最終更新日:2020/11/29
季刊「古代史ネット」創刊号
天照大神の鏡――――八咫鏡を中心として
河村哲夫
天の岩戸
三種の神器の一つの八咫鏡は、天照大神の岩戸隠れの際にはじめて登場する。
出雲に追放されることになったスサノオは、別れを告げるために姉の天照大神のもとを訪れたが、神聖な衣を織るための機屋(はたや)に皮を剥いだ天斑駒を投げ込むなど乱暴狼藉を働いた。
天照大神は怒って、天の岩屋を閉じて籠ったので国中が常に暗闇となり昼夜の区別もつかなくなった。八十万神は天の安河の河原に集まり、天の岩戸の前で祭祀を行うことになった。
『図解 古事記・日本書紀』(東京堂出版)
八咫鏡は、このときイシコリトベ(石凝戸辺)によってつくられた。「トベ」は女性をしめす。
『古語拾遺』には、「天糠戸(あめのぬかど)の子、作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの遠祖(とおつおや)」とされ、『日本書紀』神代上第三の一書に「鏡作の遠祖の天抜戸」と記されている。第二の一書では、天糠戸が八咫鏡をつくったとされている。天糠戸・イシコリトベ(石凝戸辺)親子は鏡作りの専門集団を率いていたのであろう。
八咫鏡とともに榊の木に掛けられた八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、玉祖連(むらじ)の祖の玉祖命がつくった。『古語拾遺』によると、櫛明玉神(くしあかるたま)とされている。
八咫鏡と八尺瓊勾玉は、榊に取り付けられ、忌部氏の祖の太玉命がそれを掲げて天の岩戸の祭祀に臨んだ。太玉命はタカミムスビ(高皇産霊尊)の子とされ、鏡や玉などのモノづくり集団を率いていたのであろう。
やがて、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣は天照大神の孫のニニギノミコトに継承され、その後神武天皇とともに近畿に移動し、天皇家の三種の神器となった。――これが日本の古代文献が一致して伝える伝承である。
試作された二面の八咫鏡
実は、『古語拾遺』には、八咫鏡の試作品がつくられたことが記されている。
「イシコリトベをして日の像(みかた)の鏡を鋳さしむ。はじめに鋳たるはいささか意に合はず。これ紀伊国の日前神(ひのくまのかみ)なり。次に鋳たるはその形、美麗し。これ伊勢大神なり」
これによると、日前神と名づけられた鏡が一面試作されている。
ところが、「日前神宮(ひのくまじんぐう)」と「國懸神宮(くにかかすじんぐう)」(和歌山市秋月)の社伝によると、ご神体として「日像鏡(ひがたのかがみ)」と「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」という二面の鏡が伝えられている。
神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖の天道根命(あめのみちねのみこと)が、二面の鏡を賜り、日像鏡を日前宮に、日矛鏡を國懸宮にそれぞれ奉納したという。
なお、これまで実物が公開されたことがなく、調査されたこともないため、社伝どおりであるかどうかは確認されていない。
八咫鏡が伊勢神宮へ移される
国内情勢の不安の原因が天照大神と倭大国魂神の二神を朝廷の居所に祭っていることにあると考えた第10代崇神天皇は、豊鍬入姫命に命じて天照大神――すなわち八咫鏡を宮中から笠縫邑(かさぬいのむら)に移して祭らせた。
倭大国魂神については渟名城入姫命に命じて祭らせたが、髪が落ち、体は痩せて祭祀を続けることができなくなったので、倭迹迹日百襲姫命の夢のお告げにより、大倭直の祖の長尾市宿禰を祭主として祭らせた。
これが、大和(おおやまと)神社(奈良県天理市新泉町星山)である。
一方、八咫鏡は豊鍬入姫命から倭姫命に託され、倭姫命は天照大神を奉斎しながら伊賀・近江・美濃・尾張などの諸国を経て、最後に伊勢に行き着いた。これが伊勢神宮の起源である。
形代(レプリカ)の製作と三種の神器の変遷
朝廷において、伊勢に移された八咫鏡と草薙剣の形代(レプリカ)がつくられた。『古語拾遺』には、「イシコリトベ(石凝戸辺)の末裔と天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の末裔二氏に命じて鏡を鋳、剣を造らしめた」とある。
これが、現在皇居にある八咫鏡と草薙剣である。
