最終更新日:2021/03/25

季刊「古代史ネット」第2号

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について

塩田泰弘

1 帯方郡から邪馬台国までの行程

日本の古代史の上で、最も注目されているのは、邪馬台国はどこにあるかということで あろう。邪馬台国は、「魏志倭人伝」に記述されている倭人の国の使訳通ずる30国の盟 主、女王卑弥呼が都をおいている国である。

「魏志倭人伝」には、帯方郡から邪馬台国までの距離について「郡より女王国に至る万 二千余里」と明確に記されている。この「郡」は、魏が朝鮮半島北部を支配するために設置した帯方郡であり、その郡役所が置かれている所(郡治)をいう。「女王国」とは、こ の文節では女王卑弥呼が都をおいている邪馬台国のことである。

さらに、「魏志倭人伝」には、帯方郡から邪馬台国に至るまでに経過する国々から国々 までの行程が記載されている。「万二千余里」の内訳となる行程である。この行程の記述 は不弥国までは詳細であるが、不弥国から邪馬台国までの行程については、その詳細が記 されておらず、このため様々な解釈がなされている。この行程に関する検討は、邪馬台国 の所在地のほか本日のテーマである「水行十日陸行一月」に関しても重要である。

帯方郡から邪馬台国までの行程を箇条書きで示すと、次のとおりである。

  1. ① 郡(帯方郡治)より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍 は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里
  2. ② 始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る
  3. ③ また南一海を渡る千余里、一大国に至る
  4. ④ また一海を渡る千余里、末盧国に至る
  5. ⑤ 東南陸行五百里、伊都国に到る
  6. ⑥ 東南奴国に至る百里
  7. ⑦ 東行不弥国に至る百里
  8. ⑧ 南、投馬国に至る水行二十日
  9. ⑨ 南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月
  10. ⑩ 郡より女王国に至る万二千余里

この行程を見ると①から⑦までは国から国までの行程を里数で示し、⑧と⑨は投馬国と 邪馬台国までの行程を日数で示し、⑩は帯方郡から邪馬台国までの行程の総里数を示して 行程に関する記述を締めくくっている。

これを原文で示すと次のとおりである。なお、行程に関係しない部分を省略しているが、 奴国から邪馬台国までは理解をしやすくするため省略していない。

魏志倭人伝抜粋

2 行程文の読み方

(1) 連続した読み方

「魏志倭人伝」に記す帯方郡から邪馬台国に至までの行程に関する記述は、上述のとおり漢字が羅列されているだけで、段落や文節の区切りなどはない。このため、ど の漢字を以て次の文の始まりとするのか、どの文がどの文を受けての記述であるのか などは読み方によって異なるのである。

邪馬台国の所在地のほか本日のテーマである「水行十日陸行一月」に関する問題は、この行程に関する文をどう読むかという問題であると言っても過言ではない。具体的に は、投馬国と邪馬台国への行程を不弥国までの行程に連続した行程として読むか、別の 行程記述として読むかということである。現在の通説的な読み方は不弥国から投馬国、 さらに邪馬台国へと記述されているままに連続して読むもので、連続式の読み方と言わ れ、邪馬台国近畿説の方々が一様に唱える説であり、また、九州説の方々にも多く見られる説である。この読み方による行程を図示すると図1のとおりである。

なお、近畿説では「南、邪馬台国に至る」の「南」を誤りとし「東」と読み替える。

図1 行程図(その1)

しかし、この読み方については、次のような疑問や矛盾がある。

  1. 里数と日数という別な概念を連続した行程として読むことはそもそもおかしい。

    これに対しての反論では投馬国及び邪馬台国までの根拠とした史料が異なるため日数 になっているものであるとする。隋書に、「倭人は里数を知らず、ただ計るに日数を以ってす」とあることから、倭人からの伝聞であろうなどとする。また、書写しているうちに誰かが写し誤ったのであろうとする。

