最終更新日:2021/06/29

季刊「古代史ネット」第3号(2021年6月)

勒島遺跡(泗川市)から出土した弥生式土器
勒島遺跡(泗川市)から出土した弥生式土器

季刊『古代史ネット』編纂委員会編
発行 日本古代史ネットワーク
発行受託 ふくおかアジア文化塾


第3号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. シリーズ・吉備の古代史① 二人の天皇が行幸された谷……石合六郎
  3. 記紀に隠された史実を探る=聖徳太子時代編……飯田眞理
  4. 現実的視点からの「邪馬台国」論~日本古代史研究への問題提議~……秋月耀
  5. 奴国の時代② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡……河村哲夫
  6. 奴国の時代③ 北部九州のクニグニ……河村哲夫

巻頭言~日本書紀ルネッサンスを願う~

河村哲夫

『日本書紀』と『魏志倭人伝』

あまり知られていないが、720年に編纂された『日本書紀』には、『魏志倭人伝』の一部が引用されている。世界最古の引用文である。

日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)より

比較すると、次のとおりである。

『魏志倭人伝』『日本書紀』
景初二年(238年)六月 明帝の景初三年(239年)六月
倭の女王 倭の女王
大夫の難升米(なしめ) 大夫の難斗米(なとめ)
(帯方郡)太守劉夏(りゅうか) (帯方郡)太守鄧夏(とうか)
正始元年(240年) 正始元年(240年)
建忠校尉梯儁(ていしゅん) 建忠校尉梯携(ていけい)
正始四年(243年) 正始四年(243年)
大夫の伊声耆(いしぎ)と掖邪狗(ややこ) 大夫の伊声者と掖耶
壱与 倭の女王

両者にはいろいろと食い違いがあるが、卑弥呼が魏に使者を派遣した年については、『日本書紀』の「景初三年(239)」とみるのが通説的な見解とされていることは衆知のとおりである。

魏の重臣であった司馬懿(仲達)が、遼東の地で自立し燕王と称していた公孫淵を滅ぼし、朝鮮半島北部を魏の支配下におさめたのが景初二年 (238)で、洛陽に凱旋したのが景初三年(239)という流れとも符合する。公孫淵の滅亡によって、卑弥呼が魏へ使者を派遣することが可能となったとみればわかりやすい。

『日本書紀』と晋の「起居注」

さらには、『日本書紀』は、晋の「起居注」も引用している。「起居注」とは、皇帝の起居・言動を記した側近による日常の記録である。

『晋書』『日本書紀』
武帝紀 晋の「起居注」
泰始二年(266年)一月乙卯、倭人来りて方物を献ず。 晋の武帝の泰初二年(266年)十月に倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ。
四夷伝
泰始、初めて使いを遣わし、訳を重ねて入貢す。

265年司馬炎(武帝)は、魏の曹奐から禅譲という形で西晋の初代皇帝に就いたが、卑弥呼の後継者の壱与(台与)は、その翌年の266年に洛陽に使者を派遣している。

卑弥呼も壱与(台与)も、中国の政治情勢を的確に把握して行動しているようにみえるが、それはともかく、日本側が晋の「起居注」を入手していることが注目される。

このことについては、『日本国見在書目録』に記録がある。寛平3年(891)ごろに藤原佐世によって作られた漢籍の分類目録で、そのなかに『晋起居注三十巻』とある。

『魏志倭人伝』『晋起居』とも、その原本はすでに失われているが、遣唐使などによって日本にもたらされていたことがわかる。

太宰府天満宮に伝えられた『翰苑(かんえん)』

張楚金が書き、雍公叡が注を付した唐時代の書である。子ども向けに書かれた類書(百科事典)で、巻数については諸説あるが、30巻とみるのがほぼ定説となっている。中国では散逸した書として知られていた。

ところが、その一部、『翰苑』第三十巻目の「蕃夷部」が、日本で発見されたのである。

大正6年(1917)、東京帝国大学の黒板勝美が太宰府天満宮宝物調査の際に発見し、大正11年(1922)に内藤湖南の解説をつけて京都帝国大学から景印出版された。そして、昭和29年(1954)国宝に指定され、昭和52年(1977)に菅原道真没後1075年記念事業として、東京大学の竹内理三によって釈文・訓読文が付けられて刊行された。

