最終更新日:2023/06/12


古代史を解明する会(解明委員会)

活動記録 バックナンバー 4

20.「DNA・日本人の起源」(2022年8月27日)

2022年8月27日 第20回 古代史を解明する会「DNA・日本人の起源」)は、13:00 より 17:00 オンライン開催された。 出席者8名。

テーマ:「DNA・日本人の起源」
代表的な説を取り上げて、紹介してもらい、それについて検討することとします。
  1. ① 篠田謙一『日本人になった祖先たち~DNA が解明する多元的構造~』などの紹介 飯田眞理さん
  2. ② 斎藤成也氏提唱の「ヤポネシアゲノム」の紹介 丸地三郎
レポートの内容
① 篠田謙一『日本人になった祖先たち~DNA が解明する多元的構造~』

飯田眞理さんが、篠田謙一氏の著書『日本人になった祖先たち』を紹介した。

  • 下記3文献を紹介し、日本人が、朝鮮半島からと北方からのニ方向から流入・渡来したと紹介
    1. 山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書 2019
    2. 勅使河原 彰『縄文時代史』新泉社
    3. 安蒜正雄(あんびるまさお) 『旧石器時代の起源と系譜』 雄山閣 2017
  • その上で、篠田氏の説を紹介した。
質疑応答:
感想!今まで考古学等で云われてきたことがDNAでもみとめられており、リーズナブル。朝鮮半島からの人の移動示されているが、朝鮮半島にはいろいろな人達がいる。その中で、どの地域/クニから来たのか細かいことを知りたい。

→mtDNAでは日本も朝鮮も同じなのに、Y染色体では違う。特にDが異なる。不思議だ。朝鮮半島のDNAの解析が進むことが望まれる。

丸地より篠田著書紹介に疑問を呈する説明が行われた。(資料有り)
mtDNAに関しては、篠田著作では、多種のmtDNAが存在したと報告されてきたが、現在厳密に解析が行われた分析では、ほぼ、M7とN9の2種類しか検出されていないと云う異なった問題がある。そこで、篠田著作のmtDNAの報告自体に疑問が呈された。
② 斎藤成也氏提唱の「ヤポネシアゲノム」
  • 内なる二重構造を提唱し、3段階渡来論を展開していることを紹介。
  • 内なる2重構造論は、出雲一族とその影響の強い地域と、それ以外の地域差と見えることを、出雲族の勢力範囲と合致することを紹介。弥生渡来人にやや違いの有る二つの集団が有ったことが判った。
  • ヤポネシアゲノムの遺伝学データの取り扱いに、問題があることを示した。
  • 弥生渡来人にやや異なったグループが来たことが明確になったことは歓迎するが、3段階渡来説は成り立たない。
質疑応答:

韓国南岸の島から出土した6千年前の人骨のDNAに弥生人のDNAが混じっていたことをどう解釈するかなどに関する疑問がだされた。

mtDNAの解析方法とゲノムの解析方法の違いなど、様々な議論が行われた。

動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
  1. mtDNA篠田説 飯田真理プレゼン 55分
    https://youtu.be/g4ccwltOZgI
  2. 飯田氏の篠田謙一説プレゼンへの丸地コメント 38分
    https://youtu.be/83w_1z5pbIM
  3. ヤポネシアゲノム紹介 1時間2分
    https://youtu.be/eNbsZqzY2FU
➤ 資料

21.「日本における農耕と稲作の起源」(2022年9月10日)

2022年9月10日 第21回古代史を解明する会『日本における農耕と稲作の起源』)は、13:00より17:00オンライン開催された。 出席者8名。

テーマ:「日本における農耕と稲作の起源」

常連の参加者で理事の清水さんが、元々農業関係のリサーチの仕事をしていた方なので、関心の深いこのテーマの講演をお願いした。又、タミル語と日本語の関係も深く研究されている。

レポートの内容
清水さんから、

✧ 稲作の起源に興味を持った理由である「稲作の起源」と「日本語の起源」から話を始め、タミル語と日本語の問題に触れてから、本題の「日本における農耕と稲作の起源」の説明を行った。

