最終更新日:2022/03/28

季刊「古代史ネット」第6号

邪馬台国の時代 ② ~卑弥呼の外交~

河村 哲夫

三国時代

卑弥呼が邪馬台国の女王に擁立されて数年後、184 年の春――甲子(きのえのね)の年、中国において 張角を首領とした数十万人にのぼる「黄巾の乱」が勃発した。

道教の一派とされる太平道という宗教組織に多くの農民が加わった大一揆である。

目印に黄色いターバンを巻いたところから、「黄巾の乱」とよばれた。

「三国時代」は、広義ではこの「黄巾の乱」をもってはじまりとする。

大きくいえば、「黄巾の乱」は、589 年の隋による中国統一までの 400 年間つづく中国の大動乱時代「魏晋南北朝時代」の幕開けとなった。

曹操は、後漢最後の皇帝・献帝在位(189~220)を擁して丞相・魏王と称し、最後まで皇帝の座につくことはなかったが、後を継いだ曹丕(187~226)は後漢の献帝から禅譲という形で皇帝の座を奪い取り、洛陽を都に魏を建国した。

狭義の「三国時代」は、曹丕が魏の皇帝となった 220 年をもってはじまりとする。

しかしながら、その曹丕も在位わずか 5 年、226 年に 40 歳で病没し、曹叡(明帝)(在位 226~239)が後を継いだ。

弱体化する魏王朝のなかで、呉軍を撃退し、また諸葛孔明 (181~234) 率いる蜀軍の北伐を防いだ将軍・司馬懿 (179 251) の勢力が増大していった。

三国時代の余波は、周辺地域へも広がっていった。とりわけ中国東北部の遼東方面を拠点とする公孫氏の動きが活発になった。

遼東の公孫氏

公孫氏が遼東方面で勢力を伸ばした のは、189 年に公孫度(こうそんど・150~204)が後漢王朝から遼東太守に任命されたことに由来する。

彼は後漢の衰退をみて自立を強め、朝鮮半島北部の楽浪郡などへ勢力を伸ばした。

204 年には、父を継いで遼東太守となった公孫康(生没年不詳)は、朝鮮半島攻略の前進基地として新たに帯方郡を設置した。

『魏志韓伝』には、

「建安中(196~220) 、公孫康、屯有(とんゆう) 県以南の荒地を分かちて帯方郡と為し、公孫模も・張敞(ちょうしょう) らを遣わして漢の遺民を収集せしめ、兵を興して韓・濊(わい)を伐つ。(漢の)旧民(韓より)やや出ず。この後、倭・韓は遂に帯方に属す」

とある。

自立を強め、朝鮮方面へ勢力を伸ばした公孫氏ではあったが、曹操の卓越した力量により勢力を盛り返した後漢をみて、公孫康は後漢に服属する道を選び、左将軍の官位を授けられた。

公孫康の死後、弟の公孫恭(生没年不詳)が遼東太守の地位を継承し、魏の曹丕(文帝)から車騎将軍・仮節・平郭侯に任命された。

しかしながら、病弱であった公孫恭は、228 年、成人した甥の公孫淵(?~238)に脅迫され遼東太守の座を追われた。

公孫淵は、表面上魏に忠誠を誓いつつ、自立への道を探った。

【公孫氏の系譜】
公孫延(曾祖父)―公孫度(祖父)┬公孫康(父)――公孫晃(兄)・公孫淵――公孫脩(子)
└公孫恭(叔父)
公孫淵からみた系譜

刺史の毌丘倹

この動きに最も警戒を強めたのが、幽州刺史の毌丘倹(かん きゅうけん・?~255)である。

父の毌丘興(こう)は魏の曹操に仕えた忠臣で、曹丕(文帝)のときには武威太守に任じられた。

毌丘倹も曹叡(明帝)の即位前から身近に仕え、曹叡が即位するや尚書郎などに昇進し、その後、荊州刺史から幽州刺史に転任し、遼西を拠点に遼東の公孫氏の偵察を進めていた。

