最終更新日:2022/01/08

季刊「古代史ネット」第5号(2021年12月)

平原遺跡福岡県糸島市 から出土した大型内行花文鏡 10 号鏡

季刊『古代史ネット』編纂委員会編
発行 日本古代史ネットワーク
発行受託 ふくおかアジア文化塾


第5号 目次
  1. 巻頭言~ ゴッドハンドの余波はつづく……河村哲夫
  2. 記紀に隠された史実を探る③
    白村江の敗戦と唐による倭国の羈縻(キビ)支配……飯田眞理
  3. 吉備の古代史シリーズ第 3 回
    吉備の巨大古墳を考える(下)御友別の時代(5世紀)……石合六郎
  4. 邪馬台国の時代① 卑弥呼の登場……河村哲夫

巻頭言~~ゴッドハンドの余波はつづく~

河村哲夫

旧石器捏造事件

ご承知のとおり、日本の古代史上の最大の汚点となった「旧石器捏造事件」は、平成 12 年 (2000)11 月 5 日の毎日新聞朝刊のスクープ記事によって発覚した。 捏造の主犯とされた藤村新一 が捏造を開始したのは 昭和 45 年(1970)ごろとみられている。

約 30 年にわたり捏造が続けられ、その間、旧石器時代の始まりはどんどんさかのぼり、70 万年前から 100 万年前に迫る勢いであった。藤村新一はゴッドハンドともてはやされた。

『大系日本の歴史シリーズ』第 1 巻として、昭和 62 年 (1987) に発刊された『日本人の誕生』(小学館)は、この当時 奈良国立文化財研究所 に勤務していた 佐原 眞氏(1932~2002)の著になるものである。平成 5 年(1993)には 国立歴史民俗博物館 の 副館長 に昇進し、平成 9 年(1997)には同館の館長に昇りつめ、考古学界の重鎮として邪馬台国近畿説を強力に牽引した人物である。旧石器時代の大幅遡及についても大きな役割を果たした。 旧石器捏造が着実に進んでいる最中に書かれた『日本人の誕生』のなかに、今では笑い話となっているナウマンゾウの脂肪酸 について書かれたくだりがある。


  • ※「脂肪酸は千年も万年も遺存するという」という説については、それを実証するデータは確認できず、科学的根拠は極めて乏しいとみる見解が有力となっている(山口昌美ほか)。
  • ※ 帯広畜産大学畜産学部教授中野益男氏が確認したとされる「美利河1 遺跡」の石器に付着していたとされる脂肪酸については、現在で同遺跡の公式記録や広報パンフレットなどからすべて削除されている。
  • ※ 日本考古学協会による再調査の結果、宮城県の「馬場壇A 遺跡」から出土した旧石器はすべて捏造と判断された。したがって、石器に付着した脂肪酸も捏造ということになる。
  • ※ 中野益男・岡村 道雄・田中琢・佐原眞氏など、主犯とされた藤村新一を取り巻く人脈が見えてくる。とりわけ、藤村との共謀を疑われた 岡村道雄 氏は、 文化庁から独立行政法人に異動とな り、事実上考古学者としての命脈は絶たれた。

「多地域進化説」から「出アフリカ説」 へ

佐原眞氏が掲載された上段の人類の進化図は、現在では時代遅れになった「多地域進化説」に基づいている。 多地域進化説は、 北京原人が中国人に、ネアンデルタール人がヨーロッパ人に 進化したとする。しかしながら、現在の世界的な主流は、「出アフリカ説」である。8~9 万年ごろアフリカを出発した現世人類が世界中の人類のルーツであるという説である。アフリカ単一起源説ともいう。

DNA 鑑定技術の急速な進歩によるものである。1990 年代に急激に進歩したこの世界的な潮流を受けて、日本でも 2000 年代に入ると一般向けの解説書が続々と刊行された。筆者が最初に購入したのは、崎谷満氏著の『 DNA が解き明かす日本人の系譜』(勉誠出版・2005)である。この本の結論はともかくとして、DNA 鑑定技術が人類の歴史をたどるための有用な方法であることを知った。

したがって、世界的な潮流でみれば、「多地域進化説」に基づいて書かれた佐原眞氏の 『日本人の誕生』(小学館)の旧石器時代とナウマンゾウの脂肪酸に関する記述は、 平成 12 年 (2000) の旧石器捏造事件の発覚如何にかかわらず、すでに破綻に瀕していたといえよう。

「出アフリカ説」に基づけば、現世人類が日本列島に到達したのは、4万~3.5 万年前後であり、したがって、それ以前の無人の日本列島から現世人類につながる旧石器なるものが出るわけがない。

考古学界は、幻の夢を見ていたのである。日本の旧石器学は世界中に恥をさらして崩壊し、教科書や辞書類の書き換えが進められた。

たとえば、岩波書店発行の『日本史年表 第四版』(2001 年 12 月 5 日第 1 刷発行)では、旧石器時代に関する 全面 改定が行われた。


筆者は全面改定前のこの辞典を有していないので紹介できないが、もしお持ちの方がおられたら比較してご覧になったらよろしかろう。笑い話どころではなく、壮大 な夢の宮殿が無残に崩落した惨状を目にすることができるはずである。