なお、草薙剣については、倭姫命からヤマトタケルにわたされ、尾張の宮簀媛(みやずひめ)を経て、現在熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)のご神体とされている。
宮中の八咫鏡と草薙剣の形代(レプリカ)は、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んだが、その後引き揚げられ、現在は皇居に置かれている。
伊勢神宮の八咫鏡は、何度か本殿の火災等に遭遇することもあったが、現在でも伊勢神宮のご神体として守られている。
熱田神宮の草薙剣は、新羅の僧道行に盗難されるという事件もあったが、無事に取り戻され、宮中から再び熱田神宮に移され、現在でも熱田神宮のご神体として守られている。
もちろん、宮中の八咫鏡、伊勢神宮の八咫鏡、熱田神宮の草薙剣も、公開されたことはなく、調査も行われていないため、現物がどのようなものか誰も知る人はいない。
三種の神器の変遷をまとめると次のようになる。
八咫鏡 | 草薙の剣 | 八尺瓊勾玉 | ||
---|---|---|---|---|
イシコリトベ(石凝姥命)が作製 | ヤマタノオロチの尾から | 玉祖命が作製 | ||
実物 | 形代 (レプリカ) | 実物 | 形代 (レプリカ) | 実物 |
天照大神 (天の岩戸) | 八岐大蛇の尾から 出た剣をスサノオ が得る。 | |||
天照大神に献上 | ||||
ニニギノミコト に授与 | ニニギノミコト に授与 | |||
神武天皇が継承 | 神武天皇が継承 | |||
大和の笠縫邑 (豊鍬入姫命) | 忌部氏が作成(宮中) | 大和の笠縫邑 (豊鍬入姫命) |
||
伊勢(倭姫命) | 伊勢(倭姫命) | |||
ヤマトタケル | ||||
宮簀媛 | ||||
熱田神宮 | ||||
僧・道行が盗む | ||||
宮中へ戻る | ||||
熱田神宮 | ||||
壇ノ浦 | 壇ノ浦 | 壇ノ浦 | ||
伊勢神宮 | 皇居 「賢所」 | 熱田神宮 | 皇居 「剣璽の間」 | 皇居 「剣璽の間」 |
なお、『皇太神宮儀式帳』(804年)によると、伊勢神宮の八咫鏡は、内径1尺6寸3分(49.4センチ)の鏡箱の中に収納されていたという。『延喜式』にも、鏡箱の内径は、1尺6寸3分(49.4センチ)とある。
ということは、八咫鏡の直径は、1尺6寸3分(49.4センチ)よりもやや小さい鏡の可能性が高い。
平原遺跡(福岡県糸島市)から出土した大型鏡
福岡県糸島市といえば、邪馬台国時代に伊都国があった地域である。末盧国(唐津市)、奴国(福岡市・春日市など)とともに、稲作を中心とした弥生文化の先進的な地域である。邪馬台国の海の玄関口とされ、一大率を配置し、諸国を監察した。「世々王あり」と、卑弥呼の時代になっても伊都国王が継承されていた。
その伊都国の中心部の瑞梅寺川と雷川にはさまれた曾根丘陵から、昭和40年、ミカン園の造成中に多数のガラス片や多くの遺物とともに、直径46.5センチの巨大な内行花文鏡が破砕された姿で発見され、原田大六氏を主任調査員として福岡県教育委員会による調査がおこなわれた。
1号墓は、東西約14メートル、南北約10.5メートルの長方形の方形周溝墓で、出土した遺物などから弥生時代後期中頃と推定されており、邪馬台国時代と重なる時代の遺跡である。
墓の周囲には幅1.5メートルから3.3メートル、深さ30センチから10センチ程の周溝があり、中心部には、長さ3メートル、幅90センチの割竹形木棺(丸太を半分に割り、中をくり抜いて再び合わせ棺とした物)が埋納されていた。
鏡類だけでいえば、大型鏡5面+35面=40面が出土しており、1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である。
原田大六氏は「大型内行花文鏡の「文様」と「大きさ」から「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も同型の鏡なのではないかと推測した。
勾玉や管玉などの装飾品が多く、武器類が少ないため、埋葬された人物は「女性」と考えられている。伊都国王の墓とみる説が多いが、原田大六氏は天照大神の墓と断じた。
10号鏡 直径46.5㎝、内行花文八葉鏡
奥野正男氏は卑弥呼の墓とし、最近では安本美典氏もこれに同調されている。
