:

*邪馬台国論に関しては、江戸時代から300年検討されてきたが、答えが出ない。従来と同じような方法で検討しても、同じ結果が予想される。距離・方位だけでない探し方を提示し、検討する。

*基本レポートに入り、

  1. 1) 魏志倭人伝より後の中国史書の資料批判を行った。
    1. ① 邪馬台国vs邪馬壱 問題の解明を、史料批判と文献整理により行った。
    2. ② 後漢書・宋書・梁書・隋書の史料批判を行い、魏志と異なる部分に関して、新規情報に基づいて記述されたと推察できないため、信憑性に欠けることが示された。
    3. ③ 梁書・北史・翰苑・太平御覧について、信憑性が無いことが具体例をもって示された。
  2. 2) 魏の公式使節について検討を行った。
    1. ① 漢の時代・三国時代の事例を検証して、魏の使者の人員規模を推定した。500名から数千人規模と推定
    2. ② 中国国王が派遣した正式の外交使節としての、目的を明示し、一般的な外交使節訪問の計画立案・配慮すべきこと、相手国との情報交換など、使節団の概要を検討した。
    3. ③ 倭国側の対応・待遇について検討し、最恵国待遇を想定した。
    4. ④ 魏の使節のコース設定を検討
      • ☑ コース検討には、倭国の情報提供や最適コースの提案もあったと推定。
      • ☑ 複数の大型帆船の使用を推定
        • ➤ 当時の中国の帆船の規模、実績、造船遺跡から大型帆船の規模を推定。
    5. ⑤ 魏の使節が、邪馬台国の女王に面会しなかったとする説は、有り得ない、意味のない説であることを検証。
  3. 3) 人口論
    1. ① 小山修三氏外の人口論では、弥生時代の人口:九州で10万人とされるが、倭人伝の戸数から推定される人口50万人以上との記述を見ると、倭人伝の記述は、誇張が過ぎる、虚偽だとする説について検証。
      • ☑ 小山修三氏の理論的根拠が、当時発見されていた遺跡数・密度と規模に準拠していたことを示し、1978年当時の北九州の発見遺跡数と現状の遺跡数の大幅な増加を考慮すると、50万人は誇張・虚偽とは言えないことを検証。
  4. 4) 魏の使者の旅程検討の留意事項
    1. ① 使節の規模検討から、500名以上の団員規模を前提とすること。
    2. ② 大型帆船で九州に到来。
    3. ③ 事前に、魏側と倭国側で十分な計画が練られた安全で最適なコースが練られたこと。
2)論点の内容
  1. 国際情勢と「倭国」をめぐる戦略環境 ・・・・・・ 魏の対呉戦略
  2. 『倭人伝』 編纂の背景 ・・・・・ 司馬懿の功績・晋の正統性の強調
  3. 『倭人伝』 
    1. ① 原文解釈の壁-中国専門家の解釈との齟齬
    2. ② 景初二年・三年問題
    3. ③ 上陸地
    4. ④ 「女王卑弥呼」に対面せず?
    5. ⑤ 張政の派遣 ・援軍要請 ・卑弥呼の死 ・その後の倭国の動向
3)意見交換
4)次回のテーマなど

以上でこの日の解明委員会は終了。

動画と資料

5.「科学的年代測定法とその適用」(2021年4月24日)

