最終更新日:2021/06/29

季刊「古代史ネット」第3号

奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡

河村 哲夫

紀元前後の倭人の活動領域

前回述べたように、『後漢書』東夷列伝には、

「建武中元二(57)年、倭の奴国、貢を奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称う。倭国の極南界(最南端)なり。光武は賜うに印綬を以てす。安帝の永初元(107)年、倭国王の師升等、生口百六十人を献じ、願いて見えんことを講う」

と書かれている。

奴国の位置は「倭国の極南界」であり、したがって、光武帝時代、少なくとも倭人の活動エリアが北部九州の玄界灘沿岸部から朝鮮半島南部に及んでいたことを中国側が認識していたことをしめしている。

このことは、中国の複数の文献でも確認できる。

対馬海峡を中心としたグーグルMAP
  1. (1)『後漢書』東夷列伝
    「馬韓は西部にあり、五十四国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接す。辰韓は東部に在り、十二国国を有し、その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接す
  2. (2)『後漢書』倭人伝
    「倭は韓の東南大海の中にあり、山島によりて居をつくり、およそ百余国あり。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてより、使駅(訳)の漢に通ずる者三十ばかりの国ありて、国ごとに皆王と称し、世々統を伝う。その大倭王は邪馬台国に居す。楽浪郡の徼(きょう)は、その国(邪馬台国)を去ること一万二千里にして、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里なり」
  3. (3)『魏志』韓伝
    「韓は帯方の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。方四千里ばかり。三種あり、一に馬韓といい、二に辰韓といい、三に弁韓という。辰韓とは古の辰国なり。馬韓は西にあり」
  4. (4)『魏志』韓伝
    「その(弁辰)瀆盧国は倭と界(さかい)を接す
  5. (5)『魏志』倭人伝
    「(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その(倭の)北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。始めて一海を度(わた)ること、千余里にして対馬国に至る」
文 献 記  事
『後漢書』東夷列伝 (奴国は)倭国の極南界(最南端)
『後漢書』東夷列伝 (馬韓の) 南は倭と接す。
その(弁辰の)南はまた倭と接す。
『後漢書』倭人伝 その(邪馬台国の)西北界の狗邪韓国
『魏志』韓伝 (韓の) 南は倭と接す。
『魏志』韓伝 (弁韓の)瀆盧国は倭と界(さかい)を接す。
『魏志』倭人伝 その(倭の)北岸の狗邪韓国

とりまとめると以上のとおりとなるが、いずれの中国文献においても、三韓諸国と倭が陸地で国境を接している印象の方が強く、海によって隔てられている印象を受けない。

とりわけ、狗邪韓国は倭の北限の国であるかのごとくである。前回述べたように、狗邪韓国は首露王が建国した金海加羅のことである。

地図3「東夷伝」による諸民族の地理的位置

弥生式土器の分布

以上のことをしめすかのように、朝鮮半島南部には弥生式土器が分布している。

確認された弥生式土器は「2011年現在では数百点に達し、弥生系土器が確認された遺跡も約20遺跡に及ぶ」とされる(石丸あゆみ「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉」)。

そして、弥生式土器と区別することが困難な土器類をA類、弥生式土器に似た擬弥生土器をB類としてその分布を調べると次のとおりとなるという(石丸あゆみ・前掲書)。

朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉
朝鮮半島弥生系土器出土主要遺跡分布図
朝鮮半島出土弥生系土器出土遺跡一覧

上表の「出土弥生系土器型式」欄は土器編年による年代区分で、武末純一氏の「日韓交流と渡来人」によると次のとおりとなる。

北部九州の弥生時代と無文土器・原三国時代の併行関係

朝鮮半島南部に、倭人もしくは倭人系の人々が居住していたことは明らかである。

基本的に、沿岸部や島嶼部に多い。海を超えて朝鮮半島を訪れた壱岐・対馬および北部九州の倭人は、現代と異なり、税関もなく、旅行会社もなく、宿泊するホテルもなく、舟をつないだ入江近くにみずから住居をつくって滞在するしかなかったであろう。

そして、現地人との摩擦・衝突を避けるため、クニの中心地からやや離れた区域や小さな島などを選んだであろう。

やがて、往来が常態化すると、居住地の保全などのため、居残りを命じられた倭人もいたであろう。彼らは現地人と日常的に交わり、現地語も習得し、場合によっては現地妻を娶り、子をつくり、倭人系の家族・集落が生まれた。

