最終更新日:2020/11/29
季刊「古代史ネット」創刊号
【Ⅰ】卑弥呼の鏡――――金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を中心として
河村哲夫
銅鏡百枚
『魏志倭人伝』には、魏の皇帝から卑弥呼に対して「銅鏡百枚」等を下賜する詔書が発せられ、正始元年(240)帯方郡より卑弥呼に届けられたことが記されている。
この「銅鏡百枚」については、九州北部から出土する後漢式鏡――内行花文鏡、方格規矩鏡、獣首鏡、夔鳳鏡、盤龍鏡、鳥文鏡、双頭龍鳳文鏡、位至三公鏡などが有力とされ、邪馬台国九州説の大きな論拠の一つになっている。
たとえば、奥野正男氏の『邪馬台国はここだ』(梓書院)による後漢鏡の分布は次のとおりとなる。
中国鏡 | 国産鏡 | 計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
前漢鏡 | 後漢鏡 | 大型 | 小型 | |||
九州 | 福岡 | 103 | 126 | 5 | 38 | 272 |
佐賀 | 10 | 32 | 20 | 62 | ||
大分 | 2 | 21 | 4 | 27 | ||
熊本 | 6 | 11 | 17 | |||
長崎 | 3 | 4 | 21 | 28 | ||
鹿児島 | 1 | 3 | 4 | |||
計 | 118(97.5%) | 190(82.6%) | 5 | 97(66.4%) | 410(81.5%) | |
本州 | 3 | 40 | 1 | 49 | 93 | |
全国計 | 121 | 230 | 6 | 146 | 503 |
これをみると、後漢鏡の分布は、北部九州――とりわけ福岡県が圧倒的で、邪馬台国の中心地が福岡県にあったことをうかがわせる結果となっている。
安本美典氏も同様の観点から、邪馬台国朝倉説を唱えておられることは周知のとおりである。
これに対して、近畿地方を中心に前方後円墳から出土することの多い「三角縁神獣鏡」を卑弥呼の鏡とするのが近畿説の大勢であったが、現在では、
- 中国本土から一面も出ない。
- 南朝的な意匠である。
- 金属分析上、中国産ではない。
- 日本で500面以上出土していて「銅鏡百枚」を大きく超えている。
などの指摘を受け、近畿説においても、卑弥呼の鏡とみる説は大きくトーンダウンしているようにみえる。
「曹操高陵」から出土した鉄鏡
昨年2019(令和元)年7月9日から9月16日まで、東京国立博物館において「三国志」展が開催され、それに関連して、日中の学者による学術交流団座談会が行われた。
この席上、河南省文物考古研究員の潘偉斌(はん・いひん=Pan Weibin)研究員から、
「2008年に魏の曹操(155~220)の墓――いわゆる「曹操高陵」から出土した鉄鏡と、大分県日田市出土とされる金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎん さく がん しゅりゅうもん てっきょう)が、画像でみるかぎり、文様も装飾も酷似している。直径も21センチで、ほぼ同じ大きさだ」
との発言があり、マスコミも大きく報道した。
「曹操高陵」から出土した鉄鏡
大分県日田市から出土した鉄鏡――金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡
梅原末治氏(1893~1983京都大学教授)は偶然にこの鉄鏡を奈良県の古美術店より入手し、熊本大学教授の白木原和美氏の協力を得て、鉄サビなどを研磨したところ、金銀錯文が鏡面の一部に残っていた。
梅原氏はこの鉄鏡の出土経緯を知るため、1963年(昭和38)九州大学の岡崎敬氏とともに、発見者の日田市の渡辺音吉氏に聞き取り調査を行った。この結果、この鉄鏡は1933年(昭和8)国鉄久大本線施設工事にあたり、採土の行われた三芳駅東方約450メートルのダンワラ台地裾に存在した竪穴式石郭を主体としたダンワラ古墳(日田市日高町・東寺1933年消滅)から出土したもと結論づけた。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(国重要文化財)
