最終更新日:2022/01/08
季刊「古代史ネット」第5号
邪馬台国の時代 ① ~卑弥呼の登場~
河村 哲夫
桓霊の間
後漢十一代皇帝の桓帝(在位 147~167)と十二代皇帝の霊帝(在位 168~189)といえば、「倭国大乱」を想起される読者が多かろう。
『後漢書』には、
「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごもあい攻伐して歴年主なし」
と書かれている。
桓帝は、先帝の質帝(在位 145~146)が梁冀(りょうき)により毒殺された後、梁冀と妹の梁太后によって、いわば傀儡として擁立された皇帝である。
したがって、即位後も梁冀の専横がつづき、桓帝は梁冀の妹の梁女瑩(りょうじょえい)を皇后に押しつけられた。隠忍自重していた桓帝であったが、宦官の単超を使って、梁冀の屋敷を急襲し、一族すべてを粛清した。
桓帝は、論功行賞として単超はじめ宦官を優遇した。この結果、宦官の勢力が増大した。ちなみに、この時権勢を誇った宦官のなかに、のちに魏の祖となった曹操の祖父曹騰もいた。
桓帝は 167 年に崩じたが、子を残さなかった。このため、桓帝の 3 番目の皇后竇(とう)氏と 大将軍の竇武、太尉の陳蕃などによって、桓帝に近い皇族のなかから 13 歳の霊帝が擁立された。
しかしながら、朝廷内での宦官の勢力はますます増大していく。それに不満を抱く外戚・豪族勢力は宦官を「濁流」とさげすみ、みずからを「清流」と称して対抗したが、宦官勢力の優位が決定的となったのが霊帝の時代であった。
宦官たちに実権を奪われた霊帝は、宮殿内で商人のまねをして遊んだり、酒と女に溺れて暮らした。民衆に重い賦役が課され、民心は後漢王朝から離れた。
中平元(184)年に「黄巾の乱」が勃発し、中平五(189)年、国内が乱れるなかで霊帝は崩じ た。
後継者を定めていなかったため、子の劉弁と劉協との間で皇位継承争いが生じた。後漢の衰退に拍車をかけ、軍閥が台頭し、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が覇権を争う激動の三国時代へと突入していった。
いずれにせよ、このような大動乱を招いた桓帝と霊帝は、後世において、暗愚な皇帝の代名詞とされた。
倭国大乱
『魏志倭人伝』は、卑弥呼が共立される経緯について、次のように記している。
「その国は、もとまた男子をもって王となす。とどまること七、八十年、倭国乱れて攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」
すなわち、「倭国大乱」を鎮めるため、卑弥呼が共立されたとしている。
「倭国大乱」について記した中国の文献は次のとおり。
- 『後漢書』
- ・・「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごもあい攻伐して歴年主なし」
- 『晋書』
- ・・「漢末、倭人乱れ」
- 『梁書』
- ・・「漢の光和中、倭国乱れ、あい攻伐して年を経る」
- 『隋書』
- ・・「桓霊の間其の国大いに乱れ、逓たがいに相攻伐」
- 『北史』
- ・・「霊帝光和中、其の国乱れ、逓に相攻伐」
- 『太平御覧』
- ・・「霊帝光和中」
前述のとおり、「桓霊の間」とは、後漢の桓帝が即位した 146 年から霊帝が崩じた 189 年までの間である。
しかしながら、 『梁書』『北史』『太平御覧』は、「光和」年間と記している。
光和は、霊帝の治世に行われた 3 番目の元号で、178 年から 184 年までの期間である。
これを図示すれば、次のとおりとなる。
これらのことからみて、「倭国大乱」は 178 年から 184 年の間に勃発し、卑弥呼が女王に共立されたことにより収束した。178 年と 184 年の中間を取れば、卑弥呼は 180 年ごろ邪馬台国の女王に即位したことになる。
ずっと先のほうでも述べることになるが、卑弥呼は 247 年ごろ死去している。
247 - 180 = 67 年在位したことになる。後継者とおなじく 13 歳で女王になったとしても、80 歳前後で死去したことになる。当時の平均寿命はせいぜい 40 歳前後であろうから、異常な長命である。
しかしながら、「桓霊の間」と「光和年間」を最初の手がかりに推論を進めていくと、このような結論にならざるを得ない。
はるか古代のことを考えはじ めると、たちまち霧が立ち込め、常にあいまいさが湧き出でてくる。これが邪馬台国論に立ちはだかる最大の難敵である。