「刺史」という役職は、前漢の武帝が創設した役職で、国土を 13 州に分けて、それぞれの州に刺史を配置し、地方の役人を監察させた。ただし、その俸禄・権限は郡守に比べてはるかに少なかった。このため、綏和元年(紀元前 8)、「州牧(しゅうぼく)」と改称されて郡守並みの俸禄に引き上げられ、州の行政に監察官として介入できるようになった。ただし、官名は「刺史」であったり、「州牧」であったり、たびたび変更されている。

建武18 年(42)、後漢の光武帝は再び州牧を刺史へ改め、州内に拠点となる刺史治所を設置し、周辺地方役所の権限を 掌握させ、毎年 8 月に州内の定期巡察を許した。

中平 5 年(188)、各地で反乱が起こるようになると刺史はふたたび州牧に改められ、朝廷の重臣クラスが州牧に任命されたが、刺史も引き続き任命された。

魏の時代になると刺史が原則となり、一定の軍事権が与えられて地方の反乱などに対処した。

何ゆえ「刺史」にこだわるかというと、卑弥呼は伊都国に「一大卒」を配置していたからである。『魏志倭人伝』には、

「女王国より以北に、一大率を置き、特に検察す。諸国はこれを畏れ憚る。伊都国に常治す。国中に於ける刺史の如く有り」

と、「一大率は刺史の如きもの」とあるからである。

このことについては、先の方で述べることにしているので、ここでは深入りしない。中国における「刺史」はとりあえず以上のとおりである。

それはともかくとして、幽州刺史の毌丘倹は、景初元年(237 年)公孫淵に対して、出頭命令を出した。

そして、高句麗や烏桓などの異民族にも召集命令を出し、兵力をかき集めて公孫淵征伐を図ったが、頑強な抵抗にあい敗退してしまった。

その結果、かえって公孫淵の勢いを強め、公孫淵は自立を宣言し、燕王を称した。

司馬懿

これに対し、魏の曹叡(明帝)は、景初二年(238) 1 月、太尉の司馬懿 (179~251) に公孫淵の討伐を命じた。司馬懿もすでに 61 歳。老境にさしかかっているが、淡々と勅命を受けた。

公孫淵は遼東の襄平(遼寧省遼陽市)に城を構えていた。遼水とは遼河のことで、河北省、内モンゴル自治区、吉林省、遼寧省を経て渤海に注ぐ総長 1,390 キロ の大河である。

ちなみに、遼河から西を「遼西」、東を「遼東」と呼ぶ。

出発にあたり、曹叡は司馬懿にどのような計略で討伐するか尋ねた。それに対し、司馬懿は、

  1. ① 公孫淵が城を放棄し、前もって逃走するのが最上の策
  2. ② 公孫淵が遼水(遼河)を根拠として大軍に抵抗するのは二番目の策
  3. ③ そのまま襄平(遼陽市)を守るなら生け捕りになるだけの下策

と答え、かつ、「往路に百日、攻めるのに百日、帰路に百日、途中の休息に六十日、ほぼ一年もあれば足りましょう」と答え 、騎兵・歩兵四万人の軍勢を率いて出陣したという。副将は現地をよく知る毌丘倹である。

『三国志』には、洛陽から遼東まで 4,000 里と記されているから、漢代の一里 415 メートルで換算すると、全長 1,660 キロ。 一日四十里(16.6)キロ程度の行軍となる。

ただし、グーグルアースによって北京経由 で測ると、洛陽から遼東まで約 1,300 キロ。一日 13 キロ程度の行軍となる。 司馬懿のいう 4,000 里は、余裕を持たせるためか、やや過大に見積もられているようである。

