最終更新日:2022/01/08

季刊「古代史ネット」第5号(2021年12月)

吉備の巨大古墳を考える(下)御友別の時代(5世紀)
造山古墳の主は黒姫だった

NPO法人福岡歴史研究会副理事長 石合 六郎

<はじめに>

吉備武彦子孫系図

吉備の古代史シリーズ 2 回目で「吉備津彦時代の巨大前方後円墳古墳」の被葬者候補を考えてみた。伝承に基づく検討と、墳形による築造年代推定法(安本美典氏考案)とがおおむね一致し、おぼろげながら吉備の初期古墳(4 世紀)の主が見えてきたといえる。

今回は御友別命の時代(5世紀)について考える。中でも全国 4 位の巨大古墳の主がわからないはずはないとの思いからの検討だ。

<1>御友別時代とは

応神天皇は兄媛をいとしく思い吉備に来られ、御友別命らの仕える姿を見て吉備を六つに分割し、妃の兄媛の兄弟らに分け与えた。

応神天皇は神功皇后の子供とされている。日本書紀には次のように記されている。

仲哀天皇の2年1月、神功皇后は天皇の皇后となった。 同2月ふたりは敦賀に行宮かりみやを建て住まわれた。それを筍飯宮けひのみやという。同3月天皇が徳勒津宮とくろくつのみや(和歌山県)におられた時、熊襲反乱の知らせが届き、敦賀の神功皇后に豊浦津とようらのつ(山口県)で会うようみことのりをした。神功皇后は急きょ筑紫へ赴いた。秋9月宮を穴門に建てられ穴門あなと豊浦宮とようらのみやとした。同8年春1月4日天皇は筑紫にお移りになり、同2日儺県なのあがた橿日宮かしひのみやに入られた。翌春の9年2月天皇が急死する。秋9月、神の宣託を受け皇后は自から率いて新羅へ出兵する。

神功皇后の逸話が長くなったが、神功皇后の実在の証につなげたいためだ。神功皇后は神話の人物、三韓征伐などなかったと主張する歴史学者(一部の自虐史観論者か)もいる。ところが、東アジアの年代を決める指標ともいえる 高句麗王の事績がほぼ同時代として記録されている「好太王碑」には倭が襲来した年を辛卯年(391 年)と記している。この辛卯年に確かに神功皇后は朝鮮半島にいたのだ。これを仲哀天皇の治世とみると、ほとんど矛盾なく説明できる。日本書紀は神功皇后を魏志の卑弥呼に当てはめるため、年代をおおよそ150年引き延ばした。すなわち各時代で在位年を伸ばしており、新羅侵攻が仲哀天皇即位から 9 年目に行われたとしているが、おそらく天皇即位後数年のことだったろう。神功皇后は西暦400年をまたぎ活躍した人物で、その子・応神天皇は5世紀に活躍した。その天皇と吉備との関係はこれまで述べたように深くかかわっている。

これまで何度も引用してきた 安本美典氏の「古代の天皇在位10年説に基づいた推定表」(「邪馬台国と卑弥呼の謎」=安本美典著、昭和 62 年潮出版刊)でも神功皇后・仲哀天皇の治世を西暦390年から410年と推定している。

この天皇を起点に御友別命の時代を考えれば吉備の巨大前方後円墳の秘密は見えてくるのではなかろうか。

この仮説に基づき次項で安本美典氏の墳形による被葬者の推定グラフを作ってみる。

<2>5世紀型古墳の範囲

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安本美典氏は著書「巨大古墳の被葬者は誰か」(p133、左図)で5世紀古墳の墳形比率を横軸比率値 85 以上、 縦軸比率値 58~78 の範囲としている。

