最終更新日:2023/11/02

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「紀元前1万2351年の史上最大の太陽嵐の痕跡を発見 放射性炭素年代測定法の校正作業の研究で正確な年代を特定」 sorae 2023/10/25 New!

sorae 宇宙へのポータルサイト 2023/10/25 の記事より

▲ sorae 宇宙へのポータルサイト 当該記事のスマホ表示冒頭部分
※画像をクリックすると記事の PDF を表示/ダウンロード
炭素14の濃度を年代別にグラフ化したもの。本来このグラフは直線的になるはずですが、約1万4300年前と約1万4000年前の2つの時期に炭素14の濃度が増加するピークがあることが分かります(Credit: Edouard Bard, et al.)=元記事より
  • 画像をクリックすると拡大。
元記事:
https://sorae.info/astronomy/20231025-solar-storm.html
Yahoo! News にも 2023/10/26 に転載)

<コメント=野口和夫(当会理事)> 2023/11/02

sorae は「宇宙へのポータルサイト」であり、宇宙や天文学に関係したニュースが掲載されていますが、放射性炭素年代測定や年輪年代学に関連した記事がありましたのでご紹介いたします。

ご存知のように放射性炭素 14C は 5,730±40 年で半減します。生物は生存中に体内に放射性炭素を取り込みますが、死ぬと体内の放射性炭素は崩壊して減る一方となります。これを応用したのが放射性炭素年代測定法であり、1950 年を基点として ○○○○ BP(=Before Present。今から~年前)と表されます。現在の技術で約5万年前まで測定可能なので、人類(ホモ・サピエンス)の「出アフリカ」以降の年代測定に広く利用されます。

過去1万年の
ミヤケ・イベント
  • 西暦993年
  • 西暦775年(有名)
  • 紀元前663年
  • 紀元前5259年
  • 紀元前5410年
  • 紀元前7176年

ただし、大気中の放射線炭素含有量が一定であるという仮定条件があります。実際にはいくつかの原因により大気中の放射線炭素の量が増加する(ミヤケ・イベント)が存在するので、年輪年代学を利用して較正こうせい(=calibration。記事中の「校正」は誤り)が行われます。較正を経た数字が「cal BP」です。

Bard 氏らが、2020年に確定した 13,900 cal BP までのC14法の基準(IntCal20)より前の炭素14濃度の較正を行うため、フランス南部ドゥルーゼ川で発掘調査を行い、合計172本の「ヨーロッパカラマツ」の亜化石から保存状態の良い140本を選び出して年輪年代較正を行ったところ、

  • 紀元前1万2351年から紀元前1万2350年までの1年間 (14,300~14,299 cal BP)
  • 紀元前1万2101年から紀元前1万2001年までの100年間(14,050~13,950 cal BP)

は、炭素14の生成量が平時と比べて約30%増大していることが突き止められました。特に前者がたった1年というピンポイントで特定されたことは注目に値します。このような太陽嵐が起きると放射性炭素年代測定が理論値通りにならなくなります。水月湖の年縞でも検証できるかも知れませんし、縄文草創期の土器年代測定にも影響がありそうです。

このように、年輪年代学は放射性炭素年代測定法と組み合わさると考古学、歴史学の強力な武器になります。しかしながら日本では年輪年代学の基礎データがブラックボックス化し、第三者による検証が行われないまま国立歴史民俗博物館の主張の資料となっています。当会の「情報公開請求訴訟」による現状是正が期待されます。

「縄文土器など数万点出土 南相馬の遺跡、石剣や首飾り一部も」 2023/08/10 福島民友新聞 福島民友ニュースNEW!

  • (写真上)発掘調査が行われている天神谷地遺跡=南相馬市原町区
    (写真下)発掘調査で出土した土器

福島県が発掘調査している南相馬市原町区の「天神谷地(てんじんやち)遺跡」で、縄文土器などが大量に発見された。県文化振興財団は「これほど大量の出土品が県内の遺跡で出るのは珍しい」と驚いている。4月から発掘を始め、数万点の出土品が確認された。出土品の多さから、大集落を形成していた可能性が高いという。

県道原町川俣線(下太田工区)の整備計画に伴う県の発掘調査で、調査面積は1600平方メートル。

道路の予定地となっていることから、工事が始まると遺跡を保存できないため、事前に調査している。工事開始は9月に予定されている。

遺跡は1960年代ごろに発見されたが、発掘は今回が初めて。縄文時代の後期から晩期(約3300~2800年前)にかけての遺跡とみられる。土器のほかに、子どもの墓や土器の廃棄場所も確認された。同財団によると、精巧な石剣や首飾りの一部も見つかっており、この地域に住んでいた縄文人の文化の豊かさを知ることができるという。

出土品は白河市の県文化財センター白河館「まほろん」に保管される。同財団は「集落の中心地は、過去の工事により残っていない可能性がある。今回の発掘現場は集落の外れで、物を捨てる場所だったために出土量が多いのではないか」と分析している。

県は9日、発掘調査の現場を一般公開した。

福島民友新聞の元記事
https://www.minyu-net.com/news/news/FM20230810-797534.php

<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2023/08/11

天神谷地遺跡は南相馬市原町区北部の水田地帯にあり、遺跡の南側には、鮭のやな場で有名な新田川があるそうです。縄文時代にも鮭が遡った格好の漁場で、豊かな営みが続けられる場所と推察されます。

天神谷地の位置
  • 国土地理院《電子国土Web》にて作成

十字マークが今回の発掘地点。(上と下の地図も同様)

下の地図では、大河では無く、適度な流量を持つ川があり、洪水被害も少ないと見える場所で、鮭以外の食料の調達にも良い平地が広がり、南北には低い山地があり、縄文人にとっても、快適な地域であったように見えます。