いずれにせよ、諸葛孔明と五分に戦ったと自負している百戦錬磨の司馬懿にとって、公孫淵の討伐なぞ、まさに赤子の手をひねるようなものであった。

遼東討伐戦

司馬懿が遼東に到着したころ、遼東では長雨が続いていた。

司馬軍 4 万に対し、公孫淵は呉に援軍を求めたという。呉といえば長江流域の国である。

海路援軍を求めたのであろうが、どのような船であったのか、『三国志』には何も記されていない。

呉の孫権は使者に対して、
「司馬公は用兵に優れること神の如しという。あなたも気の毒だ」

と皮肉に満ちた 書簡を送りつつ、一応援軍を約束したという。

司馬懿は野戦において公孫淵の軍勢を破ると、公孫淵は襄平城に立てこもった。

――公孫淵の軍兵は多いが、食糧は少ない。

それを見破った司馬懿は、長雨のなかで悠然と長期戦に持ち込んだ。

司馬懿の思惑どおり、公孫軍の食糧は底をついた。公孫淵は使者を差し向け、人質を差し出して和議を求めた。

それに対し、司馬懿は次のように応じた。

「戦には五つの要点がある。①戦意があるときに闘い、②戦えなければ守り、③守れなければ逃げる。あとは④降伏か、⑤死。これまで降伏しなかったのだから、あとは死しかない。人質など無用」

『三国志』によると、9 月 10 日、司馬懿は襄平城を包囲し、大いにこれをうち破って公孫淵の首を都(洛陽)に届けたという。

洛陽へ凱旋

司馬懿が遼東から洛陽へ帰還する 途上、魏の皇帝・曹叡は病に倒れた。

司馬懿が景初三年(239) 1 月 1 日に洛陽に到着すると、病床の曹叡は早馬で彼を召し寄せ、寝室に招いてその手を取り、

「私の病気は非常に重い。後のことは君に任せる。曹爽とともに幼い息子曹芳を補佐してくれ。君に会えて思い残すことはない」

と告げ、その日崩じ、1 月 27 日に高平陵に埋葬された。

新たに皇帝になった曹芳(239~254)は、このときわずか 8 歳。しかも、先帝曹叡の実の子ではない。

曹叡の子が相次いで夭折したため、曹一族の秦王曹詢(じゅん・231~244)と斉王曹芳(ほう)の二人兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していたが、『三国志』には、

「宮中の事がらは秘密に属するから、誰も彼らの経歴を知るものはいなかった」

と書かれている。

危篤となった曹叡は曹芳を皇太子に立て、大将軍の曹爽と太尉の司馬懿を後見人とした。

曹爽(?~249)の父は曹真(?~231)といい、祖父を曹邵(しょう・?~190)という。曹邵は曹操の兄弟で、曹操挙兵以来、同志として活動していたが、董卓勢に殺害されてしまった。

曹操は甥で少年だった曹真を引き取り、我が子曹丕らと起居をともにさせて養育した。

その子が、曹爽である。すでに曹一族の筆頭として魏王朝内で睨みをきかせていた。

というより、魏王朝を我が物にする野望を抱いていた。

曹爽にとって、最も目障りな存在は司馬懿であったが、輝かしい実績を誇り、強大な軍事力を有する司馬懿を追放することは容易なことではない。表面上は父のごとく恭しく接した。

1 月 21 日新皇帝の詔勅が下り、司馬懿は太尉から大傳に昇格したが、これも曹爽の画策によるものであった。大傳とは名誉的な職で、太子の教育係である。内政に関する意思決定の場から外されたといっていい。ただし、軍事については従来どおり保持したままである。

司馬懿にとって、雑用から解放されただけのことである。

幼い皇帝が就任し、曹爽が内政、司馬懿が軍事を分け合う形で政権を運営し、嵐の前の静けさのように、微妙な小康状態が保たれていたのが景初三年(239)という年であったといえよう。