倭国大乱の当事者
「奴国の時代」で述べたように、邪馬台国以前の北部九州のクニグニの盟主は奴国であった。
奴国の時代は 、紀元前 2 世紀から倭国大乱が勃発する西暦 170 年代までの 300 年近く続いた。邪馬台国の時代は、西暦 180 年ごろから 270 年ごろまでの 90 年程度に過ぎない。奴国は、邪馬台国よりもはるかに長く北部九州のリーダーとして君臨しつづけた。
奴国の時代、倭人の活動領域は九州北部から朝鮮半島南部に及び、さらには中国へ使者を派遣して金印を授与された。「辰韓―加羅―奴国」という海を介した倭人連合を形成していた可能性も高い。
北部九州から出土するヒスイや碧玉の勾玉などからみて、出雲など日本海方面との海を介した交流も進んでおり、ゴホウラ貝やイモ貝などからみて、はるか南西諸島方面との海の交流もあった。
当然のことながら、倭国大乱の一方の当事者は、奴国である。そして、もう一方の当事者が邪馬台国である。
奴国という旧勢力と邪馬台国という新勢力との 覇権争い―――これが倭国大乱の実相である。奴国からスタートする限り、これは必然である。そしてまた、邪馬台国が奴国の近隣に存在しなければならないという結論――も必然である。
そして、邪馬台国が勝利し、卑弥呼が「共立」された。
邪馬台国はどこにあったのか。卑弥呼とは何者か。
邪馬台国の所在地
『魏志倭人伝』には、奴国は 2 万戸、邪馬台国は 7 万戸と書かれている。5 人家族とみれば、奴国は 10 万人、邪馬台国は 35 万人程度の規模ということになる。
奴国の近隣に 3.5 倍の規模を有する平野は存在するのか。存在するどころではない。
奴国のすぐ南に、九州一の大河・筑後川とともに、九州最大の平野・筑紫平野が広がっている。
しかも、すでに述べたとおり、福岡平野からは狭いながらも、平坦地で結ばれている(筑紫コリドー)。
下表は、福岡平野と筑紫平野の比較である。福岡県側の筑後平野と佐賀県側の 白石平野を除く佐賀平野を合わせた 筑紫平野の面積は福岡平野の約 5 倍となっている。もちろん、弥生時代においては、筑後川の氾濫地域は現在よりもはるかに広く、また後世の有明海の干拓などによって可住地域が大きく増大したことなども考慮すれば、邪馬台国時代の筑紫平野の面積は福岡平野の 34 倍と戸数比程度になる可能性もあるが、いずれにせよ、筑紫平野は福岡平野にくらべて圧倒的に広い面積を有している。
古代人が見逃すはずはない。すでに紹介したように、紀元前後の奴国の時代においても、筑紫平野各地に古代人の痕跡が数多く残され、王墓とおぼしき遺跡も確認されている。この筑紫平野の一角に、邪馬台国の拠点があったことは、だれしも容易に推測できることである。
領域 | 面積 | ||
---|---|---|---|
福岡 平野 |
那珂川・御笠川流域を中心とした地域。福岡市・大野城市・春日市・太宰府市・筑紫野市・那珂川市 | 約 230 ㎢ | |
筑紫平野 | 筑後平野 | 福岡県側の筑後川北の平野(両筑平野)及び南の平野(南筑平野)。朝倉市など旧朝倉郡・筑前町など旧夜須郡・小郡市など旧御原郡・うきは市など旧浮羽郡、久留米市など旧御井郡・大川市など旧三潴郡・柳川市など旧山門郡、大牟田市など旧三池郡・八女市など旧八女郡 | 約 600 ㎢ |
佐賀平野 | 佐賀県側の筑後川西の佐賀市など旧佐嘉郡を中心とし、牛津川(多久市・小城市など)以東の県南部・東部にかけて広がる平野。基山町など旧基肄郡・鳥栖市やみやき町など旧養父郡と三根郡・神埼町など旧神崎郡 | 約 600 ㎢ | |
計 | 約 1,200 ㎢ |
卑弥呼の共立
卑弥呼が擁立された経緯について、『魏志倭人伝』には、
「倭国乱れて、相攻伐すること年を歴(へ)たり。すなわち、共に一女子を立てて王と為せり。名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」
とある。
奴国と新興の筑紫平野の勢力の戦い――倭国大乱は数年に及んだ。勝敗の結果は書かれていないが、奴国が敗れたのはまちがいなかろう。
しかしながら、戦いの結果、関係のクニグニによって共立されたのは、腕力とは無関係のかよわい独身の女性である。何らかの政治決着が行われた可能性が高い。「共立」という語に、その可能性が見え隠れする。
卑弥呼が選ばれた理由は、その血統にあったのではないかとみている。