その範囲をめどに対応する古墳を選び、その全長、後円部直径、前方部幅とその比率を表にしたのが 下記の表1である。

表1 御友別時代(吉備の 5 世紀型)の古墳と関連古墳墳形一覧
古墳名測定値(m)横軸比率縦軸比率出典
前方部幅
(a)
後円部径
(b)
墳丘全長
(c)
a/b × 100a/c × 100
①崇神天皇陵102.00160.00242.0063.7542.15大p308
②応神天皇陵300.00250.00425.00120.0070.59大p95
③仁徳天皇陵305.00249.00486.00122.4962.76大p447
④仲哀天皇陵182.00148.00242.00122.9775.21大p364
⑤神功皇后陵168.00196.00273.0085.7161.54大p284
⑥太田天神山古墳126.00120.00210.00105.0060.00大p391
⑦-1陪塚女体山古墳18.0084.00106.0021.4316.98大辞典p
⑧女狭穂塚古墳106.0097.00174.00109.2860.92大p247
⑨男狭穂塚古墳40.70132.00154.6030.8326.33続p104
⑩佐古田堂山古墳90.0088.00150.00102.2760.00大p256
⑪神宮寺山古墳71.0070.00150.00101.4347.33大p299
⑫作山古墳160.00170.00270.0094.1259.26大p381
⑬造山古墳215.00200.00350.00107.5061.43大p360
⑬-1陪塚千足古墳24.0056.0075.0042.8632.00大p318
⑭双ツ塚古墳38.0040.0060.0095.0063.33大p369
⑮浦間茶臼山40.0081.00138.0049.3828.99大p362
⑯両宮山古墳124.00102.00192.00121.5764.58大p611
⑰宿寺山古墳62.0075.00118.0082.6752.54大p236
⑱花光寺山古墳54.0067.00110.0080.6049.09大p220
⑲用木山古墳6号墳11.5020.0037.0057.5031.08大p598
⑳江崎古墳25.0032.0045.0078.1355.56県p376
㉑隋庵古墳12.0030.0037.0040.0032.43大p303
㉒天狗山古墳20.0046.0060.0043.4833.33続p318
㉓一丁ぐろ古墳40.0035.0080.00114.2950.00IT情報
㉓朱千駄古墳35.0024.0066.00145.8353.03大p284
<表1>吉備の 5 世紀古墳および関連古墳一覧
出典の「大」は日本古墳大辞典、「続」は続日本古墳大辞典、
「県」は岡山県史 18 巻考古編、IT はインターネット情報

※この表は横スクロールできます。

<2> 岡山、群馬、宮崎に相似形の巨大古墳

表をもとに分布図に落とすとグラフ 1 が出来上がった。そこにはなんと遠く離れた吉備(岡山)、上毛野かみつけ(群馬)、日向(宮崎)で相似形の前方後円墳があるのだ。全国4位の規模の造山と東日本最大の太田天神山、それに九州最大の女狭穂塚の3つの古墳だ。それに吉備の佐古田堂山古墳も加えてよかろう。グラフ上に4つの古墳(赤字名の古墳)が集まっている。

楕円の中に吉備とその関連の5世紀型古墳がプロットできている。

この表から築造時期をもとに築造年代を推定、被葬者の活躍年代を参考にしながら、若干の独断を含む推定で作りあげたのが表 2 である。

表2 被葬者推定表
古墳名想定人物所在地
⑩佐古田堂山古墳 御友別命 岡山市北区
⑪神宮寺山古墳 弟彦命 岡山市北区
⑫作山古墳 兄媛命 総社市
⑬造山古墳 黒姫命 岡山市北区
⑬-1陪塚千足古墳 吉備海部直 岡山市北区
⑭双ツ塚古墳 鴨別命 笠岡市
浦間茶臼山古墳 不明 岡山市東区
⑯両宮山古墳 田狭臣 赤磐市

<4> 謎解明なるか「造山」被葬者

この推定表で関心が高いのは全国 4 位の規模を誇る ⑬ 造山古墳の被葬者を黒姫命としていることだろう。これまでの議論では、大王クラスの人物という議論で終わる 例が多い。まじめな議論としてよく見られるのが御友別命説(門脇禎二氏ら)だ。安本氏は「御友別命の関係者」とし断定を避けている。前掲著書でも 100 メートルを超えるような 巨大前方後円墳は、吉備や宮崎、丹後、さらには長野、会津など、天皇のお后を出すか、四道将軍が派遣された地域に集中するといっているので、「黒姫命」を強く意識しているように読み取れた。ご本人は「自信がなかったので」と述懐されている。

被葬者が応神天皇のお妃の可能性が高い造山古墳の航空写真
◎帆立貝型から築造期推定は無理

ここで再度グラフ1を見ていただきたい。応神天皇陵、仁徳天皇陵に近い位置に吉備では 作山、造山、佐古田堂山、神宮寺山。双ツ塚の各古墳が並ぶ。これらは御友別命とその近親者と推定できる。

個別の被葬者の推定は表 3 に示している通りだ。グラフ 1 の左下隅に集中する古墳は、4世紀初めの古墳を除き 帆立貝型前方後円墳である。★を付け黄色い円で囲んだ。これらの古墳は前方部が作り出し状の場合もあり、墳形での築造年代推定は不可能なことがわかる。