天神谷地遺跡周辺の地形
  • 国土地理院《電子国土Web》にて作成

「天神谷地(てんじんやち)遺跡」の東南1.4kmの場所には、古墳時代の初期に、この東北の地では珍しい大型の前方後方墳が存在する。縄文時代からの豊かな営みが、弥生時代から古墳時代に続いたものと推測される。東北地方の東南に、これだけ大きな古墳でしかも前方後円では無く、前方後方墳と云うことで、興味をそそります。

櫻井古墳の写真
櫻井古墳の近景
上空から見た櫻井古墳
  • 南相馬市のホームページの「その71 桜井古墳公園のあるき方(令和2年10月1日)」とウィキペディアより

この遺跡の存在した時代は、縄文時代の後期から晩期(約3300~2800年前)の遺跡とのこと。縄文海進が終り、海が退き、やや寒さが戻り、東北地方や関東地方から住居跡が消え、人口が半減したと歴史家達に云われる時代に、これだけ多くの土器片などが出土し、人々が豊かに暮らしていたことが判る遺跡は、貴重なものに見える。

もしかすると、縄文人が激減したとは言えない証拠が見つかったり、縄文時代の代表的な住居である竪穴住居(柱穴が残る)とは違った住居跡が見つかったりするかも知れない、興味深い遺跡の情報と思えてきます。

「卑弥呼は纒向に都を置いた」 遺跡から邪馬台国論争に区切り 考古学者の寺沢薫さん 2023/07/07 産経ニュースより NEW!

産経新聞の記事と「卑弥呼とヤマト王権」
中公選書「卑弥呼とヤマト王権」表紙画像

◀記事画像をクリックすると PDF に変換保存された記事を表示(A4サイズ5ページ)。

産経新聞の記事(Web版)
https://www.sankei.com/article/20230707-PYQNSTRJOBMWRAFUKRL4FUH3NI/

<コメント=丸地三郎(会長)> 2023/07/10

当会で7/8日に実施した「古代史を解明する会」のテーマが、丁度、このテーマだったので、翌日に、この記事を見て、ビックリしました。注目する考古学者が、ついに邪馬台国/卑弥呼について書いた「卑弥呼とヤマト王権」が、今年3月に発刊されたことで、期待感を持って、6月10日に紹介と解説するテーマで取り上げ、再び、7月8日に寺沢薫の邪馬台国論に絞ったテーマとして取り上げました。寺沢薫氏の邪馬台国論をまずは正確に理解することから始め、次に、その内容の検討を行いました。この2回の「古代史を解明する会」で使用した資料と説明の動画が私共のHPで公開されておりますので、詳細はそちらをご覧ください。

「卑弥呼は纒向に都を置いた」とする寺沢薫さんの解釈は、二つの理由で承服し難いことになりました。

  • 一つ目は、寺沢薫氏が論拠として上げる中国の文献史料とその内容は、信頼性の無い/歴史研究で使ってはならないものであったこと。
  • 二つ目は、考古学の成果である事実は信頼するが、寺沢薫氏の解釈に誤りが有ることが判ったこと。

「邪馬台国」は、中国の史書:魏志倭人伝のおよそ二千文字の文章の中に、一ヵ所だけ書かれたもので、「邪馬台国」はこの二千文字の文章の中でだけ語られており/定義されている。この邪馬台国の定義を不正確に行い/内容を不正確に理解した場合には、その内容を、いくら正確に考古学の成果を用いて論じても意味が無い。正確に理解して/定義して、科学的な考古学の手法で論じるべきもの。

寺沢薫氏は、『たかだか2000文字に満たない漢文をあれこれ詮索して、この国の三世紀史をうんぬんする時代は終わった。』と、魏志倭人伝を軽視し、正確に理解しようとしなかったことが、基本的な誤りの元となった。

寺沢薫氏は、考古学だけでなく、後漢書東夷伝/梁書/北史/翰苑などの中国の文献を縦横に駆使して、論理的な考証を行っているが、それらの『文献自体が信頼できるのか』という基礎的な検証を行って居ない。史料自体の検証のことを、歴史学では「史料批判」と言い、基本中の基本である。その作業を行っていないことは、誠に残念。考古学者ならば、出土品に対して、注意深く接し、本物であり、どのような性格のものであるか検証したうえで、考古論文・報告に記載するはず。それと同様のことを、文献についても行って欲しかった。

考古資料に関しては、注意深く検証された結果であると理解しているが、その解釈は、推論が入ることがあり、複数の解釈があり得る。解釈を示す場合には、何故そのような解釈をしたかは、明確に記述してもらいたい処。 勿論、同じ考古資料を対象としても、異なった解釈が生まれることがある。

考古資料の戦傷死遺跡/青銅祭器の埋納/イト倭国の勢力範囲について、寺沢薫氏の解釈の仕方を検討した。

  • 戦傷死遺跡:寺沢薫氏の解釈では、戦争の敗者とした。実は、これが間違いで、戦争の勝者側の死傷者。
  • 青銅祭器の埋納の目的:同氏の解釈では、地中に埋めたのは敵を呪う目的。これも誤りで、戦争に勝った側が、負けた側の祭器を取り上げ、人知れぬ山中等に埋め、二度と使えぬようにした。
  • イト倭国の勢力範囲は、同氏の解釈では、広形銅矛・銅戈の出土範囲で北九州全域と四国の南西部。これも誤りで、青銅器を甕棺/木棺などに埋納した地域で、三種の神器を墓に納めた地域と重なる。北九州の福岡平野の西側と吉野ヶ里などの筑後平野の北西地域が、イト倭国の勢力範囲。

