最終更新日:2021/03/25

季刊「古代史ネット」第2号

魏志倭人伝から見える 私の邪馬台国所在地考

矢野勝英

1 はじめに

「邪馬台国」女王卑弥呼の都はどこにあったか? 3世紀終わり頃に中国西晋王朝の史官陳寿が編纂した『三国志』「魏志倭人伝」」(以降倭人伝と略す)に記されたこの国については、江戸時代から新井白石、本居宣長らを中心に畿内説、九州説を展開し研究されてきた。明治以降は多くの研究者により様々な説が発表され、今日では、全国数十か所の候補地が名乗りを挙げて論議されているが、依然としてその場所は特定されていない。

私は若い頃、松本清張著「陸行水行」、宮崎康平著「幻の邪馬台国」に接して以来、この問題が頭から離れなかった。数年前、会社退職を機に時間的余裕ができたので、諸先生方の文献、講座等により理解を深めてきた。もとより専門的知識も無い—―アマチュアに過ぎない身であるが、今回“邪馬台国所在地“について、自分なりに勉強したものをここにまとめてみた。

2 基本的アプローチ

邪馬台国所在地の推定に当たっては、“倭人伝の原文を尊重する”これを原則に置き、その上で記述内容が合理的か・現実的か考察し、その結果を踏まえ候補地の具体的な論理展開を行う。

このためには、前提となる3つの重要な判断要素

  1. (1) 帯方郡から邪馬台国までの行路・方角
  2. (2) 帯方郡から邪馬台国までの距離(里数、日数)
  3. (3) 邪馬台国までの国々の戸数

について、“記述の信頼性を確認する作業”が不可欠なものであり、先ずこれから始める。

(注) 魏志倭人伝原本の成り立ち

『三国志』は、陳寿(233~297年)により編纂され「魏書」、「蜀書」、「呉書」の全65巻からなり、この「魏書」の「烏丸鮮卑東夷伝倭人の条」に書かれているものを、略称して「魏志倭人伝」と呼んでいる。現在、当時の原典は残っておらず、今日我々が読んでいるものは、12世紀に写本をもとに作られた南宋紹興本である。

3 帯方郡から邪馬台国までの行路・方角に関する考察

邪馬台国までの国々への行路・方角の記述が、実際の地理に合致するか先ず確認することから入りたい。

郡使は、冒頭の記述にあるように「倭人は帯方の東南、大海に在り」の認識で出発したであろう。

以降帯方郡から邪馬台国までの行路は

  • 「郡より倭に至るには海岸にしたがいて水行し、韓国を歴。あるいは南し、あるいは東し、其の北岸狗邪韓国に到る・・・」
  • 「始めて一海を渡る・・・対海国に至る」
  • 「また南のかた一海を渡る・・・一大国に至る」
  • 「また一海を渡る・・・末盧国に至る」
  • 「東南のかた陸行・・・伊都国に到る」「群使が往来するに、常に駐まる所なり」
  • 「東南のかた奴国に至る・・・」
  • 「東のかた不彌国に至る・・・」
  • 「南のかた投馬国に至る、水行・・・」
  • 「南のかた邪馬台国に至る、水行・・陸行・・」「女王の都する所なり」

このように書かれている。

この行路に書かれている国々は、方角、移動手段、遺跡の存在、地名の継承性等から「対海(島)国」は現在の長崎県対馬市、「一大(支)国」は長崎県壱岐市(原の辻遺跡付近)、「末盧国」は佐賀県唐津市(桜馬場遺跡付近)、「伊都国」は福岡県糸島市(平原遺跡付近)、「奴国」は福岡県春日市(須玖岡本遺跡付近)、「不彌国」は福岡県宇美町付近にあたると比定されている。