鋳鉄製で、直径21.3センチ、厚さ2.5ミリの薄い扁平なつくりである。
文様は金銀錯の竜文が基調で、各所に玉を嵌装し、破損により全体の3分の1を遺すにすぎないが、旧状はよくうかがえる。四葉座の鈕を中心に、葉の間に「長宜●孫」の四文字を篆書体で表している。
中国から出土した鉄鏡
全洪氏の「試論東漢魏晋南北朝時期的鉄鏡」(『考古』1994)によると、
後漢魏晋南北朝時代の鉄鏡の出土地域は、河南・河北・北京・陝西・遼寧・甘粛・山東・江蘇・湖南・湖北・四川・江西・広東・浙江の県・市の90におよぶ墓と数遺跡から140枚ほど発見された。
時代別には後漢時代の墓から60枚以上発見され、その内訳は北方地域が40枚以上、南方地域が10枚あまりで、黄河と長江流域に集中していた。魏晋時代の墓からは30枚ほど発見され、その内訳は北方地域が20枚以上、南方地域からは10枚ほどであった。その北方地域は洛陽を中心とし、南方地域は寧鎮(南京・鎮江一帯)および太湖付近を中心としていた。
と、後漢時代から中国において鉄鏡が製造されていたことが明らかにされており、日田出土の鉄鏡も中国産である可能性がきわめて高い。しかも、曹操の鉄鏡と日田の鉄鏡の直径はほぼおなじ21センチである。ちなみに、魏晋時代の1尺=10寸=24.1センチで、21センチといえば9寸である。すなわち、曹操の鉄鏡と日田の鉄鏡は9寸鉄鏡ということになる。
9寸鉄鏡は、下記のとおり、日中で2面ずつ計4面出土している。
国 | 出土地・名称 | 直径 | 種類 | 備考 |
---|---|---|---|---|
日本 | 日田出土金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡 | 21.3cm | 夔鳳(きほう)鏡 「長宜●孫」銘 | 日田の地 |
岐阜一之宮神社蔵鉄鏡 (岐阜県吉城郡国府町・高山市) | 21.2cm | 夔鳳鏡 「長宜■孫」銘 | 飛騨の地 | |
中国 | 甘粛省武威雷台漢墓出土 金銀錯鉄鏡 | 21 cm | 夔鳳鏡 「長宜子孫」銘 | 後漢の霊帝・献帝 (186~219) |
曹操墓金錯鏡 | 21 cm | 夔鳳鏡 | 魏の曹操 (155~220) |
以上のように、4面とも夔鳳(きほう)鏡であり、3面が「長宜子孫」銘鏡である。
中国文献に記された鉄鏡
そして、中国文献にも鉄鏡のことが記されている。
- 『北堂書鈔』(隋の時代の書)
「魏の武帝(曹操)は(1)尺2寸の金錯鉄鏡1枚を、皇后は7寸の銀錯の鉄鏡4枚を持っていた」 - 『初学記』(唐の時代の書)
「魏の武帝は(1)尺2寸の金錯の鉄鏡を持っていた」 - 『曹操集約注』(魏の曹操の書いたものに注をつけたもの)
「皇帝は(1)尺2寸の金錯鉄鏡1枚を、皇后は銀錯7寸の鉄鏡4枚を、貴人・公主は9寸の鉄鏡を持っていた」 - 『太平御覧』(宋の時代の書)
「魏の武帝(曹操)が皇帝(献帝)に献上した雑物(御物)のなかに(1)尺2寸の金錯鏡1枚、皇太子の雑物として純銀錯鏡7寸の鉄鏡4枚、貴人・公主用の9寸の鉄鏡40枚があった」
以上の文献をまとめれば、次のようになる。
クラス | 鏡の種類 | 直 径 | 備 考 | |
---|---|---|---|---|
皇帝 | 金錯鉄鏡 | 1尺2寸 | 28.9cm | |
貴人・公主 | 銀錯鉄鏡 | 9寸 | 21.7cm | 日田の金銀錯鉄鏡21.3㎝ |
皇后・皇太子 | 鉄鏡 | 7寸 | 16.8cm |
貴人は皇帝の妃、公主は皇帝の娘とされる。
皇帝は金錯1尺2寸、貴人・公主は銀錯9寸であるから、日田の鏡は大きさだけからいえば、貴人・公主並みの9寸であるが、金錯・銀錯が施されているため、貴人・公主以上、皇帝以下のクラスとみることもできよう。加えて宝石による装飾が施されており、豪華さという観点からみれば、まさに比類のない一品である。海を越えてはるばる使者を派遣した卑弥呼に下された特別の鏡にふさわしい。
中国の潘偉斌研究員も、九州国立博物館を訪れ、実際に金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を見たうえで、
- 「銅鏡百枚のうちの1枚か、あるいは別ルートで入手した鏡であろう」
