最終更新日:2021/03/25
季刊「古代史ネット」第2号
特集「水行十日陸行一月」をめぐって
私の「邪馬台国」試論~魏志倭人伝より「邪馬台国」を読み解く
愛川順一
1.はじめに
いつの時代でもよかった。
人の意見を聞いて勉強するだけでなく自分で考える。自分の意見が言えるのは「古代史」だけ。
2.「魏志倭人伝」は当時の中国人は読めた。
- ①「三国志」は国書である
- ②「陳寿」の人物像
- ③「魏志倭人伝」の信憑性
- ㋑ 嘘説
当時魏国は、呉国と戦闘状態にあり、倭国の位置を特定されないようにわざと嘘の地理を記した。
倭国への出張者が、上司への報告に、わざわざ長い距離を行き来したように告げた。
- ㋺ 伝聞説
倭国への出張者は、現地まで赴いておらず、倭人の言うままを書き記した。
- ㋩ 書き間違い、写し間違い説
本書の中には、同じ意味でも異なる字が記されており、書き間違えたか、写し間違えた。
- ㋥ 読み間違い説
「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」である。「邪馬壱国」と読むべきである。
- ㋭ 距離、方向、日数の間違い説
「南」は「東」の間違い。「水行二十日」は十日の間違い、「陸行一月」は一日の間違い等々。
- ㋬ 認識の間違い説
倭国は南に長い国だ。会稽の東に位置する。(混彊理歴代国都図)等々。
- ㋑ 嘘説
3.「魏志倭人伝」の原文
- 倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 舊百余国 漢時有朝見者 今使譯所通三十国。
- 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸「狗耶韓国」、七千余里。
- 始度一海、千余里至「対馬国」。方可四百余里。有千余戸。
- 又南渡一海。千余里、名日瀚海。至「一大国」。方可三百余里。有三千許家。
- 又渡一海千余里至「末盧国」。有四千余戸。
- 東南陸行五百里、到「伊都国」。有千余戸。世有王。皆統属女王国。郡使往来常所駐。
- 東南至「奴国」百里。有二萬余戸。
- 東行至「不彌国」百里。有千余家。
- 南至「投馬国」。水行二十日。可五万萬戸。
- 南至「邪馬台国」。女王之所都。水行十日陸行一月。可七萬余戸。
- 自女王国以北、其戸敷・道理、得略戴、其余旁国遠絶、不可得詳。
4.「倭人伝」の中の字句の解釈
①「従」と「自」の違い (~よりの意味、出発点を示す)
漢字 | 従 | 自 |
---|---|---|
条項 | b. 従郡至倭 | n. 自郡至女王国萬二千余里 |
漢字の 意味 |
付き従う、逆らわず言いなりになる、 いろんなところに立ち寄る | みずから、起点を表す、それから。出発点から目標地点へ到着する時に使う |
使い方 | 郡より(従り) | 郡より(自り)出発して女王国へ至るには出発点という意思を表している |
②「至」と「到」の違い (経由地と到着点)
漢字 | 至 | 到 |
---|---|---|
条項 |
b. 従郡至倭 c. 千余里至「対馬国」方可四百余里 d. 千余里至「一大国」方可三百余里 e. 千余里至「末盧国」 g. 東南至 「奴国」 h. 東行至 「不彌国」 i. 南至 「投馬国」 j. 南至 「邪馬台国」 |
b. 到其北岸「狗耶韓国」 f. 東南陸行五百里到「伊都国」 |
漢字の 意味 |
ぎりぎりのところまで行き着く(必至) この上ない(至極) 太陽の回起点に達した日(夏至、冬至) |
ある時間、時点になる(深夜に到る) 広い範囲に及ぶ(九州一円に到る) 自分の方へやってくる(到来) |
使い方 |
通過地点、経由地点、 途中立ち寄る |