問題は伊都国以降の行路記述に関してどのように解釈するかである。所在地研究で最も厄介な課題であり、研究者により様々な説が出されている。大きくは、郡から邪馬台国まで書かれた順に読むと解釈する説(順次説)と、郡から伊都国までは順に読みその先は伊都国を起点にして一国毎に放射状に読むと解釈する説(放射説:榎一雄、牧健二)及び、郡より不彌国までは順に読み、その先は帯方郡を起点にして一国毎に放射状に読むと解釈する説(奥野正男説)などがある。[参考1]

私は行路に書かれた国々は、郡から邪馬台国までの道順を示すために必要があり書かれたものと理解している。おそらく倭人が、日常国と国との往来、市での交易のための往来などに利用する道を郡使に伝えたものであろう。書かれた順に読む順次説の方が自然で合理的であると考えているので順次説にもとづき考察する。放射説の場合は伊都国から邪馬台国まで直接行くことになるが、行路上からかなり外れ傍国ともいえる不彌国、投馬国をなぜ書く必要があったのか、その必然性に疑問が残った。

なお、不彌国から投馬国・邪馬台国までの行路・方角等に関する考察は、所在地推定の項(後述)で私見を具体的に述べる。

4 帯方郡から邪馬台国までの距離(里数、日数)に関する考察

所在地推定に最も重要な距離に関する数値は、国から国の区間毎に里数と日数の二通り書かれているが、これが信頼できるものか実際の地理で確認する。

そのためには、当時の“一里の基準値(里単位)”がどのようになっていたか先ず確認しなければならない。これについては研究者により、当時の一里は現在のメートル法に換算すれば数百mであったとする説や数十mであったとする説(いわゆる短里説)に分かれている。

どちらを基準とするかによって、邪馬台国までの行路・国の位置・距離等の考察に用いる距離数が変わってくるのは当然のことである。私は、孫栄健著「邪馬台国の全解決」の中で示された、呉承洛著「中国歴代度量衡史(中国歴代度量衡基準表)」によった。

この表によると、古代中国では歴代王朝により里単位が定められており、短いものでは周時代の358.38m、長いものでは清時代の576.00mと様々である。

倭人伝が編纂された魏・晋時代は、434,16mとされているので、私はこれにもとづき1里=434mとして考察する。なお、魏・晋時代に短里が使用されていたという文献的確証は得ることが出来なかった。

帯方郡から邪馬台国まで国々の距離を整理すると、

  • 帯方郡~狗邪韓国 「水行 7千余里」
  • 狗邪韓国~対馬国 「水行 千余里」
  • 対馬国~一支国 「水行 千余里」
  • 一支国~末盧国 「水行 千余里」
  • 末盧国~伊都国 「陸行 五百里」
  • 伊都国~奴国 「百里」
  • 奴国~不彌国 「百里」

    (注) 奴国、不彌国は移動手段が書かれていない。地理的に見て陸路で想定する。

  • 不彌国~投馬国 「水行 二十日」
  • 投馬国~邪馬台国 「水行十日 陸行一月」

このように書かれているが、これが実際の距離数を表しているか、地理上で確認することから入りたい。

先ず「里数」について考察する。

海路の狗邪韓国~対馬国、対馬国~一支国、一支国~末盧国は、全て同じ「千里」と書いてあり、1里=434mとして1000里=434kmになる。

狗邪韓国を現在の釜山、対馬国を現在の厳原、一支国を現在の郷之浦、末盧国を現在の唐津として海上保安庁データで実距離をみると、釜山~厳原は70哩(約113km)、厳原~郷之浦は43哩(約69km)、郷之浦~唐津は30哩(約48km)となっている。

実距離でこの程度のものを全て一律に1000里=434kmと書いてあり、渡海部3回の合計では、実距離約230kmの海路が3000里=1302kmにもなるのである。

記述では「余り」とあり、海路における里数測定の技術的誤差もあろうが、どう考えても明らかに過大な数値である。

では陸路はどうなっているか。前述の比定地を道路地図でみると、末盧国~伊都国は実距離で約28㎞の所を「五百里」217km、伊都国~奴国は実距離で約18kmの所を「百里」43km、奴国~不彌国は実距離で約8kmの所を「百里」43kmと書いている。

