最終更新日:2021/06/29

季刊「古代史ネット」第3号

奴国の時代 ③ 北部九州のクニグニ

河村 哲夫

カメ棺の分布

前述したように、朝鮮半島南岸の金海地方からカメ棺――金海式カメ棺が出土する。

対馬には分布していないことから、北部九州から壱岐を介して朝鮮半島に伝わったとみられる。

北部九州におけるカメ棺の分布は次のとおりである。

甕棺分布と地域差

橋口達也著『甕棺と弥生時代年代論』(2005雄山閣)より

図のとおり、末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市など)など『魏志倭人伝』のクニグニと重複するほか、筑紫平野に広がっている。

紀元前2世紀ごろ、突然出現した墓制である。誰かが採用した。のちの前方後円墳も突然出現した。これまた誰かが採用した。従来は大和朝廷の墓制とみられていたが、このところ古い時代にさかのぼり、前方後円墳の箸墓が卑弥呼の墓とする近畿説の動向は衆知のことであろう。

そのことについては、いずれ先で述べることにするが、墓制というものは、エジプトのピラミッドをはじめ、誰かが企図したものである。もちろん、最高権力者たる王の意向を受けたものである。

カメ棺のルーツについて、幼児カメ由来説や長江流域由来説など諸説あるが、決して自然発生的なものではない。あくまで、政治的決定に基づく制度としての――「墓制」である。

決定したのは、時の権力者である。その権力者とは、――もちろん奴国の王である。

北部九州のクニグニの盟主――奴国

何度も紹介したように、『後漢書』には次のように書かれている。

「建武中元二(57)年、倭の奴国、貢を奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称う。倭国の極南界(最南端)なり。光武は賜うに印綬を以てす。安帝の永初元(107)年、倭国王の師升等、生口百六十人を献じ、願いて見えんことを講う」

西暦57年、後漢初代の光武帝のもとに使者を派遣し、「印綬」を授けられているのは、ほかでもない奴国の王である。

西南大学名誉教授の高倉洋彰氏は、『金印国家群の時代』(青木書店)のなかで、

「須玖岡本D地点甕棺墓は福岡平野の奥部、春日市にある。奴国の地と想定されている福岡平野の弥生時代遺跡は両側の山麓に沿って流れる那珂川・御笠川の流域に分布する。須玖岡本遺跡は福岡平野の中枢をなす遺跡で、両川の間に突き出してくる春日丘陵の先端(北端)にある。遺跡の集中度や遺物の出土状況などからみて、奴国の境域である福岡平野の地域社会は、弥生時代の開始間もなく、15~20ほどのムラ(遺跡群)で構成されてくる。これらのムラは古代の郷の数にほぼ匹敵しており、平野面積の広狭や弥生時代の遺跡数、古代の郷数などを勘案すると、『延喜式』の那珂郡を中心とする福岡平野は玄界灘沿岸部の松浦郡・怡土郡・志摩郡・早良郡などほかの郡を大きく凌駕する人口密集地域であったことがわかる。それは弥生時代にさかのぼっても同様であろう。弥生時代の人口は、『魏志』倭人伝によれば、その終末期における数値が2万余戸とされている。この数値をそのまま信ずることはできないが、相当に人口が密集していた状況の反映ではあろう」
「『魏志』倭人伝、そして日本列島に育った地域小国の先頭をきって『後漢書』東夷伝に名を留める奴国の王が、これらの史書に先行して姿を現したのが須玖岡本D地点甕棺墓である」

というように、人口面での優位性などからみて、奴国が北部九州の国々の盟主であったとされる。

カメ棺という墓制を採用し、一定の強制力をもって傘下のクニグニに広めたのは、奴国の王である。

そして、カメ棺のなかに鏡・剣・玉などが埋納された。

三種の神器の起源である。盟主たる奴国の王は、中国の鏡・剣を入手し、出雲の碧玉、糸魚川のヒスイなどを入手して、配下のクニグニの王に授けた。それらの神器は、後継者に世襲されず、奴の国王から授与けられた王とともにカメ格に副葬された。世襲されなかったのは、第三者への譲渡を禁止した奴の国王の意思に基づくものであり、何らかの死生観に基づくものであろう。天皇家の三種の神器が代々世襲されるのは、時代の進展とともに、中国の玉璽のようにそれ自体が神格化していったものであろう。

奴国の王は連合国に属するクニグニの王に、鏡・剣・玉などを授け、その地位を保証した。そして、封建制を採用した。

封建制

血縁による支配体制である。息子や孫など、血のつながった者を任命する制度である。

井上裕弘氏は『弥生・古墳文化の研究』(梓書院)のなかで、次のように記されている。

「嘉穂地域の首長墓である立岩10号甕棺が遠く二日市地域から特別に調達された道場山型の甕棺であること、伊都国王の女王墓ともいわれる糸島市三雲南小路2号墓の甕棺に奴国の中心となる一の谷型甕棺が採用されていること、その他にも地元の工人集団とは明らかに異なる集団が製作した甕棺が搬入された遺跡が数多く存在する。・・・国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授が弥生時代の親族組織を追及する中で、『その甕棺の被葬者と甕棺が作られた地域との間に、切っても切れない関係が生前に存在したからで、それがその被葬者が二日市地域から婚入してきた人物であったため、死後、出身者側の集団がこの甕棺を用意した』と推論し、さらに、『二日市地域の王の弟妹や子供など親族の一部を自らの王の一族に迎えることにより、内陸部である嘉穂地域に中国鏡や南方産の貝輪がもたらされたのではないか』という大胆な大変興味深い解釈をされた。その魅力ある解釈を伊都国の女王にも同じ解釈が出来るとすれば、『奴国王の妹や子供などの親族の一部』ということになり、奴国が伊都国に対し優位な立場にあったことが想定され、西暦五十七年の『漢委奴国王』の金印を記した『後漢書』東夷伝の記事にも符合し、中期後半から後期前半頃までは、北部九州の国々の中にあって奴国が主導であったことを裏付けることにもなる。まさに、北部九州弥生社会の展開が奴国を中軸にして進行していたことを物語るものであろう」

この井上・春成両氏の指摘を突き詰めてゆけば、伊都国の王や嘉穂の立岩の王のみならず、他のクニグニの王もまた、奴国王の親族であった可能性すら浮かび上がる。

甕棺の地域差と工人集団

盟主たる奴国の王の存在、地域の王の任命、墓制の制定、三種の神器など、血縁に基づく封建制という奴国の特徴的な制度は、やがて日本固有の伝統となり、邪馬台国の時代から大和朝廷の時代へと継承されていった。

福岡県北西部の旧郡

奴国の研究・分析は、邪馬台国や大和朝廷の本質を探るうえでもきわめて重要である。

この観点から、奴国の時代のことについて、やや詳しく個別に述べてみたい。

奴国のエリア

これまで紹介したように、奴国の中心的な領域は、旧那珂郡――那珂川と御笠川にはさまれた地域である。

福岡市の一部(博多区・中央区・南区の一部)と春日市、那珂川市、大野城市(の一部)を包含する。

福岡平野の弥生遺跡分布地図

那珂川は、南部の脊振山に源を発し、福岡平野を貫流し、博多湾に注ぎ込む全長35キロの川である。現在博多駅近傍の内陸部に住吉神社(福岡市博多区)が位置しているが、もと那珂川河口の入江の突端部にあって、博多湾に面していた。

那珂川という名は、佐賀県の松浦川と末盧国のように、奴国の記憶をとどめている。奴国の「奴」と「那珂」および「中」は、周・漢代のいわゆる上古音では、いずれも「nag」と発音する。「中(なか)」には、世界の中心というような中華思想的なものが含まれている。

那珂川東方には御笠川が流れている。宝満山(筑紫野市・太宰府市)に源を発し、牛頸川・春日市)、諸岡川などの支流と合流しながら、博多湾に注ぐ全長24キロの川である。

御笠川という名は、神功皇后伝承に由来する。香椎宮(福岡市東区)に本陣を置いた神功皇后は羽白熊鷲討伐を行うため松峡宮に移動する途中、つむじ風が起こってその御笠が吹き飛んでしまったので、人々はそこを「御笠」と呼ぶようになった、と『日本書紀』は伝える。「御笠郡」、「御笠山」、「御笠川」はこのことに由来する。

「御笠山」のもとの名が、「竈門山」であったことだけはわかっている。麓の「竈門神社」がその名残である。その後さらに改称され、現在では「宝満山」と呼ばれている。

それに対し、御笠郡と御笠川の旧名は伝わっていない。山の名とパラレルに考えて、竈門郡あるいは竈門川であった可能性も考えられようが、伝承も文献も残されていないので、不明としかいいようがない。

御笠川の下流のほうは、博多では「石堂川」と呼ばれ、住吉神社の博多古図では「比恵川」と書かれており、一つの手がかりになるかもしれないが、石堂川は平安時代末ごろの「石堂丸と石堂地蔵伝説」に由来し、比恵川も戦国期にはじめて文献に登場する比恵(福岡市博多区の一部)という集落名に由来し、いずれも古代にさかのぼることはできない。

太宰府のかつての旧名が失われたように、地名の変更はそれ以前の地名を抹消してしまう。『筑前国風土記』が残存していれば何らかの手がかりが得られたにちがいないが、その散逸がまことに惜しまれる。

