最終更新日:2020/11/29
季刊「古代史ネット」創刊号
記紀神話を歴史として読む
丸地三郎
I 日本の古代史に欠けているもの - 問題の提起 -
1) 戦後75年たった現在の古代史
戦前に、勇気をもって弾圧に立ち向かった津田左右吉氏の歴史観が、戦後の歴史に“過大な”影響を与えているように見える。 古事記・日本書紀のその時代の記述は、神話と云うレッテルを張られ、歴史から除外されしまった。 今日の歴史書や歴史教科書では、古墳時代とそれ以前の歴史については、考古学の遺物・遺跡と中国の歴史書だけを材料として書かれている。
何とも素っ気ない歴史書になっている。
歴史学者は、歴史を科学的に、史実・事実にもとづいたものとすべきだとして、古事記・日本書紀の「神話時代」と呼ばれる時代の記述を、非科学的であるとして全て排除してきた。太平洋戦争(第二次世界大戦)へ国民を駆り立てる役割を担った「紀元2200年の祝賀」や、「八紘一宇」のスローガンの思想的根拠が、記紀にかかれた神話であったとする反省にもとづいている。反省から、新しい歴史観を築き、古墳時代以前を「神話と位置づけ」、歴史から排除してきたものと考える。 戦後しばらくは、それで良かったかとも思う。
しかし、津田左右吉が疑問を示した神武東征の難波の白肩津や楯津が、復元された大阪湾の地図上に、上陸作戦の好適地として存在することが判明した。 疑問の提示が、逆に、実在の証明になった。歴史上の新しい事実が発見された時点で、歴史観を再検討すべきだったと、私は考える。
それにも拘らず、戦後75年経っても、古事記・日本書紀の記述は、歴史として取り上げられてこなかった。 石器・土器・人骨など「物」にかかわる題材だけではなく、「人と人にまつわる物語」・「人と社会・政治」を題材として歴史を私達は、知りたいと願う。 古墳時代以前の「人と人にまつわる物語」・「人と社会・政治」を記したものは、排除されてきた記紀神話で、日本人の誇る文献史料だ! 考古学者が調べて来た遺跡・遺物の歴史の上に、人の活躍する歴史を読んでみたいものと願う。
2)歴史としての読む主な神話
物語を思い起こしてもらうために、大和朝廷成立期までの主な出来事を記す。
- 天照大神 (アマテラスオオカミ) と須佐之男命 (スサノオノミコト) の対立
- 天照大神 (アマテラスオオカミ) が武装して、須佐之男命 (スサノオノミコト) の到来を待つ
- 天照大神と須佐之男命の誓約
- 須佐之男命の狼藉
- 天の岩戸事件
- 須佐之男命の追放
- 八岐大蛇 (ヤマタノオロチ) 退治と出雲の国造り
- 大国主命の神話
- 八上比売(ヤガミヒメ)への求婚の旅・因幡(いなば)の白兎神話
- 八十神 (ヤソガミ) の迫害
- 根の国訪問(須勢理毘売命 (スセリビメノミコト) との婚姻)
- 奴奈川比売 (ヌナカワヒメ)へ 求婚
- 須勢理毘売命 (スセリビメノミコト) の嫉妬
- 少名毘古那神 (スクナヒコナノミコト) と国造り
- 葦原中国 (アシハラノナカツクニ) の平定 (出雲の国譲り)
- 天菩比神 (アメノホヒノミコト) の派遣
- 天若日子 (アメノワカヒコ) の派遣
- 建御雷神 (タケミカヅチ) の派遣
- 事代主神 (コトシロヌシノカミ) の服従
- 建御名方神 (タケミナカタ) の不服従と服従
- 大国主命 (オオクニヌシノミコト) の国譲り
- 天孫降臨 (テンソンコウリン)
- 天忍穗耳尊 (アマノオシホミミノミコト) 降臨せず
- 子の瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト) 降臨
- 猿田毘古神(サルタヒコノカミ)・猿女の君(サルメノキミ)・従者達
- 木花之佐久夜毘売 (コノハナノサクヤビメ)
- 火遠理命 (ホオリノミコト)
- 海幸彦・山幸彦
- 海神の宮訪問
- 火照命 (ホデリノミコト) の服従
- 鵜葺草葺不合命 (ウガヤフキアエズノミコト) 誕生
- 神武東征
- 五瀬命 (イツセノミコト) と3兄弟で東征の会議
- 筑紫の岡田宮・阿岐 (あき) 国の多祁理宮 (タケリノミヤ) ・吉備 (きび) 国の高島宮 (タカシマノミヤ)
- 浪速 (なにわ) 国の白肩津 (シラカタノツ)
- 長兄の五瀬命が負傷、退却し、
- 東から攻めることを宣言
- 紀国の男之水門(おのみなと) (五瀬命死亡)
- 熊野で暴風雨に遭遇 (残る2兄 海難死亡)
- 神武とその配下が熊野の荒坂津へ丹敷戸畔 (ニシキトベ) を誅す
- 高倉下 (タカクラジ) が剣発見、大和へ進軍
- 菟田 (うだ) ・国見丘・鳥見 (とみ) など転戦
- 大和入り
- 天津瑞 (アマツシルシ) (天の羽羽矢など)を示されたことから、饒速日命 (ニギハヤヒノミコト) が恭順し、戦闘終結