陸行部3回の合計では、実距離で約54kmの所が700里=304kmにもなり、これもまた明らかに過大である。

また、里数は1000里、500里、100里ときれいに10:5:1と整えられた数値であるが、実距離を見ると前述のように「千里」は113km、69km、48kmとばらつき、「五百里」は28km、「百里」は18km、8kmとなっており、比率は明らかに10:5:1になっていない。このように里数は、実距離と大きく相違しかつ不規則な数値で書かれているのである。即ち、陳寿の里数は正式な魏晋里の基準値によらず、自分流の何らかの基準(要因)を用いて書いているのである。

さらに、海路と陸路の里数をまとめてみると、半島部が7000里、渡海部が3000里、陸路部が700里とこれも整えられた数値になる。

ここまで、海路・陸路について里数の信頼性を確認した結果、書かれている数値は、実際の地理と整合性が無く、一里の基準も無く、さらに過大化されたものであることが分かった。

倭人伝は、なぜ正式な魏晋里で書かれていないのか?なぜ距離が過大にされているのか?

中国では多くの学者達によって、三国志の里単位は倭人伝と韓伝以外、全て魏晋里と一致していることを考証済みである、とされている(孫栄健著「邪馬台国の全解決」)。

陳寿の里数は明らかに不可解なものであり、このような里数を用いては、行路上の国の位置を実際の地理上に求めることは到底出来ないのである。

しかしながら幸いにして、里数で書かれている対馬国から不彌国までは、前述の通り方角、遺跡、地名等で特定され、多くの研究者が倭人伝の記述にほぼ合致していることを肯定している。従って、私はこれを“定説”とみて以降の論を進める。

次に、「日数」について考察する。

日数については、不彌国~投馬国「南水行二十日」、投馬国~邪馬台国「南水行十日陸行一月」となっている。おそらく、郡使が倭人から聞いた日数(当時倭人は里数を知らずと言われている)を報告書に記録していて、これを元に書かれたものと想像しているが、不彌国から「水行二十日」も南下すれば九州本島を離れてしまうであろう。郡使が末盧国上陸後、九州本島から更に海を渡った記述は無いことから、この数値も非現実的なものであり、実際の日数を過大にしていることは明らかである。また、日数も10日、20日、30日(一月)とならび、水行部2回で30日、陸行部で30日と整えられた数値になる。

以上の通り、距離(里数・日数)の考察結果からは、書かれた数値はいずれも明らかに信頼性の無いものであることが確認された。従って、これらの数値自体をそのまま用いることは出来ない。しかしながら数値の大・小から受ける距離の遠近感は参考にしても良いと思われる。

陳寿は、倭人伝の中で 「郡より女王国に至ること万二千余里」「其の道里を計るに當に会稽東冶の東に在るべし」と書いているので、おそらく陳寿はこれを邪馬台国所在地の基本認識としており、辻褄合わせをするため距離を過大化したのではないかと想像している。

仮に、邪馬台国まで12000里と考えていたとすれば、郡から不彌国までは7000里(半島部)+3000里(渡海部)+700里(陸行部)=10700里となるので、残り距離を1300里程度と想定していたのであろうか。

5 邪馬台国までの国々の戸数に関する考察

邪馬台国の人口が、どの程度であったか知ることも所在地を考える上で必要である。このため、その手掛かりとなる「戸数」について記述の信頼性を確認する。

邪馬台国までの国々の戸数を整理すると(小~大順に)

  • 対馬国  「千余戸」
  • 伊都国  「千余戸」
  • 不彌国  「千余戸」
  • 一支国  「三千許家」
  • 末盧国  「四千余戸」
  • 奴国   「二万余戸」(ここまで計3万戸)
  • 投馬国  「五万余戸」
  • 邪馬台国 「七万余戸」(合計で15万戸)