解釈の仕方の違いについては、「古代史を解明する会」の記録に掲載しましたので、そちらをご覧頂きたい。この解釈の違いを正すと、残念ながら、寺沢薫氏の邪馬台国論は、全く成り立たない。
➡ 2023年7月8日 第31回 古代史を解明する会の記録
「寺沢薫氏の邪馬台国論を論じる~『卑弥呼とヤマト王権』に記載されたものを中心に」

ニホンヤモリの足跡を探ると、日本人の渡来時期と移動ルートが判る。

2023年1月30日 朝日新聞夕刊 記事

<コメント=丸地三郎(会長)> 2023/02/01

筆者が前に住んで居た家の玄関先には、時々ヤモリが姿を見せた。小さくて愛嬌のある動物で、人に害を与えず、益を与える。このヤモリのDNA解析を行い、古文書にどう記載されていたか調べることで、弥生渡来人のルーツや渡来時期まで検証できるとは、思いもしなかった。意外性の有る、面白い記事でした。

ニホンヤモリは、人の家屋を住み家としていて、寿命は5-10年位で、春から初夏に卵2個を生み、繁殖するとのこと。多く産んで一気に繁殖と云うタイプの生き物ではないようです。捕食の動作は素早いのですが、ゆっくりとしか移動しません。自力で長距離移動は出来ないようです。ヤモリがどうやって長距離移動するのかと考えてみると、記事が面白くなります。尚、ニホンヤモリの生息地は、中国大陸東部・朝鮮半島南部・日本(秋田県以南の本州、四国、九州、対馬、沖縄)。

記事の元となったニュースリリースや論文を見ると詳細がわかりますので、一部を紹介します。 

想定されるニホンヤモリの移住ルート
図A.
ニホンヤモリは中国東海岸に広く生息するようで、今回のサンプルは揚子江流域の南京に生息した複数個体で、ニホンヤモリの祖先個体群に近い系統である可能性が高いとのこと。
図B.
最初に日本に移動してきたのは、3000年前に長崎県五島列島の福江島。2400年前に九州全域へ、2000年前に九州から島根県と瀬戸内海沿岸へ、そして畿内へ。その後は、時間をかけて、北陸・東北・関東へ広がった。
図C.
1697年の文献では、関東にはヤモリは来ていなかった。(予想外のこと)

この年代は、ヤモリのDNAを特別なソフトウエア(個体数動態推定ソフトウェア)で解析すると算出できるそうです。(絶対的に正しい年代とは言えないようですが。――丸地)

次の図を見ると地域ごとの、個体数の変化が判る。これを見ると、移動した時期に個体数が減少し、その後しばらくして個体数が増加すること(ボトルネックと云う)が記されている。この減少/増加の時期が、移動してきた時期とみなされている。

ニホンヤモリの個体数変動と移動時期 図A/B/C
図A.
長崎県の離島の福江(FUKUE)に3000年前に移動・到着は、減少/増加で示された通り。
図B/C/D
その外の地域(中国/四国/近畿/東海/関東/北陸/東北)のヤモリも減少/増加で示される。

処が、図Aの九州(Kyushu)は、減少/増加の幅が他のケースに比べ小さい(ボトルネックとは言えない)。これは、外の移動状況と、九州への移動状況が違うことを示している。もしかすると、この移動では、比較的多くの個体が、一緒に移動してきた(多数の人と家財が一緒に移住したこと)ため、繁殖相手が沢山いたことを示しているのかも知れない。

調査した個体数と地域は、(1) 東北:酒田(N=15)、(2) 関東:宇都宮、野田、さいたま、多摩、川崎(N=15)、(3) 東海: 甲府、甲斐、熱海、富士宮、静岡、浜松、名古屋(N = 31)、(4) 北陸: 糸魚川、高岡、金沢、輪島、珠洲 (N = 39)、(5) 近畿: 宇治、京都、佐用、堺 (N = 16)、(6)中国:出雲(N=16)、(7)四国:高松、三豊、高知、室戸(N =16)、(8) 九州-T: 長崎(1 個体のみ)、福岡、対馬、宇久、壱岐(N=16)、(9) 福江島(N=6)、(10) 九州-F: 九州 1 と九州 2 の他の個体(N=13)、(11) 中国: 南京(N= 3)。

調査地域に北海道が含まれないのは、生息していないためと了解できますが、ニホンヤモリが生息する沖縄県が含まれないことは、明らかに片手落ちです。

弥生人の日本へ移住した時期が、この九州へのヤモリの移住した時期(2400年前)と捉えると、従来から云われている弥生時代の開始時期に一致している。

日本経済新聞の記事には、「およそ3000年前、稲作の伝来と同時期にニホンヤモリは大陸から九州地方に伝来した。」とあるが、五島列島の福江島への移住時期をもって、九州への移住時期としているのは、誤りでしょう。

福江島の所在地を示す地図
クリックすると別ウィンドウで福江島付近の「海しる」地図を表示
画像は「海しる」地図に矢印と「福江島」を追加して画像化

ニホンヤモリが、日本に初めて入ったのが、長崎県の五島列島の福江島であることは、今後の検討されるべきことと考えます。福江島に関する情報を参考の為、地図と共に示します。

福江島には、縄文時代の遺跡が数多く存在し、島の海岸部に集中し、江湖貝塚や白浜貝塚、大板部洞窟等がある。

  • 白浜貝塚:縄文時代後期-鐘ヶ崎式土器/4000年前、北久根山山式土器/3500年前が出土。
  • 大浜地区の中島遺跡は縄文前期から弥生中期まで、縄文前期(7300年前以降)の曽畑式土器が出土。