朝鮮半島南部に残された倭人が製作した弥生式土器(A類)は、倭人一世かその影響を強く受けた者によってつくられ、弥生式土器に似た土器(B類)は、主として混血倭人によってつくられた土器類として区分できるかもしれない。

以上を踏まえ、紀元前後の奴国の時代の倭人および倭人系の主な拠点的な遺跡は、次のとおりとなろう(番号のない遺跡は、筆者による追加)。

弁韓・加羅辰韓
遺跡名国名・地名遺跡名国名・地名
良洞里遺跡(金海) 金官伽耶 16 達川遺跡(蔚山) 冉奚
11 池内洞遺跡(金海) 17 梅谷洞遺跡(蔚山)
熊川貝塚(鎮海)
7 茶戸里遺跡(昌原) 骨浦
南山遺跡(昌原)
6 東外洞遺跡(固城) 小伽耶
1 勒島遺跡(泗川) 郡邪
5 芳芝里遺跡(泗川)
上の表を地図上にプロット
朝鮮半島南部の倭人系土器出土地
狗邪韓国の中心地――良洞里遺跡(金海市)

金海平野の西端の丘陵地にあり、狗邪韓国の拠点集落の墓地とみられている。紀元前後~3世紀後半の大墳墓群で、日本の奴国から邪馬台国時代に重なる遺跡である。

次号で紹介する北部九州の首長(王) 墓群と比較しても、まったく遜色のない遺跡である。

朝鮮半島南岸に分布する沿岸島嶼部の交易の拠点的な弥生遺跡にくらべると、中国や倭との交流をしめすおびただしい遺物が特徴である。西方の茶戸里遺跡とともに、倭の北限の遺跡とみてもおかしくはない。

金海市の地形+遺跡

後漢の方格規矩四神鏡と銅鼎、奴国など北部九州産とみられる広型の銅矛片や仿製鏡、吉野ヶ里遺跡から出土した細型銅矛鋳型と同型の細型銅矛などが出土している。

このほか、銅鼎、銅鍑(ふく・上に甑を置いてカマドに乗せる蒸器)・鉄鍑なども出土している。

仿製鏡や中広型・広型銅矛は北部九州のクニグニで用いられた祭祀用具で、倭人との密接な関係をしめしている。総計約89枚の板状鉄斧も出土し、のちの鉄鋌(てってい・鉄のインゴット)の原型ともみられている。

この地には「金海貝塚」がある。

戦前、日本の研究者が調査をおこなった遺跡である。金海市の町はずれの、海抜50メートルほどの鳳凰台という丘陵の上には、支石墓、石棺墓、カメ棺墓があり、多数の青銅器や鉄器が出土した。3号カメ棺から細形銅剣2点と鉇(やりがんな)10点が出土した。

この地で出土したカメ棺は韓国のカメ棺と形が異なっており、金海式カメ棺と呼ばれ、倭人系の墓で、北部九州で製作されたとみられている。この倭人系の金海式カメ棺は、玄界灘沿岸部や筑紫平野からも数多く見つかっている。

金海式カメ棺
金海式カメ棺

また、倭人集落とみられる「亀山洞遺跡」が確認されている。

弥生前期末~中期前半の弥生式土器が出土土器全体の7~8割を占める区域があるなど、弥生時代の早い段階から倭人が居住していた遺跡である。

倭人が製作した弥生式土器(A類)とともに、弥生式土器をまねた土器類(B類)も出土している。倭人と韓人の混血集落であったろう。

なお、金海市の東4キロにある「池内洞遺跡」の朝鮮式のカメ棺からは、九州北部系の丹塗磨研土器なども出土している。対馬の小姓島遺跡や壱岐の原の辻遺跡などからも同様のものが出土しているから、これまた、韓人と倭人との交流をしめすものであろう。

熊川貝塚(鎮海市)

金海市の西方――鎮海市の薺浦から少し内陸に入った海抜200メートルほどの丘陵地に、「熊川貝塚」がある。奴国の時代・三韓時代の遺跡で、鹿の骨を切断して平行線を刻んだ彫骨など、これまた北部九州の弥生遺跡と類似する遺物が出土している。

ちなみに、この地には、中世の港湾遺跡の「熊川薺浦遺跡」がある。李氏朝鮮が1426年、富山浦(釜山)・塩浦(蔚山)とともに日本に対して開いた港で、最盛期には約2,500人の日本人が居留し、貿易や接待のための「倭館」が設けられた。また、文禄元年(1592)の文禄の役のときには、「倭城」が築かれるなど、後世においても日本の拠点になった地でもある。