このように書かれている。

伊都国については「千余戸」とあるが、代々王が治め、郡使が往来するときに常に滞在する重要な国であるにもかかわらず、戸数が対馬国、不彌国と同じで一支国よりも少ないのは明らかに不自然である。現に、倭人伝の元になっている魏略逸文には「万余戸」と記されている。また奴国「2万余戸」、投馬国「5万余戸」、邪馬台国「7万余戸」と書かれているが、「烏丸鮮卑東夷伝」に記された半島側の有力国は、夫余8万戸、高句麗3万戸、濊2万戸と書かれており、これらの国々と比べても投馬国5万戸、邪馬台国7万戸は、倭一国の戸数としては、あまりにも大きすぎる数値である。

古代日本全体の人口は、約59万人(200年頃、北海道・沖縄を除く)うち九州は約11万人と推定されている(出典:小山修三、鬼頭宏氏調査発表資料)。

これから考えると当時(240年頃)は、日本全体で約89万人、九州で約16万人と想定される。

記述にある8カ国の合計戸数15万余戸は、1戸5人で計算すると約75万人にもなり、九州を上回り日本全体の人口に近いものとなる。戸数は本当に倭人から聞いたものであろうか?この数値も明らかに過大化されている。また、戸数もまとめてみると邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国その他で3万戸と整えられた数値になる。このように、戸数も不合理で信頼性の無い数値であり、これ自体を用いることは出来ない。しかし、奴国、投馬国、邪馬台国はその他の国に比べて大きな戸数(人口)を有していたものと見て良いであろう。

=倭人伝に書かれた、里数、日数、戸数の考察結果のまとめ=

ここまで、所在地推定に直接繋がる重要な数値記述の信頼性を考察してきた。

その結果、いずれの数値も明らかに過大化された不合理で非現実的なものであり、信頼性が無いことが確認された。

陳寿がこの様な数値を書いた意図は何であろうか?研究者の中には、西晋の史官陳寿が西晋王朝の高祖司馬懿の徳を表すため誇大に書いたのではないかとか、中国人好みの奇数(三、五、七等)に合わせるように創作したのではないかなどの説がある。これらの指摘にもうなずける結果になった。

(注)司馬懿(179~251年)

字は仲達、魏の将軍として名高い。238年遼東の公孫氏を滅ぼし朝鮮半島北部を押えた。この後、卑弥呼が魏に朝貢するようになり、これを自らの徳として誇り厚遇したという説がある。孫の司馬炎が265年に西晋を建国した(在位265~290)。

6 邪馬台国所在地の推定

ここまで所在地推定のための前段作業として、倭人伝に書かれた行路・方角、里数、日数、戸数の信頼性を考察してきた。ここではその考察結果を踏まえて、さらに不彌国以降の行路検討を行いながら、本論の邪馬台国所在地に迫りたい。

前述の通り、重要数値の「里数」、「日数」、「戸数」は、いずれも明らかに信頼性の無いものであり、これら数値をそのまま所在地推定の根拠に用いることは不合理で現実的ではない。

しかしながら、数値の大・小から想像される、距離の長い・短い、戸数(人口)の多い、少ない等は相対的な比較の目安として参考にしても良いであろう。また、「方角」については、古代でも航海時の方位観測技術はかなり高く、郡より不彌国までの方角記述も大きな矛盾は無いので、ほぼ信頼しても良いと考えている

私は、この考察結果に基づき所在地推定の手法としては、“帯方郡から不彌国までの国々は定説によるものとし、投馬国と邪馬台国については、倭人伝の記述を実際の地理上に求めて推定する方法”がベターと考えている。倭人伝の記述通り行くことが可能であれば「邪馬台国女王之所都」が見えてくるのである。