それはともかくとして、奴国の中心的な領域は、那珂川と御笠川にはさまれた旧那珂郡の地である。

下流域の板付遺跡(福岡市博多区板付)は日本最古の稲作集落の一つであり、御笠川と諸岡川にはさまれ、脊振山地からせりだした春日丘陵には、奴国の王墓とみられる須玖岡本遺跡(春日市)をはじめ、紀元前後の奴国の時代の集落や青銅器工房跡、カメ棺墓などが密集している。

須玖岡本遺跡

須玖岡本遺跡D地点からは、草葉文鏡三面・星雲文鏡五面・連弧文昭明鏡四面・連弧文清白鏡八面など前漢鏡約30面が発見されており、奴国を統括した「王」の存在を誇示している。とりわけ注目されるのは、三面の草葉文鏡で、いずれも面径が20センチを超える大型鏡である。このような大型の草葉文鏡は中国でも出土例が少なく、奴国王の強大な権力を物語っている。

須久岡本遺跡地図

なお、出土した銅剣のうち、両面に四条ずつ樋(溝状の凹み)を持った多樋式銅剣は楽浪地域や対馬の銅剣に共通する意匠で、8本以上見つかった中細式銅剣は長大化が進んで、すでに祭祀用具に変貌している。

須玖岡本の王墓の時期は、紀元前1世紀の終わりごろか、その前後とみられている。したがって、西暦57年に金印を下賜された奴の国王ではなく、その数世代前の王である(小田富士雄ほか)。

おびただしい青銅器と鋳型などが集中的に出土する春日丘陵は、さながら青銅器一大生産センターの様相を呈している。須玖岡本の王の権威は、青銅器をはじめ、ガラス、鉄器などを製造するテクノポリス集団に支えられていたともいえよう。

春日地域からの青銅器鋳型の出土状況をみても、九州――いや、日本のなかで、圧倒的なシェアをしめしている。

門田(もんでん)遺跡

須玖岡本遺跡から南へ約2キロの春日丘陵南部――現在の新幹線車輌基地・博多南駅の東側に門田遺跡(春日市)があり、カメ棺とともに鉄戈、鉄剣などが発見され、その24号カメ棺は盗掘されていたが、その内壁に径13~14センチの鏡2面の圧迫痕が残されていた。須玖岡本の王からはるかに序列は低いものの、この地域を統括した首長(王)墓とみていいであろう。

現在、春日市は福岡市のベッドタウンとして発展し、民有地や民間家屋が密集しているため、全体的・包括的な遺跡の発掘調査がきわめて困難な地域であるが、それにもかかわらず、多くのの青銅器鋳型が発見され、カメ棺についても1500基以上が出土しており、総数では5000基を超えるのではないかともいわれており、「弥生銀座」とも称されている。

青銅器等の生産力が、奴国勃興の大きな原動力の一つになっていたことは明らかである。

安徳台遺跡

最近注目されているのは、那珂川の上流域にある安徳台遺跡(那珂川市)である。

『日本書紀』神功皇后紀にみえる「迹驚岡(とどろきのおか)」の推定地であり、近くには神功皇后が拓いたとされる「裂田溝」も残されている。安徳天皇が一時滞在したことから「安徳台」と呼ばれるようになったが、地元では「御所ケ原」あるいは「上の原」とも呼ばれていた。

周囲を急峻な崖で囲まれた高さ約10メートル、広さ約10万平方キロ――裾野まで入れれば約25万平方メートルの台地で、西側に那珂川が流れ、東側に「裂田溝」が流れている。

安徳台からは、弥生時代中期~後期の遺跡が発見され、奈良時代の大建築物群なども発見されている。

日本最古級とされる製鉄工房跡や130軒を超える竪穴住居址はすべて円形であるが、弥生時代最大級の14メートルを筆頭に、直径10メートル程度の大型のものばかりで、鋳型や勾玉、漢式鏃、鉄器類などが出土している。

カメ棺墓が10基あり、なかでも大きな墓穴に並べて埋葬された首長(王)墓とみられる二つの巨大なカメ棺(5号・2号)からは、髪飾りに使われていたとみられる塞杆(さいかん)状ガラス製品が、頭骨近くに2本ずつ置かれていた。塞杆状ガラス製品は、これまで須玖岡本遺跡と飯塚市の立岩遺跡からしか出土した例はない。

男性を埋葬した甕棺からは権威の象徴とされるゴホウラ貝輪43点が右腕の骨にはめられた状態で見つかり、また鉄剣・鉄弋など大形の鉄製武器はじめ、ガラス製管玉なども副葬されていた。

安徳台遺跡甕棺 1号と2号

女性を埋葬したカメ棺の内部は朱に覆われ、遺骸には丹が堆積していた。

これらの状況からみて、この地域の首長(王)墓であることはまちがいないが、奴国の王墓であるかどうかについては、鏡が出土していないことから、現時点では否定的な意見が多い。しかも、須玖岡本の王墓よりもあとの時代ではあるが、西暦57年には届かないとみられている。

安徳台遺跡の発掘は、全体の約2割弱にとどまっているが、平成31年2月26日に国史跡の指定を受けたことにより、今後の発掘調査の加速が期待されている。

吉野ヶ里遺跡とおなじく開発を免れた地であり、貴重な弥生遺跡がほとんど損傷を受けずに地下に眠っているはずである。奴国の実態解明のため、安徳台の全面発掘調査を期待したい。

副葬品

安徳台南方の山田は、古代における交通の要衝で、西に向かえば、別所・西畑・小笠木峠・脇山・内野・金武・日向峠を越えて糸島(伊都国)に至ることができる。

東に向かえば、仲・松木・上白水・下白水・小倉・雑餉隈・乙金峠を越えて宇美(不弥国)に至ることができる。

南に向かい、脊振山の坂本峠を越えれば吉野ヶ里方面に抜けることができ、那珂川を下れば、博多湾に出ることができる。

那珂川市は、卑弥呼の時代の魏の使者がたどった陸路を検討するうえでも見逃すことのできない地域といえよう。

須玖岡本遺跡が、どちらかというと御笠川流域寄りに所在し、那珂川本流からやや外れた位置に所在しているのに対し、安徳台遺跡は那珂川本流の要衝の地に位置している。

近傍には「仲」という大字も所在し、弥生時代の遺跡も密集している。もと「中」あるいは「那珂」とも書かれ、「ナカ」と呼ばれたが、下流に那珂郡役所が置かれたので、「仲」と改め、「チュウ」と音読するようになった(『筑前国続風土記拾遺』)。したがって、「仲」の地は、奴国の中枢地であった可能性も捨てきれないのである。近くには博多の住吉神社の元宮といわれる「現人神社」もある。

王(首長)の序列

柳田康雄氏は北部九州各地の首長ついて、副葬された品々――とりわけ鏡の大きさや枚数によって、その序列化を試みられている(『弥生時代の政治社会構造』2013(柳田康雄古希記念論文集所収「弥生時代王権論」)。福岡市の森本幹彦氏もおなじく副葬された鏡などに着目して各遺跡の王(首長)の序列を次表のようにみられている。

王(首長)墓の副葬品と格差

須玖岡本遺跡の王は最上位の序列に位置づけられているが、安徳台の首長は鏡を副葬していないところから、下位グループに位置づけられている。

日本一の43個のゴホウラ貝輪がやや軽視されているような気もするが、発掘が進んでいない現状ではやむをえない結果ともおもえる。

いずれにしても、奴国の中枢的領域が那珂川と御笠川にはさまれた旧那珂郡の地であることはまちがいない。西暦57年当時の奴国王の墓も、いずれこの範囲内から発見されるであろう。

ただし、奴国がどこまで広がっていたのか――その領域に関して、西方の早良平野との関係、東方の御笠川右岸地域との関係、北方の志賀島との関係、南方の太宰府市・筑紫野市方面との関係が問題となる。

北九州の遺跡分布地図
  • N(赤): 奴国
  • I: 伊都国
  • M: 末盧国
  • K: 旧神崎域
  • N(黄): 直方平野
  1. 三雲南小路遺跡(糸島市)
  2. 須玖岡本遺跡(春日市)
  3. 安徳台遺跡(那珂川町)
  4. 吉武樋渡遺跡(福岡市西区)
  5. 立岩遺跡(飯塚市)
  6. 二日市峯遺跡(筑紫野市)
  7. 隈・西小田遺跡(筑紫野市)
  8. 東小田峯遺跡(筑前町)
  9. 栗山遺跡(朝倉市)
  10. 吹上遺跡(日田市)
  11. 小郡若山遺跡(小郡市)
  12. 藤木遺跡(鳥栖市)
  13. 六の幡遺跡(みやき町)
  14. 二塚山遺跡(吉野ヶ里町)
  15. 三津永田遺跡(吉野ヶ里町)
  16. 吉野ケ里遺跡(吉野ヶ里町)
  17. 田島遺跡(唐津市)

奴国の西――早良平野

まず、奴国の西方――早良平野との関係である。

そこには吉武高木遺跡(福岡市西区)がある。早良平野を貫流する室見川の中流左岸の吉武遺跡群に立地する。

昭和59年(1984)年度調査で、弥生時代前期末から中期初頭にかけての金海式カメ棺墓や木棺墓等11基から銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土し、吉武高木遺跡の東五50メートルからは回廊をめぐらした掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性も指摘されている。