- 「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」
と述べている。
このように、日田の鉄鏡は知る人ぞ知る鏡であったが、邪馬台国近畿説の立場からみれば、卑弥呼とは無関係の鏡であり、出土状況やその後の経緯などからしても、うさんくさい鏡であり、その価値を認めることはできないとして、この鏡を論じること自体に激しい拒絶反応・アレルギー反応を示す傾向が強い。
しかしながら、曹操の鉄鏡の登場によって、邪馬台国九州説を補強するきわめてきわめて重要な物的証拠の一つになったといえよう。
日田と筑紫平野
日田は豊後に属するが、地形的にみれば、筑紫平野の東端――日の立ち上る方向に位置している。日田という地名は筑紫平野の中心地から見た呼称である。そして、日田と筑紫平野の関係は、古く長い。
(1)立岩(飯塚市)の石庖丁と今山(福岡市西区)の
石斧の分布(紀元前2世紀ごろ~)
田中 琢著『倭人争乱』(1991集英社)
(2)カメ棺文化圏の一角としての日田(紀元前2世紀ごろ~)
橋口達也著『甕棺と弥生時代年代論』(2005雄山閣)
- 日田はカメ棺文化圏に属する
金印奴国の時代の文化圏の特徴であるカメ棺は、筑後川をさかのぼって日田・玖珠地区に及ぶが水分峠は越えない。
- 東九州の文化圏には属さない
東九州地域から出土する下城式土器は日田・玖珠地区には及ばない。
久津媛の伝承
『日本書紀』『豊後国風土記』は、日田に久津媛という女神がいたことを記している。
『豊後国風土記』には、
「むかし、纏向の日代の宮に天の下をお治めなされた大足彦天皇(景行天皇)が球磨贈於を征伐して凱旋なされたとき、筑後の生葉の行宮をお発ちになって、日田郡にお出ましになった。ここに久津媛という名の神があったが、人間になって出迎えて、この国の国状をよく判断して言上した。こういうわけで久津媛の郡という。いま日田郡といっているのは、それがなまったものである」
と記されている。
久=日田は、『和名抄』では「日高」と書かれ、『先代旧事本紀』では「比多」と書かれる。
会所山は日田の聖地といわれる3つの頂上を持つ山で、東西に細長く見晴らしのよい西の頂上に久津媛神社(日田市日高)が鎮座している。祭神は久津媛神と大足彦忍代別命(景行天皇)で、神功皇后伝承も残されている。
会所山の西端中腹の鳥羽塚古墳(円墳)、南頂上の会所山古墳(北向古墳・横穴式石室)・後山古墳(円墳)などの古墳が確認されている。
久津媛がいつごろの人物で、何者なのかを伝える資料はないが、天照大神や卑弥呼とおなじく、女性を首長とする古代九州の統治法を共有していることからみて、邪馬台国の卑弥呼と何らかの関係があった可能性が高い。筑紫平野を拠点としたとみられる邪馬台国にとって、日田の地は東方の拠点を守護するきわめて重要な地であったからである。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が卑弥呼の鏡であるとすれば、卑弥呼が日田を拠点とした可能性もあり得よう。卑弥呼を継承した台与の可能性もあり得よう。そうではないにしても、卑弥呼あるいは台与――邪馬台国から特別の信任を受けた人物が、久津媛であった可能性もあり得よう。
いずれにしても、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が卑弥呼の鏡とした場合、邪馬台国九州説が飛躍的に進展する可能性を秘めている。
岐阜一之宮神社蔵鉄鏡
ところで、岐阜一之宮神社(高山市国府町名張字宮の前)に伝わる、もう1面の鉄鏡のことである。
この神社の祭神は、大国主命と田心姫命(宗像三女神の一人)の間に生まれた下照姫命(したてるひめ)である。創建時期は不詳であるが、古書に祭神は下照比売命、下照大権現などと記されている。かつては、「一之宮大菩薩」と称し、「大宮」または「一之宮」と称したという。
この神社の一角に一之宮古墳があった。7世紀頃の古墳とされる。
錆に覆われた鉄鏡
明治4年(1871)、一之宮神社社殿拡張工事に際し、社殿北西の古墳から鉄鏡1面のほか、鍔(つば)3点、直刀2本、金環6個、銅鈴3個、鉄鏃(てつぞく)29本、鉄製鎌、鉄釘など計50点が出土した。