- 大和入りし、畝火 (うねび) の白檮原宮 (かしはらのみや) で即位
- 事代主の娘(伊須気余理比売 (イスケヨリヒメ) )を皇后に選定
- 手研耳命 (タギシミミ) の乱と後継天皇
- 手研耳命の乱 (神武天皇の崩御後、九州から同行した子が権力奪取)
- 皇后(伊須気余理比売)の子:神沼河耳命 (カムヌナカワミミノミコト) が、手研耳命を殺害、
- 綏靖 (スイゼイ) 天皇として即位
- ✔ 綏靖天皇、事代主の娘(五十鈴依媛命 (イスズヨリヒメノミコト) )を皇后とする
- 子の安寧 (アンネイ) 天皇が即位
- ✔ 安寧天皇、事代主の孫娘を皇后とする
II 神話を歴史として読むと云うこと
1) 文学として読むこととの違い
古事記・日本書紀の解釈については、文学者・国語学者に依存することが多い。 しかし、文学者の判断も、文学の側からだけではできず、歴史的事実にもとづいて思考し、その上で、解釈を決定することがある。西郷信綱と云う文学者の古事記の講義の中でも、大和朝廷成立以前に、日本の中核が、九州にあったのか、畿内にあったのかによって、この解釈が変わると説明されたことがあった。「歴史の解釈が決まらない今は、二つの解釈を併記せざるを得ない。」と、やや悔しそうな説明をされたことが、複数回あったことを、今も思い出す。
文学は、言葉と美の世界に重きを置き、歴史は、時間と空間と事件・出来事の内容に重きを置く。 歴史として、神話を読むときは、文学者の解釈を頼りとするが、別の視点をもって、整理しながら読み、解釈の仕方を別途、再検討する必要がある。
端的に言うと、時間・空間をしっかりと整理しながら読むこと。 その文章自体が、信用できるものか、史料批判しながら読むこと。 このように整理しながら読むことにより、事件と事件の関連性を把握して行くと、別の歴史像が浮かび上がってくるはずだ。
2) 複数の書籍にかかれた異なった内容の神話
先に、古事記・日本書紀の二つの文献の取扱い方・取り上げ方を示す。 一方だけに依存した歴史を構築する人も居るが、記紀に記載された内容に違いが含まれることを承知で、両方を読むこととします。
古事記は、一貫した話を記載しているが、日本書紀は本文と、本文とは違った内容を示す複数の「一書」で構成されている。 古事記と日本書紀の本文、そして複数の「一書」では、登場人物とストーリーも変わりますが、それをどのように解釈するかは、考古学や中国歴史書、更に、古地理などの関連科学と照らし合わせ、どの解釈が最も合理的であり、論理的に合致するかを検討します。
勿論、この作業は膨大なもので、私一人で、出来るものではありません。 多くの方々が既に、解釈を試みていますので、それらに学びながら、歴史構築を行います。 今後、別の良い解釈や、事実が提示されれば、(お教え頂ければ)、思考をめぐらし、改めるべきとの結論に至れば、変更することにします。正しい歴史解釈をあくまでも追求しますので。
3) 時間軸の整理
リストアップした神話の事件をたどってゆくと、事件の順番と登場人物の辻褄が合わない気がする。 歴史は、時間と空間と事件・出来事の内容に重きを置く。 そこで、時間軸を揃えて整理して行きたい。 残念ながら、各々の事件の年代は分からない。 日本書紀・古事記の年代については、正確ではないことが、既に、論議されている。 では、何を見るべきか?と云うと、登場人物とその親子・子孫の関係が、一つの糸口になる。
古事記・日本書紀では、人物名に「誰それの祖」との記述が多くされている。又、一連の家系が長々と記されている。 記紀を成立させた理由の一つとして、成立時に存在した有力一族の祖先を明らかにし、一族をアッピールする意義があったものと推察される。 従って、記紀成立当時に、人物名・系図は、十分に吟味されて記載されたと考えます。
古事記では、出雲族の家系を、須佐之男命から7代目の大国主命まで記している。 大国主命の4人の子供が記され、子の鳴海神の9代の子孫を記している。それとは別に、出雲神話の終章には、須佐之男命の子の大年神の家系を16神と8神の記載を長々としている。 この家系に記述は、普通の読み手には、退屈なものだが、記載された一族とその子孫にとっては、最も重要な事柄だったかも知れない。 歴史として読む場合も、重要な事柄、手掛かりになる。 天孫族の家系も古事記の記述から辿れる。 日本書紀は本文と「一書」では、違いがあるが、十分に辿れる。 但し、日本書紀では、出雲神話の大部分が欠落しており、出雲系の家系も十分に掲載されていない可能性が残る。
4) 家系と事件の整理
天照大御神・須佐之男命の時代から神武東征までの事件と登場人物を並べ、記載された順に図示してみる。 主要な事件として、4つを取り上げ、登場人物を示す
- 天の岩戸事件:天照大御神 と 須佐之男命
- 出雲の国譲り:・・・・・・・・・・・・・ 大国主命と事代主