そのなかに倭国伝が収録されている。

誤字や脱文が多く、慎重な姿勢が求められるが、魚豢の『魏略』など、失われた文献を多数引用し、また現存する文献とも異なった内容を伝えているため、やはり大きな史料価値を有している。

これまた、前掲の『日本国見在書目録』のなかに記録されていることから、遣唐使などによって日本に持ち込まれたことは確実である。

太宰府本『翰苑』もまた、邪馬台国論の解明について大きな手掛かりをあたえてくれる。

たとえば、『魏志倭人伝』には、女王国の傍国(周辺諸国)の一国として「斯馬国」が列挙されているが、『翰苑』では「伊都に届(いた)り、傍ら、斯馬に連なる」とあるから、糸島市の旧怡土郡が「伊都国」で、隣接した海側の志摩郡が「斯馬国」であることがわかる。邪馬台国に関する数多くの問題のうち、小さな一歩ではあるが、邪馬台国九州説を補強する大きな一歩であることに変わりない。

『日本書紀』と『三国史記』

『三国史記』は、朝鮮最古の史書である。高麗時代に金富軾が撰したとされる。紀元前後の馬韓・弁韓・辰韓時代から筆を起こし、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書である。1145年ごろ成立したとされるが、実は720年に成立した『日本書紀』のなかには、朝鮮関係の記事が多数収録されている。

いや、成立年代からいえば、『日本書紀』がはるかに古い。『三国史記』に対応した地名・人名・事件なども記され、いまは失われた『百済本記』なども引用されており、古い時代の朝鮮語も記されている。朝鮮史の研究のために欠くことができない第一級の史料が『日本書紀』なのである。

『日本書紀』と『三国遺事』

13世紀後半、高麗時代に僧一然によって書かれた私撰の史書とされ、『三国史記』に次ぐ古文献である。ただし、出所不明の古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくないとされるが、朝鮮半島の歴史史料が極めて乏しいこともあって、『三国史記』とともに朝鮮史の基本文献として珍重されている。とりわけ、『三国史記』にはあまり記されていない駕洛(加羅)諸国の歴史について、失われた『駕洛国記』を引用するなど、独自の情報を伝えている。

しかしながら、『日本書紀』には、神功皇后紀などに駕洛(加羅)諸国がしばしば登場し、「任那日本府」が置かれていたことなどが記されている。日韓での微妙な問題をはらむため、この問題に関する研究は膠着状態に陥っているようにみえるが、『日本書紀』の本質にかかわる問題でもある。広開土王の碑文とも関係する。

『日本書紀』は、日韓の歴史認識に対する、現代的な問題をはらんでいるといえよう。

『日本書紀』の有用性

中国の『三国志』・朝鮮の『三国史記』は、いずれも中国の伝統的な暦法――十干十二支で記されている。『三国史記』は、高句麗・百済・新羅の三国時代の暦年はかなり正確に記されているとみられているが、『日本書紀』の暦年については、あまり信用できないというのが一般的な見方である。たとえば、神武天皇が即位したのは紀元前660年とされるが、古典的な年代でいえば縄文時代にあたり、百歳を超える天皇も数多く、古い時代に大きく引き伸ばされていることは明らかである。

このことなどをもって、古い時代の天皇を抹殺し、『日本書紀』を懐疑的にみる説が戦後の多数説を占めるようになったが、事はそれほど簡単なものではない。たとえば『日本書紀』の記事を120年ほど後ろに動かせば、『三国史記』の記事と符合する場合がある。

三国史記 日本書紀 +120年 備 考
百済の近肖古王死去 375年 255年 375年
百済の近仇主王即位 375年 256年 376年 日本書紀は踰年即位
百済の枕流王即位 384年 264年 384年
百済の阿莘王死去 405年 285年(阿花王) 405年

