最終更新日:2021/09/30
季刊「古代史ネット」第4号
奴国の時代 ④(最終回)~奴国の神々~
河村 哲夫
前回までのまとめ
季刊『古代史ネット』創刊号において、卑弥呼の時代の鏡は福岡県から最も多く出土する後漢鏡とみるべきであり、筑紫平野東縁部の大分県日田市から出土したとされる「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」は、「曹操高陵」から出土した鉄鏡と姉妹鏡で、魏の皇帝から卑弥呼に特別に贈与された可能性が高いことを論じた。いずれも、邪馬台国九州説を補強する。
また、皇室に伝わる三種の神器の一つである天照大神の八咫鏡は、福岡県糸島市の平原遺跡から出土した5面の大型鏡と同じ大きさである可能性が高いことを論じた。
すると、天照大神は、伊都国――倭人伝の一国と何らかの密接な関係を有していることになる。
長年にわたり安本美典氏が主張されている「天照大神=卑弥呼」を前提にすれば、「卑弥呼の鏡」と「天照大神の鏡」はパラレルな関係となり、戦後長らく見捨てられてきた『日本書紀』『古事記』が、古代史解明の重要なツールとして復権することになる。このようなことを論じた。
次に、季刊『古代史ネット』第2号と3号において、邪馬台国前史としての奴国の時代を特集した。
すなわち、紀元前後においては福岡平野の那珂川・御笠川流域を拠点とした奴国が北部九州の盟主であり、その後継勢力として邪馬台国が登場したという観点からである。
奴国の時代は紀元前2世紀から倭国大乱が勃発する西暦170年ごろまでの300年近く続いたが、邪馬台国の時代は西暦180年ごろから270年ごろまでの90年程度に過ぎない。奴国は、邪馬台国よりもはるかに長く北部九州のリーダーとして君臨しつづけた。
邪馬台国の解明のためにも、奴国の解明は必要不可欠である。
邪馬台国近畿説のように、脈絡もなく、先行勢力の存在なしに、無から有を生じるように、いきなり邪馬台国が沸いてくるはずはない。
奴国の時代、倭人の活動領域は九州北部から朝鮮半島南部に及び、さらには中国へ使者を派遣して金印を授与された。「辰韓―加羅―奴国」という海を介した倭人連合を形成していた可能性も高い。
北部九州から出土するヒスイや碧玉の勾玉などからみて、出雲など日本海方面との海を介した交流も進んでおり、ゴホウラ貝やイモ貝などからみて、はるか南西諸島方面との海の交流があったことも明らかである。
奴国の時代を特徴づけるものは、優れた航海術をもった海洋民族としての特性である。日本の古代史を明らかにするためには、日本の古代文献にもしばしば登場する志賀島(福岡市東区)の阿曇一族など、北部九州の海人族の存在に十分に留意すべきであろう。
さらには、『旧唐書』が「倭国伝」と「日本伝」に分離していたのを改め、日本=倭として、中国の統一見解をはじめて明らかにした『新唐書』は極めて重要である。
『新唐書』は、
- 日本のルーツは、「古の倭の奴」である。
- 倭国の初代の主、すなわち王は「天御中主(あめのみなかぬし)」である。
- 九州の「筑紫城」を拠点としていた。
- 神武天皇が九州から「大和州に徒(うつ)した」
など、邪馬台国を含め、古代の舞台が筑紫(九州)であったことを明らかにしている。
その内容は、『古事記』とも符合する。
『古事記』は、
- 高天原の初代の神は、「天御中主神」である。
- 神々の故郷は「高天原」である。
- 天御中主神からイザナギまでの系譜が継承されている。
などとする。
『新唐書』と『古事記』を比較すれば、「天御中主=倭の奴の国王」であり、そうであれば、「邪馬台国前史としての奴国」と「高天原の神々」もまたパラレルな関係となり、この観点に立ったパラレルな略年表の作成が可能となる。
以上が、季刊『古代史ネット』第2号の要約であり、第3号においては、朝鮮半島南部の弥生式土器の分布などを紹介し、
- 北部九州の倭人の活動範囲は、当然朝鮮半島に及び、朝鮮半島の韓人の活動範囲も、当然北部九州に及んでいた。
- 紀元前後の朝鮮半島と北部九州の遺跡は、基本的に穏やかな人の往来と交易活動、平和的な寄留・居住状況をしめしている。