ニホンヤモリが福江島に渡来した時期は、西北九州縄文人=海洋民族が活動した時期に重なる。

沖縄に居たニホンヤモリが、福江島に渡ってきた可能性も、考慮する必要がある。

沖縄本島南部・宮古島では、外の種類のヤモリも居るが、ニホンヤモリが多く存在している。(「沖縄産ヤモリ(Gekkonidae)の細菌学的調査」 仲宗根民男・徳村勝昌外、沖縄県公害衛星研究所報 第15号1981に記載)

沖縄のニホンヤモリのDNA調査も行われて居れば、人の渡来がもっと明らかになった筈と残念に思う。それは兎も角、古代史関連者には、思いがけない方法で、渡来の時期が判る面白い記事/論文です。

盾形の銅鏡と全長127センチの最古/最長の蛇行剣が発掘!
奈良市 富雄丸山古墳

4世紀後半に造られたとみられる奈良市の富雄丸山古墳から、専門家でも見たことのない盾形銅鏡が見つかりました。さらに蛇のように曲がりくねった「蛇行剣」も出土。全長は237センチと国内で見つかったなかで最大のもので、年代も古いといいます。邪馬台国の時代の後、ヤマト王権が発展していく4世紀ごろは記録が残っておらず、歴史の世界では「空白の4世紀」と呼ばれているのです。(テレビ朝日系(ANN)配信1/27(金) 23:11)

<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2023/02/01

テレビ朝日系(ANN)1/27(金) 23:11配信 の動画中に盾形銅鏡の大きさの判る動画があります。その一画面は次のもの。

発見された盾型銅鏡

盾形銅鏡は長さ64センチ、最大幅31センチ、最大の厚さ 0.5 センチの青銅製。

一方、蛇行剣は長さ237センチで、古墳から出土した鉄剣では国内最大。奈良市教育委員会の発行した富雄丸山古墳の発掘調査 -第6次調査- に掲載された写真には次のように映っている。

クリックすると別ウィンドウで拡大します。

奈良文化財研究所のHP(下記の頁)を見ると資料がダウンロードできるのでご参照下さい。
https://sitereports.nabunken.go.jp/
ja/130515

古墳の形状図・発掘区位置図など現場の写真が沢山あり、参考になります。

特に注目する点は、

  1. 「年代」:邪馬台国の時代の後、ヤマト王権が発展していく4世紀ごろは記録が残っておらず、「空白の4世紀」の歴史史料となる。
  2. 「地域」:この地域は、奈良盆地の大型の古墳群から離れたところで、古墳や遺跡が少ない地域であること。この地域は、記紀に記すナガスネヒコ(トミヒコ)の地域で、ナガスネヒコは、東征する神武軍を迎え撃ち、敵対したことが記されている。又、この地域は、物部氏の支配地域と考えられる富雄川流域に近接している。
  3. 「円墳」:一般的と思われる前方後円墳では無く、円墳であること。

決して、「空白の4世紀」では無く、記紀に記された大和朝廷成立時期の実在を示す発見と思える。

王権とは距離を置いた、又は属さない集団が存在し、特異な盾と剣を副葬したのかも知れない!

奈良在住の会員から頂いた情報を基にコメントしました。

「類例を見ない盾形銅鏡」「最長・最古の蛇行剣」の二つの「国宝級」の発見された富雄丸山古墳のニュースは、大変興味深いものです。

3万年前巨大噴火の警告火砕流が100メートル以上堆積 姶良カルデラ 産総研が再調査

3万年前に鹿児島・姶良カルデラで発生した破局噴火で、噴出した火山灰や火砕流などの量が、従来想定されていたより1.5倍の規模だったことが、産業技術総合研究所の調べで明らかになった。

3万年前の姶良カルデラ爆発では、富士山の体積の2倍の8千億~9千億立方の噴出物だったとのことで、九州地方では、100mの火砕流が堆積し、火山灰は、大阪でも35cm、東京で10cmの降灰があった。

7,300年前には、南九州の縄文文化を壊滅させたとされる鹿児島沖の鬼界カルデラの爆発があった。

新聞の元記事
朝日新聞 2022 年 2 月 25 日(金)

※画像をクリックすると拡大。(大きいので、2回クリックが必要かも知れません)

<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2022/02/26

姶良カルデラ級の噴火が、現代に起きたら、想像もつかない被害だと思います。

将来のことも重要ですが、過去のことも考えて必要があるかと思います。「日本人の起源」・「古代人の成り立ち」に重大な影響を与えたものと考えます。

  1. 年代が「3万年前」と明確に記されていることに注意

    少し前の旧石器の書物を見ると、AT(姶良丹沢火山灰)と呼ばれ、2万5千年前頃と記されていました。それが、正確に3万年前と判明したので、年代が変更されていることに、ご注意ください。
    水月湖の年縞を調べて、30078±48年とカウントされ、年代が確定しました。)

  2. 姶良カルデラなどの噴火による被害

    凡そ4万年前に日本に来た旧石器人が、この時代に生活していたはずです。このころは、九州と四国と本州は(海面が70-80m低い)陸続きで、暮らし良い処だったと想像します。突然、姶良カルデラの大爆発で、今の九州の地域の人は全滅し、今の四国・中国の人々もダメージを受け、近畿地方も35センチメートルの火山灰で、生活環境は悪化した筈です。何年で樹木が回復し、生物が戻り、人が生活できるようになったのか、気になる処です。

    その後、1万3千年前には、桜島-薩摩テラフの大爆発があり、南九州を火砕物が襲い、壊滅的被害を被りました。

    更に、朝日新聞の記事にあるように7300年前の鬼界カルデラの爆発で南九州の縄文文化を壊滅させました。

    今月中旬のトンガ海底火山爆発で懸念され、過去には、フィリピンやインドネシアの巨大噴火によって、太陽の光が遮られ、寒冷化が起きたことがあったように、上記の巨大火山噴火は、気象への悪影響を招いたものと思われます。