    しかしその根拠とした資料は示されないし、伝聞である、写し間違いという根拠もない。

  2. 不弥国からその南方の邪馬台国までの行程は、わずか「千三百余里」(約112km) であるが、この行程を「水行三十日陸行一月」もかかるのは理解し難い。また、この間 に「三十日」も水行しなければならない海や川はない。なお、私は不弥国から邪馬台国 までの行程は440余里(37.8km)と考えているが、これについては後で述べる。これに対しての反論では、そもそも里数は、同じ千里であっても実際のキロ数はばらばらであり、正確なものではない。帯方郡から女王が都する邪馬台国までの「万二千余里」 もあてになるものではないなどと「魏志倭人伝」に記されている里数(距離)を否定する。

    しかし、「魏志倭人伝」に記されている記述を否定すれば、そもそも行程を論ずる意味がなくなる。

  3. 狗邪韓国から不弥国までは、国々の状況を詳細に述べてきたのに、不弥国から投馬国・ 邪馬台国までの「水行三十日陸行一月」もの長期間の行程については、何も記されていないことは不思議である。

    これに対しての反論では、途中からその行程の詳細を省略する書き方は、中国ではみられる記述であるとする。

    しかし、「三国志」あるいは陳寿が撰述したその他の文献にそのような例が実際にあり、 その例が「魏志倭人伝」にも使用されているとの根拠は示されない。

  4. 帯方郡から邪馬台国までの所要日数が分からなくなる。

    ある地点から別のある地点までの行程を説明するには、①進むべき方向、または、目的地がある方角、②目的地までの距離、③目的地までの所要日数の3点が揃って始めて理解できるのであるが、連続式の読み方では、帯方郡から邪馬台国までの所要日数が分からない。

  5. 不弥国からの行程を日数で記述しなければならない理由がない。

    不弥国から邪馬台国までの行程については「千三百余里」と記せば一目瞭然であるのに わざわざこれを日数で記さなければならない理由がない。

(2) 帯方郡からの所要日数とする読み方

この読み方は、行程記事を不弥国と投馬国の間で切って、投馬国と邪馬台国までの行 程記事は、帯方郡から投馬国と邪馬台国までの所要日数と読む読み方である。帯方郡から投馬国までは「水行二十日」で、帯方郡から邪馬台国までは「水行十日陸行一月」で至るというように、帯方郡から両国までの所要日数を書いたものと考える。先にも書いたが、帯方郡から邪馬台国までの記述が連続した行程であれば不弥国から 投馬国、投馬国から邪馬台国までの行程も里数で記述してもいいはずであり、日数で記 述しなければならない理由はない。不弥国から邪馬台国までの行程を記述するならば、「万二千余里」から帯方郡から不弥国までの距離「万七百余里」を差し引いた「千三百 余里」と記述すればいいのであって、簡単に算出される里数をわざわざ分かりにくい別 の概念である日数で示す必要などないのである。

「魏志倭人伝」には、魏が倭国に2度使節を派遣していることが記されている。一度 目は、「正始元年、(帯方郡の)太守弓遵、建中交尉梯儁を遣わし、詔書・印綬を奉じ て、倭国に詣で、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、(以下略)」である。この記述か ら魏使・梯儁が帯方郡から邪馬台国まで行って卑弥呼に会っていることが分かる。

二度目は、正始8年に卑弥呼から狗奴国との相攻撃する状を告げられた帯方郡の太守 王頎が塞曹掾史張政を倭国に派遣し、張政は、相攻撃する状を止め、卑弥呼の死、男王下での相誅殺する状況などの政情不安を壱与の女王擁立などにより収拾している。張政も当然都がおかれている邪馬台国まで行ってこれらの仕事をしている。二人の魏使は、当然詳細な報告を提出しており、陳寿はこれを読むことができる立場にあり、この報告から帯方郡から倭の国々までの行程や国々の実情を詳細に把握したのであり、帯方郡から邪馬台国までの全行程を里数で書くことは容易にできるのである。