なお、平原遺跡から出土した大型 の 内行花文鏡(内行花文八葉鏡)5面は、すべて仿製鏡(日本製)とみられている。直径46.5センチという巨大な鏡である。一面の重さは約8 kg。
直径46.5センチといえば、前述した『皇太神宮儀式帳』と『延喜式』に記された、鏡箱の内径は、1尺6寸3分(49.4センチ)にちょうど収まる大きさである。
12号鏡 直径46.5㎝、内行花文八葉鏡
八咫鏡とは
「咫(あた)」は、古代中国の長さの単位である。『説文解字』には、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也」とある。「周代の尺で女性の手の長さ8寸を咫という。」という意味である。
すなわち、 8寸=0.8尺=1咫(あた) となり、 1尺=1.25咫(あた) となる。
男性の手を広げたときの親指と中指の間の長さが1尺の起こりで、女性の指は男性よりも短いことから、0.8尺とされたとみられる。ちなみに、漢代の1寸は約2.3センチで、1尺は約23センチとなる。平原遺跡の大型鏡の直径は46.5センチであるから、半径は約23センチ=1尺ということになる。古代中国において、円周率が3.14・・・ということはまだ知られていなかったはずである。
仮に円周率3.2で計算してみると、下記のとおりである。
半径 | 直径 | 円周率 | 円周 | x1.25 | |
---|---|---|---|---|---|
平原大型鏡 | 1尺 | 2尺 | (3.2) | 6.4尺 | 8咫 |
まさしく平原遺跡の大型鏡の円周はちょうど8咫となる。半径1尺、直径2尺、円周率3.2で計算すると、円周は6.4尺、咫に換算すると8咫となるわけである。πの計算からみれば不正確ではあるが、咫の導入によって、簡単に円周が計算できる。ということは円の面積も簡単に計算できるということである。
正方形(A) | 円(B) | A/B | B/A | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
全周 | 2尺×4 | 8尺 | 円周 | 2尺×3.2 | 6.4尺 | 1.25 | 0.8 |
面積 | 2尺×2尺 | 4尺² | 面積 | 1尺×1尺×3.2 | 3.2尺² | 1.25 | 0.8 |
これは、いったい何を意味するのか。正方形の全周あるいは面積がわかれば、円の円周と面積が自動的にわかるということである。その逆もまたしかり。
古代人にとって、1.25と0.8は神の定数である。
たとえば、通常の1尺を基準にした物差(表目尺)と、その目盛を1.25倍延ばした物差(裏目尺)を作成したとしよう。
-
円に外接する正方形の周囲を裏目尺で測れば、表目尺で測った内接円の円周となる。
→0.8L×4=3.2L=L×3.2 -
円に外接する正方形の一辺を表目尺で測り、もう一辺を裏目尺で測ってかけ合わせれば、内接円の面積となる。これは、円の直径を表目尺と裏目尺で測ってかけ合わせれば、円の面積となるということでもある。
→L×0.8L=0.8L²=3.2×(L/2)² -
表目尺で正方形の面積を出し、その数値を表目尺上に取り、その長さを裏目尺で読めば、表目尺で測った内接円の面積となる。
→L×L⇒0.8L²=3.2×(L/2)² -
同じ容量の円筒容器と方形容器を作るには、円筒容器の深さを表目尺で測り、方形容器の深さを裏目尺で測って同じ寸法値にすればいい。
厳密には、π=3.14・・で計算すれば、1.25は1.273・・となり、円筒容器と方形容器に水などの液体を入れた場合には微差が生じることになるが、コメや豆などを測定する場合には、ほとんど問題にならないであろう。
1.25倍の目盛をつけた裏目尺こそが、春秋時代に魯の公輸班によって考案されたと伝わる「魯班尺(ろはんしゃく)」であったかもしれない。周尺より2寸長い尺であったという。現在では本来の用途が忘れられ、「風水尺」とも呼ばれて占いの道具になっている。上下2段の目盛には吉凶の文字が付され、上段が「門公尺」、下段が「丁蘭」と呼ばれ、伝統的に上段の目盛が下段より長い。
このように、平原遺跡の大型鏡は、単に人の顔を映し、あるいは王者の権威を高めるための威信財としての用途のほかに、中国単位による長さや、面積・体積などを計算する魯班尺的な用途もあったのではないか。
中心部の八葉の文様は、東西南北の直角方向のほか東北・南東・北西・南西45度の方角を示す羅針盤としての用途もあったのではないか。
