最終更新日:2021/06/29

季刊「古代史ネット」第3号

記紀に隠された史実を探る=聖徳太子の時代

飯田 眞理(いいだ・まこと)
京都府木津川市在住
大阪大学理学部博士課程単位所得
元東大寺学園〈奈良市〉理科教師

飯田眞理(いいだ・まこと)上半身写真

【内容の要約】
  1. ① はじめに、丁未の乱(蘇我物部戦争)前後の政治動向を考察する。
    穴穂部王子謀殺・物部守屋討伐・崇峻暗殺の三つの事件には、蘇我馬子以外に炊屋姫大后(後の推古大王)が強く関与していたことを論ずる。
  2. ② 次に、聖徳太子の母である穴穂部真人王女は、地縁血縁において物部氏と深い関係があったこと。それ故に、聖徳太子と穴穂部真人王女が物部氏の支配地であった斑鳩に宮を構えた。その傍に存在する藤ノ木古墳における二人の被葬者は、暗殺された穴穂部真人王女の弟たち(穴穂部王子と泊瀬部王子=崇峻大王)であることを論ずる。
  3. ③ そして、聖徳太子の実像とその聖人化について詳細に述べる。
    • ★ 聖徳太子が聖人化された理由の一つは、聖徳太子が2度における遣隋使の失敗により政治生命を失って仏教に傾倒していった悲劇の王子であったこと
    • ★ そして聖人化の最大の理由は、聖徳太子の子孫である山背大兄王一家が虐殺されたことにあった。この虐殺の首謀者は蘇我入鹿ではなく、軽王子(孝徳大王)であった。それゆえに孝徳大王以降の王権関係者は聖徳太子の怨霊を鎮魂するために、聖徳太子を倭国版釈迦として聖人化したこと
    を論ずる。法隆寺の釈迦三尊像などの聖徳太子関係史料の製作年代についても考察する。
【はじめに】

筆者は古事記と日本書紀には、多くの創作や隠ぺいがあると考えるに至っている。今回は、敏達朝~推古朝の政治動向と聖徳太子史料について検証した。この時代は日本書紀成立の720年から、わずか100年~150年前のことである。当時の王権に関わる人々がこの時代の出来事を知らなかったはずがない。それなのに、「到底史実とは思われない聖徳太子の説話記事」が多く記されている。聖徳太子の聖人化は全て後世に創作されたとする大山誠一氏などの説に基本的に賛同することとなった。しかし、用明大王の王子で推古朝において太子相当の地位であった人物が存在したことは事実であると考える。丁未の乱前後の政変および聖徳太子の聖人化と実像について述べることにする。

第一章 丁未の乱(蘇我物部戦争)についての考察

1.丁未の乱から推古即位に至る経緯

敏達朝以降、崇仏・廃仏を絡めて蘇我馬子と物部守屋との政争が激化する。日本書紀の記述を要約すると次のようになる。

  • * 敏達十四年三月、物部守屋は大王の命令をもとに馬子の建てた寺の塔を壊し、仏像と仏殿も焼いた。さらに鞍作司馬等の娘である善信尼らを鞭打ちの刑にした。
  • * 同年六月、大王は三人の尼を馬子に返した。馬子は喜んで新しく寺院をつくり仏像を迎い入れて供養した。――ある本には、物部守屋・中臣磐余・大三輪逆らは、仏教を滅ぼそうと共謀したが、馬子が反対してそれをさせなかったとある。
    ―同年八月敏達没―
  • * 用明元年五月、穴穂部王子が敏達の殯宮に居た炊屋姫王后に会おうとしたが、三輪逆がそれを阻止した。怒った穴穂部王子は物部守屋に命じて、三輪逆を殺させた。このことより馬子と炊屋姫王后は穴穂部王子を恨むようになった。
  • * 用明二年四月、新嘗の大祭りの際、大王が仏法に帰依したいと語った。守屋と中臣勝海が反対した。穴穂部王子が豊国法師を連れてきたので、守屋はおおいに怒った。押坂部毛屎が守屋に「群臣たちがあなたを陥れようとしています。いまにもあなたの退路を断ってしまうでしょう。」と言った。大連はこれを聞いて、別業のある河内の阿戸に退いて人を集めた。
  • * 同月、中臣勝海は大連を助けようとした。太子の彦人王子と竹田王子の像をつくって呪った。中臣勝海は彦人王子の水派宮から退出するとき、迹見赤檮によって殺された。(迹見赤檮は丁未の乱のとき守屋を射殺している。)
    ―四月九日用明没―
  • * 五月、守屋の軍兵が人々を驚かした。穴穂部王子を立てて大王にしようとして、淡路に狩猟をしようとした。このことが漏れて、馬子が炊屋姫王后を奉じて、穴穂部王子と宅部王子を殺した。
  • * 七月(丁未の乱):馬子は諸王子と群臣とに進めて、守屋を滅ぼそうと謀った。泊瀬部王子、竹田王子、厩戸王子などの王族やほとんどの群臣の兵が守屋討伐に進軍した。守屋は殺されて物部本家は滅んだ。(なぜか彦人王子の名は無い。)
  • * 八月、炊屋姫王后と群臣が(泊瀬部王子を)大王に勧めて即位の礼を行った。
  • * 崇峻五年十一月三日、蘇我馬子は東漢駒を使って大王を殺した。この日、大王を倉梯岡陵 に葬った。群臣は敏達の王后であった炊屋姫王后が大王位につがれるように要請したが、王后は辞退された。三度目にいたってついに従われた。
  • * 翌年(推古元年)四月、厩戸豊聡耳王子を太子とされ、国政をすべて任された。
    (このとき竹田王子の名は無い。)
2.穴穂部王子謀殺・物部守屋討伐・崇峻暗殺の首謀者は炊屋姫王后か?