また、この読み方により連続した読み方で生ずる疑問や矛盾のほとんどが解消する。

陳寿が不弥国から邪馬台国までの行程を記さなかったのは、不弥国が邪馬台国に隣接する国であり、帯方郡から邪馬台国までの総里数(「万二千余里」)を行程記事の最後に記 しており、この総里数から不弥国までの里数の合計を差し引けばおのずと不弥国から邪馬 台国までの里数が算出されるので、不弥国から邪馬台国までの里数を書くことによって生ずる「万二千余里」との二重記載を避けたものと考える。

この読み方による行程を図示すると図2及び3のようになる。

なお、魏使は、投馬国には行っていない。投馬国は「水行二十日」であるが、帯方郡か ら末蘆国までの水行の行程中に投馬国はない。また、不弥国から南には水行二十日もかかるような海も川もない。投馬国までの行程は倭人からの伝聞である。これについては、後述する。

図2 行程図(その2)
図3-1と図3-2
(3) 投馬国と邪馬台国の読み方

「南投馬国に至る水行二十日」と「南邪馬台国に至る水行十日陸行一月」は、帯方郡からの所要日数と読むが、この場合、「南投馬国に至る水行二十日」と「南邪馬台国に至る水行 十日陸行一月」の関係はどうなるかということを解決しておかねばならない。この二つは連続して記載されているので連続した行程、すなわち帯方郡から「水行」して「二十日」で投 馬国に至り、投馬国から「水行十日陸行一月」で邪馬台国へ至る(図4-1))と読むこと もできるし、帯方郡から「水行二十日」で投馬国へ至るという行程と、帯方郡から「水行十日陸行一月」で邪馬台国に至るという行程の二つの行程(図4-2)と読むこともできる

まず、連続した読み方であるが、この読み方では、帯方郡から投馬国までは水行することになるが、「魏志倭人伝」には、帯方郡から水行する、狗邪韓国、対馬国、一大国及び陸行 が始まる末蘆国までの間に投馬国があるとは書かれていない。また、当然であるが陸行する末蘆国から伊都国、奴国、不弥国(宇美町または嘉穂郡)の間にも投馬国があるとは書かれ ていない。さらに不弥国から「千三百余里」の間に水行しなければならない海や川はなく、「水行二十日」もの行程が存在する余地はない。

一説に、不弥国から御笠川または多々良川を遡って源流域まで行き、宝満川の源流から宝満川を下って筑後川に至る間が投馬国から邪馬台国までの「水行二十日」に当たるという。しかし、源流域は水量が少なく、水深は浅く、水流は早く、川幅も狭い。加えて岩がゴロゴロしており、舟で航行できるような環境にはない。不弥国(宇美町と想定)の南は二日市地溝帯で、この一帯は弥生時代の遺跡が密集しているといってもいいほど連続している。不弥国からこれらの遺跡を辿って行けば容易に邪馬台国にたどり着くのであって、わざわざ困難な水行をする必要はない。帯方郡から邪馬台国までの行程の間に投馬国が存在する余地はなく、連続した読み方は成り立たない。魏使は投馬国には行っていないのである。「南投馬国に至る水行二十日」は倭人からの伝聞であろう。

「南投馬国に至る、水行二十日」と「南邪馬台国に至る水行十日陸行一月」はいずれも帯方郡を起点とする行程であるのである。

図4-1「連続した読み方」と図4-2「別々の行程とする読み方」

3 「魏志東夷伝」の距離感

ここで、「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」の距離観について述べておかねばならない。

「魏志倭人伝」は、帯方郡から邪馬台国までの行程について詳細な里程を記している。しかし、この里程については、信用できない、虚妄の数字であるとの批判がある。それは「魏志倭人伝」における国から国までの行程に記された里が、①魏・晋の当時の里と比べてはるかに短いこと、② 「魏志東夷伝」のうち「魏志扶余(ふよ)伝」、「魏志高句麗伝」、「魏志沃沮(よくそ)伝」、「魏志挹婁(ゆうろう)伝」における扶余、高句麗等の国々の国の 広さや国邑間の距離等は、当時の魏・晋の里を使っていること、③「魏志倭人伝」における 国から国までの里数も現在の距離に換算すると、同じ里数であっても実際の距離はまちまち であることなどがその理由となっている。