旧石器捏造が進んでいたおなじ時期に、旧石器時代に引きずられるように、縄文時代、弥生時代も大きくさかのぼり、古墳時代は邪馬台国時代に重なるように微妙なかじ取りで前へ進んだ。これは当然のことである。時間は連続している。前が大きく進めば、後ろのほうも大きく前に引っ張られてしまう。しかしながら、あまりに前へ進むと、後ろの方のつじつまが合わなくなる。4 世紀型といわれていた箸墓を 3 世紀型に移動させる微調整によって、時間軸の調整は終了した。

縄文時代と弥生時代の年代測定に用いられた「炭素 14 年代測定法」

最も前へ進められたのが、旧石器時代につづく縄文時代である。いまでは縄文時代は世界最古の土器文化を誇っている。戦後まもなくは紀元前 4000 年程度の始期であったものが、現在では 1 万 6000 年前までさかのぼっている。後期・中期・前期という時代区分の前に、早期と草創期が新たに加えられたことにその痕跡を残している。

年代測定に用いられたのは、炭素 14 年代測定法とよばれるアメリカで開発された技術であった。

ただし、弥生時代についてみれば、岩波書店発行の『日本史年表 第四版』 (2001 年 12 月 5 日第 1 刷発行) 時点では、弥生時代の始まりは、「紀元前 5~4 世紀」と書かれている。

弥生時代が大きく前進したのは、国立歴史民俗博物館の研究チーム(以下、歴博チーム)による発表である。

平成 15 年 (2003) 5 月 19 日、歴博チームはマスコミにリークする形で「北部九州の弥生時代の始まりは紀元前 10 世紀で、従来の通説から約 500 年遡上する」と発表した。

年代測定に用いられたのは、これまた炭素 14 年代測定法であった。

しかも、炭素 14 年代測定法を年輪年代法が補強している。

炭素 14 年代測定法は大気中の炭素 14 の濃度が一定であること前提にしている。しかしながら、大気中の炭素 1 4 の濃度は太陽活動の影響などによって年毎に濃淡がある。年毎の濃淡の変化を教えてくれるのが年輪年代法である。樹木には年輪がある。1 年ごとに刻まれた年輪のなかには、その年の炭素 14 が封じ込められている。したがって、年輪の絶対年がわかれば、年毎の炭素 14 の濃度がわかるわけである。

年輪年代法の研究は、昭和 55 年(1980)年から奈良国立文化財研究所 の光谷拓実氏ほぼ一人で進められ、昭和 60 年(1985) から実用に移され、その功績に対して、平成 9 年(1997) には、第 31 回吉川英治文化賞を授与されている。

炭素 14 年代測定法と年輪年代法という最先端の科学技術の装いをまとった新しい年代論の登場は、長年にわたりこつこつと土器編年にいそしんできた考古学者――とりわけ九州の考古学者にとって、青天のへきれきであった。文科系が主流の考古学者たちは、なすすべがない状況に陥ったといっても過言ではない。今でもその余震はおさまっていない。

炭素 14 年代測定法の最も大きな問題は、本来、骨や種子などの有機物を対象に測定すべきであるのに、土器に付着した汚染物質ともいうべき炭素を試料として採用していることである。種子であれば、光合成によって取り込まれた大気中の二酸化炭素が種子のなかに保存される。土器に付着した炭素は、どうしても古い時代の測定値をしめす。試料の厳密性に欠けている。

年輪年代法でいえば、最も重要な年輪の基礎データがまったく公表されていないという問題がある。第三者の検証を受けていないものは、単なる仮説にすぎない。これが科学技術の世界の常識である。このため、われわれ日本古代史ネットワークが、情報公開に向けて現在提訴の準備を進めていることについて、何度も予告したとおりである。年明けにも提訴する方向で最終調整を進めている。

古墳時代の遡及

古墳時代というのは、戦後つくられた時代区分である。もちろん、前方後円墳に着目した時代区分である。筆者の小中学校の時代は、大和時代あるいは大 和朝廷の時代と習った記憶がある。神武東遷による大和朝廷という時代区分を忌避するために創出された造語であろう。大和時代は古墳時代と飛鳥時代に分割された。

3 世紀末ないし 4 世紀ごろから 7 世紀の飛鳥時代までの時代区分とされる。王権の主体は、「ヤマト王権」と書くのがならいである。これまた天皇の統治をイメージさせる「大和朝廷」を忌避したものであろう。

いずれにしろ、古墳時代は大和朝廷成立後の時代区分を前提にしており、弥生時代のあとにつづく時代区分というのが共通認識であった。大和地方にある前方後円墳も卑弥呼以降の墳墓という共通認識であったはずである。ところが、いまでは纒向遺跡の前方後円墳――箸墓が邪馬台国近畿説の主流となっている。