第5回解明委員会(2021/04/24)は、「科学的年代測定法とその適用」をテーマとして 13:00 より Zoom オンライン開催された。出席者は15名。

1)基本レポートの内容
  1. 年輪年代法は、奈文研の光谷拓実氏が発表してきたが、
    1. ① 使っている標準パターンが二種類あるが、内、旧パターンは間違っており、新しい木曽系新標準パターンは合っている。
    2. ② 旧パターンを使って多くの発表が行われているが、測定値が記録と100年違い、間違っている。
  2. 記録と測定値が違う例を上げて説明を行った。
    1. ① 法隆寺の心柱
    2. ② 元興寺禅室の部材
    3. ③ 紫香楽宮跡出土の柱根
    4. ④ 法起寺三重塔ヒノキ心柱
    5. ⑤ 東大寺正倉院 壁材
  3. 鷲﨑の指摘に対して、2019年5月に講演会で光谷氏が反論した内容を示し、説明を加えた。
    1. ① 新築と移築の論争
    2. ② 100年前の古材の利用
    3. ③ 100年分の外周を削り出す利用方法
      • ☑ いずれも、反論にならないことを、資料を使い説明。
    4. ④ 炭素14年代測定法と整合性があること
      • ☑ 反論で使った年代測定法で使った較正曲線に、新しい較正曲線Intcal20で適応し直してみると、間違いが明確。
    5. ⑤ 適用したパターンを示し反論
      • ☑ 示されたパターンは、単なる断片的な図で、データが全く示されていない。
    6. ⑥ 木材の部材取りを有効に行ったとすれば、問題解消する
      • ☑ 部材取りの仕方を複数の図で説明し、光谷氏説明の方法が成り立たないことを説明。
  4. 以前に行われた新井宏氏との論争、2019年の光谷講演の資料などについて経緯や内容と結論を紹介した。
2)情報提供と事前のメール交換
  1. 「IntCal20」に基づく年代較正については、ネット上に「較正年代とそのグラフが出力される便利なサイト」があるとの情報が提供された。
  2. そのサイトを使い、池上曽根遺跡と纏向遺跡のモモ核の両遺跡のデータについて、検討を行った。
  3. 纏向のモモ核に関しては、名古屋大の中村俊夫氏の発表データでは、AD136~232年の長い期間(96年間)の年代推定になったが、そのサイトで、Intcal20を適用してみると、AD212~243年(31年間)と巾の狭い期間となった。年代帯は、後にずれた。但し、誤差の巾の取り扱い方により、年代の巾に大きな違いが出て、一概に決めつけられないことも判った。
  4. 池上曽根遺跡に関しては、柱自体の計測では無く、近くに有った小枝を計測したと云う問題がクローズアップされた。
3)意見交換
4)次回のテーマなど

5月22日予定の「古事記・日本書紀・風土記の世界」では、文献史料の全体を取り扱うのではなく、

  1. ① 日本書紀にある一書の取り扱い
  2. ② 日本書紀本文でスサノオの子が大国主命とされるが古事記などでは違う

この二つの特定テーマに絞ります。基本レポート:「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」と「一書と天孫族・出雲族の系図」を使用予定。
https://nihonkodaishi.net/info-research/pdf/kaimei/shiryou210522.pdf

6.「一書と天孫族・出雲族の系図」(2021年5月22日)