熊川薺浦遺跡地図
茶戸里遺跡(昌原市)
有柄式銅剣

紀元前1世紀ごろの木棺墓群で、墓の一つから、有柄式銅剣が出土した。

木棺墓の規模・形態・内容等から3類に分けられるという。

第Ⅰ類は、大型の墓壙 (ぼこう) の底に腰坑 (副葬壙) を伴う構造である。第Ⅱ類は墓壙のみで、腰坑がないものである。第Ⅲ類は墓壙が小規模で、腰坑もなく副葬品も乏しいものである。

第Ⅰ類の墓が首長(王)墓であろう。

慶尚南道茶戸里遺跡の文房具系遺物

1号墓は土壙掘削後,さらに壙底中央に腰坑を設置し、副葬品を詰めた竹カゴを収め,その上に直径 1メートル程度の割竹形木棺を置き、墓壙と木棺の隙間にも副葬品を入れていた。竹カゴには、筆5本、鉄製刀子1点、天秤権3点、五銖銭3枚などの文房具系の遺物が入っていた。文字・秤・銭を使う商人のような人物像が浮かび上がる。鉄製刀子は書きそこなった竹簡の文字を削るためのものとみられている。

このほか、竹カゴのなかから、北部九州――おそらく奴国で製作されたとみられる中細型銅矛c類が見つかっており、また1号墳の近くから弥生中期後半の弥生式土器も出土していることから、倭人との緊密な関係がうかがわれる遺跡である。

また、昌原市には標高100メートルの丘陵上に「南山遺跡」がある。紀元前1世紀~紀元前後の環濠集落遺跡である。環濠は幅4.5~10メートル、深さ2~4メートル、長さ200メートルという大規模なものであった。磨製石剣10点、各種石器約150点が出土した。

いずれにしても、膨大な労働力を有する規模であり、特別の権力を有する者――首長(王)の存在をうかがわせる。日本の環濠集落との関係においても見逃せない重要な遺跡である。

このほか、昌原市には、製鉄遺跡として知られる「城山貝塚」がある。城山公園のなかにあり、土器・石器・骨角器・鉄器などとともに、前漢時代の五銖銭が出土した。

『魏志』韓伝には、「(弁辰)国は鉄を出し、韓・濊・倭、皆従いてこれを取る。諸(もろもろ)の市買には皆鉄を用い、中国の銭を用いるがごとし。また以て二郡(帯方郡・楽浪郡)に供給す」とある。そのことを裏付ける遺跡でもあろう。

東外洞遺跡(固城市)

高杯と壺などが出土した。高杯は下大隈式~西新式とみられ、壺は西新式に該当するとみられているから、奴国末期から邪馬台国前期にかけての遺物であろう。慶尚南道地域の軟式土器が共伴するが、勒島式土器はみられないという。時代順でいえば、勒島式土器→西新式・軟式土器の順序となる。

勒島遺跡(泗川市)

複雑な入江と大小の島々からなる閑麗水道のなかに、勒島という周囲4キロの小さな島がある。

住居・古墳・貝塚などの遺跡は、北部沿岸に集中している。紀元前1世紀ごろが中心で、これまた北部九州との交流をしめしている。板状の鉄製品、鹿の柄の刀子(ナイフ)は、壱岐の原の辻遺跡やカラカミ遺跡と共通し、無文土器にまじった壺やカメなどの弥生式土器(A類)は、倭人の定住を実証する遺物とされる。須玖Ⅱ式土器類が大量に見つかった。

弥生式土器
木簡と筆など

それとともに、弥生式土器をまねた土器類(B類)が出土しているのは、この島に何世代にもわたって倭人が定住していたことをしめしている。閑麗水道の多くの島のなかで、弥生式土器が集中して出土するのは、この島だけというから、勒島は倭人および倭人系集団の拠点的な島であったろう。

勒島遺跡地図
勒島遺跡拡大地図
芳芝里遺跡(泗川市)

勒島遺跡の内陸側――海岸に接した丘陵上に位置する遺跡である。

弥生時代は、海に囲まれた島であったという。したがっておなじ泗川湾に浮かぶ島として、勒島遺跡の島民とは密接な関係があり、おなじく弥生式土器も出土していることから、倭人系海人族の拠点的な島々であったとみられている。