★以上の日本書紀の記述は、一部に隠されたことがあるが、おおよそ史実と考えてよいだろう。しかし、諸事件の首謀者は全て蘇我馬子であるように記されている。馬子はあくまでも臣下である。有力な王族たちの意向を無視して事件を起こすことは考えられない。諸事件の背後に炊屋姫大后の影が感じられるのである。

≪穴穂部皇子謀殺事件≫

この事件において、「馬子は炊屋姫大后を奉じて佐伯連丹経手らに穴穂部王子と宅部王子の誅殺を命じた」と記す。これだけでは首謀者が馬子と炊屋姫王后のどちらかであるか判断できない。しかし炊屋姫王后は、寵臣(あるいは愛人)であった三輪逆を殺した穴穂部王子を恨んでいた。よって炊屋姫大后が穴穂部王子謀殺に積極的に関与したことは間違いないだろう

≪丁未の乱(物部守屋討伐)≫

この事件には、穴穂部王子の弟の泊瀬部王子をはじめ、ほとんど全ての王族や諸豪族が参加している。日本書紀には「泊瀬部王子(崇峻大王)・竹田王子・廐戸王子(聖徳大子)・難波王子・春日王子・蘇我馬子大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅は軍旅を率いて、進んで大連を討った。大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣・・・・軍兵を率いて」と記されている。

このような軍事行動は臣下である蘇我馬子が命じることは出来ない。このとき、大王級の権力を有していた炊屋姫王后の詔があったからと推測できる。

守屋討伐の筆頭は泊瀬部王子(崇峻)、2番が竹田王子で、3番目が厩戸王子(聖徳太子)である。つまり、大王候補の筆頭が泊瀬部王子(崇峻)で、2番目が竹田王子で、厩戸王子は3番目ということである。おそらく兄の穴穂部皇子が殺された後は、馬子と炊屋姫王后(推古)の傀儡になり、大王に擁立してもらうことを条件に守屋討伐に同意したのであろう。事件後、当然のように泊瀬部王子(崇峻大王)が即位しているからである。炊屋姫大后としては、崇 峻の後には最愛の息子の竹田王子を即位させるつもりだったのであろう。

≪崇峻大王暗殺≫

日本書紀は「蘇我馬子が東漢直駒に崇峻大王を殺させた」と記す。しかし、馬子の判断だけで大王を殺すことはあり得ない。臣下であるものが悪口を言われただけで、しかも大伴小手子妃からの伝聞で殺すとは到底考えられない。

つまり、崇峻暗殺には重要な理由があったはずである。

推古大王 それは、竹田王子の死であると考える。丁未の乱のとき、竹田王子は大王候補の2番目であった。ところが崇峻暗殺後の推古即位のときには、竹田王子の名は記されていない。竹田王子が生存していたら大王に即位したか、太子になったはずである。炊屋姫王后は竹田王子を溺愛していた。後に推古大王は亡くなる直前、自分を竹田王子の墓に葬ってほしいという遺言をしている。崇峻の次の大王は竹田王子と考えていた炊屋姫王后にとって、崇峻を傀儡大王として続けさせることはむしろ自分たちにとって危険な存在となった。あるいは崇峻が傀儡から脱しようとしていたかもしれない。馬子の要請もあったと考えられるが、炊屋姫王后は自ら崇峻に代わって大王になることにしたと考えられる。なぜなら、このとき大王候補3番目の厩戸王子も十九歳で大王になるのに十分な年齢であった。それなのに、炊屋姫王后が即位したのである。推古大王即位のとき、三度目の請願により承諾したと記す。三度目で承諾するということは形式儀礼で、元々大王につく予定であったということである。彼女の意志が感じられる。炊屋姫王后は崇峻に代わって自らが大王になることにしたと考える。馬子は大王を殺すような大逆をしたにもかかわらず全く罪に問われていない。このことも崇峻暗殺が炊屋姫王后の命令によって行われたことを補強する。以上のように崇峻暗殺には、馬子よりも炊屋姫王后(推古大王)の関与が強く感じられるのである。

第二章 聖徳太子と物部氏

1.残された疑問
蘇我馬子・聖徳太子家系図

前章で一連の政争について考察したが、大きな疑問が残った。それは、守屋が非蘇我系の彦人皇子ではなく、蘇我系の穴穂部王子を大王に擁立しようとしたことが不可解なのである。日本書紀によれば、穴穂部真人王女、穴穂部王子、泊瀬部王子の三姉弟の母である小姉君は、蘇我堅塩媛の妹とされる。蘇我馬子にとって小姉系三姉弟は、血縁は額田部王女(推古大王)と同等の姪・甥である。物部守屋が穴穂部王子を擁立しようとしたとしても、泊瀬部王子(崇峻大王)が馬子の傀儡であったにしても、近親者である甥を殺すことは異常である。

2.聖徳太子の母(穴穂部真人王女)と物部氏との関係
  1. ① 上記の疑問を解くきっかけは、古事記の欽明記の次の記載である。
    『(欽明大王が)岐多志毘賣命の姨、小兄比賣を娶りて生みし御子は、馬木の王・・・』とある。
    「姨」とは中国語辞典によれば(ⅰ)母の姉妹(ⅱ)妻の姉妹である。この場合は岐多志毘賣(堅塩媛)の姨なので、岐多志毘賣の母の姉妹ということになる。
    ということは、小兄比賣(小姉君)は蘇我稲目の妻の姉妹になり、物部の女の可能性が浮上する。実際、記紀には堅塩媛と小兄比賣に母親は記されていないのである。
  2. ② さらに物部氏と三姉弟(穴穂部真人王女、穴穂部王子、泊瀬部王子)との関係も見出すことができた。穴穂部や泊瀬部は安康大王と雄略大王にちなんで創立された名代である。この二人の大王は物部氏によって支えられていた。よって、穴穂部や泊瀬部を管理していたのは物部氏であったと考えられる。
  3. ③ 崇峻大王(泊瀬部王子)の妃についても物部氏との関係が隠されていることがわかった。欽明、敏達、用明の三人の大王の妃と子は、日本書紀も古事記もほぼ同じ記載である。しかし、崇峻大王だけが異なっているのである。古事記には崇峻大王の妃の記載がない。その一方で、日本書紀では崇峻大王の妃は大伴小手子で、「蜂子王子と錦代王女を生んだ」と記す。しかしこれは虚偽である。なぜなら『釈日本紀』が引用する『上宮記下巻注伝』には、聖徳太子の子である長谷部王と大伴小手子との子が「波知乃古(はちのこ)王と錦代王である。」と記されている。(大山誠一『聖徳太子の真実』2014平凡社)
    つまり日本書紀編纂者は、長谷部王の妃と子を、泊瀬部王子(崇峻)の妃と子にすり替え捏造したのである。では崇峻の真の妃は誰か、『先代旧事本紀』では崇峻の妃として物部守屋の妹の布都姫が記されている。(布都姫はその後、物部石上贄古の妻となったとされる。)崇峻の妃は守屋の妹であったのである。そしてそのことを隠すために、古事記は妃を記さず、日本書紀は上宮記の記載から盗用したと考えられる。以上の考察より、小兄比賣(小姉君)系の三姉弟は血縁も含めて物部氏と密接な関係があったことは間違いないと考える。蘇我馬子が穴穂部王子と崇峻大王を容赦なく殺したことが納得できるのである。
3.聖徳太子の母が廃仏であってはならない!
飯田が推定する物部氏の中心領域