- 対馬・壱岐が倭人の勢力下にあったことからみて、海においては航海術に秀でた倭人と倭人系(倭人系韓人・韓人系倭人)が優勢であった。
- 日韓のどちらか一方を上位とする支配・被支配の関係ではない。日韓双方ともいまだ小さなクニの集まりに過ぎなかった。
- 日中韓の史書にも、日韓をまたいだ大きな民族移動や争乱はまったく記されていない。
と、これまでの朝鮮半島優位の「渡来人説」から対等平等な「双方向説」へと転換すべきことを論じた
また、北部九州における奴国の時代の主要な遺跡を紹介し、奴国から周辺国への前漢鏡・ガラス製品の分与に見られるように奴国を盟主とする奴国連合が成立していた可能性を指摘した。
そして、西暦57年の後漢から奴国への金印授与など、後漢の権威を背景に奴国連合はさらに発展し、やがて邪馬台国が登場する。
そののちに、神武東遷によって飛鳥・奈良・平安へとつながる超長期政権としての大和朝廷が近畿に登場する。
このような推移をみても、基礎となる奴国を抜きにして、日本の古代史を語ることはできないことが知れよう。
奴国の神々
本号においては、奴国の時代の締めくくりとして、イザナギなど古代の神々と奴国の関係について述べよう。
すでに述べたように、古代の神々の系譜は、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』など、文献によって若干の異同があるが、イザナギから天照大神へと継承されていることにおいては、すべて一致している。
この場合、本稿においては、この神々の系譜について、文字どおり天上界の神々としてとらえる戦前の皇国史観の立場はとらない。もちろん、戦後史学の主流ともいえる架空の人物との立場もとらない。
神々の系譜のなかに、人の歴史が潜んでいるという立場から、たとえば、命・尊・神とも人に対する尊称として論を進める。
何度も述べたように、天照大神=卑弥呼であれば、天照大神以前の天御中主命からイザナギまでの神々の系譜は、邪馬台国以前に北部九州の盟主であった奴の国王の系譜である可能性が高い。すると、イザナギは奴国最後の王ということになる。そして、妻は出雲のイザナミである。
日本の古代神話は、筑紫と出雲を主要な舞台として進行する。これまた、九州北部の奴国と日本海側の出雲という二つの地域に、古代日本の大きな中心があったことを反映している。筑紫(奴国)の王たるイザナギと出雲の女王たるイザナミの結婚は、筑紫と出雲の二大勢力の融合を表わしているともいえよう。
しかしながら、イザナミの死によって、二大勢力の蜜月関係は終焉を迎える。
「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」におけるイザナギの禊
イザナギは、妻のイザナミが死んだことを知って、出雲(黄泉の国)へ行った。ところが、蛆(ウジ)のわいたイザナミの死体を見たために、生き返ったイザナミに恨まれ、追いかけられる。これは、筑紫と出雲の間の墓制や葬祭の儀式の違いなどによって、何らかのトラブルが発生した可能性を暗示しているようにおもえる。
海に逃れ、やっとのことで逃げ帰ったイザナギは、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊(みそぎ)を行った。
この「イザナギの禊」は、天照大神の「天の岩戸」と並ぶ日本神話上の大きな事件である。
この禊のなかから、ワタツミ三神・住吉三神などの神々とともに、天照大神・月読命・スサノオなどが生まれたとされるからである。
もちろん、禊によって人が生まれるわけはない。あくまでも比喩である。イザナギの一族あるいは配下の一族の紹介である。文字がなく口で伝える時代には、暗記のためのさまざまな技法が発達したはずである。ワタツミ三神・住吉三神はセットで海上・海中・海底に結び付けて暗記されたのであろう。天照大神は左目、月読命は右目、スサノオは鼻に結び付けて暗記された。
左から右へ、上から下へという順序にも古代の習慣が潜んでいるとみていい。その他の神々も、杖や冠、衣などと結び付けられている。