上記はほんの一例であるが、このような作業をもとに『日本書紀』の年代補正を行えば、歴史上の「定点」あるいは「基準点」が浮かび上がってくるであろう。

あれやこれやと、『日本書紀』の記事を抹殺して喜んでいる場合ではないのである。

『日本書紀』の天文学的分析(A)――元嘉暦と儀鳳暦

日本には、中国で用いられていた暦が伝わった。元嘉暦(げんかれき)という中国南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法である。中国では元嘉22年(445)から天監8年(509)までの65年間用いられた。19年間に7閏月を置き、1太陽年を365.2467日)、1朔望月を29.530585日とした。

元嘉暦が日本に伝わった正確な時期は不明であるが、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した稲荷山鉄剣銘の「辛亥年」が471年とみられることから、5世紀半ば過ぎごろ伝来したとみられる。「倭の五王」のうち――おそらく允恭天皇の時代であろう。

次に伝わったのが、儀鳳暦(ぎほうれき)である。唐時代の天文学者・李淳風が編纂した暦法で、定朔法を用いている。定朔とは、太陰太陽暦における月の始めの日(1日・朔日)を決めるための計算方法の一つで、太陽と月の運行の不均等性を考慮し、本当に朔を含む日を1日とする方法である。中国では麟徳2年(665)から開元16年(728)までの73年間用いられた。

唐の儀鳳年間(676~679)に日本に伝わったために、「儀鳳暦」と呼ばれた。

儀鳳暦は持統天皇4年(690)から元嘉暦と併用され(『日本書紀』持統4年11月条)、5年後の文武天皇元年(697)から単独で用いられ、その後67年間使用された。

元嘉暦と儀鳳暦の使用年代表

『日本書紀』の言語学的分析(B)――正調漢文の「α群」と倭習漢文の「β群」

京都産業大学教授の森博達氏の『日本書紀の謎を解く』(中央公論社・1999)によると、『日本書紀』30巻に用いられた漢字の音韻や語法は、唐時代の正調漢文で書かれた「α群」と漢文の誤用など倭習がまじった「β群」に区分できるという。

天文学的分析(A)と言語学的分析(B)を合わせた結果は次のとおり。

『国立天文台報』第十一巻3・4号(2008.10)「七世紀の日本天文学」より

これらの結果から、次のことが読み取れる。

  1. (1) 儀鳳暦と元嘉暦の境界が十三巻までのβ群と十四巻以降のα群との境界とほぼ一致する。
  2. (2)『日本書紀』は、古い時代に新しい儀鳳暦を使い、新しい時代に古い元嘉暦を使っている。
  3. (3)「β群・α群」と「儀鳳暦・元嘉暦」との間には、何らかの強い相関関係がある。

『日本書紀』には、中臣連大嶋(なかとみのむらじおおしま)との平群臣子首(へぐりのおみこびと)の二人が執筆したと書かれているが、森博達氏は中国人の続守言と薩弘格がα群を書き、β群については山田史御方(やまだのふひとみかた)などの日本人が書いたとされる。

天文学者による解釈

この問題について、『国立天文台報』第十一巻3・4号(2008.10)に、「七世紀の日本天文学」という画期的な論文が掲載された。国立天文台の谷川清隆氏と相馬充氏による共同執筆である。

この論文は、『日本書紀』の言語学的分析――α群とβ群とともに、『日本書紀』の天文学的分析――元嘉暦と儀鳳暦について考察しつつ、「天体観察」という側面に重点を置いて論を進められている。

そのなかで、日食や彗星などの『日本書紀』の全天文記録31個について、個別に吟味されている。下表は、谷川清隆氏と相馬充氏の結論を要約したものである。

観測記録 説  明
二十四 皇極 𝛼  2 α群には30年にわたって、観測されたと思われる記録がひとつもない。また、日食記録がひとつもない。
3個の記録も実測されたものではない。
二十五 孝徳 𝛼  0
二十六 斉明 𝛼  0
二十七 天智 𝛼  0
小計  3
二十二 推古 β  2 推古天皇のとき天体観測がはじまった。聖徳太子の中国との外交方針と関係があるのではないか。
→冊封体制からの離脱・独立
β群の21個の記録のうち、10個が観測に基づいている。残りの11個の記録が観測に基づいていると推論するのは自然である。
β群の時代、観測が行われていたと結論できる。
二十三 舒明 β  7
二十七 天武上 β  12
二十九 天武 β
小計  21
三十 持統  7 持統期には突然、日食観測をやめてしまった。
自前の暦を作ることをあきらめた。→冊封体制への復帰
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一巻から十三巻までのβ群は新式の儀鳳暦に基づいて記し、推古・舒明・天武期のβ群は旧式の元嘉暦を用いつつ、天体観測に基づいて記している。