なぜ日本書紀は小姉君の三姉弟が物部系であることを隠したのか。筆者は、聖徳太子の聖人化と関係していると推測する。日本書紀の編纂期は国家仏教の最盛期であった。廃仏の物部守屋を悪人として扱っていることからも理解できる。仏教の聖人である聖徳太子の母(穴穂部真人王后)が廃仏の物部系の王女であったことは、極めて不都合なことである。このことは絶対に隠さなければならなかった。よって日本書紀は穴穂部三姉弟の母(小姉君)を崇仏の蘇我の娘として虚偽記載したのであると、筆者は考える。実際、穴穂部真人王后が廃仏であったことを示唆する史料も存在するのである。奈良時代に造られたと考えられる薬師如来像光背銘と釈迦三尊像光背銘では、穴穂部真人王后は蔑ろにされていて、鬼前太后とも記されている。「鬼前」とは「祖先の霊の前」ということであり、穴穂部真人王后は仏教徒ではなかったことになる。

崇峻暗殺後、既に十九歳の厩戸皇子に即位させなかったのも、馬子と推古の意志であると考える。厩戸王子は推古大王の甥(実兄の子)であるが、その母は暗殺された穴穂部王子と崇峻大王の実姉である。馬子と推古から警戒されていたのであろう。

≪聖徳太子と斑鳩≫

物部本家が滅んでから十数年後、穴穂部真人王后は息子の厩戸王子(聖徳太子)と共に物部氏の本拠地であった斑鳩に宮を構えた。その理由は、既に論証したように、聖徳太子の母である穴穂部真人大后とその弟の穴穂部王子と泊瀬部王子(崇峻大王)が物部氏との密接な関係にあったことである。斑鳩の地が物部氏の支配地であったとことを示す文献は少ない。しかしながら古代の最大の氏族である物部氏の領域が、石上地域だけの狭い地域であったとは考えられない。斑鳩は、白庭・登美・矢田など物部氏伝承の富雄川流域の地域内であり、物部氏の河内の本拠地と大和とをつなぐ大和川水運の重要な地域でもある。

亀井輝一郎氏によれば、斑鳩に隣接する安堵町は、物部一族の水運に関係する阿刀氏の大和での居住地であったとのことである。安堵の元は阿刀であったとする。(亀井輝一郎『大和川と物部氏』日本書紀研究第9冊)物部氏は大和川の河内とヤマトの大和川流域を支配していたのである。

  • * さらに、橿原考古研の小栗明彦氏によれば斑鳩に存在する藤ノ木古墳は、物部氏の古墳とされる石上古墳群と構造が全く同じとのことである。
  • * 斑鳩の一部は、平安時代以前から物部の枝氏族である矢田部氏の領地になっている。
    また矢田坐久志玉比古神社(主神は饒速日命)が式内社として大和郡山市矢田に存在する。
  • * 大和における物部氏の領地は石上地域だけとされるが、それは物部本家が滅んでからのことであり、最大の氏族であった物部氏の本来の領地はそれだけであったとは考えられない。より広大であったと考えられる。
    筆者は、奈良盆地の北半分が物部氏の支配する地域だったと推測している。(図参照)
    さらに、斑鳩以外の物部氏の領地も法隆寺や上宮王家の領地となった。
    1. (ⅰ)近江の物部郷
    2. (ⅱ)河内国の渋川郡(八尾市)
    3. (ⅲ)河内国の交野郡(枚方市)
    4. (ⅳ)播磨国(兵庫県揖保郡太子町鵤)その他
  • * つまり物部氏の多くの領地を聖徳太子(上宮王家)が引き継いだのである。聖徳太子が物部氏と強い関係があったことは間違いない。その関係とは既に述べたように、聖徳太子の母の穴穂部真人王后が物部氏と血縁地縁を含めて強い関係があったからである。それゆえに聖徳太子は母と共に物部氏の領地であった斑鳩の地に居住することにしたと推測できる。奴婢となった元物部氏の部民たちも穴穂部真人王后や太子一族に従うことができたと考えられる。
4.藤ノ木古墳の被葬者は崇峻天皇と穴穂部皇子

藤ノ木古墳 この古墳は、六世紀末ころのもので、法隆寺や聖徳太子と関係あることは間違いない。穴穂部皇子と宅部王子や崇峻大王、さらに女性説もある。二人が埋葬されているが、筆者は、北側の人骨が多く残っているほうが崇峻天皇、南側の人骨の損傷が多いほうが穴穂部皇子と考える。その主な根拠を記す。

藤ノ木古墳石棺内遺物の図
  1. 被葬者は、聖徳太子や穴穂部真人大后に関係ある人物と考えられる。
  2. 金銅性王冠 金銅製の王冠と沓が北側の足元に置かれていた。特に王冠は、鏡や剣とは異なり最高の威信財で、単なる王子では所持できない。大王のものに間違いない。
    (頭上ではなく足元に置かれているのも不可解で、その死が異常であったことを示唆する。)
  3. この時代の複数の埋葬者はほとんどが近親者である。骨考古学者の片山一道氏によると、二人とも男性であるのは間違いなく、血液型が共にB型であることから、近い関係の人物とする。
    「女性説については、骨考古学に対する認識不足で的外れの指摘。これで〝男と男〟として最終的に決着がついたものと思う」とし、次のような結論を導き出した。「2人ともみまかりにくい若い年頃で亡くなっており、なんらかの事件もしくは事故に巻き込まれ、ただ事ならざる事由によって死を迎えた。2人は社会的にも血縁的にも非常に近しき関係にあったとみられる。」(片山一道『骨が語る日本人の歴史』2015 ちくま新書)
    崇峻天皇御廟

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  4. 古くから明治になるまで、崇峻天皇の墓であるとの文献や伝承が存在した。法隆寺に伝わる平安時代の文書には、藤の木古墳の周辺に寺が存在していたことが記されており、その後、江戸時代の宝永二年(1705)には、その寺は法隆寺末寺の宗源寺の管理となり、「陵山王女院宝積寺」と呼ばれるようになった。宝永二年(1705年)の「陵山王女院宝積寺絵図」には「崇峻天皇御廟」と記されている。この「陵山」とは崇峻天皇御廟のことである。
  5. 日本書紀では、崇峻天皇は暗殺された日に倉梯岡陵に葬られたと記すが、殯(もがり)もなく、殺された日の埋葬がそのままであったとは考えられない。『延喜式』諸陵式にも「無陵地幷無戸」とあり、他の地に移されたことを示唆する。