ワタツミ三神は海上の安全をつかさどる阿曇一族のシンボル、住吉三神は奴国を守る国王一族のシンボル、警固三神は悪霊や敵から国を守る力のシンボルであったろう。天照大神は日の神――太陽を祭り、月読命は月を祭り、スサノオは海を祭った。
このことについては、先の号で述べることとしているので、本号においてはこれくらいにしておきたい。
今は、イザナギが禊をおこなった場所についてである。
博多湾の古い時代の地形は、下図のとおりである。住吉神社(福岡市博多区住吉)の「博多古図」をもとに作成したものである。鎌倉時代ごろの地形とみられているが、地質調査などから、弥生時代もほぼこのような地勢であったとみられる。
「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」(『古事記』)ないし「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」(『日本書紀』)の所在地をめぐっていくつかの説があり、そのおもなものは次の三つとされている。
- ① 福岡市博多区住吉の住吉神社付近(博多湾岸説)
- ② 宮崎市塩路の住吉神社付近(宮崎説)
- ③ 鹿児島県曽於市末吉町の住吉神社付近(鹿児島説)
ワタツミ三神
まず、ワタツミ三神のことである。
ワタツミ三神については、博多湾の志賀島を拠点とする阿曇一族の祖先神であり、志賀島の志賀海神社に祭られている。
『古事記』には、「この三柱の綿津見神は阿曇連等がもちいつく神なり」すなわち、「阿曇のムラジらの氏神である」と書かれている。
「アズミ」は「アマツミ(綿津見)」であるとする説もあり、「アマ(海)ツミ」の略とも、「アミ(網)ツミ」の略ともいわれている。いずれにしても、アズミとワタツミは近縁語なのであろう。
『和名抄』に阿曇郷という地名がでてくるが、吉田東伍の『大日本地名辞書』によれば、「阿曇郷は、今和白村、新宮村なるべし。青柳の西に接し、海浜の地なり。阿曇はワタツミ(海神)国の大姓にして、海人海部を宰領せり。この地はけだし阿曇氏の故墟とす」とあり、阿曇一族は、阿曇郷(福岡県糟屋郡新宮町)および志賀島一帯を本拠とした海人族であった。
志賀島といえば、「漢委奴国王」の金印が出土したことでも有名である。
住吉三神
次に、住吉三神のことである。『日本書紀』では底筒男命・中筒男命・表筒男命、『古事記』では底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神と書かれる。
住吉三神は、ワタツミ三神とセットで生まれている。博多には、住吉三神を祭神とする「住吉神社」(福岡市博多区住吉)がある。もとは那珂川河口の博多湾に面し、入江に突き出た岬にあった神社である。古い時代から航海安全・船舶守護の神として信仰されてきた。
奴国の大動脈ともいえる那珂川の河口にあり、まさしく奴国を守護する場所に位置している。住吉三神は、おそらく奴国を支配した王族の氏神であったにちがいない。
「住吉」はいま「スミヨシ」と読まれるが、古くは「スミノエ」ないし「スミエ」と読まれたようである。
『摂津国風土記』逸文によると、筑紫の住吉神がこの地に住むといったため、神功皇后が「真(ま)住(す)み吉(え)し、住吉国(すみえのくに)」と称えたことに由来とするというが、博多住吉神社の伝承では、神社近くの海が清らかな「澄み江」であったからという。
警固三神
さらにいえば、警固三神である。もと福崎(現在の福岡城本丸跡周辺)の地に祭られていたが、慶長六年(1601)、福岡城築城の際に下警固村(現在の福岡市中央区長浜あたり)に移され、慶長十三年(1608)に福岡城主黒田長政によって現在地(福岡市中央区天神二丁目)に移されたという。
注目すべきは、警固神社に神直毘神・大直毘神・八十禍津日神の三神が祭られていることである。これらの神々も、イザナギの禊によって生まれている。
イザナギの禊によって生まれたワタツミ三神、住吉三神、警固三神――これらの神々がそろって祭られているのは、全国では唯一博多湾岸のみである。