どうしてこのようなことになったのか。

薮田紘一郎氏の『ヤマト王権の誕生』彩流社 のなかに、「西島定生氏の驚くべき 1986 年発言」と題して、第 8 回古代史シンポジウムの議事録が収録されている。 1986 年といえば、昭和 61 年のことである。先に紹介した 佐原眞氏の『日本人の誕生』が発刊された前年のことである。旧石器時代が加速度的に古くなっていたその時代である。

薮田紘一郎氏は、次のように書き始められている。



この 1986 年のシンポジウム出席者 は、 東大名誉教授西島定生(67)、東京女子大教授平野邦雄(63)、国立歴史民俗博物館教授 白石太一郎(48)、立命館大教授山尾幸久(51)、新潟大教授甘粕健(54)、奈良大学教授田辺昭三(53)、京都府立大学教授門脇貞二(61)らであった。

西島定生東大名誉教授は、他の参加者に、まず箸墓古墳という巨大な古墳の出現に着目すべきと訴える。この巨大な古墳が 4 世紀ではなく、3 世紀に築造されたらどうなるのか。

それに対し、山尾幸久氏は男王権の確立が箸墓の契機とし、白石太一郎は箸墓を 4 世紀から 3 世紀の卑弥呼の時代に繰り下げることは困難と発言しているようである。

ところが 、 西島定生 名誉教授は、なおも「卑弥呼が死んだ時というのが畿内にあった場合の限りでございますが、それに相当するとすれば、一つのふさわしい状況ではないかと思います」というように、畿内説にとって、卑弥呼 の墓が箸墓であればふさわしい状況になることをそそのかす。

そして、卑弥呼の墓が径百余歩は 140 メートル程度で、箸墓の後円部よりやや短いものの、「そういうふうに記録にあるものと結びつければ、そこが一つの画期になって巨大な建造物がモニュメントとして出現したというのはわかりやすいんですが、白石先生はどうもそれは手続き上難しいということであります」と白石に向けて具体的にヒントを授ける。

そして、最後に重鎮はこう言って締めくくる。

「私は何とか白石先生に時代を上げてもらうように、努力してほしいと希望する次第でございます」

公開の場でのあからさまな教唆である。邪馬台国畿内説のため、箸墓の時期を繰り上げたらどうかとそそのかしている。

ちなみに、この当時の畿内の編年は別図のようなものであった。

箸墓の年代は、300 年代すなわち 4 世紀の前半に位置づけられている。卑弥呼の墓であれば、3 世紀でなければならない。すなわち、箸墓は卑弥呼ではないという当時の共通認識をしめしている。

そして、石野博信氏の「大和平野東南部における前期古墳群の形成過程と構成」に基づいて作成されたことも注記されている。

石野博信氏といえば、 関西大学 卒で、 兵庫県教育委員会から奈良県立橿原考古学研究所の所員となって、1971 年(昭和 46 年) から関川尚功氏とともに纒向遺跡の発掘調査に携わった 人物である 。

このシンポジウムが開催されたころは、白石太一郎氏らとおなじく、箸墓は 4 世紀の築造で、卑弥呼よりも後の時代の墓であるとみていたのである。

1985 年ごろまでの畿内の編年

しかしながら、現在では、箸墓は卑弥呼の墓であるとする主張は、邪馬台国近畿説の根幹をなしている。それを支えているのは、これまた 炭素 14 年代測定法と年輪年代法である。

旧石器捏造によって、旧石器時代が 100 万年前に向かって突き進んでいたころ、縄文時代と弥生時代もまたより古い時代へと歩みを始めた。古墳時代もさかのぼり、今では前方後円墳の箸墓が卑弥呼の墓として喧伝されている。

日本の高度成長時代、およびバブルの時代は、人びとを狂奔させた時代でもあった。

考古学界も、「日本の歴史を古くしたい」という何らかの集団心理に突き動かされていたかのようにおもえる。発掘現場でコツコツと勤勉であるべき考古学の世界において、冷暖房の完備した部屋で壮大な夢と名声を追い求める人々が出現した。

旧石器捏造事件が川の上流での大決壊であったとすれば、その下流に位置する縄文時代・弥生時代・古墳時代が影響を受けないはずはない。おなじ漕ぎ手たちがその川を往来していたからである。彼らは、上流の旧石器学のめざましい進展を賛美し、もどっては縄文や弥生時代を論じた。日本を代表する考古学者であった佐原眞氏は、旧石器を賛美・応援しつつ、邪馬台国近畿説の旗を振り続けた。

大きな流れに逆らえず、おのれの信念を捨てる人々も現われた。「箸墓=卑弥呼の墓」説に転じた人々である。

ゴッドハンドの余波は、さまざまな形でまだ続いているというべきである。

第二、第三のゴッドハンド が登場しないことを切に祈っている。


第5号 目次
  1. 巻頭言~ ゴッドハンドの余波はつづく……河村哲夫
  2. 記紀に隠された史実を探る③
    白村江の敗戦と唐による倭国の羈縻(キビ)支配……飯田眞理
  3. 吉備の古代史シリーズ第 3 回
    吉備の巨大古墳を考える(下)御友別の時代(5世紀)……石合六郎
  4. 邪馬台国の時代① 卑弥呼の登場……河村哲夫