朝鮮半島の形勢

景初二年(238) 9 月の司馬懿による遼東の公孫氏討伐によって、朝鮮半島の情勢が大きく変わった。楽浪郡と帯方郡の支配が、公孫氏から魏に変わった。

『魏志韓伝』には、

「魏の景初年中(237~239) 、明帝は密かに帯方太守劉昕(りゅうきん)と楽浪太守鮮于嗣(せんうし)を派遣して、海を渡って帯方・楽浪の二郡を平定させた」

とある。

楽浪郡に鮮于嗣が、帯方郡に劉昕が、それぞれ太守として赴いたのは、司馬懿が公孫氏を討伐した 景初二年(238) 9 月 から皇帝曹叡(明帝)存命中の年末までの期間――すなわち、10 月から 11 月にかけてとみるのが妥当であろう。

彼らは黄海を船で渡って、二つの郡を急襲して奪取した。

景初二年の遼東・朝鮮半島情勢図

着任した帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣は、周辺諸国との関係修復に着手した。

楽浪郡と遼東郡に接している高句麗は、司馬懿の東征にあたって全面的に協力していた。

『魏志高句麗伝』によると、

「景初二年(238)太尉の司馬宣王(懿)が大軍を率いて公孫淵を討った。位宮は主簿や大加に数千人を率いさせ魏の大軍を助けた」

とある。

高句麗は寝返りや二股など複雑な動きを繰り返す癖があるが、この当時の高句麗王位宮(朝鮮の『三国史記』では位居・ 東川王・209~248)は司馬懿の東征にあたっては、司馬軍に全面的な協力を行った。

このようなこともあり、楽浪郡と高句麗の今後の関係構築についての協議も、わりと円滑に進められたにちがいない。

「東夷伝」による諸民族の地理的位置

帯方郡と朝鮮半島の国々との交渉も開始された。

『魏志韓伝』には、 馬韓・辰韓・弁韓など韓諸国との関係について、

「諸韓国の国王たちである臣智には邑君の印綬を賜い、次位の者には邑長 の印綬を下し与えた。一般の風習としては、衣服と頭巾を好み、庶民が楽浪郡や 帯方郡に来て挨拶するときは、みな衣服と頭巾を借りて身に着ける。自分で印綬や衣服・頭巾をつける者は千人以上もいる」

と書かれている。

馬韓には 54 か国、辰韓には 12 か国、弁韓には 12 か国、合わせて 78 か国があった。 帯方郡はこれらのクニグニの王(臣智)に中国の邑君クラス(王)の印綬、それ以外の重臣たちに邑長クラスの印綬を授けた。帯方郡は韓諸国に対し、従来の支配体制を認知したのである。

総勢 1000 人以上とあるから、一か国あたり 13 個程度の印綬が授けられている。頭巾と衣服に印綬を首から下げて楽浪郡や帯方郡に挨拶にきたというから、両郡と韓諸国との交渉は 、まずは順調に始まったとみるべきであろう。

ちなみに、高句麗北方の扶余、朝鮮半島西部の濊、東沃沮、挹婁などの国々については、司馬懿の東征及び楽浪郡・帯方郡に関する記事は、『魏志』にはみえない。もともと公孫氏との関係も、楽浪郡・帯方郡との関係も、わりと希薄であったからであろう。

卑弥呼の外交

ここで、特異な動きをしめした国があった。倭の邪馬台国である。

その女王である卑弥呼が動いた。

「倭国大乱」後の 180 年ごろ後継者の台与とおなじく13 歳で女王になったとしても、景初三年(239)のこの時点で、卑弥呼はすでに 70 を過ぎた老女になっている。

その卑弥呼が、公孫氏が討伐され、中国への陸路が開かれたタイミングをみて、中国に使節団を派遣したのである。

老いたりとはいえ、卑弥呼がすぐれた外交センスの持ち主であったことがわかる。

厳密にいえば、『魏志倭人伝』は景初二年(238)とするが、『梁書』、『北史』とも「景初三年(239)」とし、『日本書紀』神功皇后紀 39 年の分注も「明帝景初三年六月」と記している。