◎ホタテ貝型古墳には近親者

安本美典氏は宮崎の西都原古墳群の女狭穂塚古墳を日向の国造・老男おいおか、あるいは曾孫の髪長媛かと2つの可能性を述べている。同氏の2番目の仮説「女狭穂塚古墳が仁徳天皇のお妃・髪長媛 で、男狭穂塚古墳が髪長媛の父・牛諸うしもろだろう」という説はおそらく正鵠を射ている。このことはこれから述べる吉備や群馬の例でも共通している。かなり親しい身内なのだ。

太田天神山古墳 群 にも 106 メートルの陪塚・女体山古墳(帆立貝型)がある。盟主の太田天神山古墳は東国の大豪族・荒田別命の墓説が有力である。彼 は神功皇后の命を受け新羅征討や応神天皇の命で百済に派遣されるなど活躍している。女体山の名の由来は、太田天神山古墳の別名が「男体山」であることに起因する。すなわち荒田別のお后の墓なのだろう。その延長線上で考えるなら、吉備の造山古墳群 の陪塚の一つ千足古墳は黒姫の父・吉備海部直の墓といえよう。

上は帆立貝型の千足古墳。岡山県下で初の古墳復元工事が進む。
下は剥離が進む同小布施気質に合った直弧紋の石障

◎肥の国とのつながり

その千足古墳の石室内部は熊本でみられる直弧文を石に刻んだ「石障」で飾られていた。その文様が水に浸かり剥離を起こしとから取り出し保存をすることでも話題になった 。

榊山古墳から出土した朝鮮半島製
と思われる馬形帯鉤

また、別の陪塚・榊山古墳からは朝鮮半島製と思われる馬形帯鉤が出土している。造山古墳の前方部に置かれているくり抜き型石棺は熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩でわずかに赤みを帯びている。この石棺と 直弧文が刻ま壊れた家形蓋も残っている。地域の伝承では近くにあった新庄車塚古墳 (現在は消滅から運んだものとされているが、それを疑う説もある。

(註) 同時代に 彦狭島命と彦狭島王がいて同一人物と別人説がある。判断がつかないので別人説をとる。

彦狭嶋命の系図

黒姫は吉備海部直のむすめで、吉備海部直の祖は彦狭島ひこさしま命とされている=系図参照。古事記によれば、彦狭島ひこさしま命は稚武彦と同母の兄弟、または同一人物説(先代旧事本紀・国造本紀)もある。

吉備海部は田狭臣の反乱の時には吉備海部の「赤尾」という人物が足守の柏尾にいて朝鮮半島で活躍している。さらに百済の日本人官僚であった日羅百済の日本人官僚であった日羅を呼び戻すときに吉備海部羽島(現倉敷市に現倉敷市に「羽島」の地名がある)が登場する。

吉備の古代史シリーズの第1回「ふたりの天皇が行幸された谷」で示したように足守にあった吉備海部の本拠地 が 足守から羽島へ、さらに斉明天皇が百済救援のため筑紫に向かう途中に停泊した大伯おおく(瀬戸内市邑久)は当時すでに吉備海部の拠点になっていたのであろう。徐々に南に、さらに東へ移動したように見える。本拠地は内陸部に残しながらも海岸線の南下にあわせ海の拠点を移動させた時代があったのだろう。

造山古墳と作山古墳の違いで大きな点は陪塚があるかないかだ。造山古墳は 6 個の特色ある 陪塚 を抱えている。海外や九州方面との交流で、大陸との交流を示す馬形帯鉤を出した榊山古墳や直弧文の障壁(レリーフ)のある千足古墳、あるいは阿蘇の溶結凝灰岩石棺など海を通しての交流を担う 海部の影響とみれば納得できよう。

兄媛の墓と考えられる
作山古墳の航空写真▶

さらに葦北国造は吉備一族である=系図参照。阿蘇溶結凝灰岩の石棺の提供者だったかもしれない。それを運ぶ役割を海部が担っていると考えると、肥の国と吉備のつながりの謎は見事に解けてしまうのではないか。

◎作山古墳は造山古墳より 古い

全国 12 位の⑫作山古墳も応神、仁徳、黒姫(造山古墳)らと近い位置だが、一世代古い位置にプロットされている。兄媛の墳墓としてみてよいようだ。

◎御友別命は最上稲荷の谷に

⑩佐古田堂山古墳はなじみがない古墳かもしれないが、全長 150 メートル。岡山県内屈指の大きさだ。足守とは山を一つ越えた東側の谷(最上稲荷がある)にある。二段築盛である。被葬者は御友別命が最有力だ。