よって、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は、博多湾岸・奴国の地である可能性が高いということになろう。
江戸時代の貝原益軒は、「筑前の国のなかで、小戸は姪浜にある。立花(橘)は糟屋郡および怡土郡にある。阿波岐原という地名が志摩郡と筵田郡にある」(『筑前国続風土記』)と記している。
筑紫
「筑紫」と記して九州全体のことをさすこともあるが、もともとは御笠川の上流域および基山の北東部、宝満川右岸一帯をさしている。旧筑紫村(筑紫野市)に筑紫神(白日別)を祭神とする「筑紫神社」(筑紫野市原田字森本)があり、このあたりが「筑紫」の発祥の地であったろう。
そうすると、この場合の「筑紫」とは、九州全体という意味ではなくて、この狭い意味での筑紫ということになる。
日向
また、「日向」と記して、日向国をさすことが多いが、もともとはその字義のとおり日に向かうことを意味し、したがって古代人は東の方角を「ひむか(日向)・し」といった。それが平安時代以降になると「ひむが・し」というようになり、現代の「ひがし」につながったわけである。
「し」は、「西(に・し)」とおなじ用法で、「嵐(あら・し)」は「荒い・風」という意味になるように、もともとは風という意味であったが、転じて方位をあらわす語になったという(白川静著『字訓』)。古代海人にとって、風向きと方角をよむことは、すなわち命を守ることでもあった。
このように、「日向」には端的に日に向かうという意味もあり、かならずしも日向国をさすわけではない。東方の太陽の方角を向けば、どこでもいいのである。
したがって、「筑紫の日向」は「筑紫の東の方向」あるいは「筑紫から日に向かった方向」というような意味に解釈することも十分に可能である。
橘
次に「橘(たちばな)」である。
「橘」とは、古くから日本に自生していた柑橘類のことである。『魏志倭人伝』には、「倭国に、薑(ショウガ)、橘(たちばな)、椒(サンショウ)、蘘(ミョウガ)はあるが、滋味を知らない」と書かれている。
福岡市東区と糟屋郡新宮町・久山町の境界に、立花山(標高367.1メートル)という山がある。古くは二神山とよばれ、イザナギとイザナミを祭る霊山とされてきた。
山頂からの眺望はすばらしく、博多湾の志賀島や能古島、玄界島などの島々や玄海灘を一望できるため、福岡平野における戦略上の重要な拠点であり、海陸交通の目標とされてきた山であった。
柳川藩の初代藩主となった立花宗茂は、立花山を拠点とした戦国武将であった。
貝原益軒は、「筑前の国のなかで、立花(橘)は糟屋郡および怡土郡にある」と書いているが、住吉三神を祭る住吉神社の東方にあり、ワタツミ三神を祭る志賀島を見下ろす位置にある立花山こそ「橘」の位置にふさわしいといえよう。
立花山は、現在でも立花みかんの産地として知られ、古い時代には多くの橘が自生していたために「橘山」とよばれ、のちに「立花山」と書かれるようになったらしい。
小門(小戸)
次に、「小門」あるいは「小戸」のことである。
「水門」は「みなと」と読まれ、湊あるいは港をさす。「と(門・戸)」について、白川静氏の『字訓』には、「内外の間や区画相互の間を遮断し、その出入りのために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また川や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう」とある。
したがって、「小門」「小戸」といえば、小さな出入口、すなわち小さな港というような意味であろう。
香椎宮の西側に海岸があり、古い時代には香椎の浦とよばれた。香椎浜ともよばれる。そこにある鳥居の前面400メートルのところに「御島」とよばれる岩礁があり、御島大明神が祀られている。『日本書紀』によれば、朝鮮出兵の吉凶を占うため、香椎宮に滞在していた神功皇后が海で髪すすぎの占いをおこなったが、貝原益軒は「この地こそ、すなわち神功皇后が髪をすすがれた所である」と断言している。
出雲から逃げ帰ったイザナギもまた禊をおこなったが、神功皇后は香椎浦の御島において、海に入って髪すすぎの儀式をおこなった。