2021年5月22日第6回解明委員会(テーマ:一書と天孫族・出雲族の系図)は、13:00より16:00オンライン開催された。 出席者 13名。

資料配付
  • 基本レポートの資料41頁を、2週間前に委員会メンバーに、ネット配布。
議事は、
  1. 1) 丸地より基本レポート「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」及び「一書と天孫族・出雲族の系図」の発表・説明が行われた。約2時間。
    • 喉の調子が悪く、度々咳込み、聞き苦しいことが多かった。(申し訳ございません)
  2. 2) 発表・説明を受けて、意見が交換された。
1.基本レポートの内容
① 今回のテーマに関して
  • ☑ 古事記・日本書紀など文献史料の全体を取り扱うのでなく、日本書紀の本文に「スサノオと大国主命は親子関係」と記されていることの真偽を主に取り扱った。
  • ☑ 史料批判に先立ち、「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」を明らかにし、議論の基盤とした。
  • ☑ 又、日本書紀の本文と一書(異伝)の関係を明確にした。
② 古事記・日本書紀の編纂指示・編纂完了時、巻数など基本的な事項を取りまとめ紹介
  • ☑ 現代の歴史家の評価を紹介。
    1. 古事記:日本国内向け・天皇家の歴史書
    2. 日本書紀:中国を意識した外国向け正規の日本史書
  • ☑ 日本書紀の記述の特色を挙げた。
    1. 神代上下2巻は、例外的に紀伝体で記述。
    2. 本文に加えて、異説を一書として入れたが、その量が異常に多量で、一書を抜いては、全体の意味が捉えられない、奇妙な状況になっていること。
  • ☑ 本文と一書
    1. 本文の文字数が、25%で一書のそれが75%と、一書の割合が高いこと。
    2. 本文に対して、4-5(最大11)の一書が記されていること。
  • ☑ 登場人物(神)などを古事記・日本書紀の本文・日本書紀の一書に分け一覧表の表示を行い、その違いを明示した。(可児さんの資料が、大いに役立った)
③ 天孫族・出雲族の系図の差異を示した。
  1. 日本書紀・本文では、「スサノオと大国主命は親子関係」と記した。
  2. 古事記では、スサノウの6代の子孫が大国主命で記された。
  3. 世代数の差が大きく、古事記等に記された多くの出雲系の人々の名前が、日本書紀では消し去られた。更に、出雲に関わる神話が削除された。
  4. 日本書紀では、削除された出雲系の人々の名称は、一書として、多くは記述された。
  • ☑ 日本書紀の本文については、信ぴょう性に疑念がだされた。
④ 日本書紀は「中国を意識した外国向け正規の日本史書との評価」について検討
  1. 中国の正史:新唐書と宋史にある日本に関する記述から、日本書紀との整合性が見られるか検討した処、古事記の記述が引用されており、日本書紀の記述は引用されていないことが確認された。
  2. 日本書紀は、外国を意識した日本の正史などの評価は、実質上、適切では無いことが判明した。
⑤ 日本書紀の信ぴょう性について
  1. 一例として、神功皇后紀について取り上げた。
  2. 日本書紀の一巻の全体が神功皇后に充てられた。(異例のこと)
  3. 日本書紀に記された神功皇后の事績は、外国の(中国・朝鮮半島)歴史書と対比できるものが有り、年代などから信ぴょう性の検討ができる。
  4. 古事記・中国と半島の歴史書と比較し見ると:
    • ✧ 年代が120年前のことや60年後の外国関連の出来事を意図的に取り込み、虚偽の記述をしていることが判明。
    • ✧ 古事記では、子の応神の時代として記述が日本書紀では、神功皇后の時代として記述されるなど、相違があり、疑念がある。
  5. 神代上下、神功皇后記の双方で、歴史的事実とは異なる記述が、意図的に組み込まれており、日本書紀の記述は信ぴょう性に欠けることが、明白になった。
⑥ 日本書紀から消された出雲系一族が、一書で復活している理由について
  1. 古事記・日本書紀の大和朝廷成立時の、天皇の婚姻関係、最高執政官を確認すると、天皇家及び政権担当者には、出雲系が極めて多いことが判る。
    • ✧ 神武・綏靖・安寧天皇の正妃は、事代主の娘・孫娘
    • ✧ 孝昭天皇・崇神天皇・景行天皇の正妃は、事代主の姉妹の天道日女命の子孫
  2. 日本書紀が完成し、披露された時に、「消された出雲一族」を知った出雲の血を引く、天皇一族、政権首脳、政権有力者も多かったと推定する。
    • ✧ その場合、「消された出雲一族」の反発が大きかったと推定される。強固な抗議が上がり、日本書紀が認めない動きが出たものとも考えられる。
    • ✧ その抗議を押さえるために、本文を否定する(消された出雲一族を復活させる)一書を書き連ねることで、妥協を図った結果が、現在残る日本書紀と推定される。
    • ✧ 従って、編纂者を示す前文も破棄され、別巻の系図も伝えられない事態になったと推定する。
⑦ 結論
  1. 日本書紀の本文は、信ぴょう性に欠ける。
  2. 神代上下巻の本文の内、一書で否定されている文章は、誤りである可能性が高く、一書の記述の側が正しい可能性が高い。
  3. 日本書紀・神代に記された「スサノオと大国主命は親子関係」は誤りで、古事記の記述の信ぴょう性が高いと判断する。
⑧ 付記 津田左右吉氏の神話の時代に関する認識について
  1. 日本書紀を検討する上で、役に立ったのが津田左右吉著「古事記及び日本書紀の研究 建国の事情と万世一系の思想」
  2. その中で、古代人とその伝承について「深刻な認識の誤り」を発見した。
  3. 津田左右吉は、文字が応神朝:4世紀後半に伝えられる以前の日本は、「とくに文化程度の低い時代」と評し、
    • ✧ 「暦の知識も無く」、「年数も伝えられず」、「口碑は事件の順序が混乱し」、「事件の物語が精密でなかったり」する。
    • ✧ シナ語(漢字・漢文)は、日本語と性質が異なり、学ぶことが困難で、日本語を表記し難く、数百年の困難な学習期間を経て、8世紀に初めて記紀がやっと成立した。