旅の目標地点(到着) 「狗耶韓国」と「伊都国」のみに使われており、倭に入る前に「狗耶韓国」で旅装を整え、「伊都国」が目標地点であったことが窺い知れる |
③「度」と「渡」の違い
漢字 | 度 | 渡 |
---|---|---|
条項 | c. 始度一海 千余里「対馬国」(又一海千余里至「末盧国」とあり之には「度」も「渡」もない |
d. 又南渡・・・「一大国」 e. 又渡一海千余里至「末盧国」 |
漢字の 意味 |
物差し、目盛(尺度、温度、鮮度) 法、掟(制度、法度、度外視) 様子、態様(態度) |
わたる、移動する |
使い方 |
渡る意味ではあるが、「度」には起点として推し量る意味が込められている b. 狗耶韓国が拠点として扱われている |
単に渡る意味で使われる |
④方角の後ろに「行」の有り無し
漢字 | 行 | (「行」「度」「渡」の漢字記載なし) |
---|---|---|
条項 |
f. 東南陸行五百里 到「伊都国」 h. 東行至「不彌国」百里 |
g. 東南至「奴国」百里 i. 南至「投馬国」水行二十日 j. 南至「邪馬台国」水行十日陸行一月 |
漢字の 意味 |
「不彌国」へは行かなかった? 「至」を使っているのは、その後に行くところがあるという意図 |
「行」の字がない理由がある。 「奴国」「投馬国」「邪馬台国」ともに大国である。 行く方角や手法が多数あるため、方法を特定できない |
⑤「戸数」表記の違い
漢字 | 戸 | 家 |
---|---|---|
条項 |
c.「対馬国」有千余戸 e.「末盧国」有四千余戸 f.「伊都国」有千余戸 g.「奴国」 有二万余戸 i.「投馬国」可五万余戸 j.「邪馬台国」可七万余戸 |
d.「一大国」有三千許家 h.「不彌国」有千余家 |
漢字の 意味 |
扉(片開きの扉、両開きは門) 家、(律令制で行政上、社会組織の単位とされた家。普通は2~4人の小家族を含む 20~30人の大家族 漢書地理志では平均5~7人 許」については、「ばかり」の意味であるが、「余」は超えるときに使い、「許」は、少ないという意味を含んでいる |
人間が居住する建物(家屋) 同じ家屋に居住する血縁関係を基礎とする(家族、家制度) そのことに従事している人(芸術家) そうした性向が強い人(情熱家) |
⑥「有」と「可」の違い (前述の「戸」と「家」の欄に同じ)
漢字 | 有 | 可 |
---|---|---|
条項 |
c.「対馬国」有千余戸 d.「一大国」有三千許家 e.「末盧国」有四千余戸 f.「伊都国」有千余戸 g.「奴国」 有二万余戸 h.「不彌国」有千余家 |
i.「投馬国」 可五万余戸 j.「邪馬台国」 可七万余戸 |
漢字の 意味 |
存在すること(無から有を生じる) 持つこと(所有) |
良い(可否)(不可)、よろしいと認める(可決) 出来る、成しうる(可能)(可燃性) するがよい、それに値する(可憐)(可及的) (この場合「押しなべて」の意味で使いたい) |
「投馬国」と「邪馬台国」のみ「可」の字が使われているのは連合国として大国であり総数の意味でつかわれている |
⑦ 方角、里程、国名の記載順の違い
記載順 | 方角、里程、国名 | 方角、国名、里程 |
---|---|---|
条項 |
c. 始度一海 千余里至「対馬国」 d. 南渡一海 千余里至「一大国」 e. 一海 千余里至「末盧国」 f. 東南陸行 五百里到「伊都国」 |
b. 乍南乍東「狗耶韓国」七千余里 g. 東南至 「奴国」百里 i. 南至「投馬国」水行二十日 j. 南至「邪馬台国」水行十日陸行一月 |
「投馬国」と「邪馬台国」のみが、日数で表記されているのは訳がある。 連合国として大国であるが故行く場所によって、方法や方角、距離が変わるため、大まかに日数で表記する筆法である。 |
5.「魏志倭人伝」の解釈