芳芝里遺跡

金海――弁韓・加羅の西方の遺跡を見たが、次に金海から東の方――辰韓地域に目を転じてみよう。

達川遺跡(蔚山広域市)

紀元前2世紀ごろの初期鉄器時代の鉄鉱石採掘遺跡である。製錬(製鉄)から精錬、鉄器作りまで一連の作業が行われていた。嶺南地域最大の鉄の産地で、達川産の鉄を用いた鍛冶場跡は、蔚山・慶州・密陽・清道一帯に約120基あまり存在するという。

その達川遺跡の一角から、甕・壺・高坏などの弥生式土器がセットで出土した。弥生中期後半の須玖Ⅱ式が4点あることから、金印奴国の時代のころである。これらの土器類は福岡県の糸島地域の特徴を持つことから、伊都国との関係が注目されている。

梅谷洞遺跡(蔚山広域市)

おなじく蔚山には、北東の東大山(海抜444m)から東川に向かって南方に広がる緩やかな丘陵に分布する集落遺跡で、2002年から2004年までの3度にわたり市が発掘調査を実施し、須玖須玖Ⅱ式とみられる土器も見つかっており、倭人の定住がうかがわれる遺跡という。三国時代の住居地や古墳なども確認されている。

以上、弥生式土器出土の主な遺跡を紹介したが、朝鮮半島南岸には、倭人の確かな痕跡が残されている。中国文献を補強するかのようである。

「渡来人説」から対等平等な「双方向説」への転換

一方で、北部九州にも、多くの朝鮮半島系の痕跡が残されている。

この痕跡を残した人々は、一般に「渡来人」と呼ばれる。朝鮮半島から日本への一方的な方向での渡来人である。彼らは、稲作をはじめ、さまざまな大陸文化を日本にもたらしたとされる。未開の縄文人は彼ら渡来人によって支配され、混住・混血によって、やがて新しい日本人が生まれた。これが戦後の日本の通説である。はたしてそうであろうか。

朝鮮半島へ渡ったのが倭人は倭人の痕跡を残し、九州に渡った韓人は韓人の痕跡を残した。

朝鮮半島に渡った倭人のように、朝鮮半島から渡来した韓人も、日本に痕跡を残した。居住し、倭人と家族をつくり、子孫を増やすことも、ごく普通のことである。

日本と朝鮮半島でおなじ現象が起きている。双方向的な、倭人(A)+韓人(B)=韓人(B)+倭人(A)という関係である。

倭人からみて韓人(B)が渡来人であるなら、韓人からみて倭人(A)も渡来人である。

朝鮮半島から倭系の土器などが出土することと、日本から韓系の土器などが出土することとは等価である。まったくおなじ現象である。日本だけが「渡来人さま」と崇めたてまつる理由は何もない。

海を往来した倭人

『魏志倭人伝』は、対馬について「良田なく、海の物を食らいて自活す。船に乗り、南北に市糴(してき)す」と記し、壱岐についても「やや田地ありて田を耕せども、なお食うに足らず。また南北に市糴す」と記している。

対馬から朝鮮・壱岐・九州方面、壱岐から対馬・朝鮮・九州方面へ、米などの食料品を求めて船で往来していた。

海を介した交流の第一の担い手は、壱岐と対馬の人々であった。

福岡市西区の海岸近くに、「生(いき)の松原」という景勝地がある。

生=壱岐で、壱岐からやってきた人々が寄留し、住み着いた場所という伝承が残されている。ずっとのちの時代の神功皇后伝承も残され、生の松原のど真ん中に壱岐神社があり、壱岐真根子が祭られている。

壱岐神社内には、鉄滓が出土している。この地で製鉄が行われていたことが確認されている。

いや、壱岐・対馬の人に限らず、前号で述べたように、倭人の特徴は、優れた航海術にある。

北部九州の遺跡からは、中国産の鏡のほか、糸魚川産のヒスイや南西諸島産のゴホウラ貝やイモガイも出土する。海を介した交流によって得られたものばかりである。

北部九州の玄界灘沿岸部を拠点とする倭の海人たちも、壱岐に渡り、対馬を経て朝鮮へも渡ったはずである。

博多から釜山まで直線で約190キロ。対馬の北端から釜山まで約45キロ。日本は全距離の約76パーセントを占めている。単純にみれば、海における日韓の勢力比は、8対2ともいえる。北部九州――倭人の勢いが、韓人よりも圧倒的に勝っていたことをしめしている。