遼東郡と楽浪郡、帯方郡の魏への復帰および新皇帝の即位を見届けたうえで、景初三年に卑弥呼が決断したと考えるのが妥当であろう。

卑弥呼について、『魏志倭人伝』は「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」と記している。 井上光貞氏は、卑弥呼はシャーマンのことであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする(井上光貞『日本の歴史』) 。もともと、何らかの呪術的能力に長けていたのであろう。

しかしながら、朝鮮半島に最も近い対馬をはじめ、壱岐、伊都国、奴国、不弥国などに長官と次官を配置したことからみて、広域の支配体制と情報ネットワークの構築を志向していたことがわかる。卑弥呼の統治能力は、朝鮮半島の国々をはるかに凌駕している。

国ごとの官名:対馬~邪馬台

これらのネットワーク によって、卑弥呼は中国における動乱の状況や、遼東における公孫氏の滅亡および新皇帝の即位などについても、迅速で 詳細な情報を得ていた のであろう。

卑弥呼が派遣した使者は、景初三年 (239) 6 月に帯方郡に到着し、魏の都・洛陽には 12 月に到着している。

漢魏洛陽城と隋唐洛陽城

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卑弥呼が派遣した使節団 について、『魏志倭人伝』には、

「魏の明帝の景初二年(景初三年の誤り)六月、倭の女王卑弥呼は、大夫難升米(なしめ)らを帯方郡によこし、魏の天子に直接あって朝献したい、と言ってきた。郡の太守劉夏は、役人を遣わして難升米らを魏の都まで送って行かせた。その年の十二月、倭の女王に返事の詔が出た」

とある。

まず、日本側は、建武中元二年(57) の前例を踏襲して、使節団の団長を「大夫」と名乗らせている。

『礼記』には、「 三公九卿、二十七大夫、八十一士」とあり、

① 天子 ②諸侯 ③大夫 ④士 ⑤庶民

という五階級の第三順位に位置づけられ、四順位とあわせて「士大夫」とも称された。

「士大夫」とは、支配者階級たる「天子」と「諸侯」に臣下として仕え、いわば官僚として政治行政に関与する知識階級・上流階級の人々のことである。

そして、「生口」――生きた人間を献上している。これは、圧倒的に数は少ないものの、永初元年(107)の例を踏襲している。卑弥呼は、奴国時代の前例を熟知しているようにみえる。

それに対し、中国側も建武中元二年(57)の前例を踏襲して「金印」を授与し、別紙のとおり、おびただしい品々を下賜している。

まとめると、次のとおりとなる。

時期 使者 日本側から 中国側から
建武中元二年
(西暦 57)
大夫 貢物(品名不明) 印綬
志賀島出土の「漢委奴国王」の金印
永初元年
(西暦 107)
倭国王・師升など 生口百六十人 不明
景初三年
(西暦 239)
大夫・難升米
副使・都市牛利
男生口四人
女生口六人
斑布二匹二丈
「親魏倭王」の金印ほか
金・帛(はく)・錦(きん)・罽(けい)・毛織物・刀・鏡・采物(さいぶつ・飾り物)な ど(別紙のとおり)