以上のようにこの古墳の被葬者は崇峻大王であることは間違いないと考える。

★聖徳太子と穴穂部真人大后は、この古墳の傍の斑鳩宮とその東にあった中宮に居住していた。古墳の被葬者は誰であるか、当然知っていたはずである。むしろ二人は、この古墳の造成に中心的に関わった可能性が高い。穴穂部真人王后は古来からの神仙思想に基づいて、この古墳の被葬者である二人の弟たちの霊を祀ることをしていたのであろう。「鬼前太皇」の称号と合致するのである。一方で、仏教徒であった聖徳太子は(再建以前の)法隆寺において、二人の叔父(穴穂部王子と崇峻大王)を弔い、供養していた可能性が高いと考えられる。

【古代史家の限界】

この古墳については、明治時代にも崇峻天皇陵説がそれなりに存在した。

ところが、藤の木古墳の発掘後は、崇峻天皇説をとる専門家はほとんど存在しなくなってしまった。天皇陵があばかれたことにしたくない=天皇制にたいする忖度であろうか。さらに、天皇が暗殺されるはずがない、崇峻天皇は殺されておらず幽閉されただけであるとするなどの天皇中心史観の「学者」も存在する。古代史研究にとって嘆かわしいことである。

法隆寺近辺の地図

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第三章 聖徳太子の実像を探る

★聖徳太子の最大の謎は、この王子はなぜ聖人化されたのか、実像はどのようであったのかということである。様々な史料などを学ぶことを通じて筆者の説を述べることにする。

1.聖徳太子の出生と名前の謎

★聖徳太子という名は奈良時代の天平勝宝3年(751年)成立の懐風藻が初出とされるが、日本書紀には様々な名前が記されている。

  • *敏達五年:「東宮聖徳」
  • *用明元年:「厩戸皇子」(注に、異称として、「豊耳聡聖徳」「豊聡耳聖法大王」「法主王」)
  • *推古元年:「厩戸豊聡耳皇子」「上宮厩戸豊聡耳太子」
  • *推古二十九年: 「厩戸豊聡耳皇子命」「上宮太子」「上宮皇太子」
  • *舒明即位前記:「皇太子豊聡耳尊」「聖皇」

上記のほとんどは聖人化された名称であることは明らかである。日本書紀の編纂期に成立していた聖徳太子信仰に基いてつけられたものとして間違いないであろう。唯一「厩戸皇子」が少年時代の名のように見えるが、これとて創作された名称であると考えられる。

★聖徳太子の誕生について、日本書紀の推古元年に次のような記載がある。

「母の穴穂部真人皇后が出産予定日に・・厩の戸にあたった拍子に出産した。生まれて程ないときからものを言われ、聖人のような知恵をもっていた。壮年になって一度に十人の訴えを聞かれても、誤ることなく理解できた。また未来のことも知っていた。」

などと記されている。これは、馬小屋(家畜小屋)で生まれたとされるイエス誕生逸話に類似しているが、むしろ釈迦誕生逸話のほうにより類似している。

「マーヤーが出産のため郷里に帰る途中に立ち寄った花園で花枝を手折ろうと手を伸ばしたところ、右脇から釈迦が生まれた。生まれられたばかりの太子は東西南北に七歩ずつ歩かれ そして、天と地を指差されて、天上天下唯我独尊と仰言った。」

この聖徳太子誕生説話についての通説は、「記紀編纂期に遣唐使を通じて、中国をはじめ様々な国の文化・思想が流入した影響」とされるが、筆者も同意するものである。つまり、厩戸皇子(聖徳太子)は倭国版の釈迦として聖人化されたということである。「厩戸」という名についても、他のほとんどの王子のような養育地や養育氏族の名ではない。厩戸皇子の兄弟の来目王子・殖栗王子・茨田王子もすべて地名である。しかし厩戸王子(聖徳太子)だけは、出生逸話=「厩の戸にあたった拍子に生まれた」に基く名である。この王子の元の名が何であったかは全くわからない。

≪キリスト教との関係について≫

久米邦武は明治38年(1905)に『上宮太子実録』で次のような説を述べている。「記紀編纂当時、唐で隆興していた景教(ネストリウス派のキリスト教)が日本に伝わり、イエス・キリスト誕生の逸話が聖徳太子伝説に借用された」との説である。現在この説はほとんど否定されている。筆者も、聖徳太子誕生はキリスト教ではなく釈迦誕生説話に類似していることを述べた。しかしキリスト誕生説話との関係も完全には否定できないと考えている。景教が奈良時代に伝わっていた可能性があるのである。その根拠は、日本書紀・神功紀における神功年や引用する魏晋の年号と西暦との関係である。

≪キリスト教伝来の証拠:日本書紀神・功紀より≫
  • ★ 神功39年:明帝の景初三年(239年)六月、倭女王・・朝貢す。
  • ★ 神功40年―魏志に云わく、正始元年(240年)、建忠校尉等を派遣す。
  • ★ 神功43年―魏志にいう、正始四年(243年)、倭王は伊声者掖耶ら八人を遣わした。
  • ★ 神功66年:晋の武帝泰始二年(266年)晋の居注に倭の女王が訳を重ねて貢献したとある。

※神功皇后の年代と西暦の下二ケタの年代がすべて一致しているのである。最初の景初三年が239年であれば、後は西暦と合致することになるが、そのように偶然に一致する確率は数%でしかない。よって西暦が奈良時代に伝わっていた可能性が生じる。ただ、西暦はこの8世紀には成立していないということが通説らしい。

【西暦についての通説】
「西暦は6世紀のローマの神学者ディオニュシウスによって算出されたとのことである。525年、当時ローマで用いられていたディオクレティアヌス紀元に替えて、イエス・キリストの受肉(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案したとのことである。ただし、西暦1年から524年までは概念上の存在であり、同時代に紀年法として使用されたことはなく、その後も長らくこの紀年法は受け入れられなかった。10世紀頃にようやく一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは15世紀以降のことであるという。」

上記の通説通り西暦が10世紀以降に日本に伝わったことなら、この日本書紀の神功年は後世に書き加えられたことになる。しかし一方で、西暦が、唐で興隆していた景教において既に成立していて、奈良時代に景教と共に伝わっていた可能性はゼロではないと考えている。その判断は今後の学習にゆだねることにする。