神功皇后は、イザナギの禊にあやかって御島において禊をおこなったとみるのは考えすぎであろうか。
阿波岐原(檍原)
最後に「阿波岐原」である。『日本書紀』では「檍原」と書かれる。
貝原益軒は「阿波岐原という地名が志摩郡と筵田郡にある」とし、「青木」という村のことであるとする。「あは(阿波・檍)」を「あを(青)」と読むわけである。
ただし、『和名抄』には、
「『説文』にいう。檍の音は億(よく、おく)である。『日本書紀』の『私記』にいう。阿波木。いま考えるに、樫の一名である。『爾雅』の註をみると、梓の属である」
と書かれ、檍(あわき)は、樫(かし)のことであるとされている。
厳密にいえば、檍はもちのきのことで、樫とは異なるが、『和名抄』の編纂者が檍=樫と認識していたことに着目すべきであろう。
日本に稲作が伝来する以前においても、伝来したのちにおいても、樫から取れるどんぐりの実は貴重な食糧として珍重され、樫の幹は建材や船材などに利用された。樫の木は、古代のひとびとから大いに崇められたはずである。香椎は、樫日や橿日とも書かれるとおり、もともと樫に由来する。樫の密生する場所として、古代人の崇拝を集めたのが香椎という地名のおこりであったろう。
神武天皇が大和において即位した場所も橿原とよばれ、これまた樫にかかわりのある地名である。古代人にとって樫には格別の思いがあったことがわかる。
『和名抄』のいうとおり、檍=樫とおなじ意味であるとすれば、香椎の地こそ「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」(『古事記』)ないし「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」(『日本書紀』)の有力な候補地ということになるわけである。
有力な日向国説
ただし、『日本書紀』神功皇后紀に、「日向国の橘の小門の水底にいて、海藻のようにわかわかしい神、名は表筒男、中筒男、底筒男の神がおられる」とあり、「日向」ではなく、明らかに「日向国」と書かれている。しかも、日向国には住吉三神を祭る住吉神社があり、橘、小戸、檍という地名もある。この地こそ、「日向の橘の小門(小戸)の阿波岐原(檍原)」であるとする説も、大いに説得力がある。
宮崎市住吉・宮崎郡佐土原町付近から一ツ瀬川の南東部にかけての地域は、もともと那珂郡とよばれていた。その旧那珂郡の宮崎市塩路に住吉神社がある。
小戸神社(宮崎市鶴島三丁目)は、イザナギを祭神としており、大淀川河口左岸の下別府に位置しているが、もと宮崎郡の橘郷に属していた。景行天皇時代に創建されたというが、確かに橘という地名もあり、小戸という地名もある。
大淀川下流左岸にある上別府(宮崎市)について、郷社八幡神社の社伝によると、「小門(おど)はこの上別府のことである。もと村名を小渡(おど)別府といい、その後小の字がなくなり、渡別府となった。そもそも村の南境に大河(大淀川)があり、この地の岸を大渡といったが、これは小渡を誤ったものである」とされ、この地こそ小戸であるとしている。
大淀川という名も、小戸に由来するという。また、江田郷(宮崎市阿波岐原町)の日向灘を望む一ツ葉海岸近くに、日向国式内四座の一つとされる江田神社(宮崎市阿波岐原町産母)があり、イザナギとイザナミを祭神としている。
これらのことからみれば、阿波岐原(檍原)は宮崎にあったとする説も極めて有力にみえる。
邪馬台国・高天原勢力の南遷
何ゆえこの日向の地に、那珂郡があり、住吉神社が祭られたのであろうか。ずっと先の号で述べることとなるが、それはやはり、北部九州にあった邪馬台国勢力もしくは高天原勢力の南遷(天孫降臨)と関係があるとみるべきであろう。
南下した邪馬台国・高天原勢力にとって、日向の地はいまだ名もなき未開の領域であり、日向国はのちの時代に豊の国から分立してできた国とみられるが、奴(那珂)国出身の人びとが住み着いた地域もまた故郷の国名にあやかって、那珂とよばれるようになったのであろう。当然氏神として住吉三神も祭られたはずである。