- 「帯方郡」から「伊都国」へ
伊都国へ滞在
- 海上「千余里」は一日の航海距離
帯方郡→狗耶韓国→対馬国→一大国→末盧国
- 「水行十日」がまずありき(図1)
- 「国」と「邑」の存在
- 近隣諸国との人口比較
「三国志」では
「扶余」 戸八万 (方可二千里) 「高句麗」 戸三万 (方可二千里) 「東沃沮」 戸五千 (西南長可千里) 「濊」 戸二万 (朝鮮の東) 「韓」 総十万余戸 (方可四千里) 但し馬韓55国、弁韓12国、辰韓12国を含む 「漢書 地理志」では
「玄菟郡」 四万五千戸 (221、000人) 「楽浪郡」 六万三千戸 (407、000人) - 「邪馬台国」は連合国家
邪馬台国」や「投馬国」を前述の{韓}と同じように連合国家と想定してみると、「邪馬台国」は7万戸とあるので、その内訳は
「対馬国」 1千余戸 「一大国」 3千許戸 「末盧国」 4千余戸 「伊都国」 1千余戸 「不彌国」 1千余家 「奴国」 20千余戸 「その他21国」 40千余戸 (「対馬国」から「不彌国」までの5国、1万戸の平均値の2千戸を、残り21国にかけた数) 「邪馬台国」(連合国)計 7万戸 「投馬国」(連合国) 5万戸 「邪馬台国同盟国」計 12万余戸 (周旋5千里)(図1) 「韓」 10万戸 (方4千里)(比較しても妥当) 「邪馬台国」と「投馬国」が連合国だというのはどこに書いてあるのかというと、他の国の表記のが「距離、国名」の順で表しているのに対し、この二つの国(「邪馬台国」、「投馬国」)だけが「方角、国名、日数」と記載方法が変わっている。これは、この二つの国が、国の中に国(邑)を抱えた連合国家であるために、国土が広く、そこのどこに行くかも含めて、行く場所、行く方角、行く方法の種類がたくさんあり、普通の国のように、「方角(の後に)里数」を期しただけでは表現しきれず、筆法を改めて、国名の後に、距離ではなく、大きさ(巡邏する)をあらわす「日数」を加えて表現したものと思われる。
且つ又、戸数の前に「可」(押しなべての意味)が記されているのは、国の中に存在するすべての「邑」を含めた総数を表しているからである。
これは「韓」が馬韓(55国)、弁韓(12国)、辰韓(12国)のそれぞれを含めて、方四千里、総十万余戸と記された筆法に相当するものである。
- 「邪馬台国」と「女王国」
魏志倭人伝に「邪馬台国」の文字は、「南到邪馬台国 女王之所都。水行十日陸行一月 可七万余戸」の一回しか出てきません。(日本に着いたら)その後は
「皆統属 女王国」、「次有 奴国 此女王境界所儘」、 「自女王国 以北 特置一大率」、「女王国 東渡海 千余里 復有国 皆倭種」
等皆「女王国」で表現されている。「邪馬台国」の中に「女王国」があったのは、文意からも明らかであるが、「邪馬台国」の傍国として記された21国の名の中に「女王国」は特定されていない。それではなぜ「邪馬台国」は忽然と姿を消したのか?
- 「女王国」の場所
- (a) 「帯方郡」から「女王国」へは、「自郡至女王国 万二千余里」とある。「帯方郡」より「伊都国」までの直線距離は、万五百余里であるから、それを差し引くと「伊都国」から「女王国」の距離は、千五百里未満となる。
-
(b) 一方、「参問倭地・・・周旋可五千余里」とあるので、「倭地」を四角形とすれば一辺が千二百五十里ほどの土地であることが判明する。四角形の頂点から、もう一方の頂点までの対角線は一辺の √2 であるから、1250√2 は約 1750 と言う事になる。
これを短里 70~90 m で換算すれば、(a)は 100~140 km、(b)は 125 km~150 km となる。この近似値は、偶然でなく、この範囲内に「女王国」が存在することを示している。(図2)
- 「邪馬台国」と「投馬国」への日数は?