吉武遺跡群内には、吉武高木遺跡に隣接し、多数の副葬品を有する前期末から中期後半の甕棺を主体とした「吉武大石遺跡」とその約250メートル北にある中期後半から後期の「吉武樋渡遺跡」がある。

吉武樋渡遺跡は、弥生時代の墳丘墓の上に、古墳時代中期の前方後円墳が築かれた特異な構造をした遺跡である。

樋渡墳丘図面

下部の弥生墳丘墓の規模は、長さ約25メートル、幅約16メートルで墳丘の形はゆるやかな長方形を呈していた。その弥生墳丘墓から弥生時代中期後半のカメ棺墓30基と木棺墓1基が発見され、銅剣3口、前漢鏡【重圏文星雲鏡(重圏「不久相見」銘鏡)約8センチ】1面、鉄剣3口、素環頭太刀1口、素環頭刀子1口、鉄族1個、十字形把頭飾1個と玉類が出土した。

前漢鏡・銅剣・玉類などを副葬していたことから、室見川流域のクニ――例えば「サワラ国」を統括した首長ないし王であったことは否定できないであろう。しかしながら、『魏志倭人伝』にはこのクニらしきものは記載されていない。「百余国」から「三十余国」に収斂していく過程で、伊都国か奴国に併呑された可能性が高いとみられている(大阪市立大学名誉教授鳥越憲三郎氏など)。

早良平野は西方の糸島平野とは飯盛山や高祖山などによって隔てられ、東方の福岡平野とは一体的に広がっていることから、地勢的にみれば、奴国に吸収された可能性が高い。

奴国の東――席田郡

次に、奴国の東方の御笠川右岸地域――いわゆる「席田(むしろだ)郡」との関係である。「筵田」とも書かれることがあるが、その地名の由来は伝わっていない。強いていえば、この地は筵を大きく広げたような平坦地で、このような地勢であるため、現在福岡空港もこの地に立地している。席田郡の東方には月隈丘陵が横たわり、その東方の糟屋郡と隔てられている。

金隈遺跡(福岡市博多区)もこの地にある。月隈丘陵南側の標高30メートルに位置し、西方2キロに板付遺跡、南西3キロのところに須玖岡本遺跡もある。

席田群の遺跡案内図

弥生時代前期末から後期初頭の共同墓地で、カメ棺墓348基、土壙墓119基、石棺墓2基が見つかっている。103号カメ棺墓から右手にゴホウラ貝輪2個をつけた人骨が見つかり、30号カメ棺墓から滑石製丸玉1個が出土したが、97号カメ棺墓から人体に突き刺さった磨製石鏃の鋒先2個が出土している。村々の構成員が埋葬された共同墓地とみて差し支えなかろう。鏡を持たず、ゴホウラ貝輪2個をつけた人物は村長クラス程度の人物であったろうか。

席田郡も、地勢的にみて奴国と一体性の強い領域である。

奴国の北――志賀島

奴国の北方には、博多湾を隔てて志賀島(福岡市東区)がある。面積5.8平方キロの小さな島で、海人族・阿曇一族の拠点の島であった。

この島の帰属について、『和名抄』などによると糟屋郡に属し、中世・近世においては那珂郡に属し、明治13年にはふたたび糟屋郡に属した。

『魏志倭人伝』の「不弥国」について、糟屋郡の宇美あたりとみる説と穂波郡とみる説があるが、前説によれば志賀島は不弥国に属し、奴国から外れるとみる説もあり得る。

しかしながら、ワタツミ三神・住吉三神・警固三神がともにイザナギの禊によって生まれ、それらの神々がいずれも、博多湾に面した志賀海神社・住吉神社・警固神社に祭られたことからみて、奴国の領域に含まれることは明らかであろう。「漢委奴国王」の金印が志賀島から出土したこともそれを裏づける。その後、糟屋郡に編入されたのは、神功皇后を介して香椎宮との結びつきが強くなったことによるのであろう。香椎宮は『和名抄』では糟屋郡香椎郷とされているが、『日本書紀』では、

「儺県(なのあがた)に到りまして、因りて橿日宮に居(ま)します」

と、香椎が儺県に属していたように書かれている。

このことからみて、志賀島のみならず、宇美川・須恵川・多々良川が合流する河口部の名島や香椎あたりは、奴国に属した可能性も考えられよう。

奴国の南――御笠郡

奴国の南方には、御笠郡がある。大野城市(雑餉隈・栄町・錦町などを除く)・太宰府市・筑紫野市の領域とほぼ重なる。このうち、大野城市については、「地理的な特徴や考古資料から奴国と近しい関係と考えられる」とされ、「弥生中枢域の周縁部的な様相を示している」とされている(上田龍児『季刊邪馬台国』128号)。

ところで、御笠郡には、ある大きな特徴がある。

北部九州の玄界灘に面した地域と南方の筑紫平野を結ぶ平坦なルートが、地勢上この御笠郡にしか存在しないのである。便宜上これを「筑紫コリドー(走廊)」と呼ぼう。水城(大野城市)からに三国ヶ丘丘陵(小郡市)までの長さ約10キロ、幅2~3キロの区間である。

「筑紫コリドー」は、さらに太宰府市・筑紫野市・小郡市・鳥栖市を結ぶ「宝満川ルート」と、太宰府市・筑前町・朝倉市・日田市(豊後)を結ぶ「朝倉ルート」の二つに分岐する。

のちの時代、御笠郡に九州を統括する「大宰府」が置かれ、北からの侵入を防ぐために「水城」がつくられ、「大野城」や「基肄城」などが築かれたのも、御笠郡のこのような地勢に基づく。御笠郡を遮断すれば、北部九州の南北の交通がほとんど遮断される結果となる。

「宝満川ルート」は、福岡平野と筑紫平野――とりわけ肥前・佐賀平野を結ぶ重要な陸路のみならず、宝満川から筑後川を経て有明海に至る「海の道」でもある。

宝満川は三郡山の南斜面を水源とし、山家川や曽根田川などの支流を合わせ、筑紫野市、筑前町、小郡市、鳥栖市(佐賀県)、久留米市を経て筑後川に注ぎ込む全長31.7キロに及ぶ筑後川最長の支流である。

福岡県小郡市の津古は、山家川や曽根田川などの支流が宝満川と合流する河川交通上の要地にあり、地名の由来は、筑紫平野がまだ有明海と連なる入海であったころ「津」であったことによるという。津とは、船の泊まる港、または船の渡し場、という意味であり、津古は古代において筑前と筑後を結ぶ河川交通上の拠点であったにちがいない。

御笠郡からは、御笠川によって北の博多湾・玄界灘に通じ、宝満川によって南の筑後川・有明海に通じている。有明海は、さらに東シナ海と玄界灘に通じている。

御笠郡を抑えれば、陸のルートのみならず、海のルートも掌握することができる。

那珂川・御笠川流域を拠点とし、紀元前後の覇者となった奴国が、この地を放置するわけがない。いや、この地を抑えたからこそ、覇者となることができたであろう。これは、次の邪馬台国の時代にもいえる。御笠郡――すなわち、「筑紫コリドー」を制する者は、福岡平野と筑紫平野を制することができる。

戦いに敗れたムラ――永岡遺跡と隈・西小田遺跡

筑紫野市の「永岡遺跡」は、同市の「隈・西小田遺跡」とともに「戦いに敗れたムラ」と呼ばれている。いずれも弥生時代中期前半(紀元前2世紀)ごろの墓地遺跡で、奴国勃興の時代に重なる。

永岡遺跡から53体、隈・西小田遺跡からは429体の人骨が出土しているが、青銅器の切っ先が突き刺さっていたり、頭を割られていたり、首がなかったり、あるいは首だけだったりと、無残な「戦死者」が多いのが特徴である。宝満川右岸の脊振山・基山から延びた筑紫丘陵を舞台に、熾烈な戦いが繰り広げられていたことがわかる。

中橋孝博・九大教授(自然人類学)によると、隈・西小田遺跡と永岡遺跡のカメ棺のサイズから判断して、双方とも乳幼児をはじめとする未成年者の死亡率が高かった点は共通しているが、未成年者の占める割合は、隈・西小田の40~50%に対し、永岡は実に70%にも上るという。隈・西小田の平均寿命は25~30歳で、永岡の場合は10歳代前半にとどまり、これでは人口の維持すら困難という。永岡の方がより過酷な環境に置かれていた。 二つのムラは、この地の争奪戦に巻き込まれたのであろう。永岡遺跡は隈・西小田よりも約4キロメートル北にあり奴国に近い。

ちなみに、宝満川右岸のこの地には、筑紫神(白日別命)を祭神とする「筑紫神社」(筑紫野市原田字森本)が祭られている。このあたりが「筑紫」という名の発祥の地で、御笠郡の改称前の名は「筑紫郡」で、宝満川も「筑紫川」であった可能性すら考えられる。