では、改めて考察結果及び関連する記述を整理し“所在地推定の判断条件”として確認しておきたい。

  • 帯方郡から行路に書かれた、対馬国・一支国(以上長崎県)、末盧国(佐賀県北部)、伊都国・奴国・不彌国(以上福岡県北部)の位置は定説通りとする。
  • 不彌国からは投馬国、邪馬台国まで連続して南の方角に水行する。
  • 投馬国、邪馬台国は、行路に書かれた8カ国の中では比較的大きな人口を有している。即ち、多くの人々が生活出来る程の広い稲作可能な場所にあると考えられる。
  • 「自女王国以北其戸数道里可得略載」の記述より、対馬国から投馬国までの7か国は、邪馬台国より北に位置する。また、この行路周辺には多くの傍国がある。
  • 邪馬台国は「其南有狗奴国」の記述から、熊本県にあったとみられている狗奴国より北にある。
  • 郡使は、九州本島末盧国(佐賀県唐津市付近)に上陸した後、海を渡った記述は無い。

即ち、邪馬台国は九州本島内にあるとみてよい。

それでは、これらの判断条件をもとに、前述の推定手法により実際の九州地図と照合し、できるだけ合理的、現実的に検討を行い邪馬台国に迫りたい。帯方郡から不彌国までは定説に従い地図通りで問題はないので、ここからは、不彌国から投馬国・邪馬台国へ向かう行路の記述を考察する。

先ず、不彌国(福岡県宇美町付近)から投馬国までは、「南至投馬国水行二十日」と書かれている。この投馬国については諸説あるが、私は方角や地名の継承性等から考え、延喜式に筑後国上妻郡・下妻郡と記された現在の福岡県八女市付近を想定しているので、この行路が実現可能か実際の地理上で検討する。

不彌国から南に水行するためには、現在の博多湾から志免町(森浩一著「倭人伝を読みなおす」で不彌国の領域としている)に沿うように流れる御笠川を利用し、水城・太宰府を経て南下する。さらに、有明海から北上する宝満川を利用して筑後川から(当時は有明海の入江を渡って)広川を通れば、八女市付近まで行くことは可能であろう。

約3500年前は、博多湾と有明海が太宰府付近を瀬戸(針摺の瀬戸)にして繋がっていたとされている(出典:真鍋大覚九大助教授発表)。その後の弥生時代においては、博多湾は現在の福岡市内中心地の内陸部まで海が入り込んでおり、有明海も筑後川沿いに内陸部の小郡市付近まで、入江状に入り込んでいたと考えられている。[参考2]

博多湾と有明海を繋ぐこの瀬戸付近は、長い年月をかけ徐々に陸地化が進んできたが、それでも御笠川と宝満川・筑後川は、古代において筑前(福岡県北部)と筑後(福岡県南部)を結ぶ河川交通路で小郡市津古はその拠点であった、また明治の鉄道開通前は博多と久留米を結ぶ主要交通路であった、と言われている(出典:村山健治氏文献資料)。

これらの状況から考えると、弥生時代は水行可能な水路が確保されていたものとみて良いであろう。特に、有明海の干満差が最大6mあることから、満潮時や水量の多い降雨時期等においては、容易に水行出来たものと想定している。この針摺付近は、現在でも南下する御笠川と北上する宝満川が近接し合う低平地の場所に位置しており、古くは葦の生い茂った湿地帯があったと思われる地名も残っている。

(注)針摺の瀬戸(はりずりのせと)