『魏志倭人伝』には、つづけて魏の皇帝曹芳の詔が記されている。

「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼へ詔す。帯方郡の太守劉夏が送りとどけた汝の大夫難升米(なしめ) 、副使の都市牛利(つしごり)らが、汝の献上品である男生口(せいこう)四人、女生口六人、斑布(はんぷ)二匹二丈をもって到着した。汝の住む所は海山を越えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようとするのは、汝の忠孝であり、我は汝を健気に思う。今、汝を親魏倭王と為し、金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えよう。封印して帯方太守にことづけて汝に授ける。汝は土地の者をなつけて、余に孝順を尽くせ。汝のよこした難升米と牛利は、遠い所を苦労して来たので、今、難升米を率善中郎将(そつぜんちゅうろうじょう)と為し、牛利を率善校尉(そつぜんこうい)と為す。銀印青綬 (ぎんいんせいじゅ)を与え、余が直接謁見してねぎらい、贈り物を与えて送り帰す。そして、今、絳地交龍錦(こうじこうりゅうきん)五匹、絳地縐粟罽(こうじすうぞくけい)十張、倩絳(せんこう)五十匹、紺青(こんじょう)五十匹 を以って、汝が献じた貢物に報いる。また、特に、汝に紺地句文錦(こんじくもんきん)三匹、細班華罽(さいはんかけい)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤を下賜し、みな封印して難升米、牛利に持たせるので、着いたら受け取るように。その賜り物をみな汝の国人に見せ、魏の国が汝をいつくしんで、丁重に汝の好物を授けたことを知らせよ」
日本側と中国側の対応
事項 備考
日本側 中国への使者 大夫・難升米 『日本書紀』では「難斗米」。難=奴か。
副使・都市牛利 都市は苗字か。
中国に対して 男生口四人
女生口六人
生口は一般には「奴婢」のような下級の人と解されているが、特別の技能者の可能性もあり。
斑布二匹二丈 色模様がまだらの織物。
二匹=八丈=一丈(2.4m) × 8=19.2m 二丈=一丈(2.4m) × 2=4.8m 計 24 m
中国側 卑弥呼に対して 親魏倭王 「漢倭奴国王」→「親魏倭王」
金印紫綬 「漢委奴国王」の金印を継承
紺地句文錦三匹 紺色に句文の絹織物・【一匹=四丈=二端】
三匹(一二丈)=一丈(2.4m) × 12=28.8m
細班華罽五張 細かな模様の毛織物・五枚
白絹五十匹 白色の絹布
五十匹(二百丈)=一丈(2.4m) × 200=480m
金八両 八両(0 .5斤)=一斤(223g) × 0.5=111.5g
五尺刀二口 鉄刀・1尺(24.1㎝) × 5=120.5㎝
銅鏡百枚 後漢鏡・魏鏡
真珠五十斤 貝玉・一斤(223g) × 50=約 11 ㎏
鉛丹五十斤 赤色 顔料・一斤(223g) × 50=約 11 ㎏
大夫・難升米に対して 率善中郎将 宮中武官
銀印青綬 「魏倭率善中郎将」・東夷の首長クラス
贈り物 品名不明
副使・都市牛利に対して 率善校尉 武官
銀印青綬 「魏倭率善校尉」・東夷の首長クラス
贈り物 品名不明
倭国に対して 絳地交龍錦五匹 赤色龍文の綿織物
五匹(二十丈)=一丈(2.4m) × 20=48m
絳地縐粟罽十張 赤色の毛織物・十枚
倩絳五十匹 茜色の布
五十匹(二百丈)=一丈(2.4m) × 200=480m
紺青五十匹 紺色の布
五十匹(二百丈)=一丈(2.4m) × 200=480m

景初二年(238)から正始元年(240)までの動きをまとめると次のようになっている。

景初二年(238)
  • 9 月 司馬懿が遼東の公孫氏を討伐
  • 10~11 月ごろ劉昕を帯方郡太守として派遣
景初三年(239)
  • 1 月 1 日魏の曹叡(明帝)崩御・曹芳即位
  • 1~6 月ごろ帯方郡太守が劉昕から劉夏に交替
  • 2~4 月ごろ帯方郡と卑弥呼の使節団派遣について調整
  • 5 月卑弥呼の使節団が出発
  • 6 月卑弥呼の使節団が帯方郡に到着
  • 12 月卑弥呼の使節団が洛陽に到着・新皇帝曹芳に拝謁
正始元年(240)
  • 1 月ごろ卑弥呼の使節団が洛陽出発
  • 2~4 月ごろ帯方郡太守が劉夏から弓遵に交替
  • 6 月ごろ卑弥呼の使節団が帯方郡に帰着
  • 7 月ごろ 帯方郡の使者とともに 九州に到着