「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」に挙げられている国々から次の国々までの里程及び国の範囲を示す里数をみると、表1のとおり、同じ里数であっても実際の距離はまちまちで、 指摘③のとおりである。しかし、測量技術が発達しておらず、また、実測したものでもないことを考えるとこの程度の差異はやむを得ないものと考える。そのうえで、平均値を求めると1里は約86~87mとなる。この1里は、指摘①②のとおり、後述する「魏志東夷伝」の「魏志扶余伝」、「魏志高句麗伝」等が概ね魏・晋の里(約434m)であるの とは全く異なっている。

陳寿は、「魏志東夷伝」のうち「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」の距離観については、当時の魏・晋の里よりはるかに短い里を使用しているのであって、「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」の行程は、この里を使用しない限り理解できない。陳寿が「魏志倭人伝 及び「魏志韓伝」の距離観を「魏志東夷伝」のその他の国々とは異なる距離観とした理由は後述する。いずれにしても「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」の1里が当時の魏・晋の1里よりはるかに短く、また、同じ里数であっても実際の距離はまちまちであることを以て、「魏志倭人伝」における里程は信用できないとすることは、「魏志倭人伝」の理解を困難にするだけである。

「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」に使用されている1里は約86mであり、魏・晋の1 里の約434m(約86mの約5倍)の約5分の一である。「魏志倭人伝」及び「魏志韓 伝」においては実際の距離の5倍に拡大されて認識するように仕組まれているのである。

表1 「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」の距離感及び里・キロメートル換算表

「魏志東夷伝」に記された「魏志扶余伝」、「魏志高句麗伝」、「魏志沃沮伝」、「魏志 挹婁伝」の各国において用いられている距離観について、各国の条に記載された距離を示すと表2のとおりで、1里は、最小220m、最大430mで、平均約308mとなる。当時の魏・晋の1里は、約434mと言われており、これよりは少ないが、概ね当時の魏・晋の里を使用していると考えていいであろう。

表2 「魏志東夷伝」の距離感(「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」を除く)

次に、「魏志扶余伝」から「魏志濊伝」までの5国と「魏志韓伝」及び「魏志倭人伝」 の2国の広さと戸数を比べてみる(表3、図5)。

国の広さは、高句麗と韓を比べると、 高句麗は方2000里であるのに対して韓は方4000里で2倍であるが、地図で見ると高句麗の方が広い。また、戸数と人口についてみると韓と倭は、高句麗などに比べてはるかに多い。国の広さや戸数と人口の数値も韓と倭は、その他の国に比べて、はるかに大きいことが分かる。里数と同様に5倍くらいになっているとみられる。試みに韓と倭の戸数、人口を5分の一にするとほぼ釣り合うように見える。

表3 「魏志東夷伝」に記載されている国々の広さと戸数
図5 三国志時代の東アジア

4 「水行十日陸行一月」

(1) 「水行十日陸行一月」の起点

前述のとおり「魏志倭人伝」に記された「万二千余里」と「水行十日陸行一月」は、共にその起点は帯方郡であるが、帯方郡のうちのどこであるかというと、それは帯方郡治(帯方郡役所の所在地)であると考える。先に述べた、魏(帯方郡)から倭国へ派遣された梯儁や張政は、帯方郡役所で太守から倭国派遣の命令を受けて、準備を整え、帯方郡治(郡役所)から倭国を目指して出発したのである。

帯方郡治については,現在の北朝鮮のピョンヤンの南にある黄海道鳳山郡沙里院付近の土城が旧帯方郡治址と推定され、そこからは多くの瓦、塼(せん)、泉(銭)などが発見されており、さらに、その北にある墳墓群から、1912年(大正元年)「使君帯方太守張撫夷塼」という銘のある塼が発見されたことで、帯方郡治の位置を推定する重要な手がかりとなった。このことから、私は、帯方郡治は沙里院付近と考えている。