この筑紫の勢力圏はやがて拡大していき、筑前と筑後を包含するほどに拡大し、ついには筑紫といえば九州の代名詞にもちいられるほどになった。

この筑紫と邪馬台国との間に、何らかの関係があるのではないかとみる推測も十分成り立つであろう。

朝倉ルート

次に、「筑紫コリドー」のうち、太宰府市・筑前町・朝倉市を結ぶ「朝倉ルート」である。

「朝倉郡」というのは明治以降の郡名で、古代の郡名では西から東に「夜須郡」「下座郡」「上座郡」となっている。北には大根地山・砥上岳・目配山・古処山・馬見山などの山々(朝倉山系)が連なり、その向こうの穂波郡や嘉麻郡など遠賀川流域(現在の筑豊地域)と隔てられている。南には九州最大の筑後川が東から西に流れ、浮羽郡や八女郡など筑後川南部地域と隔てられている。

朝倉山系からは多くの小河川が筑後川に流れ込み、古代人は南に延びた大小の丘陵地に集落をつくった。この構造は、基本的に脊振山南麓に広がる肥前の構造と類似しているが、奴国と御笠郡に視点を置いてみれば、「朝倉ルート」は進むにつれて内陸的な要素が高まり、「宝満川ルート」は海の要素――有明海の影響が大きくなってくる。

とはいえ、「朝倉ルート」は日田から豊後、さらには東九州および周防灘に通じており、巨視的にみれば、その広がりと可能性において「宝満川ルート」に決して劣ってはいない。

「朝倉ルート」で御笠郡から夜須郡(筑前町)に出るには、宝満山南麓から宮地岳(天山)を抜けて山家(やまえ)(筑紫野市)に出なければならない。

そこには、宝満川支流の山家川が流れている。水源の大根地山(おおねちやま)(筑紫野市・飯塚市)と砥上(とかみ)岳の間に冷水峠があり、穂波地方に通じているが、江戸時代に長崎街道として整備されて参勤交代などに利用されるようになったもので、それ以前は険しい難所として知られた山道であった。

東方の古処山と嘉麻地方を結ぶ秋月街道も状況はおなじで、要するに朝倉地方と遠賀川上流の穂波・嘉麻地方は、山地によってほとんど隔絶されている。『魏志倭人伝』に関して、魏の使者が遠賀川河口から上流にさかのぼって筑紫平野に入ったとする説、あるいは遠賀川の勢力が筑紫平野に進出して邪馬台国を打ち立てたなどとする説は、このような地勢をまったく考慮していないところに大きな欠陥がある。

夜須郡の東小田峯遺跡

夜須郡には、「東小田峯遺跡」(筑前町)がある。

砥上岳から延びたゆるやかな傾斜地の先端部にある。曽根田川と宝満川の合流地点に近い。

調査以前の形状は中央部が土まんじゅうのように小高くなっていて、周溝状のくぼみも観察できたというが、後代の耕作あるいは道路整備などにより、現在はほとんど平坦地となっている。

弥生時代前期から古墳時代にかけての大規模な集落跡で、出土遺物も、膨大な量にのぼっている。

昭和元年(1926)、「峯堂」前において、カメ棺墓から連弧文昭明鏡1面と鉄戈1口が出土し、9基のカメ棺墓が見つかり、翌年、九州帝国大学の中山平次郎によって『考古学雑誌』に報告された。

昭和39年(1964)年、土地所有者が地下げを行った際に遺物が出土し、県立朝倉高校史学部が部分的調査を実施した。その結果、小壷を副葬した弥生時代前期初頭の土壙墓が出土し、「沼尻遺跡」として報告された(『埋もれていた朝倉文化』『甘木市史』)。

そして、昭和60年(1985)度から3か年にわたって台地全域延べ3万平方メートルが調査された。

この調査により、弥生時代中期後半の457軒の住居跡や532基のカメ棺墓などが出土し、10号カメ棺から前漢鏡(連弧文清白鏡1面と連弧文日光鏡1面)、ガラス璧片円板2個、鉄剣、鉄戈、瀟子(しょうす・ピンセット)が出土した。357号カメ棺から出土した細形銅剣は朝倉地域で現在知られる最も古い時期の青銅武器といわれ、時期は弥生時代中期中ごろのものとされる。

10号カメ棺は、埋葬形態は覆い口式で、上甕は口縁を打ち欠き残存器高84.4センチ、下甕の器高105センチの大形品で、弥生時代中期後半代に比定されているが、その副葬品は,他を圧倒している。とりわけ、ガラス璧片円板2個は、中国では天子からの下賜品として珍重された璧を加工したものである。出土状況が不明な王の山(宮崎県串間市)の璧を除き、「王墓」とされる三雲遺跡(糸島市)、須玖岡本遺跡(春日市)の甕棺墓からも前漢鏡などとともに出土しており、前漢からもたらされたものとみられる。

峯遺跡出土のガラス璧片円板2個は、分割した一部を再利用したもので、周縁を研磨により仕上げ、中央に小孔を穿つ。ガラス質の状態は極めて良好で、裏面は鮮やかな深緑色を残している。蛍光X線分析の結果では、パリウムを含む鉛ガラスであることが確認されている。また、高濃度の銅が検出されたが、これは着色のために人為的に添加されたものと考えられている。

「玉」の出土は見られないが、ガラス璧片円板2個を玉とみなすならば、鏡と剣とともに「三種の神器」が揃うことになる。

東小田峯遺跡は、夜須郡のエリアを統括する王であったと断定してよろしかろう。前掲した王の序列では、飯塚の立岩遺跡の王に次ぐ第3位の序列とされている。

御笠郡の隈・西小田遺跡

東小田峯遺跡の西方約3キロ、宝満川をはさんで前述した「隈・西小田遺跡」(筑紫野市光が丘団地)がある。「宝満川ルート」に位置している。御笠郡と御原郡の境界付近に位置する。

発掘調査は1970~80年代、西鉄大牟田線沿線の小郡・筑紫野ニュータウン(光が丘団地)が建設に伴って実施されたが、遺跡は保存されず、現在は跡形もない。一部でも遺跡が保存されていたならば、国史跡指定は確実であったろうといわれている。カメ棺や青銅器など出土品の一部は、筑紫野市歴史博物館に展示保管されている。

標高35~48メートルの光が丘丘陵上にあり、その第13地点でカメ棺墓群が発見された。そして、24基のカメ棺群のなかの最頂部で、ひときわ大きな墓壙をもつ中期後半のカメ棺(23号)から、30代半ばとみられる男性の人骨とともに、前漢鏡(重圏昭明鏡)1面、鉄戈1口、鉄剣1口、ゴホウラ貝輪41個(右21、左20)が出土した。この地域を治める首長(王)といえよう。

▲隈・西小田地区遺跡第13地点
(光が丘団地)23号カメ棺
▲鉄戈(長さ39.5㎝)
鉄剣(長さ38㎝)
▲23号カメ棺に副葬されていた重圏昭明銘鏡。直径9.9㎝。 前漢代の宣帝(前73~)・元帝時代(~前33)に作られた鏡
▲ゴホウラ貝製腕輪
(長さ10.8㎝)

この発見に先立って、調査区第3地点では、戦死者を含む墓地遺跡が発見されている。前述したように、隈・西小田遺跡は北方の永岡遺跡とともに、「戦いに敗れたムラ」と呼ばれている。弥生時代中期前半ごろの遺跡で、想像たくましく考えれば、北方の奴国の侵攻を受けて戦いに敗れ、新たに赴任した王が23号カメ棺の主であったかもしれない。

御笠郡の二日市峯遺跡

隈・西小田遺跡の約6キロ西北に「二日市峯遺跡」(筑紫野市大字二日市)がある。水城の東南約3キロ、御笠郡の北部に位置し、奴国東南の大野城市に近接している。

安政4年(1857)に偶然にカメ棺が発見され、当時、二日市村の庄屋であった鹿島九平次がそのときの模様を、図面とともに書き残している(『鉾之記(ほこのき)』)。

それによると、棺内には前漢鏡(星雲文鏡)1面、中細形銅剣1本が副葬されており、棺内面には朱が塗られていた。残された図から、星雲文鏡の大きさは10.3センチ、銘文は不明で、現物は所在不明となっている。副葬品からみて、弥生時代中期後半の首長(王)とみられるが、その支配領域は、御笠郡南部の隈・西小田遺跡の首長(王)の存在からみて、御笠郡北部にとどまっていたとみるべきであろう。

律令時代、御笠郡には御笠・大野・次田・長崗という4つの郷があったが、奴国の時代には、少なくとも御笠郡北部(御笠・大野)を統括する首長(王)と御笠郡南部(次田・長崗)を統括する首長(王)が並立していたとみることもできよう。

東小田峯遺跡と隈・西小田遺跡との関係

問題は、隈・西小田遺跡と宝満川をはさんで位置する東小田峯遺跡との関係である。

宝満川をはさんでいるとはいえ、水量の少ない乾季には楽々と渡ることができる。敵対している者同士が、このような至近距離に位置するわけがない。隈・西小田を統括する王と夜須を統括する王の間には、何らかの親密な関係――親族関係や同盟関係などがあったとみるべきであろう。

「筑紫コリドー」のうち、「朝倉ルート」と「宝満川ルート」が境を接する宝満川の両岸には、戦略上の観点から、奴国にとってきわめて重要な人物が王として任命された可能性が高い。