魏の新皇帝が即位した 1 月から半年後の 6 月に、卑弥呼の使節団が帯方郡に到着したのである。

これからみても、卑弥呼は景初三年(239)の 2 月~4 月ごろまでに帯方郡と協議を整え、5 月には使節団を出発させていることがわかる。

卑弥呼の使節団は、帯方郡の役人たちに守られながら、その年の 12 月に魏の都・洛陽に到着した。

卑弥呼には、新皇帝即位の祝賀というこれ以上ない大義名分がある。

新皇帝の最側近として内政を牛耳る曹爽にとっても、遼東を平定した実績を誇る司馬懿にとっても、海の向こうからはるばる訪れる使節団を歓迎すべからざる理由は何もない。

しかも、西暦 107 年以来 132 年ぶりの倭国の使節団の来訪である。

洛陽における権力闘争が一時的に休戦状態になっていたことも幸いした。

『魏志倭人伝』の皇帝の詔をみてもわかるとおり、倭の使節団は破格の待遇を受けている。

新皇帝への謁見までも希望どおり許され、しかも莫大な返礼品を賜った。

卑弥呼は、望みうる最高の外交的成果を収めたといえよう。

使節団を庇護して洛陽へ導いた帯方郡の大きな功績でもあった。

このことは、卑弥呼にとって、帯方郡を大きな味方に引き入れたことを意味する。

ずっとのち、邪馬台国と狗奴国の争乱に際して、帯方郡が終始 邪馬台国の側に立って調停に動いたのも、そのことのあらわれであったろう。

帯方郡の梯懏(ていしゅん)

卑弥呼が派遣した使節団は、無事に任務を終え、翌年の正始元年(240) 1 月には帰国の途につき、半年後の 6 月ごろには帯方郡に帰着したたであろう。

帯方郡太守は帯方郡太守は、二代目劉夏からから三代目弓遵(きゅうじゅん)に交替していた。

魏の皇帝の詔では「親魏倭王」の金印は、帯方郡太守に預け、帯方郡から卑弥呼に直接渡すべきこととされていた。そこで、太守弓遵は、部下で建中校尉の梯懏らを卑弥呼のもとへ同行させることとした。

『魏志倭人伝』には、

「弓遵は建中校尉の梯懏(ていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭の国に持って行かせた」

とある。

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帯方郡の「梯懏(ていしゅん)」こそ、史上はじめて公式に卑弥呼と会った人物である。

当然、邪馬台国を訪れ ていることになる。

卑弥呼の使節団と梯懏以下帯方郡の役人らは、帯方郡を出発して船で南下し、朝鮮半島南岸を経て対馬・壱岐を経由し、おそらく 7 月ごろには九州に到着したであろう。草木が繁茂する暑い時期であった。

『魏志倭人伝』における帯方郡から邪馬台国までの旅程記事は、このときの弓遵らの記録が基礎資料の一つとされたことは確実であろう。

梯懏は邪馬台国を訪れ、卑弥呼に直接「親魏倭王」の金印と皇帝の詔を手渡した。

『魏志倭人伝』には、

「正始元年(240)弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉の梯懏(ていしゅん)らを遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣いたり、倭王に拝仮(はいか)す。並びに詔をもたらし、金・帛(はく)・錦(きん)・罽(けい)・毛織物・刀・鏡・采物(さいぶつ)・飾り物を賜う」

とある。

梯懏は卑弥呼に会い、皇帝の詔と印綬を渡し、皇帝から卑弥呼に贈られた品々を引き渡した。皇帝の詔以外の品々は、卑弥呼の使節団が洛陽で授けられたもののうち、皇帝から卑弥呼に特別に贈与された豪華な品々であった。