図6 帯方郡治と張撫夷古墳 と 図7 帯方郡内の行程

「魏志倭人伝」に記されている行程は、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し」となっており、「水行」から書き始められている。帯方郡からその南方面にある海外の国々に行くには、帯方郡の主要な海港である海州が出発点となる。ここが「水行」の起点であるが、その前に帯方郡治から海州までの行程がある。この行程は陸路で約860里 (約74キロ)である。

「魏志倭人伝」がなぜ「水行」(の起点である海州)から書き出し、帯方郡治がある沙里院から書き出さなかったかというと、我々が海外などの遠距離の旅行の行程を説明する場合に、その目的地までに一般に利用されている交通手段の出発地点から説明するのと同じである。例えば、福岡市早良区内野に居住している者が、フランスに旅行することを説明する場合に、「福岡空港から関西国際空港に飛び、そこでフランス直行便に乗り替え て・・・」と説明する。居住地である早良区内野から福岡空港までの行程、すなわち、「内野から西鉄バスで西新まで行き、そこから福岡市営地下鉄空港線に乗り換えて福岡空港まで行って、さらに福岡空港から・・・」とは説明しないのである。一般に福岡市内から海外に旅行するには福岡空港から出発するのであり、特に必要がない限り福岡空港までの行程は言わずもがなであるのである。

「魏志倭人伝」は、三国時代の歴史を記述したものであり、これを読む主な対象者は晋の朝廷の官人や知識人である。晋の出先機関である帯方郡内のことである帯方郡治(郡役所)から海州までの行程を「魏志倭人伝」に改めて記す必要などないのである。

(2)「水行十日」の行程

前述したとおり「魏志倭人伝」に記載されている数値は、約5倍に拡大して認識する ように仕組まれているが、この観点から「水行十日陸行一月」を考えてみる。

まず、「水行十日」である。「水行」は帯方郡(海州)から末蘆国までで、この間の所要日数が「十日」ということである。帯方郡から狗邪韓国までの七千余里は、韓国の 西岸から南岸を、陸地を遠望しながら、陸地沿いに航行する地乗り航法で航行したと考えられる。この航法であればいつでも港に入り休憩することができるので1日に何里を航行できたかは判明しない。狗邪韓国から対馬国までは千余里、対馬国から一大国までは 千余里、一大国から末蘆国までは千余里であるが、対馬国および一大国はいずれも大海 の孤島であり、この間に停泊することができる島嶼はなく、さらに対馬海流が西から東 へ流れている。進むのを止めれば、日本海に流される。また、夜間の航行は危険を伴う。朝に港を出てその日の暮れまでには次の港まで一気に渡らなければならないので、 狗邪韓国から対馬国までの千余里、対馬国から一大国までの千余里、一大国から末蘆国 までの千余里はそれぞれ1日行程と考えられる。「水行十日」のうち3日はこの行程で ある。そうすれば残りの7日は、帯方郡から狗邪韓国までの七千余里の行程と考えられる

魏から倭国へ渡った船がどのような船か、また航海能力がどのくらいあったかはわからないが、推測できる資料はある。「三国志」の「魏志」の「明帝紀」に、公孫氏の討伐 に向かった毌丘倹(かんきゅうけん)が敗れて帰った直後、明帝は青州、幽州等四州に海 船の建造を命じている。海路遼東半島に兵を派遣し、陸海双方から公孫淵を攻撃する意図と思われる。その後、景初二年に司馬懿に命じて公孫淵を攻撃し滅ぼすが、その際に、海 路楽浪・帯方郡を攻撃し、二郡を平定したとある。先に建造した海船が使われたことは容易に推測できる。このことは「東夷伝」の序に「景初中、大いに師旅を興して淵を誅す。また、軍を潜ませて海に浮かび、楽浪・帯方郡を收(収)む。」と記されている。海路から攻めて平定したのであるが、それはおそらく山東半島の登州(現在の煙台)からと思え る。登州は古くからの良港であり、楽浪・帯方郡を海路から攻めるには最も近い位置にある。登州から楽浪・帯方郡までの距離は約400kmである。

