古代史を解明する会(解明委員会)
活動記録 バックナンバー 7
- 「文献と考古資料の対応:天孫降臨・日向三代」をふまえての意見と議論(2024/02/10)実施済
- 「日本神話」について (2024/04/06)実施済
- 「文献と考古資料の対応:出雲国譲り」(2024/05/04)実施済
- 「文献と考古資料の対応:神武東征」(2024/06/08)実施済
- 「記紀編纂の目的他」 (2024/07/06)実施済
(2024/07/09 New!) - 「文献と考古の対応:神話の時代全体」(2024/08/10)実施済
(2024/08/18 New!)
38.「文献と考古資料の対応:天孫降臨・日向三代」をふまえての意見と議論(2024年2月10日)
第38回古代史を解明する会は 2024年2月10日 13:00 よりオンライン開催された。出席者9名
- テーマ
- 「文献と考古資料の対応:天孫降臨・日向三代」をふまえての意見と議論
2024年1月の報告「文献と考古資料の対応:天孫降臨・日向三代」が時間の都合上、質疑時間が取れなかったため、意見発出と質疑応答が行われた。
- <構成>
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- 丸地三郎氏による1月報告のまとめ
- 質疑応答
<1 丸地三郎氏による1月報告のまとめ>
略(37回報告をご参照)
<2 質疑応答>
- Q 北部九州が古代史の中心なら、鹿児島等の史跡はどう位置づけるのか?
- A 甕棺等の所在を見ると、天孫族は熊本以北にいたと考えられる。
- Q 宮崎の史跡・伝承は後に作られたということか?
- A 江戸時代に創作されたと思う。かつて宮崎の県令が調べたが古いものがないことが分った。
- Q この説は、先にストーリーを作って記紀をそれに合わせて解釈を変更しており、論理的におかしいのではないか。また魏志倭人伝の卑弥呼と倭国大乱の関係はどうなるか?アマテラスは天武朝の政治情勢でつくられたとか、伊勢神宮に天皇が参拝していないとか、アマテラスはもともと男性だとかいうこともある。
- Q 出雲族、天孫族の定義も慎重に行うべき。
- Q 天孫族と出雲族の鉄の生産量は全体生産量が同じだからといって、一箇所での量は同じとは限らない。日露戦争時はロシヤの国力が勝っていたが、戦争は日本が勝った。
- Q 天孫降臨と邪馬台国の関係は?
- A 倭国大乱は3世紀の220年頃。神武東征後の北部九州の留残部隊が邪馬台国。よって記紀には書かれない。
- Q 邪馬台国は北九州勢力だが、神武は中国から来た可能性はある。
- Q 卑弥呼=アマテラス説はどう考えるか?
- A 同一人物なら記紀に書かれるはず。また時代的にも合わない。
- Q 邪馬台国は国邑に過ぎない。倭国として考えるべき。
- Q 天孫族に他の地域に同調者はいなかったのか?
- A 全国に天孫族は広がっていた。その後出雲族が来て戦争になった。南部九州は縄文人がいて、弥生人は入っていけなかった。
- Q 古代史復元には文献批判をもっとすべき。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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「文献と考古資料の対応:天孫降臨・日向三代」をふまえての意見と議論 115分
https://youtu.be/GFFQMhMB2w0
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「文献と考古資料の対応:天孫降臨・日向三代」をふまえての意見と議論 115分
- ➤ 資料
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- 「第38回『質疑応答・意見交換会:文献と考古資料の対応』」 丸地三郎氏 PDF約 7MB
39.「日本神話」について(2024年4月6日)
2024年4月6日 13:00 よりオンライン開催された。出席者9名。
- <テーマ>
- 「日本神話」について
- 日本書紀と古事記の概要、両者の相違点
- 「日本神話」のストーリー
- 「日本神話」の成り立ち 固有の文化+南方・北方系要素の三層構造
- 「日本神話」研究史、主要な研究者
- <構成>
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- 清水徹朗氏による「日本神話」の解説
- 質疑応答
質疑応答
- 日本書紀に対する反対勢力が古事記が編纂した?
- 不比等が日本書紀のプロトタイプとして古事記を作らせた。日本書紀の完成度を高めるため。
- 卑弥呼は誰かを編纂者は知っていたが、そのまま書くと書紀の改竄がばれてしまうので曖昧に書いている。
- 住吉大社の「住吉」を現代中国語読みすると、「zhùjí(ツーチ)」、上古音で「dɪugkiet」となる。月読と関係があるか?