    • ✧ 魏志倭人伝にも言及し、文字がつかわれた痕跡は、女王の上奏文にあるが、これも、文字の判るシナ人に書かせたものと断じて、倭人・日本人の文字使用を否定。
  4. 津田左右吉氏は、神話の時代は、『伝承が信頼できない時代』と考えていたことが判る。
  5. 文字が弥生時代に使用されていた証拠があること
    • ✧ 魏志倭人伝には、魏からの詔書・檄文など多くの文書が魏から倭にしめされた事、税制・賦役、法律の存在、港での文書と品物の対応点検など、倭人が文字を使った証拠が挙げられること。
    • ✧ 文字を使った証拠である「硯」の遺物の発掘の発表が相次ぎ、北九州だけでなく、山陰から近畿など広範な地域で出土している。
  6. 津田左右吉の古代人についての認識は、誤っていることが実証された。
    • ✧ 神話の時代は、『文字が使えた文化レベルの高い時代』であり、『伝承が信頼できる時代』であることが判明した。
    • ✧ 津田左右吉の誤った認識は、現代の歴史家の常識となっている可能性が高く、深刻な問題である。
2.意見交換
  1. ① 津田左右吉の認識違いには、納得。
    • ✧ 津田左右吉の考え方は、歴史を学ぶ皆さんに刷り込まれていることに要注意。
      • ✧ 考え方としては、ひどいもの。
    • ✧ 卑弥呼の時代に朝見したが、殺し合い・戦争をやっている司馬懿仲達達が、文字も知らない蛮族に、金印・詔書など渡す訳がない。
  2. ② 日本書紀などを、ねつ造だとか、否定する人が居るが、国譲りの話、神武東征、欠史八代、神功皇后など色々ある。各々、理屈とか、事実などで裏付けがあり、神功皇后の場合も半島の方に記録もある。 国譲りの場合、崇神天皇の時に、神宝をよこせと云って、滅ぼすことが載っており、地方が歯向かったり、不都合が有った場合は、滅ぼすことが、普通の段取りだったはずにも拘らず、わざわざ、出雲の国譲りを書いたり、途中で消したり、修正かけたり、大事として書かなければいけない理由は、何故だろうか?皆さん、どう思いますか?
    • ✧ 出雲に関しては、銅鐸など考えると、王朝まで行かなくても、かなりの勢力圏があって、そこから、譲り受けた訳で、皆殺しにした訳でなく、禅譲したとか、代替わりをして、譲り受けたたわけで、大和王権の正当性を語るために、出雲についてあれほど、書かなければいけなかったと云うのが、その時代のコンセンサスだったのではないのか?
    • ✧ 出雲神話は、天孫族の海彦・山彦の話に比べ、活き活きとして、沢山・長い話ですね。この話を何故書かなければいけないのか? これは、気になる所。
    • ✧ 出雲の勢力は、一大勢力で、それだけの力を持っていた。天孫族が支配権を確立するために、目の上のタンコブと云うか、それまでの勢力として一番重要だったわけで、それを支配下に置いたと云うことは重要なことで、又、その勢力がその後も影響力を持ち続けたためではないか? 先週も講演会が有ったが、長野県の建御名方神の勢力は、諏訪でずっと勢力を持ち続けたことが話された。建御雷神は鹿島へ行き、対蝦夷の最前線を保った。関東近辺は氷川神社を始め出雲系の神社だらけで、出雲の勢力は、大和王権にとって、無視できない、宗教的にも重要な勢力だったからこそ、出雲の記述が多くなったのだと考えている。
    • ✧ 出雲勢力は極めて大きかった。中国・四国・近畿・中部から関東まで広がっており、関東は出雲系だらけ。鹿島・香取だけが天孫系でそれ以外は全部、出雲系と云って間違いない。建御名方神の諏訪神社も越後では圧倒的で、秋田まで広がっている。神武東征の直前まで、出雲系が全国を支配していた。大和朝廷の初期の時代は、天孫族は非常に少なく、位置的には微妙。天孫族は極わずかで大和に入り、大和を制した。ごくわずかな数の天孫族で、多くの出雲族と出雲族に所属していた饒速日命の系統が、天孫族(天皇)の支配を支えた。ですから、出雲系を記紀に書かざるを得ない状況に有った。
      • ➣ これが、出雲神話を書かざるを得なかった理由と考えられる。
    • ✧ 越後のことを加えたい。弥彦神社も、主祭神が天香語山命で、出雲系とわかり、諏訪の出雲系、越後も出雲系、関東も出雲系、事代主も饒速日命も出雲系と判ると、天孫系はほんの一握りの勢力で来て、支配権を握ってしまったことになったと云うことになる。
  3. ③ 私個人は氷川神社の近くで生まれ育ち、辺りには出雲系の神社ばかりしか記憶にないのですが、天孫族・天照大御神を祀る神社は、どれだけあるのでしょうか?
    • ➣ 伊勢神宮の系統がありますが、天皇は殆ど、伊勢神宮には参拝していない。
    • ➣ 云われているほど、天孫族は広がっていなかったのでは?
    • ➣ 安本美典氏・寺沢薫氏が云うには、纏向は、鉄器の出土は少なく、九州に多い。大和朝廷成立後も、九州の方が出土する割合が多い状況がある。天孫族が九州から東征したのならば、鉄をいっぱい持って来たはずなのに、何故、畿内に、鉄の出土が少ないのだろうか? 天孫族が支配したとしても、出雲系が強かったのではないかと考える。
  4. ④ 天孫族を祀る神社が、九州では多いが、中国四国より東は、出雲系ばかりが目立つ。とは言え、関東などが、最初から出雲系であったとは云えない。関東にはいわゆる戦傷遺跡は無いが、弥生時代後半の環濠集落が出土し、その集落の多くが焼け落ちている集落が多くある。大国主命の神話では、日本全国を支配下に置くために、生涯の多くの時間を遠征に使い武力をもって支配下に置いて行ったとある。焼け落ちた集落もその時のことを物語っているのではないか? 大国主命とその前の数世代で、日本全国を遠征し、支配下に置いて行った結果として、出雲系神社が、日本全国に多く分布するのだろうと考えている。
  5. ⑤ 神社の系統から云うと八幡神社が重要で応神天皇(神功皇后の子)を祀っている。関東でも八万神社が多い。もう一つ重要な神社は稲荷神社。秦氏を祀っている。秦氏をどう理解するかも重要なことではないか?
4.最後に
動画と資料~「日本書紀・古事記・風土記の世界」の基本レポート
➤ 動画 YouTube 動画リンク
  • ✧ 「古事記・日本書紀の成り立ちとその違い」及び「一書と 天孫族・出雲族の系図」
    https://youtu.be/AqGINNxuuGI
➤ 資料