魏・晋の里(約434m)でいえば約920里で、ほぼ千里である。この間には途中停泊すべき島嶼はない。所要日数 は判明しないが一気に渡ったはずである。魏には多くの兵を載せる巨大な船と千里の大海を一気に渡る航海術があったのである。「魏志倭人伝」に記されている「大海を渡る千余 里」を読んだ晋朝の官人たちは、何の違和感もなく、「千余里」を魏・晋の里による千余里と錯覚したであろう。

(3)「陸行一月」の行程

次に「陸行一月」である。陸行は、帯方郡治から海州までの陸行約860里(約74km)、末蘆国から不弥国までの700余里(約60.2km)と不弥国から邪馬台国までの440余里(約37.8km)の合計「二千余里」(約172km)である。この行程に要する日数が1月である。「二千余里」(約172km)を1月(30日)で割ると667余里(約5.7km)である。1日の行程が66.7余里(約5.7km)ではあまりに も少ない。ここにも約5倍に拡大して認識するようにという陳寿の仕掛けがあると考えら れる。そこで、1月を5で割ってみると6日である。「二千余里」(約172km)を6で割ると、333.3余里(28.7km)となる。1日333.3余里(約28.7km)の行程となる。

当時の1日の行程はどのくらいであろうか。時代はかなり下るが、唐時代の律令制度を 記した「唐六典」によれば、1日の歩行距離は「五十里」、馬によれば「七十里」とされ ている。唐代の1里は560mであるので、1日の歩行距離は28km、馬の場合は39kmとなる。唐時代の数値がそれより300~400年前の「三国志」の時代にそのまま 当てはめられるとは思えないが、末蘆国から邪馬台国までの所要日数が6日で、1日の行程が333.3里(約28.7km)という数値は実際の数値とそれほどかけ離れた数値で はないと考える。

さらに、「二千余里」のうち、帯方郡治から海州までの陸行約860里(約74km) は、帯方郡内であることから馬がおり、馬を使うことができる。馬の1日の歩行速度は 39㎞であるので、所要日数は2日となる。残り4日で、倭国内の末蘆国から邪馬台国までの1140余里(98km)を歩くこととなる。1140余里(98km)を4日で割 ると、1日の行程は、285余里(24.5km)となる。

「唐六典」の1日28.7km よりかなり余裕のある行程となる。

倭国内の行程に要する日数を4日とし、1日概ね285余里(24.5km)進むとし て、「魏志倭人伝」に記述されている末蘆国から邪馬台国までの行程、1140余里(98km)を推測してみる。まず、末蘆国から伊都国までは五百里(43km)であ るので、途中で一泊して伊都国に到着して泊まる(2泊2日43km)。伊都国から奴 国は百里であるが、地図で行程を推測し測定すると約20kmであるので少々短いが、 奴国で一泊する(計3泊3日63km)。奴国から不弥国までは百里であるが、地図で 行程を推測し測定すると約10kmであるので、ここは休憩するだけにして通過して (計3泊4日73km)、不弥国から14.5kmの地点で泊まる (計4泊4日87.5km) 。翌日出発して10.5kmで邪馬台国に到着する(計4泊5日98km)。1日余計にかかったが、概ねこのような行程であったろう。

むろんこの日程は、国々での饗応、民情・国情視察、雨天・荒天などによる日より待ちなどは計算に入っていないので、実際はかなりの日数を要すると考える。また、宿泊には、宿泊設備を設けたはずである。当時は、旅行者を泊める専用の宿泊施設があるはずはないし、魏使一行は、正使、副使、記録係、医師、通訳、護衛部隊、輸送係等、相当の人数で編成されていたと考えられ、国々の住民の住居で対応できるものではなかったと考える。