α群とβ群の違いは、中国人と日本人との違いではなくて、現代でいえば文科系と理科系の違いのようにもおもえる。

β群の書き手は暦による記録がない古い時代に、『日本書紀』編纂当時使われた新しい暦――儀鳳暦を自在に操って、記事を書いている。

そして、推古・舒明・天武期のβ群には、実際の観測結果から得られた日食などの記事を挿入している。暦と天文学に詳しい理科系的な人物である。

それにひきかえ、α群の書き手は、手元にあったとみられる元嘉暦に基づく記録をもとに書き進めながらも、天体観測に基づく巻については、あえてβ群の書き手にゆだねているようにおもわれる。α群の書き手は、唐時代の中国語には精通していたものの、暦や天文学がやや苦手な文科系的な人物なのであったろう。

前述したように、『日本書紀』は、中臣連大嶋と平群臣子首の二人が執筆したと書いている。二人とも、中臣氏と平群氏の系図で確認できる。

中臣氏・平群氏系図

近藤敏喬著『古代豪族系図集覧』(東京堂出版)より

中臣連大嶋(なかとみのむらじおおしま)

中臣一族の中臣連大嶋は、天武・持統朝で内政・外交の両面で活躍した人物である。

天武天皇12年(683)に、伊勢王らととともに、判官・録史・工匠などを率いて全国を巡行し、諸国の境界区分を行ったという。また、朱鳥元年(686)正月新羅使・金智祥を饗応するため、川内王らとともに筑紫に遣わされ、持統天皇元年(687)8月持統天皇の命令を受けて、300名の高僧を飛鳥寺に招集し、天武天皇の衣服で縫製した袈裟を与えている。690年持統天皇の即位の儀に際しては、神祇伯として天神寿詞(あまつかみのよごと)を読み、その翌年の大嘗祭でも天神寿詞を読んでいる。

しかしながら、その没年について、『日本書紀』持統天皇7年(693)3月11日の「直大弐葛原朝臣大嶋に賻物(はぶりもの・朝廷から喪主への葬祭料)賜ふ」という記事をもとに、この日に死去したとする説が有力とされている(竹内理三・山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』吉川弘文館・1977)。

このことを裏付けるものもある。

奈良県桜井市多武峯(とうのみね)に中臣鎌足を祭る「談山(たんざん)神社」がある。社伝によると、中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678)、長男で藤原不比等の兄でもある僧の定恵(じょうえ)が唐から帰国した後、父の墓を摂津国安威(阿武山古墳)から大和国に移し、その墓の上に十三重塔を造立したという。

その談山神社の北東山中に、粟原寺(おうばらでら)跡(桜井市粟原)がある。国の史跡に指定されている。その地から銅製の「三重塔伏鉢(ふくばち)」が出土した。「伏鉢」とは、三重塔などの最上部の「相輪(そうりん)」の部材の一つである。国宝に指定され、所有者の談山神社から奈良国立博物館に寄託されている。

伏鉢には、15行の銘文が刻まれていた。

談山神社出土伏鉢の銘文

「この粟原寺は仲臣朝臣大嶋が謹んで飛鳥浄御原宮にて天下を治められた天皇(天武天皇)時代の東宮(草壁皇子)のために伽藍の造営を誓願し、この故に比賣朝臣額田が甲午年の持統天皇8年(694)に起工し、和銅8年(715年)に伽藍に金堂と丈六の釈迦像を造り、和銅8年(715年)4月に三重塔が完成した」というような意味である。