2.日本書紀における聖徳太子関係記事の考察

日本書紀には聖徳太子について様々な記事が記されている。これらを整理しながら筆者の説を述べる。

① 史実とは思われない説話

★まずは二つの記事を示す。

≪推古元年≫
≪推古二十一年≫

★以上明らかなように、この二つの記事は歴史的史実ではなく、聖徳太子信仰に基く宗教的記述である。ところが、現代の多くの古代史家は十七条の憲法が聖徳太子の作であることを語るが、この二つの記事についてはほとんど語ろうとはしない。この二つの記事について語ることは、聖徳太子の虚構につながるとともに、日本書紀が似非歴史書であることを示すことになるからであろう。この二つの記事は、日本書紀という「歴史書」の一面を示しているのである。(同様なことは中臣鎌足に関する記述に見られるが、別の機会に述べることにする。)

② その他の説話

★聖徳太子に関して上記の二つ以外にも史実ではないと思われる説話などが記載されている。

③ 史実の可能性が高い仏教関係の記事

史実と考えられない記事がある一方で、次の記事は何らかの記録や伝承に基くものと推察する。聖徳太子は仏教の興隆に尽力した王子であったことは真実であると考える。

④ 仏教以外の政治関与の記事

★さらに、聖徳太子は太子級の存在で政治に関与していたのも事実であると考える。次の4つの記事も創作とは考えられない。何らかの記録が残されていたと考えられる。

3.聖徳太子はなぜ大王になれなかったのか

★これまで述べてきたように、聖徳太子を偉大な仏教の聖人とする逸話や伝説は、史実ではなく後世に創作されたことは間違いない。それらを除くと、実像としては、仏教の興隆に尽力した太子級の王子であったことだけになる。最大の謎は聖徳太子信仰が生まれた理由であるが、まずは、聖徳太子が大王になれなかったのかについて述べる。結論からいうと、遣隋使の失敗により政治生命を絶たれた悲劇の太子であったと推測する。この説は、井沢元彦氏や黒岩重吾氏も唱えている。

① 最初の遣隋使の屈辱

『隋書倭国伝』には、開皇二十年(600年)の遣隋使について、次のように記されている。

★隋の高祖文帝(楊堅)から「馬鹿げたことなので、改めるべきだ」と説教されたのである。倭国の祭祀を蔑められて未開の夷国扱いされたあり、大変な屈辱である。日本書紀に600年の遣隋使を記さなかったのはそのためであったと推測できる。この遣隋使には聖徳太子が強く関与していたと考えられる。その根拠は「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる」との記載である。使いを派遣した倭王は「多利思比孤」つまり男王である。女帝の推古大王や大臣の蘇我馬子ではなく、聖徳太子以外に考え難い。

② 致命的な二度目の遣隋使

★それから7年後、607年に二度目の遣隋使として小野妹子らを隋に派遣する。おそらく聖徳太子は前回の失敗を挽回しようとしたのであろう。隋書には次の記述がある。

「隋も倭国も天子の国」としたのである。聖徳太子は、隋との対等の関係を伝えた偉大な政治家であったとする考え方が広くあるが(筆者も子供の頃はそう思っていた。)このような国書は、当時としては極めて非常識なもので、外交としては失格である。天子は中国の皇帝だけであるはずの隋の煬帝にとっては無礼極まることであり、激怒するのは当然である。聖徳太子にとっては致命的なことだったのである。翌608年、煬帝は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。隋書にはそのときのことが記されている。

★つまり、倭王=聖徳太子は「我は夷人にして海隅に僻在し、禮義を聞かず」と裴世清にひたすら謝ったのである。隋との外交の大失敗である。これは聖徳太子にとっては致命的なことだった、政治生命が絶たれたと推測できる。

★黒岩重吾氏は、この遣隋使は高句麗僧の恵慈による謀略とする。隋の高句麗への攻撃を止めさせるために、隋の矛先を倭国に向けさせようとするものであったとする。(黒岩重吾『日出づる処の天子は謀略か』2000年 集英社新書) 筆者も恵慈による謀略の可能性はかなり高いと考える。黒岩氏の説を取り入れながら自説を述べる。

★恵慈の来倭は595年で、高句麗と隋との関係が緊張するようになっていたときである。 遣隋使の2年前の605年に、高句麗は300両余りを倭国に贈っている。倭国に対して同盟を求めていたのであろう。
このとき隋と高句麗の間では極めて緊張状態にあった。遣隋使と同じ607年、高句麗の使者が隋の属国となっていた東突厥を訪れて、高句麗は東突厥と連携した。このことを知った隋の煬帝は高句麗遠征を計画するようになる。高句麗が他国と連携することを煬帝は強く警戒していた。まさにそのときに倭国から無礼な国書を送ってきたのである。煬帝は、この倭国からのあり得ない国書の裏に高句麗の影を感じたのではないだろうか。倭国が高句麗と同盟する可能性を危惧したのではないだろうか。(煬帝は5年後の612年に100万人以上大軍を率いて高句麗に親征する。)

★煬帝が裴世清を倭国への派遣した目的が、単に倭国の無礼を咎め謝罪を求めるだけであったとは考え難い。倭国に高句麗の影を感じた煬帝は、倭国の地理・政治・軍事などの情報を得ることを主目的として、裴世清を派遣したと推測できる。その根拠は隋書には倭国のことが、様々な点で詳細に記されているからである。

★以上のような倭国についての詳しい情報は裴世清一行によって隋にもたらされたものであると考えて間違いないであろう。

③ 隋からの国書と倭国の対応

★日本書紀にも裴世清の来倭について詳しく記されている。隋書とはかなり異なっているが、これについて少し検討する。

≪裴世清一行を迎える記事≫

★大歓迎というより、隋を畏れて機嫌を損ねないような過剰なもてなしのように感じられる。

≪国書紛失の記事(要約)≫

★最重要の国書を百済人に掠め取られることはあり得ない。おそらく推古大王や聖徳太子も国書を読んでいて、その内容は多くの官人にも伝えられていたのであろう。この国書の内容を推測する手がかりは、隋が高句麗に対して送った脅迫的な国書である。黒岩重吾によると、三国史記・高句麗本紀に、隋の楊堅(文帝)から高句麗への国書(598年)が記されているとのことである。

★さらに黒岩氏は、「裴世清が持参した煬帝からの国書も同様のものであり『高句麗に味方するようなことがあれば倭国を滅ぼすぞ』との倭国を脅迫した」と推測する。
筆者も同感で、倭国の無礼を咎めるとともに脅すような内容であったと考える。既に記したことであるが、倭王(聖徳太子)が「我は夷人にして海隅に僻在し、禮義を聞かず」と裴世清にひたすら謝ったことが、隋書に記されている。このことは、単に無礼を謝罪したのではなく、煬帝の脅迫に屈したものと考えことができる。裴世清の帰国のときの言葉『即ち塗(みち)を戒めよ』も、無礼のことを改めよということではなく、「高句麗に味方することを止めよ」ということと考えられる。