太陽光を反射する通信手段として用いられた可能性だってあり得る。
現代の数学者・物理学者が考えれば、もっと多くの用途が見つかるかもしれない。
北部九州のクニグニは、前漢時代から多くの中国鏡を入手している。とりわけ伊都国と奴国で顕著である。邪馬台国の卑弥呼もそうである。好物の鏡を「百枚」も入手している。詳細な全数分析はしていないが、日本で出土した前漢鏡と後漢鏡の直径は、1寸あるいは1尺の一定割合を示しているものが少なくないようにみえる。もちろん鋳上がったときの伸縮によって誤差を生じるので、厳格な数値ではないものの、現在、日本で出土した鏡全体について、その総合的な分析を委託しているところであり、その結果が出たら明らかにしたいとおもっている。
立岩遺跡前漢鏡 | 直径(cm) A | A÷1尺(23.0cm) | 1尺との比率 |
---|---|---|---|
連孤文日有喜鏡 | 18.2 | 78.8 | 約0.8 |
連孤文日有喜鏡 | 15.6 | 67.6 | 約2/3 |
重圏精白鏡 | 17.8 | 77.1 | 約0.8 |
重圏精白鏡 | 15.4 | 66.7 | 約2/3 |
連孤文精白鏡 | 18.0 | 78.0 | 約0.8 |
重圏姚姚皎鏡 | 15.9 | 68.9 | 約2/3 |
立岩遺跡(福岡県飯塚市)の10号カメ棺から出土した前漢鏡6面
平原遺跡の大型鏡は八咫鏡
結論からいえば、平原遺跡の大型鏡は、特別の用法を備えた特別の鏡として、特別に鋳造された可能性が高い。しかも、日本製である。
天照大神の八咫鏡も、その名のとおり八咫鏡にふさわしい。天の岩戸の祭祀に用いられ、代々天皇家に伝えられてきた。しかも、内径1尺6寸3分(49.4センチ)の鏡箱に平原遺跡の大型鏡がちょうど収まる大きさである。すなわち、平原遺跡の大型鏡は八咫鏡である。
まとめれば、次のとおりとなる。
八咫鏡 | 面 数 |
---|---|
平原遺跡 | 5面 |
宮中 | 1面 |
伊勢神宮 | 1面 |
日前神宮 | 1面 |
國懸神宮 | 1面 |
計 | 9面 |
平原遺跡は考古学的情報であり、それ以外の古代神話・伝承が伝える情報は、すべて天照大神と関連している。卑弥呼の鏡かどうかはともかくとして、直接・間接に天照大神に関連した鏡であることはまちがいない。天照大神は九州と密接な関連がある。このことを平原遺跡は告げている。
神武天皇は九州から近畿に東遷したと記紀は記し、平原遺跡もまた九州に位置する。
作成者はタカミムスビ(高皇産霊尊)系統のおそらく忌部一族であろう。
北部九州の青銅器製造の中心センターは春日丘陵――奴国にあったから、そこでつくられた可能性が高いが、奴国の職人たちが伊都国を訪れて現地生産を行った可能性も考えられよう。
そのことを裏づける前例もある。邪馬台国よりはるか前の、紀元前1世紀の金印奴国の時代ではあるが、伊都国の王墓・三雲南小路遺跡である。その2号甕棺について、井上裕弘氏は『弥生・古墳文化の研究』(梓書院)のなかで、次のように記されている。
「伊都国王の女王墓ともいわれる糸島市三雲南小路2号墓の甕棺に奴国の中心となる一の谷型甕棺が採用されていること、その他にも地元の工人集団とは明らかに異なる集団が製作した甕棺が搬入された遺跡が数多く存在する」
伊都国王の甕棺などが奴国の職人の手によってつくられている。すでにこのような前例がある。忌部一族のルーツは奴国の可能性すら考えられる。
いずれにせよ、平原遺跡の大型鏡がどこでつくられたのか、今後の考古学的調査の進展を期待したい。
豊の国の神夏磯媛
『日本書紀』のなかに、仲哀天皇・神功皇后や景行天皇を出迎えるにあたり、鏡・剣・玉を榊に飾って、 九州の豪族が出迎えるくだりがある。
上枝 | 中枝 | 下枝 | 根拠文献 | |
---|---|---|---|---|
神夏磯姫 | 八握剣 | 八咫鏡 | 八尺瓊 | 『日本書紀』景行天皇紀 |
熊鰐 | 白銅鏡 | 十握剣 | 八尺瓊 | 『日本書紀』仲哀天皇紀 |
五十迹手 | 八尺瓊 | 白銅鏡 | 十握剣 | 『日本書紀』仲哀天皇紀 |
このうち、神夏磯姫(かむなつそひめ)が八咫鏡を携えて出迎えていることが注目されよう。
『日本書紀』は彼女のことを「一国(ひとくに)の魁師(ひとごのかみ)」と形容している。
「豊の国の王」のような意味である。しかも女性である。考えてみれば、卑弥呼を継いだ台与(壱与)、あるいは天照大神を継いだ万幡豊秋津師媛・天忍穂耳尊のその後の消息は不明である。