    縄文人の人口が推定されていますが、東北・関東に大部分の人が住み、関西以西には人口が少ないのは、これらの火山爆発の被害かと推定されます。恐ろしい気がします。

  3. 現在の有力な沖縄の歴史

    沖縄では多くの遺跡から旧石器人の人骨が発掘されていますが、これらの人々は、死に絶えたことになっています。発掘された資料から、1.3~1.1万年前と8~5千年前に断絶があり、この時期に沖縄人が死に絶え、無人となった沖縄に、九州から縄文人・弥生人が移り住んだことになっています。

    今回の記事を見ると、九州では、何回も、人が絶滅したことになります。火山爆発の被害の無かった沖縄へ、被害の絶大だった九州から、人が移住したという説が、常識となっていることに、疑問を感じます。

  4. 当会解明委員会での議論

    当会の解明委員会でも、沖縄の古代史を取り上げていますので、気になる方はご覧下さい。

沖縄 1万年前の人骨出土 旧石器人と縄文人の「空白期」を埋める

旧石器人の港川人が、縄文人や現代日本人とつながるのかが問題になっているが、その間をつなぐ1万年前の人骨が出土したことが、大きな手掛かりになるとのこと。注目に値する。

新聞の元記事(オンライン)

沖縄で1万~9000年前の人骨発見
貝塚時代で最古、「空白期」埋める 藪地洞穴遺跡

うるま市の藪地島洞穴遺跡で出土した
貝塚時代の人骨(頭骨片)

沖縄県うるま市の藪地洞穴遺跡で、約1万~9千年前の貝塚時代の人骨が発見されたことを8日、うるま市教育委員会が発表した。発見された人骨は頭蓋骨の一部で、これまで県内で発見された貝塚時代の人骨では最も古い。県内では1万4千年以前の旧石器時代と7千年以前の貝塚時代の間で、人骨は発見されていない。「空白時代」を埋める貴重な発見となる。

沖縄諸島では、旧石器時代の後の縄文時代から11世紀ごろまでを「貝塚時代」と呼ぶ。沖縄本島では、約2万2千年前の「港川人」が、旧石器時代としては、日本で初めて見つかった完全な形に近い人骨として知られる。しかし、これまで貝塚時代では、名護市大堂原(うふどうばる)貝塚で発見された約7千年前の人骨が最古のものだった。

残存部の位置

地上60~70センチの深さから発掘された人骨片は2点で、どちらも約10センチ程度の大きさ。部位は前頭骨の部分で、眉間が平坦で、なだらかなアーチを描いてるため、女性と推定している。また、前頭骨と頭頂骨の間の「冠状縫合」の縫合線が現存することから、成年(16~20歳)から壮年(40歳未満)の年齢と推定している。県内で発見されている貝塚時代の人骨から見られる、「眼窩(がんか)が四角い」という特徴も備えている。

人骨の保存状態は良好で、市では、今後はさらに多くの人骨が周辺から発見できる可能性があるとしている。旧石器時代と貝塚時代の関係性などの調査研究も進めていく。

市では、今回の人骨とこれまで藪地洞穴遺跡で発掘された土器なども含め、9~21日と12月14日~来年1月30日までに市勝連のアマワリパーク歴史文化施設で展示する。11月23日~12月5日は県立博物館・美術館で開催されている企画展での展示も行う。

朝日新聞2021年11月9日
朝日新聞記事「沖縄 1万年前の人骨出土」

※画像をクリックすると拡大。

<コメント=丸地三郎(当会副会長)> 2021/11/12

日本国内では、沖縄では、旧石器人の人骨が多く出土する。だれもが、この人骨が日本人の祖先と期待するが、不思議なことに、沖縄の古代史では、旧石器人は死に絶え、九州から縄文人が南下して、沖縄人となったとの説が主流となっている。沖縄では、1万4千年以前の旧石器時代と7千年以前の貝塚時代の間が、人骨は発見されていない「空白時代」と言われてきた。 その空白の時代を埋めるものがこの人骨となるかと、期待される。

2021年6月の読売新聞と7月の朝日新聞の「港川人のDNA解析」の記事が、一方は「現代日本人に繋がらず」他方は「ご先祖は、2万年前の港川人」と正反対の内容を伝えたが、このような「旧石器人と縄文人をつなぐ資料」が見つかることで、沖縄の旧石器の人と縄文人のつながりが明らかになることが望まれる。

“要注意”の朝日新聞記事:
日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説

『金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人や弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。』

とする記事が掲載された。

注目した古代史ファンが多かったはずだが、この記事の内容には、疑問がある。

新聞の元記事(オンライン)
朝日新聞の紙面

朝日新聞記事「現代日本人の祖先 古墳時代に誕生?(2021/09/18)」
※画像をクリックすると拡大。

<コメント=丸地三郎(当会副会長)> 2021/11/12

現代日本人の成り立ち

「金沢大外の国際研究チームが論文を18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。」として報じたもの。

主な内容は、

  • ① 右図のように、「縄文人と弥生人が混血して現代日本人ができた」とする従来の説とは違い、「縄文人と弥生人が混血した後に、東アジア集団が混血した結果、古墳人ができた。これが現代人につながった」とするもの。
  • ② 縄文人7体、弥生人2体と古墳人3体の合計12体のサンプルのDNAを解析した結果判明したとする。
Fig.1