★そして、日本書紀における「新しい館の建造や30艘での出迎え」などの大歓迎は、隋書における「(倭国は道を清め館を飾り、以って大使を待つ」との記載と合致する。倭国は隋に恭順して怒りを収めてもらうとしたのである。

★日本書紀の編纂者は、隋からの威圧的な国書の内容と、「我は夷人にして・・禮義を聞かず」とひたすら謝ったことは「自国(倭国=日本)を貶めることになるので、到底記載できることではなかった。そこで国書を百済人に盗まれたことにしたのであろう。日本書紀に600年の遣隋使を記さなかったことと同様である。

≪隋の皇帝と飛鳥の大王が対等であるとの記述≫

★日本書紀には、裴世清一行は難波から飛鳥の海石榴市に到着して、そこでも大歓迎されたことが詳しく記されている。その記述のうち重要なことは、裴世清が語った煬帝からの親書の内容と、これに応えるように、天皇(推古大王?)が裴世清の帰国のときに語った言葉である。

★国書が紛失したのに親書があることも不可解だが、隋の皇帝が東夷の王に語る言葉とは考えられない。「隋の皇帝が日本の天皇に対して対等であり敬意を払っている内容」で、あり得ないことである。

★難波の大郡で(裴世清の帰国の際)

以上のように日本書紀においては、隋と倭国の関係が隋書とは全く異なっていて、倭国ととの関係が対等であるような記述である。しかしこれはあり得ないことである。隋は高句麗に対してさえ上から目線の国書を送っている。高句麗はそれに対して遜った態度をとっている。当時の倭国は隋とは国力や文化が全く異なる。隋の皇帝が文化の遅れた東夷の倭国を対等に扱うはずがないのである。「東の天皇は、謹んで西の皇帝に」との日本書紀の記述は、煬帝が激怒した「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す」に合致させたものと推測できる。その一方で、煬帝が激怒したことや「自分は夷人で、礼儀を知らない。」と謝罪したことは、日本書紀には、記されていない。日本という国を貶めることは、ミニ中華思想が成立していた奈良時代の日本書紀編纂者はとても書けなかったであろう。

★この隋の皇帝の親書と日本の天皇の送る言葉は日本書紀における創作であることは間違いない。にもかかわらず、多くの古代史家が、「自分は夷人で、礼儀を知らない。」と謝罪したことを一切語らず、当時の隋唐の外交の常識も無視する。そして、隋書の「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す」や日本書紀の対等の記述に基いて「聖徳太子は隋と対等の外交をした偉大な政治家」であったと述べる。このような似非愛国主義に基づくネオ皇国史観では歴史の真実が明らかになるはずがない。いや、そういう方々にとっては真実なんてどうでもよいのであろう。筆者は、古代に限らず近代史を含めて真実を明らかにすることこそが、真に日本を愛することであると考えるものである。

4. 聖徳太子一家の怨霊

★前節では隋書と日本書紀との比較の考察になってしまったが、再び聖徳太子を中心に据えて述べていくことにする。黒岩重吾氏は次のように遣隋使の失敗について次のように述べる。

筆者も同感である。この二度におよぶ遣隋使の屈辱により、聖徳太子は完全に政治から離れて仏教一筋に生きることになったと考える。実際日本書紀では、この推古十六年608年から聖徳太子は、国記・天皇記の編纂以外には登場しない。推古二十年に大王が群卿たちに宴を賜わり、馬子は杯を奉ったとき、太子の名はない。さらに、推古二十年の堅塩媛の檜隈大陵への改葬という一大国家行事には聖徳太子は参加していない。政治から離れて、仏教一筋に生きることになったのである。しかし筆者は、聖徳太子信仰が成立することになった理由として、「仏教の普及に大いに貢献したが、政治生命を失ってしまった悲劇の王子で」の黒岩説だけでは、不十分であると考えていた。

★そこで、出会ったのが、梅原猛の怨霊説であった。梅原氏は述べている。

筆者は梅原説のすべてに賛成するのではないが、再建法隆寺は「聖徳太子一家の怨霊を鎮魂する寺」であったことは間違いないと考える。梅原説を参考にして、筆者の説を述べていくことにする。

① 山背大兄王一家虐殺事件の首謀者

★日本書紀では、皇極二年(643年)の記事に次のように記す。

そして、山背大兄王は逃げて一族と共に生駒山に隠れたが、斑鳩宮に戻り「子弟妃妾と諸共に自決した。」と記されている。
このように、入鹿が山背大兄王を殺したように記している。しかし、入鹿は山背大兄王の従兄弟であり、虐殺を命ずることは考え難い。実際、日本書紀の記述でも「速やかに山に行ってかの王を捕えよ」と言ったと記されていて、逮捕するように命じているだけである。蘇我系の古人大兄王子を擁立させるために誘われただけと推測できる。では、斑鳩宮を直接襲撃した土師裟婆連巨勢徳太、および大伴長徳(馬飼)はどのような人物であったのか。入鹿の配下ではなく、軽王子(孝徳大王)側の人物であったことがわかる。日本書紀などの記述からその根拠を述べる。

★以上のように、大伴長徳(馬飼)、土師裟婆連、巨勢徳太の三人とも反蘇我の王族(皇極大王・軽王子)と親密な人物であったことがわかる。彼らは、軽王子(孝徳大王)側の配下だったのである。入鹿がこの事件の首謀者のように記すのは日本書紀の捏造である。(二年後の乙巳の変も、首謀者は軽王子であることを合理的に説明できる。さらに皇極大王も関与していたと考えられる。これについては別の機会に述べる。)

★よって虐殺の張本人である巨勢徳太が、法隆寺に食封を寄付したのは、梅原氏が述べるように聖徳太子一家の怨霊を鎮めるためであったと考えることが最も適切である。

② 山背大兄王が抹殺されたもう一つ理由?