質疑応答/意見:
  • 日本での稲作の初期には、北方の青森県田舎館で、紀元元年頃、新たに入った温帯ジャポニカ米と以前から日本に来ていた熱帯ジャポニカ米が混合した状態で植えられた。この熱帯ジャポニカ米が何処から来たのか知りたい処だ!
  • 考古学者は、米は朝鮮半島から来たと云い、松菊里遺跡と同じものが九州にあることを示している。一方農学者は、DNA解析によって、日本の米は、朝鮮半島経由では無く、長江から直接来たという。どっちが正しいのか?不思議だ!
  • 両方が正しいと云う解答がある。佐賀大学の和佐野氏の報告に、最初に、朝鮮半島から松菊里のタイプの米が入り、数百年後に、中国から直接入った別タイプの米が入ってきた。その後、最初に入って松菊里タイプの米が駆逐された。従って、DNA解析では、朝鮮半島の米が検出されない。 → それならば納得。
  • 松菊里の米作を日本に運んだのは、朝鮮半島に居た縄文人(日本の縄文人と同じ人)では無いのか? 季刊古代史ネット2号に「弥生時代の開始時期」として記した中に、初期と次期の2回の米作渡来に関して2回の渡来集団の違いを一覧表でまとめている。その表を見ながら、九州にいた西北縄文人が、朝鮮半島へ行き、水田稲作を行っていた呉の難民を連れて来たことを示した。朝鮮半島に居た縄文人が、それに関わった可能性は同じ縄文人同士なのであるとは思える。
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
  1. 21 農耕と稲作の起源 1時間52分
    https://youtu.be/Pns62CwLCQ4
  2. 21 農耕と稲作の起源 質疑応答編
    https://youtu.be/urQtmPaNSCo
➤ 資料

22.「大和朝廷成立直後に起きたこと」(2022年10月8日)

2022年10月8日 第22回古代史を解明する会『大和朝廷成立直後に起きたこと』は、13:00より17:00オンライン開催された。 出席者10名。

テーマ:「大和政権成立とその直後に起きたこと」~記紀と考古学から

記紀の神武東征の記述を正確に読み、考古学などから得られた情報を加味して、成立直後の神武政権の持つ問題点を明らかにし、その対応策を検討する。

神武政権は、実は抵抗した勢力を武力で征服した訳ではない。

饒速日命や旧出雲勢力との微妙なバランスの上に、神武政権が成り立っていた。

又、成立直後に発生した事件がその後に与えた問題に言及する。

レポートの内容
丸地の方から、

記紀と考古学から検討した「大和政権成立とその直後に起きたこと」の紹介が行われた。

前提として、今まで行われた神話時代の事件の順番に基づき、神武東征までの話をおさらいし、出雲族の勢力範囲を捉え、神武東征時期に付き年代推定を行った上で、大和政権成立時の問題を紹介した。

  • 政権を担った2つの勢力:饒速日命の一族と事代主の一族とを押さえた巧妙な政略結婚
  • 2つの勢力の持つ力を注ぎこんだ奈良湖消滅の大工事
  • 神武の死後に起きた手研耳命(多芸志美美命)の反乱が九州からの勢力/文化/伝承の壊滅を招いた
質疑応答/意見:
  • ✧ 神武東征の証拠として、山の名前と位置記された地図があるが、証拠になる。→ 饒速日一行が大和に到着した時に命名したもので、神武の時に命名されたと考えないので、証拠にはならないと説明。
  • ✧ 宮崎県の美々津に神武の神話がある。古事記・日本書紀にも書かれていないような具体的な話が残っているのは、どうしてだろうか? 本物と考えても良いのか?と質問が出る。→ これに対して、何通りかの回答がされた。→ 宮崎の神社などは、話としては太古の話なのだが、神社の設立は古くとも鎌倉時代で、新しい。多くは、江戸時代以降。古事記が江戸時代に見直されてからのもの。美々津の話も、何時くらいから伝わっているのか、確認する必要がある。
  • ✧ 神武の後の時代=綏靖~開化までの八代は、欠史八代で無かったと考えるべきで、その間の出来事に言及していることは、納得いかない。欠史八代の根拠が複数紹介される。→ この欠史八代の根拠は、今まで聞いた中で、一番しっかりしているので、別に機会を設けるので、話をして欲しい。来年3-4月にこの会で話して欲しい。飯田さん了承。
  • ✧ 神武東征に関して、神武がそんなに力を持っていなかったのに、大和朝廷を作れたことは、腑に落ちない。説明して欲しい。→ 次回に、神武東征のタイトルで浅野さんが話をする予定になっている。回答は、浅野さんの説明した会以降にしたい。
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
  1. 22 「大和政権成立とその直後に起きたこと」 1時間52分
    https://youtu.be/awlaeXIrCj0
➤ 資料

23.「『天孫降臨と神武東征』仮説」(2022年11月12日)

2022年11月12日 第23回 古代史を解明する会「『天孫降臨と神武東征』仮説」は、13:00 より オンライン開催。 出席者9名。

テーマ
「『天孫降臨と神武東征』仮説」

神武の東征は河内湾での敗走、熊野沖での海難等で弱体化していた。それなのに、最終的にナガスネヒコを打倒し、さらに天皇の地位に就くことができたのか?