発表の中で、図中で水色のマークをされた「弥生人」が重要な要素になっている。この「弥生人」2体の遺伝子を弥生人全体を示すものとして取り扱い、古墳人の遺伝子の評価を行っている。代表させて良いものか疑問に思い、発表論文からサンプルを確認すると、2019年に日本人類学会誌に発表された論文:「西北九州弥生人の遺伝的な特徴 ― 佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析 ― 」著者:篠田謙一・神澤秀明外 の中で、解析され、発表されたサンプルであることが判る。

このサンプル:下本山岩陰遺跡出土人骨は、「一般に縄文人に共通する低顔,凹凸のある鼻根の周辺形態,四角い眼窩などの特徴を備えていた」もので、渡来系弥生人とは異なる特徴を持っていた。そこで、「西北九州弥生人」は縄文人の系統を引くと判断されていたが、DNA解析の結果は、予想に反して、「縄文人と渡来系弥生人の双方のゲノムを併せ持つ」ことが判明し、現在、大変注目されている存在。一般的に弥生人と云われる人々は、図1の「弥生時代の九州・山口地域の遺跡」の渡来系弥生人。

図1
西北九州弥生人の特徴

※←↑画像をクリックすると拡大。

篠田・神澤論文では、このサンプルの取り扱いに関して、「今回の分析例を持って西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできない」と記し、さらに、 「今回はひとつの遺跡のわずか2体を分析したものなので、この結果をそのまま九州全体の弥生時代の状況に演繹することは難しい。」との文章も加えている。

篠田・神澤論文では、弥生人を代表するサンプルとして取り扱っていないことは明らか。

ところが、今回の記事では、この『弥生人2体』のサンプルを「弥生人」として扱っており、弥生人を代表させていることになる。 この「西北九州弥生人」をもって、「弥生人」を代表させることは、無理が有るというよりも、誤っていると言わざるをえない。 しかも、DNA解析を発表した先行論文の注意書きを全く無視した内容になっている。

金沢大外の国際研究チームの発表論文は、誤ったサンプルを「弥生人」として解析した論文で、認めがたい内容になっている。 従って、それをベースに書かれた朝日新聞の記事も認めがたい。

追記:
  • 一般的に、最先端の科学技術を利用した発表記事の場合、裏付け取材がされないまま、誤った内容の記事が出ることがある。 科学に疎い文系出身の記者が取材した場合には、「先端技術」と云うと、内容が理解できず、しかも、裏付け取材もしないまま、ニュース・リリースの内容を写して記事にすることが多いとも言われる。
  • 今回の場合も、「DNA、ゲノム解析」という最先端の科学技術に関わるもので、更に、発表論文は英文で、おいそれと読めないという難しい状況であったことは、想像がつくが、誤りを伝えた影響は大きい。
  • 金沢大外の国際研究チーム発表の論文では、この「西北九州弥生人」を、 two 2000-year-old individuals associated with the Yayoi culture from the northwestern part of Kyushu Island, と、九州西北部の2000年前の弥生文化に関わる人と記し、弥生時代の水田稲作の拡散:「Dispersal of paddy field rice farming during the Yayoi period」と名付けた章の中で、弥生人の働きを展開している。
  • “弥生時代の水田稲作の拡散”を担った人々は、図1の「弥生時代の九州・山口地域の遺跡」の渡来系弥生人で、「西北九州弥生人」ではない。

「邪馬台国はどこにあったのか」 考古学界で優位の近畿説に反論

『近畿説 vs 九州説』の論議は尽きませんが、考古学者のほとんどが近畿説ではないかと見られている中、複数の有力な考古学者が九州説を論じているとの記事がありました。少し古い記事ですが、大変気になりましたのでご紹介します。

新聞の元記事(オンライン)
毎日新聞記事:PDF をここからご覧ください。
(毎日新聞に掲載の了解を頂いております。)
https://nihonkodaishi.net/topics/pdf/where_was_yamataikoku.pdf

<コメント=丸地三郎(当会副会長)> 2021/10/01

『考古学から見た邪馬台国大和説』と題した書籍が、2020/09/20 梓書院から刊行された。サブタイトルは、考古学では思いがけない「畿内ではありえぬ邪馬台国」。 著者の関川尚功氏は、奈良県立橿原考古学研究所員として、邪馬台国の有力候補とされる纒向遺跡(同県桜井市)などの調査に、30数年間も従事してきた著名な考古学者。

考古学者には珍しい九州説だと注目してきたが、その出版に先立つ2020/7/21の毎日新聞社の記事は、これが新しい傾向だと予告していたので、驚き、改めて注目する。

『近年になって相次いでいるのが九州説を唱える書籍の出版だ。考古学界では近畿説が圧倒的優位に立つ中、なぜ九州説の「逆襲」ともいえる状況が生まれているのか。』と【西部学芸グループ・上村里花】さんは、記す。

ここで紹介された九州説の考古学者の説にも興味が生まれる。

  1. 福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二さん(考古学)は、「『7割は九州説、3割が近畿説』と答えている」と紹介。 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の大型建物跡や出土したモモの種の年代測定などに触れながら、この「纒向遺跡の立派さ」こそが、逆に「邪馬台国らしくない」と指摘し、卑弥呼の性格や死後の状況からも九州説を取ると記載。「続・邪馬台国論争の新視点」(雄山閣)
  2. 国際日本文化研究センターの倉本一宏教授(日本古代史)も2018年刊行の「日本史の論点」(中公新書)で、「倭人伝が描く「宮室・楼観・城柵(じょうさく)厳かに設け」られた邪馬台国の様子は<運河で全国各地や朝鮮・中国に対しても開かれていた纒向遺跡とはまったく性格が異なる>とする。」と述べ、「福岡県の久留米市や八女市、みやま市近辺を候補地として挙げている。」
  3. 奈良県立橿原考古学研究所の坂(ばん)靖・企画学芸部長(考古学)も、今年2月に「ヤマト王権の古代学」(新泉社)を刊行した。「邪馬台国時代の奈良盆地には、魏と交渉し、西日本一帯に影響力を及ぼしたような存在はなく、同時代の纒向遺跡には<魏との交渉にかかわる遺物がない>としている」として、九州説を支持している。
  4. 吉野ヶ里遺跡の発掘に携わり、保存設備の計画・指揮を執った高島忠平・佐賀女子短大名誉教授の話を紹介している。「本来、邪馬台国の問題は、どのように古代の国家が成立していったのかを探る古代史の問題であり、「魏志倭人伝」はじめ史書など文字史料をしっかり読み解き、考古学資料と対応して論じていくべきだ。しかし、現在の考古学界にはそれが決定的に欠ける。それが問題であり、課題だ。」と。