渡来人の痕跡

戦後の通説によれば、朝鮮からの渡来人が西北部に大挙して渡来し、稲作をはじめ日本に新しい文化をもたらした。縄文人から弥生人に変化し、やがて日本全土を席巻した。倭国は、朝鮮半島からの渡来人によってつくられた渡来人による国である。

弥生時代の早い時期に、朝鮮半島由来の「支石墓」も伝わった。九州西北部――とりわけ糸島地域――旧伊都国に多くみられる墓制である。

その分布は、次のとおりとなっている。

支石墓の分布

糸島市の「新町遺跡」もそのような支石墓の一つである。そこから出た9号人骨(熟年男性)は、明らかに縄文人的で、眼窩の高さだけが渡来人的とされる(田中良之1991)。

DNAでなく、骨相的な分析のみでそのような判断ができるのか疑問は残るが、それはともかくとして、朝鮮から渡来した支石墓に、どうして縄文人が埋葬されたのか。

渡来人の墓に埋納されるのは、渡来人であるべきではないか。

「双方向説」による説明

「倭人(A)+韓人(B)=韓人(B)+倭人(A)」という「双方向説」では、次のように説明できよう。

新町遺跡の縄文人(A)が、海を渡って朝鮮に渡り、韓人の妻(B)を持ち、子(AB)をつくった。縄文人(A)は妻(B)およびその一族の支援を受けて、安全に寄留・居住することができた。子(AB)は韓人の言語・文化のなかで育ちつつ、父からは倭人の言語・文化を学んだ。子(AB)は日韓の双方の言語・文化に通じる人間に育ち、かつ航海術を学び、自由自在に日韓を往来するようになった。あるとき、彼(AB)は父(A)とともに伊都国にやってきた。そのとき父(A)が没した。そこで、子(AB)は朝鮮式の支石墓をつくり、父(A)を埋葬した

同様に、朝鮮半島のカメ棺に、韓人の特徴を備えた人が埋葬されているケースもあり得よう。その場合は、上記と逆の解釈をすればいい。倭から帰国した韓人(C)が死去したため、倭人の妻(D)の子(CD)が日本式のカメ棺で韓人(C)を埋葬した。そのような墓が見つかれば、「双方向説」が証明されることとなる。

以上の「双方向説」に違和感を覚える人は、何らかの先入観を抱いている人である。

「渡来人説」を奉る人にとっては、まったく受け入れ難い説であろう。

朝鮮半島南部に倭国はあったのか

狗邪韓国の中心地とみられる良洞里遺跡(金海市)などの遺跡をみれば、倭の一国があったようにもみえる。北部九州のクニグニと共通する倭系の遺物が数多く出土している。

しかしながら、弥生式土器が出土するからといって、かならずしも倭国の領域であったとは限らない。『古事記』は、イザナギ・イザナミの国生み神話において、対馬を大八洲(おおやしま)のなかに含めているが、朝鮮半島にはまったく言及していない。

おなじく、九州に朝鮮系の支石墓が存在するからといって、韓国の領域があったとは限らない。日中韓の史書にも、そのようなことはまったく記されていない。

朝鮮南部の弥生式土器も九州の支石墓も、全体としてみれば、おおむね海岸に近い場所あるいは島嶼部に分布している。基本的に寄留・居住の痕跡というべきものではないか。

たとえば、弥生式土器が大量に出土した勒島遺跡(泗川)は、大小の島々からなる閑麗水道のなかのわずか周囲4キロの小さな島に過ぎない。倭人専用の寄留地・居住地というべき島である。

とすると、中国文献が三韓と倭国が接しているように記していることをどう解釈すべきか。

それは、帯方郡などにいた漢人が、朝鮮半島南部および海上で盛んに活動する多くの倭人および倭人系の海人族をみてそのように認識したのではないのか。

中国の史書は、韓と倭が陸地で接しているように書いてはいるものの、朝鮮半島内の倭国の形態・言語・風俗については、鉄の採取以外、ほとんど言及していない。

倭人は朝鮮半島南岸に寄留・居住して、活発な活動を行っている。

そして、あちこちの港に船をつなぎ、荷物を積み下ろしては、海の向こうに出航し、また倭人たちの船が水平線の向こうから姿を現わす。このような、圧倒的な倭人および倭人系の勢いを記したのが、中国の史書ではないのか。――いまのところ、そう考えている。