◎平地に築かれた弟彦の墓

⑪神宮寺山古墳は御野臣の祖・弟彦命の墓とみてよかろう。伝承もあるようだが、プロット位置は少し古く出ているようだ。この古墳は吉備では平地にある巨大古墳としては唯一の存在だ。古くから 墓地化が進み、私の友人も前方部の一角にある一族の墓に眠っている。特に前方部には小学校の敷地が食い込んでおり大きく破壊、推定値を利用してもうまく補正できていないようだ。

◎笠臣の盟主が眠る

⑭双ツ塚古墳は笠岡市の長福寺裏山古墳群の盟主の古墳といわれる。被葬者は笠氏の祖・鴨別命だろう 。プロット位置もよくあっている。全長は 60 メートルだが、高梁川以西の岡山県内前方後円墳では最大だ。同古墳群は笠氏の奥津城であろう。

◎箸墓古墳と本当に相似形か

⑮浦間茶臼山古墳は、箸墓古墳の 2 分の 1 の相似形と言われ最古級とされている。この古墳も前方部幅が不明 だ。データはどれを利用するかにもよるが、箸墓古墳とは少し異なるかもしれない。図面からの推定値を利用したが、プロット位置は他の古墳から離れている。推定は困難である。

◎状況証拠からも田狭の墓

⑯両宮山古墳は日本書紀には 5 世紀のこととして、雄略天皇(5 世紀後半に活躍)に妻・稚媛を奪われ任那の国司に追いやられた吉備臣・田狭の墓だろう。位置は応神・仁徳帝の近くにプロットされている。伝承もあり間違いなかろうが、少し古く出すぎているようだ。なにか別の要因もあるのだろう。この古墳には主体がないばかりか、埴輪も出土していない。未完成で築造が放棄されており、田狭の墓と思わす状況証拠でもある。

上道臣・田狭の居所を「吉備津彦命伝承を追う」(季刊邪馬台国 140 号)で岡山市の足守にあることを紹介した。賀陽と上道の2郡は仲彦なかつひこが引き継ぎ、さらに賀陽臣と上道臣に分け、それぞれ国造についた。 備中誌では田狭が足守に住んでいても不思議はないとしている。

統計による分析は万能ではない、一定の幅の中で例外も考慮しなければならない。

<おわりに>

全国 4 位の墳長を誇る「造山古墳」の被葬者が確定できないのはなぜなのか? たかが 1600 年前のことを忘れるほど愚かな民族なのか? 少なくとも記紀の記述に向かい合いさえすれば次々にヒントは得られる。そこから他の古典文献、伝承、考古学の新しい知見などを基にすれば、たどり着けない歴史ばかりではない。

「造山古墳」の被葬者はやはり仁徳天皇のお妃・黒姫だった。古代吉備を彩る歴上の人物が生き生きと動き出したような気持ちだ。

(了)

(註) 同時代に彦狭島命と彦狭島王がいて同一人物と別人説がある。判断がつかないので別人説をとる。

彦狭嶋命の系図

著者:石合 六郎(いしあい・ろくろう)上半身写真著者プロフィール: 石合 六郎(いしあい・ろくろう)

昭和20年4月、岡山県倉敷市児島田の口に生まれる。児島高校を経て立教大学文学部史学科を昭和44年卒。同年山陽新聞社入社、政治部、整理部、東京支社編集部などを経て、システム部署で新聞データベース構築に携わり、平成17年システム局次長で退職。同社嘱託を経て、川崎医科大学に勤務、同19年退職する。

東京支社時代、取材で同郷の安本美典氏と知り合い、邪馬台国九州説に共感、その後、九州の遺跡探訪中に福岡歴史研究会の大谷賢二理事長と知り合い、同研究会古代史講座を立ち上げに参画、講師も務める。同会の古代史イベントを担当、歴史ツアーなどを企画、運営。地元吉備に興味を持ち、伝承を調査研究。現在、同研究会副理事長。現住所、岡山市中区


第5号 目次
  1. 巻頭言~ ゴッドハンドの余波はつづく……河村哲夫
  2. 記紀に隠された史実を探る③
    白村江の敗戦と唐による倭国の羈縻(キビ)支配……飯田眞理
  3. 吉備の古代史シリーズ第 3 回
    吉備の巨大古墳を考える(下)御友別の時代(5世紀)……石合六郎
  4. 邪馬台国の時代① 卑弥呼の登場……河村哲夫