真鍋大覚氏が調査・命名したもので、現在の筑紫野市針摺付近とみられる。

「水行二十日」は過大であるので実際の距離は分からないが、宇美町から八女市までは約40km(地図上の直線距離)あるので、かなり長い距離と見てもよいであろう。

これで、不彌国から投馬国まで記述通り実現できることが分かった。

最後の投馬国から邪馬台国までは、「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」と書かれている。私はこの「水行十日陸行一月」については、先説にならい「水路で行けば十日かかる、もし陸路を行けば一月かかる」と解釈しているので、このルートが実際の地理上で実現可能か検討する。投馬国(福岡県八女市付近)から水行して南に進むためには、八女市を流れて有明海に注ぐ矢部川を利用すれば、容易に熊本県北部さらには鹿児島県まで南下することが可能である。もし陸路をとるならば、八女市から矢部川の東側山沿いを行けば、筑紫平野南部を経て熊本県まで行くことが可能である。熊本県北部玉名市を流れ、有明海に注ぐ菊池川周辺には菊池平野が広がっており、多くの研究者が狗奴国はこの付近から熊本県一帯にあったと考えている。「水行十日陸行一月」も過大な数値であるので実際の距離は分からないが、このルートは八女市から玉名市までの距離を見ても約31km(地図上の直線距離)であり、宇美町から八女市付近までの距離(水行二十日)と比較してもかなり短く、更に邪馬台国と争っていた南にある狗奴国側までも通じている事が分かる。

即ち、邪馬台国はこのルートの途中付近にあると考えて良い。遂に女王の都が近づいて来た

以上のことから、“倭人伝に書かれた帯方郡から狗邪韓国・対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国を経由して邪馬台国までの行路が、実際の地理上に照らし合わせても合理的かつ現実的に成り立つ”ことが証明されたのである。

この末盧国上陸後の行路は、現在の福岡県北部福岡平野及び福岡県南部の有明海沿岸に広がる筑紫平野の中央部にあたる(有名な佐賀県吉野ケ里遺跡はこの行路の西側にある)。

当時の有明海は現在より東側の内陸部まで広がっていたが、この点を考慮してもこの行路周辺は広大な平地を有しており、「其の余の傍国」も含め多くの人々が生活出来る稲作地帯であったものと容易に想像できる。このことも倭人伝の記述と整合性があるものと考えている。現に、この地方は今日でも国内有数の稲作地帯である。

では、邪馬台国はどこにあったか(結論)

邪馬台国は、判断条件を要約すると“不彌国・投馬国からは南、狗奴国からは北に位置し、多くの人々が生活できる広い稲作可能な場所にある”となるので、この条件に合致する場所を地図上で探すと、必然的に福岡県筑紫平野南部にたどり着く。“邪馬台国所在地は、筑後川と矢部川の水利、稲作可能な広大な平地に恵まれた筑紫平野南部こそ、倭人伝の記述に合理的、現実的、総合的に合致する有力な候補地”と考えている。

なお、この水利と平地に恵まれた筑紫平野及びその南の菊池平野一帯は、水利権、稲作地や覇権等をめぐり、「倭国大乱」や「狗奴国との争い」の舞台となったことが十分想像できる。

また、筑紫平野南部は古代から「筑紫の山門縣(日本書紀)」、「筑後国山門郡(延喜式)」の地名で記されており、近年まで「福岡県山門郡」の郡名で継承されてきたことも無視できないものと言える。

=終わりにあたって、郡使は本当に邪馬台国まで行ったのであろうか?=

今回倭人伝を読み疑問が湧いてきた。私は、郡使は邪馬台国まで行っていないと考えている。もし、郡使が邪馬台国まで行ったのであれば、当然皇帝の使者として女王卑弥呼に対面し、金印・銅鏡他多くの下賜品を直接授与しなければならないが、卑弥呼との会見の様子が全く書かれていないからである。なぜ女王の都、邪馬台国まで行かなかったのか。

卑弥呼側か或は中国側か、何らかの事情があったのであろうか。

7 あとがき

九州説か、畿内説かどちらに軍配が上がるか? 決まり手は卑弥呼の墓「大作冢径百歩余」か。邪馬台国の所在地論争は未だに決着をみないが、最近では畿内説の研究者、マスコミなどの声が大きい感がある。私は倭人伝の原文を尊重し、できるだけ合理的、現実的、総合的に考察した結果、九州説(福岡県筑紫平野南部)に辿り着いたのである。