下座郡の栗山遺跡

夜須郡の東に下座郡がある。朝倉市のうち旧甘木市および旧朝倉町西部からなる。

その中心地域は、「一ツ木・小田台地(福田台地)」である。北方の古処山などの山々を水源とする小石原川と佐田川にはさまれた舌状台地で、台地周縁部から多くの弥生時代の遺跡が発掘されている。

この地域で最も重要な遺跡は、邪馬台国時代と重なる平塚川添遺跡である。約17ヘクタールの範囲に、多重の環濠をめぐらし、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認され、中央部には内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」があり、住居のほか大型の掘立柱建物跡が建てられていた。土器のほか銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土している。

人口増加と農業の利便性のために、台地から広がった農業集落とみるべきであろう。

安本美典氏がいわれるごとく、一ツ木・小田台地が邪馬台国の都であったとすれば、台地上のいずれかの箇所にその遺跡があった可能性が高いが、市街化が進み、工場なども立地していることから、台地上の発掘が進まず、現段階では確定できない状況がつづいている。

これまでの調査によれば、奴国の時代の首長(王)墓とみられる遺跡は、栗山遺跡(朝倉市平塚)である。

明治17年(1884)の開墾時に石棺や合口カメ棺が発見され、径9.6センチの前漢鏡(連弧文昭明鏡)が出土し、大倉種教がその写図を残した。大正6年(1917)、中山平次郎が調査したが、大正14年(1925)に近隣の宅地から合口カメ棺3基と石蓋付カメ棺が見つかり、イモ貝輪22個が2連発見された。次いで、破壊されたカメ棺から鉄戈1本が見つかった。

イモ貝輪は、昭和37年(1962)の調査でも一連になった11個が出土している。ゴホウラ貝ではなく、イモ貝を用いており、左腕に装着されていたことから、被葬者は女性と考えられ、この地に女王を奉る風習があったことをしめしている。

また、昭和56年(1981)の甘木市による緊急調査によって、中期中葉のカメ棺内から女性人骨付着の平織絹布片が出土し、中期後半のカメ棺からは左手に装着したイモガイ貝輪などが出土した。 さらに、平成4年(1992)の調査によって、新たな墓群の中心部の5号カメ棺から、水銀朱・絹布などが出土した。

なお、明治17年(1884)に発見された前漢鏡の連弧文昭明鏡は、弥生時代の中期後半のカメ棺から見つかる前漢後半の楔形書体で刻まれている。現物は不明であったが、昭和55年、福岡市立歴史資料館に持ち込まれた山田正俊氏所蔵の漢鏡と大きさや文様、銘文がほとんど同一であったことから、栗山遺跡出土の鏡とほぼ断定された。

いずれにしても、栗山遺跡は下座郡を統括する王――しかも女王を埋葬した墓であり、夜須の東小田峯遺跡とは別個のクニが存在していたとみられる。

紀元前後の奴国の時代のクニは、せいぜい後世の郡レベルないしそれ以下の郷レベルで形成されており、それを合わせたものが「百余国」であるとすれば、奴国の時代における中国からみた倭国の範囲は、北部九州レベルにおさまる程度にすぎないといえよう。そして、その統合がさらに進み、30か国程度に収斂したのが邪馬台国の時代であるとすれば、これまた北部九州レベルにおさまってしまう。「百余国」と「三十余国」の関係は、邪馬台国九州説を補強する論拠の一つとなりえよう。

上座郡・日田郡

下座郡の東は上座郡である。朝倉市のうち、旧朝倉町と旧杷木町を中心とした地域である。この地にも首長(王)がいたはずであるが、いまのところ、それらしき遺跡は確認されていない。これまで山田地域や須川地域などから弥生・古墳時代の遺跡がかなり出土しているから、いずれ確認される時期が到来するにちがいない。

朝倉市山田から日田市まで、筑後川に沿って約20キロ。奴国文化圏の特徴であるカメ棺は、日田・玖珠地区が東限で水分峠は越えない。

日田の集落遺跡からは、伊都国の「今山遺跡」(福岡市西区)でつくられた石斧や遠賀川流域の「立岩遺跡」(飯塚市)の石包丁なども出土し、福岡地方のみならず、筑豊地域とも交流があったことがわかる。

首長(王)墓の候補は、日田市北部の吹上原台地にある「吹上遺跡」である。

平成7年(1995)度の調査で、弥生中期後半のカメ棺7基、木棺3基が見つかった。4号カメ棺からゴウフラ貝輪15個を装着した成人男子の人骨が出土し、5号カメ棺からはイモガイ貝輪17個を両手に付着した成人女性とみられる人骨が出土した。

この地にも、男性とともに女性を首長(王)に擁する風習があったわけである。『豊後国風土記』に記された久津媛や五馬媛の伝承との関連が注目される。

御原郡の小郡若山遺跡

ふたたび「宝満川ルート」である。

御笠郡の南には、脊振山系からせりだした三国丘陵(筑紫野市・小郡市・佐賀県基山町)がある。御原郡に属する。かつては30~40メートルの低丘陵が連なっていたが、宅地開発が進んでおり、地形が大きく変化している。

三国丘陵の谷や稜線の上には、津古内畑、津古、横隈狐塚、大板井、若山などの弥生前期から中期にかけての遺跡が密集している。

谷水を利用して、早い時期から水稲耕作がはじまり、弥生中期末・後期には宝満川下流域の平野部一帯――筑紫平野に広がっていった。

小郡市小郡字若山に「小郡若山遺跡」があり、この遺跡から多鈕細文鏡2面が出土している。集落内に掘られた直径40センチ弱の小さな穴から発見され、2面の鏡は重ねて置かれていた。

多鈕細文鏡は朝鮮半島で29個、日本では福岡、佐賀、山口で6面、大阪、奈良、長野で3面の、計9面が今まで出土している。この鏡は、紀元前2世紀ごろ朝鮮半島で製作され、日本列島にもたらされたものと考えられていたが、春日市の須玖タカウタ遺跡から鋳型が発見され、国内でも製造されていたことが明らかになった。

▲平成27年5月28日 毎日新聞 朝刊1面

九州・山口地域の出土地は、小郡若山遺跡のほか、佐賀県佐賀市の「本村籠(ほんそんごもり)遺跡」、佐賀県唐津市の「宇木汲田(うきくんでん)遺跡」、福岡市早良区の「吉武高木遺跡」、山口県下関市の「梶栗浜遺跡」である。

いずれも弥生時代前期に始期を認めることのできる遺跡で、カメ棺・木棺・石棺から出土している。奈良県御所市の名柄遺跡(ながらいせき)や大阪府柏原市の大県遺跡(おおあがたいせき)、長野県佐久市の社宮司遺跡(しゃぐうじいせき)から出土した多鈕細文鏡の由来はよくわからないが、いずれにしても朝鮮半島製かあるいは須玖岡本の工房などでつくられたものが伝来したものであろう。

小郡若山遺跡の多鈕細文鏡は、宝満川流域の三国丘陵の地に、紀元前2世紀のきわめて早い時期に首長(王)が登場したことをしめす遺物というべきであろう。

このことは、弥生初期の文化が、北の玄界灘沿岸部から「筑紫コリドー」を通じて、南の筑紫平野へ急速に広まったことをしめしている。

佐賀県東部の旧郡

基肄郡の安永田遺跡

「宝満川ルート」を抜けると筑紫平野が広がり、脊振山地東端の九千部山の南麓に柚比遺跡群(鳥栖市)があり、この地には奴国の春日丘陵に次ぐ青銅器生産拠点が形成されていた。律令時代は基肄郡に属する。

小郡若山遺跡から4キロ西方に位置する安永田遺跡(鳥栖市柚比町安永田)から、昭和54年(1979)に古式の銅鐸と銅矛の鋳型が出土し、谷底近くから炉の跡も見つかった。

銅鐸の文様からみて「邪視文(じゃしもん)の横帯文銅鐸」で、現在4個の類例がある。綾杉文で区画された横帯文と鳥が描かれる特徴から、伝島根県出土例に近似する。

銅矛鋳型の断片は3個で、そのうち49.3センチの一個(三片が接合)は、中細形とみられる。他の2個は、いずれも中広形銅矛である。砥石が多量に出土しており、使用済の砥石を再利用した可能性もあるとみられている。

谷頭を取り囲むようにして58軒の竪穴式住居跡も見つかり、このうち36軒が弥生時代中期の後半から末の紀元前後の奴国の時代の住居跡であった。

それまで北部九州地方には銅鐸はないと考えられていたので、考古学界に大きな衝撃をあたえた。この遺跡において、銅鐸と銅矛の鋳造が同時に、専業的に行われたことを示し、九州地方の「銅矛・銅剣文化圏」と、本州の「銅鐸文化圏」という、それまでの理解に抜本的な見直しを迫るものとなった。

発掘された鋳型で復元された銅鐸(鳥栖市教育委員会)
発掘された鋳型で復元された銅鐸
(鳥栖市教育委員会)
「邪視文」とは
〇邪視文福田型邪視文銅鐸
伝上足守出土銅鐸3区横帯文邪視文銅鐸岡山市足守178ミリ
福田木の宗山遺跡2区横帯文邪視文銅鐸広島市東区安芸町195ミリ
伝伯耆国出土銅鐸2区横帯文邪視文銅鐸鳥取市東町197ミリ
安永田遺跡2区横帯文邪視文銅鐸鋳型鳥栖市柚比町安永田200ミリ
吉野ヶ里遺跡2区横帯文邪視文銅鐸神埼郡吉野ヶ里町280ミリ
伝出雲出土銅鐸2区横帯文邪視文銅鐸島根県松江市宍道町22ミリ(残存)