2万年前の沖縄・港川人 DNA 解析~新聞社間で解釈が正反対

2万年前の沖縄・港川人のDNA解析の結果が、英文雑誌に論文発表された。その記事が読売新聞と朝日新聞に掲載されたが、正反対な内容が掲載された。

  • 2021/06/14 読売新聞 「港川人」、現代日本人と直接つながらず
  • 2021/07/23 朝日新聞 ご先祖は、2万年前の港川人?
新聞の元記事(オンライン)
関連情報

読売新聞と朝日新聞の記事をまとめた関連情報のPDFをダウンロードできます。
https://nihonkodaishi.net/topics/images/minatogawa-people/np_articles_on_minatogawa-people_dna.pdf

<コメント=丸地三郎(当会副会長)> 2021/08/25

日本人が何処から来たのか? 誰しもが知りたいこの疑問を解く鍵を握ると思われてきた沖縄・港川人のDNAを解析した結果が出たということで、興味津々のテーマだが、二つの記事は正反対になった。

英文雑誌に発表された論文とそのニュース・リリースや著者からの情報などで構成されたとみられるが、解釈が正反対になってしまった理由と本当の処を知るために、論文自体とリリースの内容などを詳細に検討した。

論文は、港川人の骨からミトコンドリアを取り出し、そのDNAの配列を、初めて解析出来たことをまず、報じている。(ミトコンドリアは、人間の細胞に含まれる小器官で、エネルギー代謝に関わるもの。母から子に遺伝され、母系の系統を調べることができる。細胞内には、二つの系統の遺伝情報がある。一つは、今回のミトコンドリアmtDNAで、もう一つは、人間の23対の遺伝子全体を示すもので、核ゲノムと言う。)

この初めて解析された港川人のmtDNAと、比較するために、13人の縄文人、4人の弥生人、2062人の現代の日本人(滋賀・長浜市民)のmtDNAを調べ、比較して出した壮大な研究の報告であった。

その結果は、「港川人のmtDNAは、縄文・弥生・現代人と同じものでは無く、直接関連しない可能性を示した。」しかし、「現在の祖先集団と現在のアジア人と東アジア人の祖先集団にも属している。」が判明した。この二つのやや矛盾した情報を解釈するために、中国の4万年前のTianyuan人と現在の東アジア人のmtDNA遺伝子を解析した結果、直接同じものでは無かったが、東アジア人の祖先と認定されたとする例証を示し、「日本列島では更新世後期(126,000~11,700年前)から現在の人口まで少なくともある程度の人集団の連続性があることが示されています。」との最終結論を得たと、英文論文はしている。

処が、論文の共同著者の中には、その結論に納得の行かない方も居たようで、「港川1号がアジア系集団全体の祖先であるというのは、港川1号の年代(19,000年前)からは考えづらいことである。」「港川1号のミトコンドリアDNAがハプログループM系統の祖先型にかなり近いことから、港川1号の年代は現在理解されている年代よりも遡る可能性がある(人骨そのものをもちいての測定がされていない)」と講演会で疑問を呈している。

(この疑問が、二つの異なった内容の記事の要因になったのではないかと推測する。)

確かに、沖縄の古代人が、東アジア全体に広がる東アジア系集団の祖先であるとすることは、地理的に見ても有り得ないことのように思える。しかし、核ゲノム(人間の23対の遺伝子全体)解析の結果は、同じような、有り得ないことを示している。

船泊遺跡の縄文人の核ゲノム(DNA)を解析した神澤秀明氏は、縄文人は、北東アジア人・東南アジア人が分岐する以前に分岐した人であるとし、「縄文人は、これまでかんがえられていたよりも古い時期に孤立した独自の集団である可能性が出た。」としている。 港川人が、縄文人の祖先であるとするならば、mtDNAに関しても、同じように、古い時期に孤立したことを示してしるものと考えられる。

筆者の個人的な解釈では、「港川人は、縄文人・現代人に繋がる」が正しい。


尚、この件に関しては、7月28日に開催された日本古代史ネットワークの解明委員会で、紹介と説明が行われました。その時の動画と資料及び記録は
https://nihonkodaishi.net/info-research/research.html
に掲載されていますので、そちらもご覧ください。

国内最古級 2500年前の船材 弥生前期後半、鹿児島県・中津野遺跡から出土 専門家「外洋航海の証拠」2021/04/23 南日本新聞

【南日本新聞の記事より】

鹿児島県立埋蔵文化財センターは23日、南さつま市金峰の中津野遺跡で2008年度に出土した木材が、約2500年前(弥生時代前期後半)の「準構造船」の部材と判明したと発表した。国内の出土例を100年ほどさかのぼり、最古級という。専門家は「高度な造船技術で、外洋航海が行われていたことを示す証拠」と評価する。