『韓国古代の歴史』(昶洪淳・吉川弘文館)より
【朝鮮半島側】
  1. (1)『後漢書』は、奴国について「倭の極南界」と記している。倭の領域は朝鮮半島南岸に及んでいたようにみえる。
  2. (2)その他の中国文献も、馬韓・弁韓・辰韓と倭国が陸地で境界を接しているかのように記している。
  3. (3)それを裏付けるように、朝鮮半島南岸の遺跡から弥生式土器・弥生系土器が出土している。
【北部九州側】
  1. (1)朝鮮半島から大挙して海を渡った「渡来人」が新しい弥生文化をもたらしたとする「渡来人説」が戦後の通説となっている。
  2. (2)それを裏付けるように、稲作遺跡や支石墓など朝鮮半島に由来とする考古学的な遺物が数多く出土している。
【まとめ】
  1. (1)北部九州の倭人の活動範囲は、当然朝鮮半島に及び、朝鮮半島の韓人の活動範囲も、当然北部九州に及んでいた。
  2. (2)紀元前後の朝鮮半島と北部九州の遺跡は、基本的に穏やかな人の往来と交易活動、平和的な寄留・居住状況をしめしている。
  3. (3)対馬・壱岐が倭人の勢力下にあったことからみて、海においては航海術に秀でた倭人と倭人系(倭人系韓人・韓人系倭人)が優勢であった。
  4. (4)日韓のどちらか一方を上位とする支配・被支配の関係ではない。日韓双方ともいまだ小さなクニの集まりに過ぎなかった。

著者紹介

  • 1947年(昭和22)年福岡県柳川市生まれ。
  • 九州大学法学部卒
  • 歴史作家、日本古代史ネットワーク副会長
  • 福岡県文化団体連合会顧問
  • ふくおかアジア文化塾代表
  • 立花壱岐研究会会員
  • 元『季刊邪馬台国』編纂委員長
  • 西日本新聞TNC文化サークル講師
  • 朝日カルチャーセンター講師
  • 大野城市山城塾講師
〈おもな著作〉
  • 『志は、天下~柳川藩最後の家老・立花壱岐~(全5巻) 』(1995年海鳥社)
  • 「小楠と立花壱岐」 (1998年『横井小楠のすべて』新人物往来社)
  • 『立花宗茂』 (1999年、西日本新聞社)
  • 『柳川城炎上~立花壱岐・もうひとつの維新史~』 (1999年角川書店)
  • 『西日本古代紀行~神功皇后風土記~』 (2001年西日本新聞社)
  • 『筑後争乱記~蒲池一族の興亡~』 (2003年海鳥社)
  • 『九州を制覇した大王~景行天皇巡幸記~』 (2006年海鳥社)
  • 『天を翔けた男~西海の豪商・石本平兵衛~』 (2007年11月梓書院)
  • 「北部九州における神功皇后伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』97号、98号)
  • 「九州における景行天皇伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』99号)
  • 「『季刊邪馬台国』100号への軌跡」 (2008年、『季刊邪馬台国』100号)
  • 「小楠と立花壱岐」 (2009年11月、『別冊環・横井小楠』藤原書店)
  • 『龍王の海~国姓爺・鄭成功~』 (2010年3月海鳥社)
  • 「小楠の後継者、立花壱岐」 (2011年1月、『環』藤原書店)
  • 『天草の豪商石本平兵衛』 (2012年8月藤原書店)
  • 『神功皇后の謎を解く~伝承地探訪録~』 (2013年12月原書房)
  • 『景行天皇と日本武尊~列島を制覇した大王~』 (2014年6月原書房)
  • 『法顕の旅・ブッダへの道』 (『季刊邪馬台国』に連載)
(テレビ・ラジオ出演)
  • 平成31年1月NHK「日本人のおなまえっ! 金栗の由来・ルーツ」
  • 平成28年よりRKBラジオ「古代の福岡を歩く」レギュラー出演

第3号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. シリーズ・吉備の古代史① 二人の天皇が行幸された谷……石合六郎
  3. 記紀に隠された史実を探る=聖徳太子時代編……飯田眞理
  4. 現実的視点からの「邪馬台国」論~日本古代史研究への問題提議~……秋月耀
  5. 奴国の時代② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡……河村哲夫
  6. 奴国の時代③ 北部九州のクニグニ……河村哲夫