<構成>
  1. 浅野登氏によるPPTを用いた解説
  2. 解説に対する質疑応答
<1 解説>動画あり
  • 神武東征は2回あった。1回目は北部九州勢による260年頃、2回目は290年頃南九州勢による東征。
  • BC210年頃、徐福一行が佐賀県南部に上陸。弥生時代に入る。
  • その後邪馬台国連合が成立。人口増加し食糧不足となり、張政の指導で260年頃東征開始(1回目)。
  • 280年呉が滅亡し、王族孫氏を含む2万名が日本の日向に亡命。以前に国譲りを果たしていた出雲を目指したが海流の関係で日向に到着。
  • 290年に孫氏による2回目の東征があった。
  • 天孫降臨は孫氏と不比等の孫(聖武)の成長を暗示するストーリーを表す言葉。
<2 解説に対する質疑応答>
  • 邪馬台国連合の母体は、筑後川下流。
  • 2回目の東征が記紀に書かれていないのは、天皇の祖先が中国から来たことを隠したかったため。
  • 2回目の東征での孫氏が大王になった。
  • 張政が東征を指導したという根拠は、森浩一先生の書籍のみ。しかし張政がその後本国で出世した形跡があり、日本を平定させた功績の可能性がある。
  • 魏の支援を受けている邪馬台国連合が魏から遠ざかるような東征をするのは不自然。
  • 邪馬台国連合は魏と親密であるのに、呉が日本に上陸した際に、魏(または晋)に支援を求めなかったのは不自然。当時の大陸の勢力関係の影響か?
  • 宮崎には孫氏が到来したことを示す痕跡がないのは不自然。西都原には3世紀の遺跡はない。
  • 呉が軍事力で出雲に国譲りを迫ったとするのを魏が知らず見過ごすはずはない。
  • 魏または呉の征服王朝なのに言語的にその影響がない理由は、支配層が少数だったため。
  • 大和朝廷の三種の神器は北部九州由来だから、南九州の王族が大王となったとすると不自然。
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
➤ 資料

24.「弱体の神武は何故勝利を得ることができたのか?」(2022年12月10日)

2022年12月10日 第24回 古代史を解明する会「弱体の神武は何故勝利を得ることができたのか?」は、13:00 より オンライン開催。 出席者9名。

テーマ
「弱体の神武は何故勝利を得ることができたのか?」

神武の東征は河内湾での敗走、熊野沖での海難等で弱体化していた。それなのに、最終的にナガスネヒコを打倒し、さらに天皇の地位に就くことができたのか?

<構成>
  1. 丸地三郎氏によるPPTを用いた解説
  2. 解説に対する質疑応答
<1 解説>動画あり
  • 神武の東征では、五瀬が戦死し他の兄弟の熊野沖で海難。同時に装備と兵をほとんど失う。残存は十数名。神武は気落ちして倒れる。
  • 流れ着いた丹敷浦の漁村で、武器を調達した。
  • 紀伊山中は道路で108km。徒歩ではその数倍の距離。
  • 紀伊山中の村で住民をだまし討ちにしながら支配下にし、次第に兵軍を拡大。
  • 東征の年月が書紀の方が短いのは、物部氏に配慮したため。
  • 生駒山、河内湾、紀伊半島沿岸の山城は長期間維持されており、防備が固められていたが、神武は想定外のルートで侵入してきた。
  • ニギハヤヒは出雲時代の事代主の部下。事代主は大和にいたが神武との戦争にはかかわっていない。
  • 神武が紀ノ川から侵入しなかったのは、大和側の防備線があったため。
  • 天孫族と大和側と会話が通じた理由は、大和に北部九州から移住してきたため。
  • 大和住民が神武にしたがったのは、日本全体に「天羽々矢を持つ後裔に来た際は従うように」という徐福が日本へ出立した際に、一族に対してと言い残した伝説があったため。
<2 解説に対する質疑応答>
  • 神武軍勢が数万名とする根拠は、白村江の戦いの規模に準じた。北部九州の文化・人口も考慮した。
  • 神武東征の時期は250年頃。理由は天皇の平均在位年数から逆算。また卑弥呼の死亡の直後に動きがあったと考えられること。
  • 徐福渡来(BC220)から時間が経過しているが、人の記憶として伝説は残っていた。
  • 高倉下はニギハヤヒの息子とする言い伝え(弥彦神社等)があるが何故神武と同行しているのか説明がつかないが、それは高倉下は天香山と同一人物ではないため。
  • ニギハヤヒも神武も同じ天孫族なのに戦う理由は、ニギハヤヒは正当な理由なく旧出雲領である近畿を専有した正統な征服ではないため。
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
➤ 資料