- 「水行10日」と「陸行一月」の正体
- 連合国家「邪馬台国」(陸国家)と「投馬国」(海域国家)の国境
- 「倭地」と「倭種」(図3)
6.他の史料による倭人関連の記事
- 「山海経」(第12 海内北経)
- 「論衡」 「選者 王充(27~97年)」
- 「漢書 地理志」 「選者 班固 (32~92年)」
- 「後漢書」 「選者 范曄(398~445)」(但し漢書の成立は三国志よりも新しい)
- 「宋書 倭国伝」 「選者 沈約(441~513年)」
- 「隋書」 「魏徴(580~643年)、長孫無忌( ~659年)」
- 「旧唐書」 「劉昫(887~946年)」
- 「新唐書」 「欧陽脩(1007~1072年)」
7.まとめ
- 「帯方郡」から「邪馬台国」までの距離は萬二千里である。
- 「帯方郡」から「伊都国」までの距離は萬五百余里である。
「伊都国」から「邪馬台国」までの距離は、萬二千里から萬五百余里を差し引いた、千五百里未満。直線で千五百里未満の距離は、「周旋可五千里」の地図の概念と一致する。 - 出発地は「帯方郡」であり、特定がない場合は、距離や日数の基準は「帯方郡」からとなる。
- 「帯方郡」から「末盧国」(倭国の本土)までの日数は「水行十日」。
- 女王に従う「倭国」とは「邪馬台国連合国」21国プラス6国(対馬、一大、末盧、伊都、奴、不彌)と「投馬国」である。これを「邪馬台国同盟国」とみる。
- 「邪馬台国」と「投馬国」の日数は、それぞれが連合国家である故、其の国を巡邏する旅程。故に、「邪馬台国」の「水行十日、陸行一月」は、「帯方郡」から「末盧国」までの、「水行十日」を差し引いた「陸行一月」であり、同様に「投馬国」の「水行二十日」とは「水行十日で国を巡邏する旅程である。
- 当時の近隣諸国との人口構成からみて、大きさ、人口、国家形態が「邪馬台国」を連合国家。
- 女王国の境は第2の「奴国」であり、南は「狗奴国」と接しており、戦闘状態にある。
- 東の海を渡って、千余里(以東)の所にも国があり、それも倭人である。
- 後の中国の史料では、畿内の大和王朝は「日本」と名乗っており、筑紫城に居た倭奴国の後裔。
- 中国の他の史料と突き合せて読むことによって、3世紀以前の邪馬台国は倭国であり、空白の4世紀以降は日本と名前を変えており、近畿に拠点を置く大和朝廷となっている事が窺える。
8.さいごに
釣り糸の縺れをほぐすために、無理やり引っ張ったり、穴をくぐらせて、却って難しくする事にもなりかねません。大きな観点と、大きな流れを把握しつつ、常識的判断で考える事が必要だと思います。


「韓」 | 南は倭と接す。方四千里可。凡 50 余国。「総 10 万余戸」 |
「邪馬台国」 |
使譯の通じるところ 30 国 郡より「女王国」に至るまで「万二千余里」 周旋五千余里 |
出典 | 三国志「韓」「倭人」伝 |

① | 「帯方郡」~「邪馬台国」まで | 12000 | 里(水行十日陸行一月) |
「帯方郡」~「狗邪韓国」まで | 7000 | 余里(水行十日) | |
合計(水行十日) | |||
「末盧国」~「伊都国」 | 500 | 里 | |
ここまでの計 | 10500 | 里 | |
残り | 1500 | 里弱(105~135 km) | |
② | 周旋五千里を四角形とすると一辺の距離は 1250 里 一辺 1250 里の四角形の対角線の長さは 1250 × √2= 1760 里(120~150 km) |
||
③ | この二つの近似値は偶然ではない。 |




隋書 | 「東西五月行、南北三月行」 |
旧唐書 |
「倭国」 倭国は古の倭の奴国なり。京師を去ること1万4千里、東西五月行南北三月行 「日本」 日本は旧は小国なれど倭国の地を併せたり。 |
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