比賣朝臣額田の素性は不明であるが、額田王とする説もある。それはさておき、『日本書紀』とこの銘文から次のことがわかる。

  • 689年 草壁皇子死去(『日本書紀』)
  • 693年 中臣連大嶋死去(『日本書紀』)
  • 694年 比賣朝臣額田起工(銘文)
  • 715年 三重塔完成(銘文)

やはり、『日本書紀』どおり693年に中臣連大嶋は死去しているようである。

しかしながら、693年に中臣連大嶋が死去したとすれば、それはそれで新たな疑問が生じる。『日本書紀』成立(720年)の27年前に死去した人物が、はたして『日本書紀』の執筆者として名を留められるであろうか。

それは、その後の経緯をみればわかる。693年の中臣連大嶋死去から720年の『日本書紀』完成までの約30年間――藤原宮遷都(694)、持統天皇から文武天皇への譲位(697)、大宝律令の完成(701)、平城京遷都(710)など、新しい国づくり向けた動きが、大規模・集中的に続いている。

『日本書紀』に基づく限り、681年の国史編纂の詔勅から693年の中臣連大嶋死去までの12年間に、『日本書紀』の第1巻から第29巻までが、ほぼ完成していたとみるしかない。

α群の執筆者

第13巻から第29巻までの正調漢文α群を担当したのは中臣連大嶋であろう。

中臣一族は、遣唐使の派遣に積極的に協力し、中国にきわめて精通していた。

そもそも、中臣鎌足の長子の定恵(じょうえ)は、白雉4年( 653)の第二次遣唐使に加わり、そのとき中臣渠毎日連(こめのむらじ)の子の安達(あんだち)もその一員として加わっている。

『続日本紀』霊亀2年(726)によれば、中臣連大嶋の息子の馬養(うまかい)も遣唐副使として派遣されている。

一族の中臣名代(なしろ)もまた、天平4年(732)の第10次遣唐使の副使として中国に渡っている。

しかも、中臣連大嶋は行政・外交全般に通じている。暦・天文学はやや苦手であったろうが、唐時代の正調漢文を書くにふさわしい人的環境を持っている。

しかしながら、彼は693年に死去してしまった。最終巻の持統天皇については、大宝2年(703)の崩御ののちにはじめて『日本書紀』への編入が決定されたはずであるから、中臣連大嶋が書けるはずもない。

そのあとを継いだのが、和銅7年 (714)に国史編纂に加わった紀清人と三宅藤麻呂なのであろう。

平群臣子首(へぐりのおみこびと)

『日本書紀』は、平群臣子首をもう一人の執筆者としている。

平群といえば武内宿禰の末裔氏族で、初代の平群木菟宿禰(へぐりつくのすくね)は 『日本書紀』によると、仁徳天皇とは同日に生まれたという。

朝鮮半島にもしばしば渡り、外交・軍事・内政面で活躍した人物である。

雄略天皇時代以降、木菟の子の真鳥(まとり)が大臣となったが、仁賢天皇の崩後、真鳥は専横を極め、国政をほしいままにしたことから、498年、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は粛清された。

したがって、平群臣子首の時代は、いわば没落貴族に落ちぶれていたころである。

にもかかわらず、『日本書紀』の執筆者に抜擢されている。

大胆に推測すれば、平群臣子首こそが第1巻から第13巻までのβ群および第22巻~第23巻、第28巻~第29巻のβ群の書き手であったろう。

暦と天文学に関する並々ならぬ知識と能力こそが、『日本書紀』の執筆者に抜擢された大きな理由であったにちがいない。あまり社交性もなく、内向的で地道な研究肌であったかもしれない。生没年もその略歴もまったく不明なのは、そのような人物像を暗喩している。

紀朝臣清人(?~753)

紀朝臣清人は贈太政大臣諸人の兄で、光仁天皇の母橡姫(とちひめ)の伯父にあたる。

714年国史撰修を命じられたとき従六位上であったが、翌年には一挙に3階昇進して従五位下に任じられ、714年と717年7月の二度にわたり、教育功労者として穀百斛を賜与されている。漢文学や史書などに秀で、天平13年 (741)7月には、治部大輔兼文章博士に任じられている。天平勝宝5年 (753)7月死去。時に従四位下。

このように、紀朝臣清人は漢文に精通した人物であった。

紀氏系図

三宅臣藤麻呂(?~?)