その過程では、不彌国から投馬国・邪馬台国への行路が実際の地理上で、本当に実現可能か大いに不安であったが、針摺の瀬戸の存在を知り、さらに地域郷土に詳しい研究者方の発表資料等に接することが出来た事により、正に心強く長いトンネルの先に光が見えたのであった。深く感謝申し上げたい。

私は諸先生方の文献等を教科書として勉強を進めてきたが、勿論、邪馬台国所在地が「魏志倭人伝」の記述だけで決められるものでは無いことは十分承知している。それを証明する遺跡や出土物等考古学的物証、風俗・祭祀・言語等地域文化的要素、卑弥呼共立及び邪馬台国連合国家成立の歴史的・地理的背景など、様々な分野から検証され、議論を深めながら収束させることが求められるのであろう。今後の進展に期待している。

私は、今回邪馬台国問題の入り口として、所在地をテーマに取り組んできたが、今後は、卑弥呼像、邪馬台国連合国家体制、邪馬台国のその後など、さらに関心を持ちながら勉強して行く所存である。

最後に、本稿はこの分野に全く門外漢の私が、自己流の読みかじり・解釈でまとめたものであり、多々認識違いもあると思っている。改めてご容赦をお願いする次第である。

以上

(主な参考文献)
  • 井上光貞「日本の歴史1神話から歴史へ」中央公論社 2009.11
  • 奥野正男「邪馬台国はここだ―吉野ケ里はヒミコの居城―」梓書院 2010.2
  • 大西和夫「邪馬台国と大和王権」文芸社 2015.10
  • 大平 裕「卑弥呼以前の倭国五百年」PHP研究所 2018.6
  • 河村哲夫「日本書紀と邪馬台国)」ふくおか・アジア文化塾 2019年度講座
  • 黒岩重吾「古代浪漫紀行邪馬台国から大和王権への道」講談社 2020.2
  • 孫栄健「邪馬台国の全解決」言視社 2018.2
  • 藤堂明保・竹田晃・景山輝国「倭国伝―中国正史に描かれた日本」講談社 2019.7
  • 中田 力「日本古代史を科学する」PHP研究所 2012.2
  • 西谷 正「北東アジアの中の弥生文化(上)」梓書院 2016.1
  • 松本清張「古代史疑」中央公論社 1974.4
  • 松本清張「清張通史1邪馬台国」講談社 2009.8
  • 宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」講談社 1967.6
  • 都出比呂志「古代国家はいつ成立したか」岩波書店 2013.8
  • 森 浩一「倭人伝を読みなおす」筑摩書房 2010.8
  • 森 浩一「古代史おさらい帖」筑摩書房 2016.3
  • 安本美典編集「邪馬台国九州説の復権(季刊邪馬台国91号)」梓書院 2006.4
  • 安本美典「邪馬台国は99,9%福岡県にあった」勉誠出版 2015.1
  • 洋泉社編集部「古代史研究の最前線邪馬台国」洋泉社 2015.5
  • 歴史読本編集部「ここまでわかった!邪馬台国」新人物往来社 2011.7

[参考1]帯方郡から邪馬台国までの行路解釈

[参考2]博多湾と有明海を繋ぐ針摺の瀬戸

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第2号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. 年輪年代法の問題点――弥生古墳時代の 100 年遡上論は誤り……鷲崎弘朋
  3. 特集「水行十日陸行一月」をめぐって
    1. (1) 私の「邪馬台国」試論~魏志倭人伝より「邪馬台国」を読み解く~……愛川順一
    2. (2) 魏志倭人伝からみえる私の邪馬台国所在地考……矢野勝英
    3. (3) 「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について……塩田泰弘
  4. 弥生時代の開始時期……丸地三郎
  5. 奴国の時代 ①……河村哲夫