(4)邪馬台国の所在地

不弥国から邪馬台国までは440余里(37.8km)である。この距離は、末蘆国から 伊都国までの里数(五百余里)よりも短い。末蘆国から伊都国までの間には、国はないと考えられることから、それより短い距離である不弥国から邪馬台国までの間にも国はない と考えても誤りはないであろう。不弥国から440余里(37.8km)は、具体的にはどのあたりになるか考えてみる。方角は南と考える。

「魏志倭人伝」は方角を示すに当たっては、南、東南、東というように八分法で記して いる。邪馬台国の所在地は不弥国の南であるから、南を中心にして、東南から西南の範囲 にあると考えられる。不弥国の中心は確定していないため、仮に現在の宇美町役場付近とし、これを中心にして、440余里(約37.8km)を以て円を描くと、東南は福岡県うきは市吉井町の県道80号線と81号線の交差点付近、南は久留米市のJR九州・久大本線久留米高校前駅の南付近、南西は佐賀県金立山の西付近となる。この3点を結んだ線上付近に邪馬台国の中心地があるということになる。

5 「魏志倭人伝」の数値はなぜ誇張されているのか

(1) 陳寿の経歴

いままで見てきたように、「魏志倭人伝」に記されている数値は、読む人が5倍程度に誇張して理解するように仕組まれている。なぜ「魏志東夷伝」のうち、「魏志倭人伝」、「魏志韓伝」に記されている数値は、誇張されているのであろうか。「三国志」を編纂した陳寿の経歴及び魏・晋の国内事情を見てみたい。これが、数値が誇張されていることを 解くヒントになると考えるからである。

陳寿は233年、四川省に生まれ、297年に没している。四川省は、魏と対立していた 蜀の本拠地である。陳寿は蜀に仕えていたが、讒言により排斥され失職している。蜀は263年に魏に滅ぼされたが、陳寿はその後も官職についていない。これを救ったのが、魏(220~265年)の後を受けて建国された晋(265~316年)に仕えていた、かつての同僚である羅憲である。羅憲は、陳寿の才能を高く評価しており、晋の官職に推薦した。陳寿はこれにより晋に仕えることとなり、「諸葛亮集」、「益州耆旧雑記」などを編纂した。 これが晋の官吏張華に評価され、陳寿は晋の国史の編纂や制作を司る修史官(著作郎)に抜擢され、「三国志」をも編纂することになるのである。しかし、母親が洛陽で死ぬと、その遺言により、洛陽に葬ったが、郷里の墳墓に葬るという当時の慣習に反するとして非難され、罷免されている。その数年後に太子中庶子に任命されたが、拝命しないまま死去した。

(2) 魏・晋の国内事情と朝貢

当時の魏とその後に成立した晋との関係は極めて複雑である。魏は、その創始者である曹 操の時から事実上、後漢の権力を掌握しており、この時から魏王朝とみることもできるが、曹操の子、曹丕が後漢の最後の皇帝・献帝から禅譲を受け、皇帝(文帝)となり、魏が成立(220年)する。しかし、魏の国内事情もまた複雑で、曹操を始祖とする一族と魏の高官 として武威を称えられた司馬懿を頂点とする司馬氏との勢力が激しく対立した。外征の功績 のみならず宮廷内部においてもたびたび陰謀や密告、粛清、クーデターが企てられ、これを切り抜けた司馬懿が、249年のクーデターで実質的な権力を握って、晋の礎を築き、265年に司馬炎が魏に代わって王朝をたてることになるのである。

一方、中国における朝貢は、周辺の夷狄が中国皇帝の徳を慕って朝貢を行い、皇帝がこれ に対して恩賜を与えるという形式のものであるが、多くの、そしてできるだけ遠くの国が朝貢をすることは、皇帝の徳の高さがより高いことを示していると考えられており、これが中国国内に対しても政権の正統性を示すことにもなるのである。