- 書紀はいろんな人の意見を取り入れて政治的配慮をして編纂したため、このようになった。
- 伊勢神宮に歴代天皇が参拝していないという事実が、書紀が真実をそのまま書いていないという裏付け。
- 騎馬民族説があったため、日本神話が片寄ってしまった。古代朝鮮を研究すると騎馬民族説も天孫族半島渡来説もあり得ない。
- 津田説は,かなり的確であり、必ずしも記紀を全否定しているわけではない。
- 文献と考古学等を見比べると、新しい解釈が見えてくるはず。
- 百済からの渡来人が古代日本に与えた影響は見過ごせない。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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「日本神話」について」 68分
https://youtu.be/vRLqyapJ1vw
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「日本神話」について」 68分
- ➤ 資料
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- 「日本神話」について 清水徹朗氏 PDF 約 2.9MB
40. 文献と考古資料の対応:出雲国譲り(2024年5月4日)
2024年5月4日(土) 13:00 よりオンライン開催された。出席者9名。
- テーマ
- 「文献と考古資料の対応:出雲国譲り」
<構成>
- 1 丸地三郎氏による「文献と考古資料の対応:出雲国譲り」の解説
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- 38回 「文献と考古資料の対応:天孫降臨・日向三代」の振り返り
- ヒスイをはじめとする勾玉・管玉は北陸・越後から東北に広がっている
- 土器も八日市市遺跡を中心に東北まで交流があった。関東も含む
- 鏃で東北と北率の交流があったことが分る
- 北陸の高地性集落の遺跡、青谷上寺地遺跡、吹上遺跡、裏山・斐太遺跡は記紀のタケミナカタの逃走経路の記述と一致する
- 香取神宮・鹿島神宮はタケミカヅチ等が関東に全国平定に向かったという記紀の記述と一致
- 荒神谷・加茂岩倉遺跡は出雲国が敗北し祭器を埋納した事実と一致
- 2 質疑応答
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- 悲惨な史実を記載したくないため、記載しなくてもストーリーに違和感のないよう国譲りと天孫降臨の史実順を入れ替えて古事記が記述し、書紀が踏襲した。神武東遷の熊野灘遭難時も古事記の記載を省くという例もある
- 国譲りは、北部九州を除く中四国・本州全体における出雲族から天孫族への支配者交代の史実である
- 島根の玉造では、ヒスイではない玉を製作していた。三種の神器の勾玉もヒスイと思われる
- 記紀の神話の神名を個人名にあてはめるのが学問的に危険。特定の個人とまでとする必要はないのではないか。しかし寺澤氏の見解よりも神を特定の個人の活動とみなす方が説得力がある
- アマテラスの正体は複数の意見があった。2世紀の倭国の王の帥升とするもの。もうひとつは、中国の新の出先に朝見した漢書王葬伝中の東夷王(王墓は須玖岡本遺跡、帥升はニニギ)
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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「文献と考古資料の対応:出雲国譲り」100分
https://youtu.be/dNOO7z0bMyQ
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「文献と考古資料の対応:出雲国譲り」100分
- ➤ 資料
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- 「文献と考古資料の対応:出雲国譲り」 PDF 11.2MB
41.「文献と考古資料の対応:神武東征」(2024年6月8日)
2024年6月8日 13:00 よりオンライン開催された。出席者7名。
- テーマ
- 「文献と考古資料の対応:神武東征」
<構成>
- 1 丸地三郎氏による「文献と考古資料の対応:神武東征」の解説
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- 第40回「文献と考古資料の対応:出雲の国譲り」の振り返り
- 記紀をもとに神武東征の経過を振返り
- 岡田宮は、糸島付近から出発したことで妥当な滞在地
- 安芸のタケリ宮、吉備の高島宮とも当時は海岸近くだったので妥当な滞在地
- 近畿には高地性集落が多くナガスネヒコは神武を迎え撃つ準備をしていた。特に奈良付近は戦争を前提とした高地性集落が多い
- 高地性集落はのろしで情報を伝達でき神武を待ち伏せできたうえ、道が嶮強という記述から、進路の両側にある高地性集落から攻撃されたと解釈できる
- イツセはナガスネヒコによるアイヌの熊毒で射られた可能性がある
- 熊野沖で遭難し、兵がほぼ壊滅。武器や装備も失う
- 丹敷の首長を殺したのは、暴風雨で失った武器を奪うため。高倉下が首長の武器を発見し神武に渡し、首長を殺した。熊野市二木島町の祭りは遭難した神武一行を救出した史実を再現する神事。地元神社の主祭神は遭難した稲飯、三毛入野であり神武は祀られていない。地元も神武を無視しており、それは首長を殺したことが理由
- 神武一行は紀伊山中を踏破。直線でも100km。道が分らないので、川筋を遡ったか。この辺の川は夏は水量が少ない
- 山中の地元の支配者を策略で倒しながら兵と武器を集め最終的にナガスネヒコに勝利した
- 九州から近畿への技術移転がないから神武東征はなかったという意見があるが、神武が海難で、すべてを失ったので技術は移転できなかった。よって技術移転がないから神武東征がないとは言えない
- 2 質疑応答
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- Q1 神武東征の人数規模
青谷上寺地遺跡の出雲方死亡者数から考えて天孫族側は2~3000人。よって天孫族本体の軍隊は5~6000人。魏志倭人伝では一夫多妻制だから男性は人口の1/5。邪馬台国は50万人とすれば男性は10万人。よって神武東征は4万人程度が動員可能。最低でも5~6000人。中間をとって2~3万人。
- Q2 東征の時期
神武即位時期から逆算。即位は240~250年と考える。よって東征はそれ以前。
- Q1 神武東征の人数規模
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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「文献と考古資料の対応:神武東征」123分
https://youtu.be/my9dql79-fM
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「文献と考古資料の対応:神武東征」123分
- ➤ 資料
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- 「文献と考古資料の対応:神武東征」 PDF 5.0 MB
動画と資料
42.「記紀編纂の目的~古代史の復元にあたって」(2024年7月6日)
2024年7月6日13:00よりオンライン開催された。出席者7名
- テーマ
- 「記紀編纂の目的~古代史の復元にあたって」
<構成>
- 1 丸地三郎氏による「文献と考古資料の対応:神武東征」の解説
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- 記紀編纂の目的
- 記紀の比較等
- 出生(系譜)が明確でない神は改竄
- 書紀の天皇の年代の決定過程案
- 武力に依らない国土の統一
- 住吉三神の正体
- ヤマツミ神とは何か?