『日本書紀』の「神功皇后紀」は「日向国」と記載しているが、これは日本書紀編集者の誤記でなければ、博多湾岸の那珂勢力が南九州の日向国に下って住吉三神を祭り、それを神功皇后がふたたび博多湾岸に勧請ないし遷座したと解釈すべきであろう。神功皇后は博多湾岸に住吉三神を祭り、朝鮮出兵ののちには穴門(山口県)にも住吉三神を祭り、やがて摂津にも住吉三神を祭った。
以上のことをまとめていえば、宮崎の伝承は、北部九州勢力の南遷に伴う伝承というべきであろう。
なお、「阿波岐原(檍原)」の所在地として、鹿児島県末吉の住吉神社付近とする説があるが、好意的に解釈すれば、日向の那珂勢力がさらに南下してふたたび故地ゆかりの地名を付したのであろう。
いずれにしろ、宮崎と鹿児島には、奴国および北部九州に匹敵し得る弥生遺跡は存在せず、青銅器なども皆無といっていい。また、住吉三神とともに生まれたワタツミ三神や警固三神などを祭る有力な神社もみられないことから、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は博多湾岸にあったと断定してよろしかろう。
福岡平野の住吉神社群
このことを補強するかのように、福岡平野には多くの住吉神社が存在する。
神社名 | 所在地 | 伝承 | |
---|---|---|---|
① | 住吉神社 | 福岡市博多区住吉 | 筑前国一の宮。下社。境内から弥生時代の銅戈・銅鉾が出土。神功皇后伝承あり。 |
② | 現人神社 | 那珂川市仲 | 上社。神功皇后が裂田溝を開設して水田を奉納 |
③ | 住吉神社 | 春日市曰佐 | 中社 |
④ | 住吉神社 | 福岡市中央区若久 | 黒田長政創建とする説あり |
⑤ | 住吉神社 | 春日市小倉 | 神功皇后伝承あり。牛の舌餅 |
⑥ | 住吉神社 | 春日市須玖 | 三の宮とする伝承あり。 |
⑦ | 白鬚神社 | 福岡市西区能古島 | 神功皇后伝承あり。住吉三神の霊を残した。 |
⑧ | 住吉神社 | 福岡市西区姪浜 | 神功皇后伝承あり。 |
那珂川・諸岡川流域に六社、博多湾の能古島に一社、西区姪浜に一社の計八社である。
八社のうち、五社に神功皇后伝承が残され、春日市曰佐と須玖の二社の周辺には、古い弥生遺跡群がある。
- ① 博多の住吉神社(福岡市博多区住吉)
-
筑前国一の宮。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
現在の本殿は江戸時代前期の黒田長政による造営で、その建築様式は「住吉造り」と称される独特の様式で、国の重要文化財に指定されている。
他に文化財としては境内から出土したという弥生時代の銅戈・銅鉾などを伝世し、祭事としては例祭の神功皇后ゆかりの「相撲会大祭」など各種神事を現在に伝える。
- ② 那珂川市の現人神社(那珂川市仲)
-
那珂川の上流右岸にあり、案内板には、次のように記されている。
- 現人神社(住吉三神総本宮)略誌
-
- 御祭神 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
- 御由緒 並びに御神徳
伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れましし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。
- ③ 曰佐(おさ)の住吉神社(福岡市南区曰佐)
-
那珂川市の現人神社は上社、博多の住吉神社は下社、本社は中津瀬の神として祭られたという。社殿の創建は宣化天皇の時代(536年)と伝わる。
- ④ 若久の住吉神社(福岡市南区若久)
-
一説によると、黒田長政公の時代に創建されたという。
- ⑤ 小倉の住吉神社(春日市小倉)
-
神功皇后がこの村に立ち寄り休憩したとき、村人たちが、長旅の苦労をねぎらうため,誠意をこめてもてなした。しかし急ぎの事で時間がなく,料理は半煮え,餅は柔らかすぎて牛の舌のような形になったが、そのまま藁苞(わらづと)に包んで献上し、前途のご無事を祈ったという。