卑弥呼に渡されたもの
皇帝の詔書 皇帝の返書
印綬 「親魏倭王」の金印
紺地句文錦三匹 紺色に句文の絹織物【一匹=四丈=二端】 三匹(一二丈)=一丈(2.4m) × 12=28.8m
罽(けい) 細班華罽五張 細かな模様の毛織物・五枚
帛(はく) 白絹五十匹 白色の絹布
五十匹(二百丈)=一丈(2.4m) × 200=480m
金八両 八両(0.5 斤)=一斤(223g) × 0.5=111.5g
五尺刀二口 鉄刀・1 尺(24.1㎝) × 5=120.5㎝
銅鏡百枚 後漢鏡・魏鏡
采物
(さいぶつ)
真珠五十斤 貝玉・一斤(223g × 50=約 11 ㎏
鉛丹五十斤 赤色顔料・一斤(223g) × 50=約 11 ㎏

それに対し、倭王卑弥呼は、

「倭王、使いによりて、表をたてまつり、恩詔に答感す」

と、『魏志倭人伝』に記されている。

「倭王は、使者に託して上奏文を奉り、皇帝の御恩に感謝した」

という意味である。

卑弥呼の身近には、漢字を書ける人材がいたということである。

卑弥呼による統治体制は、思いのほか先進的であったといえよう。

(以下、次号へ続く)

―河村哲夫(かわむら・てつお)

  • 1947年(昭和22)年福岡県柳川市生まれ。
  • 九州大学法学部卒
  • 歴史作家、日本古代史ネットワーク副会長
  • 福岡県文化団体連合会顧問
  • ふくおかアジア文化塾代表
  • 立花壱岐研究会会員
  • 元『季刊邪馬台国』編纂委員長
  • 西日本新聞TNC文化サークル講師
  • 朝日カルチャーセンター講師
  • 大野城市山城塾講師
〈おもな著作〉
  • 『志は、天下~柳川藩最後の家老・立花壱岐~(全5巻) 』(1995年海鳥社)
  • 「小楠と立花壱岐」 (1998年『横井小楠のすべて』新人物往来社)
  • 『立花宗茂』 (1999年、西日本新聞社)
  • 『柳川城炎上~立花壱岐・もうひとつの維新史~』 (1999年角川書店)
  • 『西日本古代紀行~神功皇后風土記~』 (2001年西日本新聞社)
  • 『筑後争乱記~蒲池一族の興亡~』 (2003年海鳥社)
  • 『九州を制覇した大王~景行天皇巡幸記~』 (2006年海鳥社)
  • 『天を翔けた男~西海の豪商・石本平兵衛~』 (2007年11月梓書院)
  • 「北部九州における神功皇后伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』97号、98号)
  • 「九州における景行天皇伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』99号)
  • 「『季刊邪馬台国』100号への軌跡」 (2008年、『季刊邪馬台国』100号)
  • 「小楠と立花壱岐」 (2009年11月、『別冊環・横井小楠』藤原書店)
  • 『龍王の海~国姓爺・鄭成功~』 (2010年3月海鳥社)
  • 「小楠の後継者、立花壱岐」 (2011年1月、『環』藤原書店)
  • 『天草の豪商石本平兵衛』 (2012年8月藤原書店)
  • 『神功皇后の謎を解く~伝承地探訪録~』 (2013年12月原書房)
  • 『景行天皇と日本武尊~列島を制覇した大王~』 (2014年6月原書房)
  • 『法顕の旅・ブッダへの道』 (『季刊邪馬台国』に連載)
(テレビ・ラジオ出演)
  • 平成31年1月NHK「日本人のおなまえっ! 金栗の由来・ルーツ」
  • 平成28年よりRKBラジオ「古代の福岡を歩く」レギュラー出演

第6号 目次
  1. 巻頭言~古代からのメッセージ……河村哲夫
  2. 邪馬台国の時代②~卑弥呼の外交……河村哲夫
  3. 魏志倭人伝を考える~鉄について~……塩田泰弘
  4. 吉備の古代史シリーズ第 4 回
    ~温羅伝説を考える(上)―こんな物語だった……石合六郎
  5. 記紀に隠された史実を探る④
    ~隠された天智大王暗殺と天武天皇の真実……飯田眞理