養父郡の藤木遺跡と六の幡遺跡

安永田遺跡の南3.4キロにある「藤木遺跡」(鳥栖市藤木町)は、標高10~20メートルの低丘陵地の東南端に立地している。もと養父郡に属する。

この遺跡から、土坑2基・カメ棺墓5基、竪穴住居跡2軒、土壙墓4基などが出土し、このうち土壙墓から後漢鏡(四葉座連弧文鏡)1面が出土した。鏡は墓壙東隅の底面から完鏡を半分に割り、鏡面を上にして重ねた状態で発見された。鏡は面径13.2センチで、銘文はなく、紀元1世紀後半ごろに製作された鏡である。奴国の時代の後期の首長(王)の墓であることはまちがいないが、集落の規模や他の副葬品の状況からみれば、それほど序列は高くないようにおもえる。

藤木遺跡の西南6.4キロに「六の幡遺跡」(三養基郡みやき町大字白壁)は、脊振山南麓から伸びる丘陵の南東部付近に位置する遺跡で、平成2年に北茂安町教育委員会によって調査が行われた。これまた養父郡に属する

この遺跡からは、カメ棺墓43基、石棺墓5基、石蓋土壙墓2基、土壙墓3基が発見されている。29号カメ棺から前漢鏡(連弧文昭明鏡)1面が出土した。

二つに割れた状態で出土したが、欠損はなく完形品である。径は11・9センチ、外区には、朝倉市の栗山遺跡出土の連弧文昭明鏡とおなじく、前漢後半の楔形書体で、「内清之以昭明光而象夫日月心忽壅而不泄」と読める銘文が刻まれていた。

これまた、この地域の首長(王)墓とみなしていいであろう。

奴国の時代、養父郡には、東の藤木遺跡と西の六の幡遺跡の2か所にそれぞれ首長(王)が埋葬されていた。藤木遺跡の王は、大木川と安良川にはさまれた領域を統治し、六の幡遺跡の王は、安良川と寒水川にはさまれた領域を統治していたとみるのが自然な解釈であろう。

三根郡の二塚山遺跡

養父郡の西側――寒水川と西の田手川にはさまれた地域は、三根郡である。

『肥前国風土記』には、「むかしはこの郡と神埼郡とをあわせて一つの郡であった。ところが海部直鳥(あまべのあたいとり)が上司にお願いして三根の郡を分置した。すなわち、神埼郡の三根村をもとにして郡の名とした」とある。

海部が置かれたのは応神天皇時代であるから、おそらく神埼郡から三根郡が分かれたのは5世紀以降であろうが、地勢上この地に一つのクニがあっても決しておかしくない。

「二塚山遺跡」は、脊振山地南麓から佐賀平野の中央部へ長く延びた丘陵の一つ――二塚山のほぼ中央の標高40~50メートルの地にある。昭和50年(1975)2月から翌年7月までの調査で、カメ棺墓159基,土壙墓89基,石棺墓6基,埋葬祭祀跡8か所の遺構が,丘陵の背に沿って長さ140メートル,幅20メートルにわたってつづいている。

15号カメ棺と76号カメ棺から連弧文鏡2面が出土し、15号カメ棺の連弧文清白鏡(径15.9センチ)には「絜清白而事君宛法之翕明仍玄錫之流鐸恐疎而日志美之外承而毋絕」と銘文が刻まれ、76号カメ棺の連弧文昭明鏡には「内而青而以召明而光而象夫而日月而■」と銘文が刻まれていた。

このほか、17号土壙墓から小型彷製鏡の渦文帯内行花文鏡(径8.4センチ)が、29号土壙墓から後漢の波文帯細線式獣帯鏡(径14.3センチ)が、46号カメ棺からは韓国慶尚北道漁隠洞遺跡出土の鏡と同笵の蕨手状文渦文鏡(径5.7センチ)が出土した。

総計で5面の鏡の出土に加え、銅製鋤先や鉄矛、ガラス製管玉、ガラス製勾玉などが出土している。

前漢鏡(連弧文清白鏡)は、奴国の中枢的遺跡である須玖岡本遺跡(春日市)をはじめ、三雲南小路遺跡(糸島市)、立岩堀田遺跡(飯塚市)、東小田峯遺跡(筑前町)など、王墓クラスの墓から出土しており、多くの副葬品とあわせて考えると、二塚山遺跡は三根地域のクニの王墓とみていいであろう。

『肥前国風土記』の記事は、もともと三根郡と神埼郡とは別個のクニであったが、のちに統合され、再度分割されたとみれば矛盾はない。

神埼郡の三津永田遺跡

吉野ヶ里遺跡北方の三津永田遺跡(吉野ヶ里町三津字永田)は、弥生時代前期から後期にかけての墳墓群である。

昭和27年(1952)末、みかん園として開墾されたとき多くのカメ棺が出土し、その一つから人骨とともに前漢鏡(連弧文昭明鏡)が出土した。翌28年(1953)に水害が発生し、護岸工事のために丘陵地から土が採られた際に、多数のカメ棺が出土し、カメ棺内から人骨とともに鉄器や貝製腕輪・ガラス玉などが出土した。このため、日本考古学協会が主体となって、翌29年7月まで緊急発掘調査を実施し、100基以上のカメ棺と人骨・鏡・大刀・銅鏃・貝釧・鉄釧・管玉・小玉などが出土した。

104号から出土した「流雲文獣帯鏡」は、径14.3センチの完形品で保存状態もよく、白銅質の光沢を保っている。文様の表現や銘文から中国の新~後漢代の作と推定されている。また、「流雲文縁獣帯鏡」、「連弧文昭明鏡」、「細線式獣帯鏡」、「虺(き)龍文鏡」も出土している。

このうち、細線式獣帯鏡には「言之紀従鏡始 蒼龍在左 白虎在右 宜善賈 孫子」と銘文が刻まれ、とりわけ、連弧文昭明鏡には「一内而青而以而召而明而光而為而日」という銘文が刻まれている。

「虺(き)龍文鏡」は、昭和28年の調査で弥生時代後期初頭の115号カメ棺墓から出土した。径9.2センチで鏡面はやや反る。出土時に割れて鈕を欠失するが、銅質、鋳上がりとも良好な後漢鏡である。

104号カメ棺の合わせ目の粘土のなかから、鉄製素環頭大刀も出土した。切っ先の一部を欠いており、残存長は50.25センチ。刀身はやや内反りで、刀身部に鞘の木質が、茎には把巻の痕跡が残っている。

第104号カメ棺は「三津式」の標準資料とされ、弥生時代後期前半から中頃に位置づけられている。三津永田遺跡はすでに土取りによって消滅したが、これまた脊振山南麓を中心とした神埼郡北部の首長(王)墓と断定してよろしかろう。

神埼郡の吉野ケ里遺跡

その南方にある吉野ヶ里遺跡は、いうまでもなく、全国的に知られた国の特別史跡である。

1986年(昭和61)からの本格調査によって、弥生時代前期~中期前葉、中期前半~後期前半、後期前半~終末と三つの段階を経ながら、弥生時代を通じて存続・拡大をつづけた遺跡であることが確認された。

弥生時代前期に、丘陵南端部において集落の形成がはじまり、初期農業とともに、有明海の魚介類や脊振山の獣類を採取して暮らし、青銅器の鋳造も開始されていた。

弥生時代中期には、南部丘陵の20ヘクタールを越える大環濠集落へと発展し、居住区とは別に倉庫群がつくられ、丘陵北方に600メートルに及ぶ列状のカメ棺墓地が配置された。それぞれの墓群のなかには、周囲より高位とみられるカメ棺がまじっており、一定の身分差が生じていたことがわかる。

これらのいわば一般人の列状墓地群とは別に、首長(王)の専用の墓とみられる大規模な墳丘墓も形成され、平成元年・平成4年の2回にわたる調査で、14基のカメ棺墓が確認された。そのうち8基のカメ棺から把頭飾付き有柄細形銅剣や細形銅剣6本、中細形銅剣1本、青銅製把頭飾2点、ガラス製管玉79点が人骨とともに出土した。巻貝輪を両腕に多数つけた人骨も確認され、その周辺からは衣服の一部らしき絹布の細片も出土し、カメ棺の口縁部と石蓋の間の粘土目張りから、銅鏡も出土している。径7.4センチの前漢時代の連弧文昭明鏡で、背面には朱が付着していた。

弥生時代中期の奴国の時代に、吉野ヶ里丘陵を拠点とした首長(王)が存在していたことはまちがいない。

弥生時代後期には、さらに規模が拡大し、丘陵北部まで集落が拡大して40ヘクタールを越える規模に達する。

丘陵北部の北内郭は、首長(王)の居住と祭祀のための空間として整備され、南内郭は重臣たちの居住空間として整備され、また西方には高床倉庫群もつくられた。青銅器や鉄器・木器・絹や麻の織物などの生産及び流通基地として、まさに「弥生都市」とも呼べる拠点集落へと発展した。