25.「箸墓古墳は誰をまつる古墳か?」(2023年1月27日)

2023年1月27日 第25回 古代史を解明する会『箸墓古墳は誰をまつる古墳か?』は、13:00 より 17:00 オンライン開催された。 出席者9名。

テーマ:「箸墓古墳は誰をまつる古墳か?」
邪馬台国:近畿論の方々の多くは、勿論、箸墓古墳は卑弥呼の墓だ!と云います。
邪馬台国:九州説の方は、箸墓は卑弥呼の墓では無い!と云います。
そこで、改めて、「箸墓古墳は誰の墓か?」を検討してみたいと思います。
箸墓は誰を祭った墓か判れば、邪馬台国論争にも一石を投じることになるかと考えます。
レポートの内容
可児レポートとその内容

可児さん作成資料を丸地が紹介(可児さんは、仕事中)

  • 文献史料を、古事記から一ヵ所、日本書紀から3ヶ所について、及び、魏志倭人伝の卑弥呼/壱与の記述内容をまとめて。
  • 箸墓古墳自体について、規模・形状・サイズ・航空写真、及び、考古学者の見解。
  • 年代評価及び測定について、歴博の炭素14年代測定法の成果発表論文とそれを報じた新聞記事など。
  • 箸墓と並ぶ古墳複数の写真
  • 被葬者推定した主な論者と説を6件について
  • 被葬者:崇神天皇説。行燈山古墳とその後の天皇達の陵墓の写真
  • 可児さんの見解:消去法で崇神または台与/壱与
可児レポートに関して質疑応答
  • 倭迹迹日百襲姫命の墓とするのは不思議で疑問がある。 判らないので、発掘すべき。
  • 古事記に、倭迹迹日百襲姫命は出てこない。 糸が3巻分残った話は、別人の活玉依毘売。
  • 纏向型初期古墳が周囲に沢山ある。その周辺の豪族勢力が有った。箸墓はそれらに関係する。
  • 箸墓は、年代測定が色々あるが、やはり大型古墳の最初のもので、大和王権を確立した人の墓。人名は不明。
  • 巫女さんの為に巨大な古墳は作らない。権力者の墓の筈。
  • 様々な疑問が発せられた。
丸地レポートを発表
  • 箸墓は、大物主=事代主を祀る。
  • 箸墓は、『三世紀後半期に確立した大和政権の初代大王の墓であろうと考えている。』しかし、『匹敵する大王は存在しないことになる。』との考古学者の説を紹介。
  • 古事記と日本書紀の記述を対比。
    • ✧ 倭迹迹日百襲姫命と大物主の婚姻に関しては、日本書紀では、明白に年代/世代が誤りであることを、誰しもが直ぐに判る状況で、物語として、記述した。
    • ✧ 記述することを憚られた内容が、この虚構の物語の中に、示唆されていると考える。日本書紀は、正式な歴史書との体面を保つため、天皇家を凌駕する権力者の存在があったとしても、それは、記述してはならないものであったと考える。
    • ✧ 日本書紀の『倭迹迹日百襲姫命と大物主の婚姻』の本意は、『天皇家を凌駕する権力者の存在』であった大物主の墓が箸墓で、その当時の人民総出で、築造されたこと、と理解する。
    • ➤ 土器形式や土器制作地/巻向遺跡/帆立貝式古墳の分布などの考古学資料から、箸墓:大物主/事代主の墓説の裏付けを行った。
丸地レポートに関して質疑応答
  • 古事記と日本書紀の違う部分に着目することに賛成。倭迹迹日百襲姫命と大物主の婚姻の話は、極めて政治的と見え、そこに手がかりがあると考える。
  • 「箸墓:大物主=事代主」説を今まで誰か言った人が居るのか? → 書物に書かれていない。新説。
  • 初代天皇の地:飛鳥の飛鳥坐神社も事代主を祀り、葛城一言主神社の一言主も、事代主と言われる。それをどう考えるか? → 神武東征以前は、大和盆地周辺には、饒速日/物部が西側に居て、西北側は長脛彦。南と東側は事代主の領有地であったのではないかと考えている。南の地域を神武天皇に渡し、東側は事代主側に残したものと推定。従って、奈良盆地の南側には、事代主ゆかりの神社がることは、不思議ではない。
  • 「箸墓:大物主=事代主」は有り得ない。大物主は三輪山に祀られている。神様が古墳に祀られることは無い。
  • 倭迹迹日百襲姫命の墓と書いてあるのだから、曲解すべきでない。
  • 大物主=事代主ではないとの意見もある。
動画と資料
➤ 動画 YouTube 動画リンク
➤ 資料