7.「大陸との交流『徐福論』」(2021年6月26日)

2021年6月26日、第7回解明委員会(テーマ:大陸との交流「徐福論」)は、13:00 より 17:00 までオンライン開催された。出席者9名。

資料配布
  • 基本レポートの資料43頁を、6月14日に、2週間前に委員会メンバーに、ネット配布。
議事は、
  1. 1)丸地より基本レポート「徐福論」を発表。
  2. 2)発表・説明を受けて、予定時間を越える活発な意見が交換された。
1.基本レポートの内容
  1. ① 大陸との交流の重大なテーマして、徐福の渡来を取り上げた。日本の徐福の情報は曖昧な『伝説』しかないが、中国には史記に複数の記述があり、徐福村が発見され事実と認められている。弥生人=倭人が徐福由来のものか検証した。
  2. ② 縄文時代から弥生時代への変化は、急激で極めて大きく、人口・人種(体格・骨格)・言語・水田耕作・墓制・武器・土器の変化を示した。
  3. ③ ここで掲げた人種(人骨)・墓制(甕棺)・米の品種(水田稲作)についてそのルーツを辿り、その可能性の残された範囲が、全て山東半島の付け根の部分の「斉の国」に重なることを示した。更に、倭人:弥生人のY遺伝子と見られる遺伝子を持つ「陳」一族が、その時期に居たのも「斉の国」と明らかにした。この範囲に、徐福村が存在する。 但し言語に関しては、多言語国家の中国では消失した言語が多く、日本語のルーツは辿れないとした。
  4. ④ 人口の増加に関しては、定説となっている小山修三の人口理論に準拠すると、論文発表以降に発掘された大量の数の遺跡など加味して、見直しを計ると、魏志倭人伝の示す人口が「多大過ぎることは無い」ことを示し、弥生時代の急激な人口増加を改めて示した。更に新たな人口拡大モデルを作りシミュレーションを行うと、縄文の村が消え弥生の村が拡大し、弥生の言語が母国語となる過程が示された。縄文人・弥生人の二重構造論の通りとなる結果が示された。
  5. ⑤ その外、一時期に多数の人の渡来を可能とする大型帆船の建造を可否も、中国に同時期の大型造船遺跡があることから、可能であったことをしめした。又、倭人:弥生人が渡来当初より漢字を使用できたことを示す考古学的資料(硯と文字付土器)が存在することを示した。
  6. ⑥ 結論:縄文時代から弥生時代の急激な変化の人種的・文化的ルーツが中国山東半島付け根の「斉の国」にあり、中国側の文献・考古資料とも一致し、徐福一行が、日本人のもう一つの起源になったことを事実で確認できたとした。
2.意見交換
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
大陸との交流 「徐福論」 解明委員会⑦ 基本レポート
➤ 資料✧大陸との交流 「徐福論」
大陸との交流「徐福論」PDF