奴国との関係および邪馬台国との関係において、吉野ヶ里遺跡は避けることのできない大きな存在である。

しかしながら、吉野ヶ里遺跡は発見当時にくらべて、全国的にやや過小に評価されている気配が感じられる一方で、九州では、やや過大に評価されているようにも感じられる。

春日丘陵の遺跡群は福岡都市圏のベッドタウンに位置しており、高度成長期に、ほとんど発掘調査も行われないまま住宅地として整備された地域である。御笠地域や小郡・鳥栖地域もほぼ同様である。工業団地や農地の基盤整備事業などによって破壊にさらされた遺跡も少なくない。もし、吉野ヶ里遺跡とおなじような状態で保存されていたならば、まったく異なった評価を受けたはずである。

そういう意味で、一部しか発掘できない現状のなかで、いかに全体像を追及するのか――このことが今後の考古学上の大きな課題といえよう。

飯塚の立岩遺跡

遠賀流域に属する穂波郡と嘉麻郡は、西方は三郡山や砥石山 など三郡山地にさえぎられ、南部は古処山や馬見山などの朝倉山系、東部は英彦山に連なる低い山々や丘陵地が連なり、北の鞍手郡との間にも笠置山や湯原山などの低い山々と丘陵地が連なる盆地のなかに位置している。

穂波郡から糟屋郡に抜ける八木山峠とショウケ越や、御笠郡・夜須郡に抜ける米ノ山峠と冷水峠、あるいは嘉麻郡から甘木朝倉に抜ける八丁越は、道路が整備されるまでは交通の難所として知られていた。

穂波川と遠賀川および穂波郡と嘉麻郡が合流する飯塚は、まさに内陸部と響灘・玄界灘を結ぶ河川交通の要衝の地である。

飯塚市の立岩丘陵上にある弥生時代の遺跡群で、昭和38年(1963)6月1日、ブルドーザーによって切り崩されている丘陵で、たまたま通りかかった若かりし高島忠平氏によってカメ棺が発見され、嘉穂高校、嘉穂東高校などの郷土部員による緊急調査がはじめられ、その後県教育委員会、九州大学なども加わって発掘調査が行われ、その後も調査がつづけられた。

その結果、立岩堀田28号カメ棺から小型前漢鏡(重圏昭明鏡)1面・素環頭鉄刀子1口・ガラス製玉など、34号カメ棺からは小型前漢鏡(連弧文日光鏡)1面・鉄戈1口・ゴホウラ貝輪14個など、35号カメ棺からは大型前漢鏡(連弧文清白鏡)1面・鉄剣1口・鉄戈1口、39号カメ棺からは小型前漢鏡(重圏久不相見鏡)1面・鉄剣1口などが出土した。

これらの前漢鏡は前漢後半の紀元前1世紀につくられたものである。したがって、この遺跡は、弥生時代中期後半の紀元前後ごろとみられる。

とりわけ、立岩10号カメ棺からは、前漢鏡6面(右側に連弧文日有喜鏡・重圏清白鏡・重圏清白鏡の3面と左側に連弧文日有喜鏡・連弧文清白鏡・重圏姚皎鏡の3面)が出土し、銅矛・鉄剣と碧玉製管玉などが副葬されていた。

立岩遺跡全体で前漢鏡10面の出土であり、ことに10号カメ棺から一括出土した前漢鏡6面は、奴国の須玖岡本遺跡の30余面と伊都国の三雲遺跡1号甕棺の35面に次ぐ量であり、奴国と極めて密接な関係をもった首長(王)が遠賀川流域の拠点的な場所にいたことをしめしている。

先に紹介したように、元福岡県教育委員会文化財保護課長の井上裕弘氏は、

「飯塚市立岩遺跡の王墓ともいわれる10号甕棺は、筑紫野市の二日市地域で製作された甕棺を、『王』の死にあたって特別に調達したものである」(『北部九州弥生・古墳社会の展開』梓書院)

と、二日市――御笠郡から山越えして甕棺が運ばれたと指摘し、立岩の王が奴国方面から派遣されていた可能性を強く示唆されている。

遠賀川流域と奴国の関係についは、飯塚市歴史資料館館長の嶋田光一氏も、立岩遺跡の周辺地域にもゴホウラ貝輪・イモガイ貝輪を装着しカメ棺に埋葬された首長(王)が存在していたことを明らかにされている。

カメ棺文化は、飯塚から下流の鞍手郡・遠賀郡方面および宗像地域には届いていない。飯塚地域のカメ棺文化は、その分布をみても、海からではなく、山越えルートで、西方の御笠郡ないし南方の朝倉郡方向からもたらされていることがわかる。

飯塚に鏡をあたえ、首長(王)と認めたのは、北部九州の盟主たる奴国の王であった。

伊都国の三雲南小路遺跡

三雲南小路遺跡は、文永5年(1822)、細石神社の裏の畑からおびただしい遺物が出土した。三苫清四郎という農長が自宅の土塀を築くため畑の土を掘ったところ、地下約1メートルのところから銅剣1本・銅戈2本が出てきた。その下からは朱の詰まった素焼きの小壺が出土し、さらにその下には口と口とを合わせた素焼きの大甕が横たわっていた。怡土の郡役所の役人たちの立ち会いでその大きなカメ棺(1号カメ棺)を掘り出すと、その中から前漢鏡35面、銅矛2本および勾玉・管玉・ガラス璧などの遺物が出てきた。その状況について、福岡藩の学者青柳種信は『柳園古器略考』のなかに詳細な記録を残した。

前漢鏡35面のうち26面以上が前漢の連弧文清白鏡で、重圏彩画鏡・雷文鏡がまじっており、しかも16~26センチ程度の大型鏡が多い。飯塚の立岩遺跡もおなじような傾向をしめしている。

昭和49年(1974)からの調査および平成12年(2000)の調査によって、2号カメ棺が発見され、方形周溝墓に1号カメ棺と新たに確認された2号カメ棺が「ハ」の字に配置されていたことがわかった。

そして、2号カメ棺には、前漢鏡22面以上、ヒスイ勾玉1個、ガラス勾玉12個、ガラス製ペンダント1個などが副葬されていた。銅剣や銅矛などの武器類がなかったところから、被葬者は女性で、時代的には紀元前1世紀後半ごろとみられている。

2号カメ棺から出土した鏡は、6~11センチ程度の小型鏡で、連弧文日光鏡が16面以上と大半を占めている。

時間的な順序でいえば、小型鏡を副葬した2号カメ棺よりも大型鏡を副葬した1号カメ棺が古いとみられている。

井原ヤリミゾ遺跡

三雲遺跡の発見に先立つこと約40年、天明年間(1781~89)に細石神社の南方100メートルの鑓溝から、やはりおびただしい遺物が発見されている。井原村の百姓次市が溝の水を田に引くために棒で突くと、穴が開いて朱が流れ出た。そこを掘ると1個の壺が埋まっており、その中から漢鏡21面、巴形銅器3個などが出土した。

このことについても、青柳種信は『柳園古器略考』のなかで、

「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより、朱流れ出たり。あやしみ堀りて見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり」

と記し、農民が保管していた鏡片27、巴形銅器2の拓本を残している。

拓本から復元された鏡18面は方格規矩四神鏡で、その多くが1世紀前半の「新」および「後漢」初期の製作と考えられている。むろん、墓の年代はこれらの鏡が海を越えて伊都国にもたらされるまでの期間を加えたものとなり、それはおおむね1世紀後半~2世紀初頭の間に収まると推定されている。

井原鑓溝王墓出土鏡一覧

奴国・伊都国・嘉麻の立岩遺跡

奴国の須玖岡本遺跡と伊都国の三雲南小路遺跡は、ほぼ同時代の王墓の遺跡とみることができようが、その副葬品からみる限り、まったく優劣はつけ難い。しかも、三雲南小路遺跡の1号墓から出土した金銅四葉座飾金具とガラス璧は、漢帝国から王として認知されたことを強く示唆している。

しかしながら、漢帝国から西暦57年に倭の盟主として認知されたのは、奴の国王であった。奴国の王が伊都国の王よりも上位に格付けされている。

すでに紹介したように、西南大学名誉教授の高倉洋彰氏は『金印国家群の時代』(青木書店)のなかで、というように、人口面での優位性などからみて、奴国が北部九州の国々の盟主であったとされる。

前述したように、奴国は南方の「筑紫コリドー」によって広大な筑紫平野のクニグニと直接つながっているが、伊都国は東西南部を山々にはばまれ、自由に往来できるのは北側の玄界灘のみである。地勢からみても、奴国がはるかに優位である。