魏においては曹操の一族の曹真、曹爽が西域辺境を守備するとともに、西域諸国の、魏への朝貢工作を積極的に行った。これにより、焉耆(えんき)(カラシャール)、于闐(うてん)(ホータン)、鄯善(ぜんぜん)(楼蘭)、亀玆(きじ)(クチャ)さらには大月氏国(クシャン国)などが朝貢に訪れている。なかでも大月氏国は、90年に7万の大軍をもって後漢と戦って敗れたこともある大国で、2世紀の半ばにはカニシカ王が東西トルキスタン、アフ ガニスタン、パキスタン、北インドに至る大帝国を建設している。この国が229年に魏に使節を派遣した。時の明帝は大いに喜び、これに「親魏大月氏王」の称号を与えている。そしてこれは、大月氏国が大月氏国の思惑とは別に魏の冊封国として蜀を後方から牽制することが期待されているのである。このように魏は西域諸国と親密な関係にあったが、「三国志」には西域に関する「西域伝」がない。ちなみに陳寿が参考にしたといわれる、魚豢の「魏略」には「西戎伝」がある。

一方、司馬懿は西南の蜀に対する戦線を担当していたが、諸葛亮が五丈原において病死したため、西南方面の脅威がなくなると、東方に勢力を張っていた公孫氏の討伐を命じられ、これを滅亡させる。さらに毌丘倹が東北辺境の扶余、挹婁、沃沮、濊、韓、高句麗等を討伐して東北地方に足場を築いた。これにより遼東地方から朝鮮半島北部が魏に服することとなり、司馬懿は東北地方から朝鮮半島北部に勢力を伸ばし、韓諸国、倭国などが朝貢することになるのである。倭国は司馬懿が公孫氏を滅亡させた翌年の239年には使節を帯方郡に派遣し、朝貢することを求め、魏から卑弥呼が「親魏倭王」の称号をあたえられるのである。この倭国の朝貢が、司馬懿の功績を宣伝するために大月氏国に匹敵する、はるかな遠方の国、大きな国として、そして呉を東方から牽制することが期待される国として「魏志倭人伝」に記載されることになるのである。

(3) 魏と倭国

当時の魏は、呉との間で鋭く対立していた。呉は公孫氏と同盟を結ぼうと画策し、双方が 使者を交わすなど同盟関係を模索した。公孫氏が滅亡する直前には、公孫氏の要請に応じ、 海路援軍を送っている。援軍は間に合わず公孫氏は滅亡したが、魏にとって呉は蜀が力を 失った後の最大の敵であり、その動静には神経を尖らせていた。そのころ、魏に朝貢したの が卑弥呼である。魏は、「親魏倭王」の称号を与え、これを冊封国としたが、当時の中国は、倭国については「漢書」「地理志」に「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となす。歳時を持って来り献見すという」程度の知識しかなく、その国情、政治状況などについてはほとんど知られていなかったといってよい。合従連衡を繰り返し、同盟したり離反や謀反を繰り 返してきた中国の国家にとっては、新たに現れた未知の国、倭国について、冊封国とした機 会をとらえて官吏梯儁を倭国に派遣し、政治・民生状況、通商外交関係等を調べ、信用できる国かを把握しようとしたことは推測に難くない。この意図を受けて梯儁は倭国に至る行程、 国情、政治・民生状況などを詳細に把握して報告したものと考える。


第2号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. 年輪年代法の問題点――弥生古墳時代の 100 年遡上論は誤り……鷲崎弘朋
  3. 特集「水行十日陸行一月」をめぐって
    1. (1) 私の「邪馬台国」試論~魏志倭人伝より「邪馬台国」を読み解く~……愛川順一
    2. (2) 魏志倭人伝からみえる私の邪馬台国所在地考……矢野勝英
    3. (3) 「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について……塩田泰弘
  4. 弥生時代の開始時期……丸地三郎
  5. 奴国の時代 ①……河村哲夫