- 2 質疑応答
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- 天孫族の婚姻政策による領土拡大については同意
- 「オオ」という地名は、奥にある地名に使われる。例:日田→大分(オオヒタ)
- 神功以前の年代繰上げ 書紀の年と朝鮮の年のズレは若干不整合もあるものの面白い見解
- 紀年の改竄は雄略以前に限定されているとする見解も面白い
- 書紀は中国人が書いたが、古事記は誰が書いたのか? または誰が読めたのか?
- 古事記と日本書紀では、スサノオとオオクニヌシの間の世代が少ないと、考古学上の事象が発生する時間がなく合わなくなる。古事記は創作されている部分が挿入されているのではないか
- ホアカリの後世代がヤマトに行ってニギハヤヒになったとすれば、世代関係がスムーズになる
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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「記紀編纂の目的~古代史の復元にあたって」96分
https://youtu.be/l62cJEzhJkY
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「記紀編纂の目的~古代史の復元にあたって」96分
- ➤ 資料
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- 「記紀編纂の目的~古代史の復元にあたって」 PDF 2.84 MB
43. 文献と考古資料の対応「神話時代全体・年表」(2024年8月10日)
2024年8月10日13:00よりオンライン開催された。出席者9名
- テーマ
- 文献と考古資料の対応「神話時代全体・年表」
<構成>
- 1. 丸地三郎氏による「文献と考古資料の対応「神話時代全体・年表」」の解説
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- 解明の会(第34回から43回)で行ってきた研究の振り返り。天岩戸→天孫降臨→出雲国譲り→神武東征まで
- 記紀神話の解釈と系譜を一致させた年表制作
- 記紀神話の解釈を中国史書および考古学知見を一致させた年表制作
- 2. 質疑応答
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- Q1 タケミカズチはなぜ関東まで行ったのか?
- A1 出雲国を東西から抑えるために東の端へ行った。結果的に大和のニギハヤヒを東西から包囲した。大和の東側に高地性集落が並ぶのはそのため。
- Q2 出雲族と天孫族の争いは北部九州だけで行われたのか?
- A2 高地性集落が作られた時期が2回ある。出雲族が全国支配を試みた時期が前に存在。関東でもある時期から環濠集落や焼き討ちされた村があり、出雲が攻撃していた証である
- Q3 出雲族と銅鐸の関係はどうなっているか?
- A3 出雲族の支配の道具が銅鐸。銅の原材料がなくなると小銅鐸となり、土製銅鐸となる。
- Q4 南九州の遺跡や神社は史実ではないのか?
- A4 明治初頭に地元の知事が調査したが、古代に遡れるものは無かった。その証拠に延喜式には宮崎県の神社がのっていない。
- Q5 アマテラスが岩戸隠れの前後で性格が変わったにはなぜか?
- A5 アマテラスは、物語の語り手として登場している。途中でアマテラスが死亡しており、死後は物語の語り手として創作されたアマテラスであり性格が異なっている。
- Q6 天孫族が大和へ移った筈だが、甕棺をやめたのはなぜか?
- A6 神武が東征した際、熊野灘でほぼ全滅したので、習俗を引き継げていない。
- Q7 倭国の大乱は3世紀なのか?
- A7 桓霊の間は後漢書の記述に由る。しっかり裏付けもとられている魏志倭人伝には時期は書かれていない。その後に出た後漢書には桓霊の間の2世紀後半と時期を明示。新しい情報が無いのに、時期を特定した記述には信頼性がない。
動画と資料
- ➤ 動画 YouTube 動画リンク
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文献と考古資料の対応「神話時代全体・年表」 108分
https://youtu.be/MdrezyVC0Jo
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文献と考古資料の対応「神話時代全体・年表」 108分
- ➤ 資料
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- 文献と考古資料の対応「神話時代全体・年表」 丸地三郎氏 PDF 10MB