★筆者には一抹の疑問があった。それは、なぜ蘇我入鹿が従妹である山背大兄王の抹殺に同意したのかということである。山背大兄王が次の大王としてふさわしくない何かの理由があったからではないだろうか。そこで舊唐書と日本書紀の舒明紀の両方に、唐の高表仁が来倭したことが記されていることを見出した。
『舊唐書』には、遣唐使が唐からの帰国に伴って唐の高表仁が倭国を訪れた記事がある。

この倭国の王子は山背大兄王であった可能性が高い。日本書紀にも、舒明四年(632年)に高表仁の来倭は記している。しかしなぜか王子との争いは記していない。筆者の推測ではあるが、これから唐の文化を取り入れるためにも、このような唐の大使と争うような山背大兄王の即位は阻止しなければならなかったのではないか、それが入鹿が山背大兄王一家の襲撃に賛成した理由ではないだろうか?

③ 法隆寺への食封と祈願

★巨勢徳太が法隆寺に食封を寄付してから何年か後、法隆寺が再建されていた奈良時代には、災禍の度に、法隆寺への食封、奉納、法要などがなされたことが、『続日本紀』と『法隆寺資材帳』に記されている。その一部を示す。

≪和銅八年715年≫
  • * 再建法隆寺が正史に初めて登場する。
  • * 「聖徳感通」とは聖徳太子を匂わせている。聖徳太子のご加護もあったということである。
≪養老六年722年≫
  • * このころは藤原氏と天皇家にとって大変な年であった。その前の、養老四年720年には藤原不比等が、養老五年721年には元明天皇が亡くなっている。
≪天平三年731年≫
  • * 阿部内親王はじめ政権が、加護を頼んだのが「聖徳尊霊」だったのである。
≪天平六年734年≫
≪天平七年735年≫
≪天平八年(736年)二月二十二日≫
  • * 聖徳太子の薨去日は、釈迦三尊像後背銘文などの法隆寺系史料では二月二十二日とされており、この大法要の日と同じである。後年、法隆寺では「聖霊会」として定着する。
    (日本書紀に記す聖徳太子の薨去日=二月五日は採用しなかった)
≪天平九年737年≫
≪天平十年738年≫

★法隆寺は大王(天皇)家や藤原氏関係の女性たちにとって何であったのだろう。おそらく巨勢徳太や孝徳大王のように、聖徳太子の祟りを恐れたのであろう。異常とも言える多くの食封、奉納、法要は、聖徳太子が仏教興隆の功労者だっただけでは、説明できない。現代でも不幸なことが続けば、ほとんどの人から、「(怨霊に)お祓いをしなければならない」と言われる。何よりも祟りを鎮めることが求められるのである。奈良時代の政権中枢の人々が、多くの災害や重要な人物の突然の死は、怨霊の祟りであると思ったのであろう。その怨霊を鎮魂するために、食封や法要が行われたのである。「聖徳感通」「聖徳尊霊」から、怨霊は聖徳太子の霊以外にあり得ない。この奈良時代の初めころには、聖徳太子の怨霊が恐れられ、聖徳太子信仰が成立していたのである。再建法隆寺は聖徳太子一族の怨霊を鎮魂して、祟りを鎮めるためであったのである。

★多くの古代史家は、怨霊信仰は生まれるのは平安時代からで奈良時代には成立していないとして梅原説を否定している。しかし、日本書紀には神代における「出雲大社の建立により大国主命を鎮める記事」や崇神朝における「疫病などの災禍を収めるために、オオタタネコにより三輪山の大物主命を祀らせた記事」がある。この二つは祟りを鎮めるための祭祀であることは明白である。よって、怨霊信仰は決して平安時代からではなく奈良時代以前から、おそらくもっと昔から人々の心に存在していたと考えられる。弥生時代の広形銅矛や銅戈は、自然災害をもたらす悪神を追い払うための祭器であったと推測できる。自然災害などの人間社会に災禍をもたらすのは怨霊や悪神と考えることは、多くの現代日本人の心にも存在するものなのである。

5.聖徳太子関係史料の製作年代について

この節では、少し視点を変えて、下記の聖徳太子関係史料について考察する。

  • *十七条の憲法
  • *三経義疏
  • *釈迦三尊像と銘文
  • *薬師如来像と銘文
  • *天寿国繡兆と銘文
  • *救世観音
  • *伊予風土記逸文

★大山誠一氏や吉田一彦氏は、すべて、法隆寺再建後の天武朝以降のものとする。これに対して、東野治之氏や石井公成氏などの多数派の研究者は、ほとんどを飛鳥時代(聖徳太子時代)のものとする。そこで、上記の4人の研究者の説を詳細に検討した。その結果、ほとんどが日本書紀成立後に作られたものとする大山誠一氏や吉田一彦氏の説に賛同することになった。字数の関係で、解説は一部のみ述べる。

聖徳太子史料は全て奈良時代のもの

≪十七条の憲法≫

★この十七条は、『礼記』『誌経』『論語』『孟子』などといった中国の古典を引用して、仏教の精神をわかりやすく説いたものとのことである。ところが、600年の遣隋使の言葉からは、倭王(多利思北孤=聖徳太子)は中国思想を理解していなかったことがわかる。

★森博達氏も、十七条憲法の漢文の日本的特徴から7世紀とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたものとする。(『日本書紀の謎を解く』中公新書 1999)

★津田左右吉によれば「国司国造」という言葉や内容は、推古朝当時の国制と合わない。『日本書紀』編纂頃に作成されたものであろうとした。筆者も推古朝の人物がこのような漢文を書けるはずがないと考える。

≪三経義疏(特に『法華経義疏』について)≫

★『法華経義疏』『維摩経義疏』『勝鬘経疏』の3書は、天平十九年747年の『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』に、「上宮聖徳法王御製者」と記す。そのうち『法華義疏』は現在、宮内庁所蔵となっているが、その表紙には、わざわざ「「此れは大委国上宮王の私集にて海の彼方のものでは非ず」と貼り付けされている。本文より新しい書体で粗雑な文字であり、後に貼り付けされたものと考えられる。

★藤枝晃氏によれば、この種の義疏(注釈書)は当時の中国によく見られていて、『法華義疏』は梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文とのことである。文字が職業写経生のそれであることより、『法華義疏』は中国で書かれたものであって、聖徳太子の自筆ではないとする。

★魚住和晃も、『法華義疏』にみられる文字の書き直しや本書の漢文がきわめて高度に洗練されたものなどより、飛鳥時代の日本人が書けたか疑問であるとする。

≪薬師如来像と光背銘≫

★この像の光背銘文に刻まれる「天皇」や「東宮聖王」の文字の成立は 天武・持統朝以降であり、薬師信仰も、唐の則天武后の時代(7世紀末~)に生まれたものである。さらに、銘文の書体や彫刻様式が、後から造られたとする釈迦像より新しいことなどから、この薬師如来像だけは再建法隆寺以降に造られたことが定説となっている。