- 天孫降臨 :邇邇藝命
- 神武東征 :神日本磐余彦尊 (かむやまといわれびこのみこと)(神武)と伊須気余理比売
登場人物に合わせて、家系と事件を①②③④と配置してみると、以下のようになる。
“物語“として語られる順番と、登場人物の世代の順が異なる。 登場人物の世代順を正しいとすると、事件の起きた順番が違うことが明瞭。
事件の発生した順番は ①天の岩戸事件 ②天孫降臨 ③出雲の国譲り ④神武東征であった ことが判る。
「登場人物の系統図と話の展開」の図で示された時代を逆行する矢印は、やはり、有りえず、出雲族にも天孫族にも均等に時は流れたことになる。
- コメント:
- 出雲系の家系に関しては、古事記に、父母と子の関係を明瞭に示して記載されているが、天孫族に関しては、世代数が少ないことが気になる処。
5) 事件の順番が判明すると
事件の順番が正しく判った状態で、もう一度、古事記、日本書紀を読み直して見ると、その印象が大きく変わる。 天孫降臨の時期が従来の印象よりずっと早い時期であったことに驚く。
もう一つ、神武東征の開始時期のことを取り上げて記す。
国譲りの出雲側の登場人物は、大国主命とその息子の事代主・建御名方神。 神武東征には事代主の娘の伊須気余理比売が登場する。結婚適齢期の伊須気余理比売は神武天皇の皇后となる。 この婚姻を考慮すると、国譲りの登場人物と神武東征の登場人物が重なると云うことは、出雲の国譲りの終了から神武東征開始までの期間は、空いていないと推定される。 では、神武東征の開始の描写を見てみよう。 東征の物語は、会議から始まる。
- 古事記:
- 「いずこに坐さば、平けく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ。」
- 日本書紀:
- 『東に美き地有り。青山四周(ヨモニメグレリレリ)。 (中略) 彼の地は、必ず以て大業(アマツヒツギ)を恢弘(ヒラキノ)べて、天下に光宅(みちお)るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心か。
会議の主題は、何処が、政治・支配に最も適した土地なのかを問い、移転先を問う。 結論は、「東へ」、「大和へ」。 この結論に従い、神武東征は始まる。
この会議の背景を考える。 出雲の国譲りの直後の時期であったすると、天孫族側が、出雲方の支配してきた土地を接収し、その広大な領域を支配することになり、円滑に政治支配する方法が問題になっていたのではないかと考える。 五瀬命と神日本磐余彦尊(神武)の支配拠点の位置関係と、広がった支配地域の関係を調べてみる必要がある。 記紀には、支配地の大きさ・広さについての記述は無い。 そこで、出雲の国譲りの立役者である③ 建御雷神・経津主神(フツヌシノカミ)の行動範囲から見て行く。
地図上の黒の曲線の示す経路は、大国主に国譲りを迫り、反抗した建御名方神を諏訪の地まで追い詰め、降服させた追撃ルートと、国譲りを成功させ、その首尾を報告しに戻ったルート。
青色の曲線と矢印は、出雲の岐神(クナドノカミ)(久那斗神(クナドノカミ) )を道案内人として同行させ、出雲の支配地域の接収を行いながら行った終端の地、鹿島・香取の地までのルートを推定し、記したもの。 地図中の赤い丸は、高地性集落の遺跡を示す。
尚、矢印のルートの先の地点には、一方は諏訪大社があり、その途中には、建御名方神とその母の奴奈川姫を祀る神社が点在し、伝承が残る。もう一方の先には、建御雷神を祭る鹿島神宮があり、経津主神を祭る香取神宮と岐神(久那斗神)を祭る息栖(いきす)神社があり、東国三社と云われる。
出雲族の支配地は、北九州から日本海側の北陸から新潟・長野県までが広がっており、太平洋側は関東地方まで広がっていたものと推定できる。 北九州の一角に、五瀬命と神日本磐余彦尊(神武)が拠点あったと推定する。 その遠隔の北九州の地から、この広大な土地を有効に支配できるのか? 北九州から支配をすべきか、広大な新たな支配地の中心地域に、拠点を置き支配すべきか、と云う問いは、自然なものと考えられる。 そう考えると、「いずこに坐さば、平けく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ。」と云う問いと答えは、簡潔な、優れた描写に思える。
事件の順番と、事件と事件の間隔の目途が付くと、神武東征開始時の会議の目的と結果が理解できる。
この理解は、文学者が言葉の解釈から検討したものとは、自ずと異なる。 従来、事件の順序も判らなかった時には、五瀬命と神武が、理由もなく、突然、東征を言い出すとの印象を受けていた。
東征の理由も判らないで、大遠征を評価することもできず、判然としないものが有った。 国譲りと東征の順序と間隔が判ることで、神話の読み方が大きく変わることになる。