【写真】南さつま市金峰の中津野遺跡で出土した舷側板(2009年2月撮影、県埋蔵文化財センター提供) 大きさ:幅約0.3m×長約2.73m×厚5cm
南日本新聞の元記事
https://373news.com/_news/?storyid=136127
関連情報

南日本新聞社の記事内容と展示中の鹿児島県・上野原縄文の森のHP中の関連情報をまとめたPDFをダウンロードできます。
PDF ファイルの表示・ダウンロード

<コメント=丸地三郎(当会副会長)> 2021/07/03
  1. 船の部材がこれだけ、きれいな状態で出土することは、ほんとうに稀なこと。船材は、湿気が多く腐りやすい場所におかれることが多いためか、腐食し、消失してしまい、良い状態で出する例は少ない。
  2. 縄文時代の丸木舟の出土例は、全国で160例ほどあり、約60例は千葉県で出土し、全長7.2mの大型丸木舟も報じられている。日本海側は山陰から、北陸なども多く出土し、福井県の鳥浜貝塚・ユリ遺跡出土の9艘のスギ製丸木舟も有名。全国で最も古い丸木舟の出土は、約7000年前。
  3. 弥生時代には、丸木舟に加えて準構造船・構造船と云われる板材を使った船が出現した。土器に描かれた舟の線刻絵画が残されているが、実際の船材の出土品は少なく、大阪の瓜破来た遺跡から出土した船材は、残念ながらバラバラの小片になっていた。九州の糸島地域の複数の遺跡から出土例があり、潤(うるう)地頭給遺跡の例は最も部材が充実しており、6枚の船底部と1枚の舷側板の計7枚が出土している。船底部となる部材はそれぞれ長さ1.2~1.5mほどで、厚みは3.5~4.5㎝程度、舷側板は、長さ1.5m、幅23㎝、厚さ4.5㎝である。
  4. 今回、鹿児島県南さつま市金峰の中津野遺跡で出土した舷側板は、長さ2.73m×幅0.3m×厚さ5cmで「ほぞ穴」や「切り込み」もしっかり残されており、構造が判る貴重な船材。良好な状態が保たれたのは、出土状況の写真からも判るように、湿地帯で粘土層に包まれたことが幸いしたものと推定される。年代は弥生時代前期後半(BC5世紀~BC4世紀)と推定されており、弥生時代の当初より、外洋航海が行われたことを示すものとして注目される。
  5. 弥生時代の開始時期より、弥生人の到来など「外洋航海」が行われたことは明白だが、それを裏付ける船・船材などの遺物が無く、歴史解明上の課題になっていた。舟・船・船材は、腐敗しやすい環境に残されるため、出土例が少なかったが、今回の出土例は、その意味でも良好な船材が発見された貴重な例で、古代の船の検討が進むことが期待される。
  6. 世界最古の往復航海が、伊豆神津島の黒曜石採取のための航海と云われ、3.7万年前から3.4万年前まで継続して行われていたことが明らかにされている。どんな舟を使ったのか? 帆を使ったのか興味深いところだが、残念ながら、船体や、船材は出土していないため、判らない。
写真「南さつま市金峰の中津野遺跡で出土した舷側板」(2009年2月撮影、県埋蔵文化財センター)

炭素14年代:国際較正曲線INTCAL20と日本産樹木較正曲線JCAL
<速報コメント=鷲﨑弘朋> 2020.10.04(改 2020.10.12) 

最新の北半球の炭素14年代・較正曲線INTCAL20は、紀元前後~AD450年頃は日本産樹木較正曲線JCALが基準となり、JCAL= INTCAL20としてほぼ統一された(2020年8月、歴博発表)。これにより、弥生古墳時代の年代観に大きな影響が及ぶ。

→ PDF ファイルの表示・ダウンロード
国立歴史民俗博物館による2020年8月25日の発表
「IntCal20 較正曲線に、日本産樹木年輪のデータが採用されました」
と鷲﨑の速報コメント

  1. 大阪府池上曽根遺跡ヒノキ柱根N0.12の最外年輪:炭素年代は2020BP
    2020BPの実年代(較正年代=暦年代)はBC50~AD100年、中心はAD1世紀前半頃で従来考古学通説と一致(図3)。
    大阪湾岸の海洋リザーバー効果も配慮すべき(遺跡は海岸から2km)。年輪年代測定値はBC52年伐採だが従来考古学通説と100年乖離し、従来通説(AD1世紀中頃)が正しい。
  2. 纏向遺跡大型建物跡の土坑出土の纏向桃核(名古屋大測定12個、山形大測定2個、合計14個の加重平均):炭素年代は1823BP
    1823BPの実年代は、AD220~AD260年あるいはAD290~AD340年(図3)。
  3. 箸墓周辺出土の布留0土器:炭素14年代は1800BP
    1800BPの実年代はAD240~AD260年あるいはAD290~AD340年(図3)。
    箸墓築造年代の通説はAD300年頃~4世紀前半で、1800BPはこの従来通説と一致する。

図3

2021年 仁徳天皇陵発掘調査

「仁徳天皇陵」来秋再発掘へ 保全目的、謎解明に期待

宮内庁が仁徳天皇陵として管理する国内最大の前方後円墳・大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)について、古墳の保全を目的に再発掘を検討していることが10日、同庁への取材で分かった。地元自治体の堺市に協力を呼び掛け、2021年秋の実施を予定している。発掘は19年に世界文化遺産に登録されて以来初めて。

古墳の構造は不明な点も多く、被葬者を巡っては研究者の間で大きな論争が続いており、謎の多い巨大古墳の実態解明にもつながることが期待される。

同庁によると、今回の再発掘では内側の堤で調査範囲を広げ、石敷きの広がりや、埴輪列の有無などを確認する方針。

大山古墳写真
共同通信記事