天照大神の長男とされる天忍穂耳尊は豊前の英彦山(日子山)に祭られ、万幡豊秋津師媛の父のタカミムスビ(高皇産霊尊)は英彦山の七里四方の48の社(高木神社ないし大行事社)に祭られている。また、天照大神の娘の宗像三女神は宗像大社に、天照大神の孫のニニギノミコト(瓊瓊杵尊)は嘉麻郡の馬見山に、おなじく孫のニギハヤヒ(天火明命)は遠賀川流域の鞍手郡に祭られている。
このように、天照大神の次世代の神々は、筑紫平野から山を越えた東北方面――――豊前・嘉麻・鞍手・宗像などに祭られている。
そして、景行天皇時代に(おそらく4世紀後半)に、八咫鏡を携えた神夏磯姫(かむなつそひめ)が登場する。『日本書紀』には彼女の出自はいっさい書かれていないが、神武東遷後に九州に残された高天原勢力ないし邪馬台国勢力の最後の女王が神夏磯姫であった可能性もあり得る。
もちろん、彼女の八咫鏡は失われているが、上記の9面の八咫鏡にこの一面の伝承を追加して整理することは許されるだろう。
天照大神は卑弥呼か
第一部の「卑弥呼の鏡」においては、卑弥呼の時代の鏡は後漢鏡であり、大分県日田市から出土したとされる「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」は魏の皇帝から卑弥呼に特別に贈与された可能性が高いことを論じた。
第二部の「天照大神の鏡」においては、八咫鏡が平原遺跡出土の大型鏡と同じである可能性について論じた。
安本美典氏は、約半世紀にわたり「天照大神=卑弥呼」と主張されているが、邪馬台国九州説はここに今後の展望を見つけるべきかもしれない。
もし、 天照大神=卑弥呼 であるならば、第一部の「卑弥呼の鏡」と第二部の「天照大神の鏡」がパラレルな関係として論じることが可能となる。
それは、戦後長らく見捨てられてきた『日本書紀』『古事記』の復活を意味する。
『魏志倭人伝』に大きく偏った片肺飛行から、日本の文献・伝承を加えた両肺飛行への大きな転換となる。
それは、戦後史観の打破にほかならない。
それこそが、このたび設立された「日本古代史ネットワーク」の最大のメッセージである。
著者紹介
1947年(昭和22)年福岡県柳川市生まれ。
九州大学法学部卒、歴史作家、日本古代史ネットワーク副会長
福岡県文化団体連合会顧問、ふくおかアジア文化塾代表
立花壱岐研究会会員、元『季刊邪馬台国』編纂委員長
西日本新聞TNC文化サークル講師、朝日カルチャーセンター講師
大野城市山城塾講師
- 〈著作歴〉
-
- 『志は、天下~柳川藩最後の家老・立花壱岐~(全5巻) 』(1995年海鳥社)
- 「小楠と立花壱岐」 (1998年『横井小楠のすべて』新人物往来社)
- 『立花宗茂』 (1999年、西日本新聞社)
- 『柳川城炎上~立花壱岐・もうひとつの維新史~』 (1999年角川書店)
- 『西日本古代紀行~神功皇后風土記~』 (2001年西日本新聞社)
- 『筑後争乱記~蒲池一族の興亡~』 (2003年海鳥社)
- 『九州を制覇した大王~景行天皇巡幸記~』 (2006年海鳥社)
- 『天を翔けた男~西海の豪商・石本平兵衛~』 (2007年11月梓書院)
- 「北部九州における神功皇后伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』97号、98号)
- 「九州における景行天皇伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』99号)
- 「『季刊邪馬台国』100号への軌跡」 (2008年、『季刊邪馬台国』100号)
- 「小楠と立花壱岐」 (2009年11月、『別冊環・横井小楠』藤原書店)
- 『龍王の海~国姓爺・鄭成功~』 (2010年3月海鳥社)
- 「小楠の後継者、立花壱岐」 (2011年1月、『環』藤原書店)
- 『天草の豪商石本平兵衛』 (2012年8月藤原書店)
- 『神功皇后の謎を解く~伝承地探訪録~』 (2013年12月原書房)
- 『景行天皇と日本武尊~列島を制覇した大王~』 (2014年6月原書房)
- 『法顕の旅・ブッダへの道』 (『季刊邪馬台国』に連載)
- (テレビ・ラジオ出演)
-
- 平成31年1月NHK「日本人のおなまえっ! 金栗の由来・ルーツ」
- 平成28年よりRKBラジオ「古代の福岡を歩く」レギュラー出演