この神功皇后の故事に基づき、毎年10月17日の祭礼では、半煮えの献立と牛の舌餅(うしのしたもち)を御供えする。
神前に供えられる祭礼膳(さいれいぜん)は、柿・栗・切りまびき(魚)・里芋・切り餅一つ一つ串に刺した物を,大根の葉茎を束ねた物に立てて置かれ、牛の舌餅はワラで餅を十文字に結び,その上に柳箸を置かれる。
- ⑥ 須玖の住吉神社(春日市須玖北)
-
『筑前国続風土記付録』には、「住吉大神社ヲヲシモ十戸の産神なり。祭る所住吉三神なり。この祠を三の宮と称す」と書かれている。
- ⑦ 能古島の白鬚神社(福岡市西区能古島)
-
白鬚神社は能古島の南端部に所在する。主神は住吉明神であり、他に神功皇后など三神が祀られる。創建は不明ながら、元々は能古山頂に近い本の辻に現存する巨石が神体とされる。
神功皇后は朝鮮から帰国した後に能古島に上陸し、住吉三神の御加護に感謝しこの島に住吉三神の霊を残したところから、残島と呼ぶようになったという。
- ⑧ 姪浜の住吉神社(福岡市西区姪浜)
-
住吉三神を祭る。姪浜一帯を守る氏神。
姪浜の北側は小戸という。小戸の西側、妙見崎という岬の海辺には御膳立という岩礁がある。長さ東西十九間(約35メートル)、南北四間(約7メートル)にわたって磯岩が並んでおり、しかも椀の形をしている。古くからの名所で、神功皇后が新羅へ遠征する際、海路の安全と皇軍の勝利を祈願し、兵士に膳部を下賜した場所であるという。このときの祭器と伝えられる銅鉾二本が付近の海中から出て、姪浜の住吉神社及び広徳寺に奉納された。別伝では、神功皇后が下賜した膳椀が化石となったという(『飛廉起風』)。
また、朝鮮出兵後、神功皇后は姪浜から上陸したとも伝える。
住吉三神の性格
以上のように、奴国の中枢部に住吉神社が祭られている。伝承によれば、那珂川上流の現人神社が元宮とされ、「仲」という大字に所在する。奴=中=那珂に通じる字名であり、縄文遺跡や弥生遺跡が密集し、古い時代から拠点的な集落があったとみられる地域である。近くには安徳台遺跡もあり、神功皇后ゆかりの「裂田溝」もある。奴国のルーツの地である可能性も高い。
ところで、すでに述べたように、ワタツミ三神は阿曇一族の氏神とされている。宗像三女神も宗像一族の氏神とされている。神を祭る一族が明記されている。しかるに、住吉三神を祭る一族は『古事記』『日本書紀』にまったく記されていない。
奴国は、「倭国大乱」を契機に北部九州の盟主としての地位を邪馬台国に奪われた。神話の経緯でみれば、奴国と出雲の紛争を契機に周辺諸国が離反し、奴国は劣勢に立たされた。
やむなく、イザナギは奴国から逃れた。
住吉の神を祭るべき奴国の王が奴国から立ち去ってしまった。
これが、先に「住吉三神は、おそらく奴国を支配した王族の氏神であったにちがいない」あるいは「住吉三神は奴国の防衛をつかさどる奴国王族のシンボル」と書いた理由である。
イザナギは瀬戸内海方面に逃れ、淡路島に渡った。
『日本書紀』には「淡道の洲(くに)の多賀」と書かれ、『古事記』には「淡海(淡路の誤記とみられる)の多賀」と書かれている。淡路島の伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)のことである。
イザナギはこの地で没し、この地に祭られることになった。
志賀島で見つかった金印は、大胆に推測すれば、イザナギが船で逃れる際に隠したのかもしれない。
金印の出土状況について、発見者の甚兵衛が奉行所に提出した天明四年(1784)の「口上書」は次のとおり。
小さな石を金梃で掘り、石の間から光る金印を取り上げ、水で洗ったと記している。
『筑前国続風土記附録』には、「土中に一の巨石あり。之を発したるに、下に三石周匝匣(そうこう)状(囲い)をなせり。その下に黄金印一顆を得たり」と記されている。
中山平次郎氏は『考古学雑誌』(1914)のなかで、次のように記している。
中山平次郎氏は、巨岩ではなく、小さな三個の石を立てて三角形の空間をつくり、その上に石の蓋をする「三石周匝匣(そうこう)状(囲い)」のなかに金印が収蔵されていたとみている。