生没年・経歴ともまったく不明である。国史編修を命じられたとき、正八下であったという(『続日本紀』)。名は勝麻呂ともいう(『日本紀略』、『類聚国史』)。

この人物もまた、平群臣子首のように影の薄い印象を受けるが、紀朝臣清人と共同して、最終巻の持統天皇紀をとりまとめたのであろう。平群臣子首とおなじく、暦に堪能な人物であったかもしれない。

以上、『日本書紀』天武10年(681)の「大嶋・子首、親(みづか)ら筆を執りて、以て録す」という記事と、『続日本紀』和銅年(714)の「紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に国史を撰ばしむ」という記事をもとに、若干の推測をまじえながら論を進めてみた。

森博達氏のように、『日本書紀』から出発しながら、最後に『日本書紀』の記事を否定して執筆者を中国人とすることはしない。

日本書紀 執筆者 備 考
1巻~13巻(允恭) β 儀鳳 平群臣子首 年代不詳~453年
13巻(安康)~21巻(用明・崇峻) 𝛼 元嘉 中臣連大嶋 454~592年が対象
22巻(推古)~23巻(舒明) β 元嘉 平群臣子首 593~641年が対象
天文観測開始
24巻(皇極)~27巻(天智) 𝛼 元嘉 中臣連大嶋 642~672年が対象
天文観測なし
28巻(天武上)~29巻(天武下) β 元嘉 平群臣子首 673~686年が対象
天文観測再開
※681国史編纂の詔
30巻(持統) 元嘉
儀鳳
紀朝臣清人
三宅臣藤麻呂
690~697年が対象
天文観測やめる
※693年中臣連大嶋死去

日本書紀ルネッサンスを願う

日本の古代史の解明にあたっては、国史たる『日本書紀』を基本にすべきである。

『日本書紀』の記事を否定するには、客観的・合理的な根拠が必要である。決して、恣意的・主観的な読み替えを行ってはならない。

くわえて、日本には、『日本書紀』のほか、多くの貴重な文献も存在している。

むろん、これ以外にもさまざまな日本の文献・史料が残されており、『日本書紀』を基本に、これらの文献と比較対照しながら、歴史的事実を探求してこそ、日本の歴史は明らかになるであろう。

日 本 中 国 朝 鮮
『日本書紀』 720年成立、30巻
原本は失われ、9世紀以降の写本が残存。
『三国志』
  • 280~297年ごろ陳寿によって書かれた。
  • 裴松之の註は372~451年ごろ
  • 陳寿が記した原本は存在しない。
  • 最初に刊行された北宋咸平五年(1002)本も現存しない。
  • 現存する最古の版本は宋の紹興年間(1131~62)の「紹興本」とされる。
    紹煕年間(1190~94)の「紹煕本」が最も目にする『三国志』である。
『三国史記』
  • 金富軾によって1145年ごろ成立。
『古事記』 712年成立、3巻
『風土記』 733年ごろ
『懐風藻』 751年ごろ 『三国遺事』
  • 僧一然によって1270~1280年ごろ書かれた。
『養老律令』 757年
『藤氏家伝』 760~762年ごろ
『万葉集』 奈良時代末ごろ
『高橋氏文』 789年ごろ
『続日本紀』 797年
『古語拾遺』 807年
『新撰姓氏録』 825年
『日本霊異記』 奈良~平安初期
『先代旧事本紀』 824~834年ごろ

いずれ述べることになろうが、地名や伝承、神社の社伝、氏族の家伝・系図などのなかにも、『日本書紀』を補完する多くの歴史的情報が隠されている。

戦後75年――「考古栄えて、記紀滅ぶ」といわれて久しいが、「日本書紀ルネッサンス」のため、皆さま方からの多くの寄稿を、日本古代史ネットワークとして、あらためて心よりお願い申し上げたい。