≪釈迦三尊像と光背銘≫

薬師像・釈迦三尊像・飛鳥大仏 ★「法興」という年号が推古朝に存在したことはあり得ない。大山誠一氏によれば、「法皇」という語も中国にもないもので、釈迦を示す「法王」と「天皇」との組み合わせとのことである。さらに「知識」と「佛師」の語についても、知識というのは仏教事業に協力する人々のことで、この語の初見は、天武十五年686年の『金剛場陀羅尼経』とする。
また「仏師」の語の初見は、正倉院文書での天平六年734年のこととする。

★そもそも、釈迦像と薬師像は極めてよく似ていて、止利の作であることが確実な飛鳥大仏とは類似しておらず、止利の作とは考えられない。像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は7世紀後半以降とみられる。

≪天寿国繡帳・銘文≫

天寿国繍帳 ★「公主」という言葉や「天皇」号が推古朝に伝わっているはずがない。また、「トヨミカケヤヒメ」や「トヨトミミ」のような和風諱号が推古朝には成立していないと考えられる。

★金沢英之によれば、孔部真人母王の崩日を「辛己年12月21日癸酉」としているが、暦日の「癸酉」は儀鳳暦(665~728)に基くものとのこと。
儀鳳暦がわが国で用いられたのは、持統四年690年以降のことであるから、この銘文はそれ以降の成立とする。推古朝において使われていた暦は元嘉暦であることは間違いない。なぜなら、奈良県明日香村の石神遺跡から出土した木簡には、元嘉暦法の具注暦が記されていて、689年のものであることが分かっている。

★東野治之氏は、「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」に記載される天武天皇が寄進した「繡帳二張」が、現存の繡帳にあたるとしている。

≪救世観音≫

救世観音 ★救世観音は法隆寺東院(夢殿)の本尊で、その夢殿は聖徳太子の斑鳩宮跡に、行信と光明皇后 らによって建てられたものである。『東院資材帳』には、「上宮王等身観世音菩薩木造壱軀」と記されている。

★中国における等身像が大きく変わるのが、玄宗のときである。744年に「玄宗等身天像及仏各一軀」を鋳造させ人々に礼拝させている。それから約十年後に遣唐使が帰国している。唐における皇帝崇拝の様子が伝えられたのであろう。光明皇后と行信は、早速その発想を模倣して、救世観音を「上宮王等身」として造仏したと推測できる。

≪伊予風土記逸文≫

飛鳥時代に存在しない「法興」年が記されている。道後温泉を訪れた王族は、聖徳太子だけではなく、仲哀天皇と神功皇后をはじめ斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子などと記されている。事実でないことは明らかである。

≪その他≫

★日本書紀には、聖徳太子の聖人逸話伝説が多く記されているのに、「薬師像や釈迦像が作られたこと」や「太子が三経義疏を書いたこと」などは、一切記されていない。

★日本書紀に、法隆寺は天智九年に「一屋も余ることなく無し」と記されている。若草伽藍の発見からも全焼したことは間違いない。全焼する前の法隆寺にあったものが残っているはずがない。そもそも再建前の元法隆寺は、聖徳太子の生前中に建てられたものである。聖徳太子の死の前後のときに、「東宮聖王」「法皇」などの太子信仰を示す釈迦三尊像や薬師如来像などの仏像が造られるはずがないのである。

6.二つの仏像の銘文について思う。

★釈迦像の銘文においては、聖徳太子が臥せたときに、妃の干食王后(膳部菩岐々美郎女)が病気の回復を願っている。ところが薬師像の銘文は、用明大王の病気回復を願ったものであるが、不可解なことに最も身近な穴穂部真人王后が記されていない。釈迦像銘文でも、穴穂部真人王后は、死だけを記しているだけで、蔑ろにされているのである。筆者は、その理由として穴穂部真人王后は廃仏派であったからであると推測する。「鬼前大后」との呼称からも仏教よりも古来からの「神祀り」に熱心だったのでないだろうか。二つの仏像の銘文からは、穴穂部真人王后を疎外して、聖徳太子を中心とする熱心な仏教徒だけを称える作為が強く感じられるのである。(注:穴穂部真人王后が廃仏派の物部氏と関係が深かったことは別に述べる。)

★当時の仏教は現代の新興宗教のようなもので、薬師如来像と釈迦三尊像は、人々に拝させるためのものである。光背銘文が真実かどうかは問題ではないのである。その仏像の意味を来拝者にしっかりと理解してもらうことが最も大切なことであったのである。「熱心な仏教徒であった聖徳太子たちが悲劇的な死を迎えた」との謂われを刻み、来拝者に、聖徳太子の冥福を祈ってもらうと共に、怨霊を鎮魂することだったのではないだろうか。

7.聖徳太子学習のむなしさ

梅原猛氏は法隆寺系史料について次のように述べている。

★筆者も全く同感である。自説を確かめるために法隆寺を訪れた。そこで購入した図録やパンフを見て愕然としたのである。

★釈迦三尊像や薬師如来像はもちろんのこと、百済観音、救世観音、夢違観音、玉虫厨子など多くのものを飛鳥時代のものとしている。橘三千代が用いていたとされる橘夫人念持仏でさえ飛鳥時代のものなのである。

★驚くことに「若草伽藍の発見」については、全く記さず、現在では、「再建説が大勢となっている」としながら、「再建・非再建いずれであるかにせよ・・」と再建を認めていないのである。

★さらに、金堂、五重の塔、中門、廻廊を飛鳥時代のものとしている。(さすがに南大門だけは、鎌倉時代に再建されたことが明白なので飛鳥時代とはしていない。)
真実の探求とはかけ離れてしまっている。無力感が生じてしまった。これでは、天智十年の全焼の記載や,若草伽藍の発見を知らない一般観光客は、この図録のことを信じてしまうではないか、法隆寺と仏教美術史家および俗物歴史学者たちが、連携しているのであろう。まさに、今は亡き森浩一氏が語った「魂を失った考古学」は考古学だけでなく、古代史関係全体におよんでいることを知ることとなった。

法隆寺写真群

第3号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. シリーズ・吉備の古代史① 二人の天皇が行幸された谷……石合六郎
  3. 記紀に隠された史実を探る=聖徳太子時代編……飯田眞理
  4. 現実的視点からの「邪馬台国」論~日本古代史研究への問題提議~……秋月耀
  5. 奴国の時代② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡……河村哲夫
  6. 奴国の時代③ 北部九州のクニグニ……河村哲夫