そうであれば、墳墓説・支石墓説は成り立たない。遺棄説や磐座説などもあるが、動乱のために地下に隠したとする隠匿説が最も有力とみられる。
墳墓説 | 王の墓に副葬された。 | ×墓ではない。 |
隠匿説 | 動乱のために地下に隠した。 | 〇有力 |
遺棄説 | 中国が「漢の倭」と日本を属国扱いしたので捨てた。 | ×そんなバカな。 |
磐座説 | 志賀海神社の神宝として安置した。 | ×志賀海神社とは無関係の場所 |
支石墓説 | 王とともに埋葬された。 | ×墓ではない |
天照大神=卑弥呼は奴国出身の王女
イザナギの禊には、続きがある。住吉三神・ワタツミ三神などにつづいて、天照大神・月読命・スサノオが生まれているのである。
いうまでもなく、天照大神は日本民族の氏神であり、皇祖神である。
天照大神=卑弥呼とみれば、奴国の王女たる天照大神=卑弥呼は、「倭国大乱」ののち共立されて、邪馬台国の女王となった。
『魏志倭人伝』に卑弥呼の出自は書かれていないが、『古事記』『日本書紀』によれば、天照大神はイザナギの娘である。
かつての北部九州の盟主であった奴国の王女であったがゆえに、各国とも兵を収め、和平に応じたのではないか。朝鮮半島の国々や中国の魏に対しても、邪馬台国が奴国の正統な後継勢力であることを容易に説明することができる。
中国の『魏志倭人伝』と日本の『日本書紀』『古事記』を総合的に勘案すれば、このような結論に到達する。
「奴国」を基点にして考えをめぐらせていけば、新しい古代の世界が見えてくる。
なお、次回からは「邪馬台国の時代」を特集したい。
著者紹介
- 1947年(昭和22)年福岡県柳川市生まれ。
- 九州大学法学部卒
- 歴史作家、日本古代史ネットワーク副会長
- 福岡県文化団体連合会顧問
- ふくおかアジア文化塾代表
- 立花壱岐研究会会員
- 元『季刊邪馬台国』編纂委員長
- 西日本新聞TNC文化サークル講師
- 朝日カルチャーセンター講師
- 大野城市山城塾講師
- 〈おもな著作〉
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- 『志は、天下~柳川藩最後の家老・立花壱岐~(全5巻) 』(1995年海鳥社)
- 「小楠と立花壱岐」 (1998年『横井小楠のすべて』新人物往来社)
- 『立花宗茂』 (1999年、西日本新聞社)
- 『柳川城炎上~立花壱岐・もうひとつの維新史~』 (1999年角川書店)
- 『西日本古代紀行~神功皇后風土記~』 (2001年西日本新聞社)
- 『筑後争乱記~蒲池一族の興亡~』 (2003年海鳥社)
- 『九州を制覇した大王~景行天皇巡幸記~』 (2006年海鳥社)
- 『天を翔けた男~西海の豪商・石本平兵衛~』 (2007年11月梓書院)
- 「北部九州における神功皇后伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』97号、98号)
- 「九州における景行天皇伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』99号)
- 「『季刊邪馬台国』100号への軌跡」 (2008年、『季刊邪馬台国』100号)
- 「小楠と立花壱岐」 (2009年11月、『別冊環・横井小楠』藤原書店)
- 『龍王の海~国姓爺・鄭成功~』 (2010年3月海鳥社)
- 「小楠の後継者、立花壱岐」 (2011年1月、『環』藤原書店)
- 『天草の豪商石本平兵衛』 (2012年8月藤原書店)
- 『神功皇后の謎を解く~伝承地探訪録~』 (2013年12月原書房)
- 『景行天皇と日本武尊~列島を制覇した大王~』 (2014年6月原書房)
- 『法顕の旅・ブッダへの道』 (『季刊邪馬台国』に連載)
- (テレビ・ラジオ出演)
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- 平成31年1月NHK「日本人のおなまえっ! 金栗の由来・ルーツ」
- 平成28年よりRKBラジオ「古代の福岡を歩く」レギュラー出演