いや、伊都国の王や嘉穂の立岩の王のみならず、他のクニグニの王もまた、奴国王の親族であった――いわゆる「封建制」を採用していた可能性が高い。

【まとめ】

最後に、飯塚市歴史博物館館長嶋田光一氏の『遠賀川流域と『奴国』の関係』(『季刊邪馬台国』130号・2016)を紹介して今回の稿を終えよう。

嶋田光一氏は、飯塚市の立岩遺跡の関係について、さまざまな観点から分析を進め、北部九州における奴国の優位性と「奴国連合」を想定されている。

以下は、嶋田光一氏の論考の要点をとりまとめたものである。

1. 石庖丁生産と「奴国」
  1. (1) 立岩遺跡北西5キロの笠置山の輝緑凝灰岩を用いた石庖丁が、弥生時代前期末に立岩遺跡の13の小集落で始まった。
  2. (2) 前期末~中期初頭の石庖丁に占める輝緑凝灰岩の割合
    前期末
    ~中期初頭
    中期前半中期後半全時期の出土量
    筑豊24%86%159点
    京築11%35%67%103点
    糟屋・宗像71%
    春日24%26%43点
    福岡5%39%76点
    筑紫野56%363点
    小郡14%58点
    朝倉50%
    鳥栖33%69%129点
    佐賀11%16%59点
    筑後7%54%49点
    宇佐100%
    島原55%
    • ※奴国の領域――筑紫野・福岡・春日などで最も流通している。
    • ※中期後半に各地に「国」が成立した段階から他の地域に比べて最大となる。
2、大型カメ甕と奴国
  1. (1) 遠賀川流域は大型カメ棺分布圏の周辺部
    1. ① 嘉麻・穂波川流域の嘉穂地方に多い。
      立岩堀田遺跡を除いて大型カメ棺の出土数は少ない。
    2. ② 中・下流域や英彦山川流域には基本的に分布しない。
    3. ③ 大型カメ棺は河口域の岡垣と英彦山川流域の糸田・旧方城・田川市上本町へ東に線上に点在する。
  2. (2) 嘉穂地方の弥生時代の墓制は、基本的に弥生時代前期には木棺墓あるいは土壙墓で、中期以降に大型カメ棺が導入され展開し、後期になると箱式石棺墓や石蓋土壙墓へ変化する。
  3. (3) 嘉穂地方の大型カメ棺の導入時期は弥生中期前半で、いずれも山麓に分布する。峠越えの搬入が想定される。赤色粒子を含むカメ棺は福岡・春日地域からの搬入品の可能性が高い。また一部は旧朝倉・甘木地域からの搬入品の可能性が高い。
  4. (4) 中期中ごろから後半にかけて最盛期を迎えるが、その分布は山麓から平野部へ大きく拡大する。そのころの立岩遺跡には副葬品を持つカメ棺は出現していない。
    カメ棺の分布は東へ延び、田川郡糸田町から方城町に達している。上糸田遺跡の中期後半の1号カメ棺は奴国の中心に近い工人集団が作製したとみられる「一の谷型カメ棺」である。糸田地域の中広銅戈などを埋納した祭祀遺跡は、その生産地である奴国との密接な関係を有している。
  5. (5) 中期後半の嘉穂地方に立岩10号カメ棺など複数の首長層が出現していることに、不弥国ともいえる国の原型が形成されていたと想定できる。糸田の青銅器やカメ棺は、奴国の強力な力が働いていたと想像できる。
3. 南海産貝輪の流入と奴国
  1. (1) 中期中ごろ、飯塚市のスダレ遺跡などでゴホウラ製諸岡型貝輪が副葬される。
  2. (2) 中期後半、貝輪の出土例は立岩丘陵に集中する。
    男性はゴホウラ貝、女性はイモ貝という男女の対照原理がみられる。
  3. (3) 中期末から後期初頭には遠賀川下流域の中間市まで立岩型貝輪が広がっている。
4. 前漢鏡の入手と奴国
  1. (1) 立岩遺跡10号カメ棺から総計10面の前漢鏡が出土している。この10面の前漢鏡は奴国王から立岩の大首長(王)に分与され、さらに下位の首長層に分配されたと想定できる。
  2. (2) 奴国王が立岩の大首長(王)をいかに重要視していたかが読み取れる。
5. 青銅器の流入と奴国
  1. (1) 立岩遺跡出土の青銅の矛は中細銅矛B類(岡崎氏分類)である。福岡県を中心に西は佐賀・長崎県に、南は熊本県に、東は広島・香川県など瀬戸内海沿岸まで分布している。この範囲は少なからず奴国の文化的影響が及んだ領域と考えられる
  2. (2) 春日市大谷遺跡から立岩遺跡の銅矛の関部に一致する鋳型が出土した。立岩遺跡の銅矛は大谷遺跡で製作された可能性が高く、奴国王から立岩の首長(王)に分与したと考えられる。中細銅矛B類は遠賀川下流の岡垣町でも見つかっている。
6、鉄器の製作と奴国
  1. (1) 立岩遺跡では戈・剣・矛・刀子・鉇・鏃の鉄器類のすべてがそろっている。
  2. (2)奴国の王から立岩の大首長(王)に技術や原材料となる前漢の鋳造鉄器などが供与されたと考えられる。
7. 立岩遺跡のガラス製品と奴国
  1. (1) 立岩遺跡28号カメ棺からガラス管玉553個・ガラス玉1個・塞状ガラス器5個が出土している。そのほか35号カメ棺の石蓋の目張り粘土中からガラス管玉30~40個、41号カメ棺からガラス管玉4個が出土している。
    遺跡弥生中期の勾玉クニ
    立岩遺跡飯塚市0
    須久岡本遺跡春日市大型ガラス勾玉1個・ガラス勾玉1個奴国
    安徳台遺跡那珂川市小型ガラス勾玉3個奴国
    三雲小路遺跡糸島市ガラス勾玉3個・中形ガラス勾玉12個伊都国
    遺跡弥生中期の管玉クニ
    立岩遺跡飯塚市553個
    須久岡本遺跡春日市13個以上奴国
    安徳台遺跡那珂川市334個
    月隈遺跡福岡市20個以上
    三雲小路遺跡糸島市553個伊都国
    吹上遺跡日田市480個以上
  2. (2) 奴国では勾玉をはじめとするガラス玉の生産が弥生中期後半からはじまったと推定されるが、鋳型は弥生後期に須玖五反田遺跡・井尻B遺跡などで出土している。
  3. (3) ガラス管玉(細形)は奴国隣接の首長と立岩や日田の遠隔地の友好関係にある首長に与えられたようである
  4. (4) 立岩には王のシンボルである勾玉はないが、塞杵状ガラス器と大量のガラス管玉がある。この2種類のガラス製品が出土しているのは、奴国と立岩だけであり、他の北部九州の国々に比べて奴国が立岩を重視していたことがわかる
8. 奴国連合
  1. (1) 弥生中期後半には、奴国から周辺国へ前漢鏡・ガラス製品の分与に見られるように奴国を中心とした「奴国連合」が成立していたと想定される
  2. (2) 西暦57年における金印「漢委奴国王」の後漢から奴国への下賜は、奴国の絶頂期であった。
  3. (3) 奴国連合は中国・後漢の権威を背景にさらに発展することになる。

著者紹介

  • 1947年(昭和22)年福岡県柳川市生まれ。
  • 九州大学法学部卒
  • 歴史作家、日本古代史ネットワーク副会長
  • 福岡県文化団体連合会顧問
  • ふくおかアジア文化塾代表
  • 立花壱岐研究会会員
  • 元『季刊邪馬台国』編纂委員長
  • 西日本新聞TNC文化サークル講師
  • 朝日カルチャーセンター講師
  • 大野城市山城塾講師
〈おもな著作〉
  • 『志は、天下~柳川藩最後の家老・立花壱岐~(全5巻) 』(1995年海鳥社)
  • 「小楠と立花壱岐」 (1998年『横井小楠のすべて』新人物往来社)
  • 『立花宗茂』 (1999年、西日本新聞社)
  • 『柳川城炎上~立花壱岐・もうひとつの維新史~』 (1999年角川書店)
  • 『西日本古代紀行~神功皇后風土記~』 (2001年西日本新聞社)
  • 『筑後争乱記~蒲池一族の興亡~』 (2003年海鳥社)
  • 『九州を制覇した大王~景行天皇巡幸記~』 (2006年海鳥社)
  • 『天を翔けた男~西海の豪商・石本平兵衛~』 (2007年11月梓書院)
  • 「北部九州における神功皇后伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』97号、98号)
  • 「九州における景行天皇伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』99号)
  • 「『季刊邪馬台国』100号への軌跡」 (2008年、『季刊邪馬台国』100号)
  • 「小楠と立花壱岐」 (2009年11月、『別冊環・横井小楠』藤原書店)
  • 『龍王の海~国姓爺・鄭成功~』 (2010年3月海鳥社)
  • 「小楠の後継者、立花壱岐」 (2011年1月、『環』藤原書店)
  • 『天草の豪商石本平兵衛』 (2012年8月藤原書店)
  • 『神功皇后の謎を解く~伝承地探訪録~』 (2013年12月原書房)
  • 『景行天皇と日本武尊~列島を制覇した大王~』 (2014年6月原書房)
  • 『法顕の旅・ブッダへの道』 (『季刊邪馬台国』に連載)
(テレビ・ラジオ出演)
  • 平成31年1月NHK「日本人のおなまえっ! 金栗の由来・ルーツ」
  • 平成28年よりRKBラジオ「古代の福岡を歩く」レギュラー出演

第3号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. シリーズ・吉備の古代史① 二人の天皇が行幸された谷……石合六郎
  3. 記紀に隠された史実を探る=聖徳太子時代編……飯田眞理
  4. 現実的視点からの「邪馬台国」論~日本古代史研究への問題提議~……秋月耀
  5. 奴国の時代② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡……河村哲夫
  6. 奴国の時代③ 北部九州のクニグニ……河村哲夫