これらは、一之宮神社で保管されていたが、昭和60年三重大学教授八賀晋氏がエックス線撮影調査をおこなったところ、鉄鏡は直径21.2cmで、中心から四方に伸びた四枚の葉の間に、向かい合った一本足の鳥が2羽ずつ計8羽ほどこされた中国製の「夔鳳鏡(きほうきょう)」と鑑定されたのである。鉄鏡の表面は、表裏とも腐食しているため、鉄の酸化を防ぐ保存処理が施された。岐阜県指定重要文化財(昭和62年1月)。
エックス線画像
日田の鉄鏡と同じ9寸鉄鏡・夔鳳(きほう)鏡・「長宜子孫」銘鏡である。
日田と飛騨の発音が似ていることも気になる。
これまた中国産と断定してさしつかえなかろう。それがどうして飛騨の地から出土したのか。
飛騨を治めたのは尾張一族
『先代旧事本紀』によれば、斐陀国造として、志賀高穴穂の朝(成務天皇)の時代に、尾張連の祖の「瀛津世襲命(おきつよそのみこと)」の児(こ)の「大八椅命(おおはしのみこと)」を国造に定めたという。尾張氏系譜からみて、この場合の「児(こ)」は「末裔」という意味である。
尾張氏といえば、神武天皇に先立って九州から近畿に東遷した天火明命(ニギハヤヒ)の末裔氏族である。ということは、飛騨の鉄鏡はニギハヤヒとともに九州から近畿にもたらされ、その後尾張に拠点を移した尾張一族の末裔である「大八椅命(おおはしのみこと)」が鉄鏡を携えて国造として赴任した可能性が高い。飛騨の鉄鏡が、中国から直接もたらされた可能性は薄い。いずれにしても、九州を経由してきたはずである。
飛驒は、斐太、斐陀とも書かれた。大分県の日田とほぼ同じ発音といっていい。
東山道の要衝の地で、飛騨支道の終着点である。国府町と呼ばれるのは、飛騨国の「国衙」があったことに由来する。
国府からは.縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡が多数出土し、岐阜県最大の前方後円墳や古墳群がある。飛騨地方で500余の古墳が発見されているが、そのうち390基が国府町内にある。
「日田」あるいは「飛騨」の意味するところ
日田と飛騨の共通点は、
- 日(太陽)が昇る方向・・ それを見る人々は西方にいる。
- 東へ向かう前進基地・・ その勢力の中心は西方にある。
ということである。まとめると、次のようになる。
政治の拠点――「都」は、時代によって異なるが、都からみて東方の最前線を、日田・飛騨・日高と呼んだのではないか。
明治になると、「日高」は津軽海峡を越えて北海道に渡った。
すなわち、日田―飛騨―常陸―日高見―日高という地名には、日本の成り立ちの軌跡が刻まれているのではないか。
別 称 | 説 明 | |
---|---|---|
日田 (大分県) | 日高(和名抄) 比多(先代旧事本紀) 久 津媛(豊後国風土記) |
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飛騨 (岐阜県) | 飛驒(本字) 斐太 斐陀 |
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常陸 (茨城県) | 日高見 (常陸国風土記) |
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日田の 意味 | 邪馬台国時代 | 日田(大分県) 【 邪馬台国筑紫平野説を補強する 。】 |
神武東遷以前 | 九州の東方 『釈日本紀』は神武東征以前、大和が日高であったとする。 |
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神武東遷以降 | 飛騨(岐阜県)・常陸(茨城県)。本州の東方 | |
ヤマトタケル ~坂上田村麻呂 | 日高見 国= 北上 川(岩手・宮城県)まで前進 | |
結論:王権の支配する地の東方――日の出の方向にある国 |
〇大分県日田市出土の「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」【令和元年9月6日朝日新聞】
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著者紹介: 河村哲夫
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