すでに述べたように、奴国は封建制を採用していたふしがある。立岩の王(飯塚市)と伊都国の三雲南小路(糸島市)の王は、奴の国王と密接な血縁関係を有している可能性が高い。宝満川を挟んで至近距離に位置する東小田峯(朝倉郡筑前町)と隈・西小田(筑紫野市)の王についても、血縁関係を有した可能性が高い。
いや、下手すると、北部九州に勃興したクニグニの王たちは、何らかの形で盟主たる奴国の王族と血縁があった可能性すら考えられよう。彼らは、こぞって前漢鏡や銅剣、玉などを墓に埋納している。奴国に分与されたであろう王のシンボルが、子に世襲相続されることなく、死んだ王とともに埋納されている。
『後漢書』倭人伝にも、
「倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国々は皆が王を称し、代々その家系が続いている」
北部九州のクニグニの王は、その血統を守りつづけている。
その血統こそが、王たちの権威の源であった。
- 1. 三雲南小路遺跡(糸島市)
- 2. 須玖岡本遺跡(春日市)
- 3. 安徳台遺跡(那珂川町)
- 4. 吉武樋渡遺跡(福岡市西区)
- 5. 立岩遺跡(飯塚市)
- 6. 二日市峯遺跡(筑紫野市)
- 7. 隈・西小田遺跡(筑紫野市)
- 8. 東小田峯遺跡(筑前町)
- 9. 栗山遺跡(朝倉市)
- 10. 吹上遺跡(日田市)
- 11. 小郡若山遺跡(小郡市)
- 12. 藤木遺跡(鳥栖市)
- 13. 六の幡遺跡(みやき町)
- 14. 二塚山遺跡(吉野ヶ里町)
- 15. 三津永田遺跡(吉野ヶ里町)
- 16. 田島遺跡(唐津市)
- 17. 吉野ケ里遺跡(吉野ヶ里町)
奴国の 時代の 支配体制が、奴国の王を中心に、血縁的なネットワークで結ばれていたとすると、倭国大乱 についても、同族間の勢力争い、ないしは本家と分家との争いという側面についての考察が必要になってくる。
新興の邪馬台国勢力の指導者たちのすべて、ないし大多数が、奴の国王と血縁関係にあったらどうなるのか。
そして、その血縁関係の根源に、奴国の太祖ともでもいうべき天御中主命との血統が存在していたらどうなるのか。
クニグニの王の権威が、後漢から金印を授与された天御中主命との血統に由来していたとするならば、奴国の滅亡――というより奴国王家の滅亡は、クニグニの王の権威の基盤をも喪失させてしまうであろう。
天御中主命の系譜
「奴国の時代」でも述べたとおり、卑弥呼ないし天照大神は、天御中主命の血を引く奴国出身の王女とみている。奴国王族のひとりとして、クニの祭祀に仕える巫女的な女性――彼女を奉戴すれば、クニグニの王の権威は保たれる。天御中主命からイザナギまでの奴の国王の血筋を引いた女性であれば、海を越えた朝鮮半島・中国との関係も従来どおり維持できる。
ちなみに、「奴国の時代」において述べた神代の系譜について、再度、復習をかねて述べてみよう。
『古事記』と『先代旧事本紀』の比較分析から、あるべき古代の系譜は次のようになることをしめした。
天御中主命を始祖とする「天つ神」の系譜は、国常立命からイザナギまでの「神世七代」に継承される。そして、イザナギから天照大神に継承され、その血統は神武天皇につながる。これが本流である。
- ① 天御中主命からはじまる天つ神
- ② 国常立命からはじまりイザナギで終わる神世七代
- ③ 天照大神
- ④ 神武天皇
そして、本流のすべての過程を経た末裔のみが天皇になることができる。
天御中主命 | イザナギ | (高皇産霊尊) | 天照大神 | 神武天皇 | |
---|---|---|---|---|---|
天皇家 | ○ | ○ | × | ○ | ○ |
尾張氏 | ○ | ○ | × | ○ | × |
物部氏 | ○ | ○ | × | ○ | × |
出雲氏 | ○ | ○ | × | ○ | × |
宗像氏 | ○ | ○ | × | ○ | × |
阿曇氏 | ○ | ○ | × | × | × |
中臣氏 | ○ | × | × | × | × |
大伴氏 | ○ | × | ○ | × | × |
宇佐氏 | ○ | × | ○ | × | × |
忌部氏 | ○ | × | ○ | × | × |
尾張氏・物部氏・出雲家・宗像家などは、天御中主命・イザナギ・天照大神を経由しているが、神武天皇を経由していないために、本流から脱落する。
阿曇氏は天照大神を経由しないために脱落し、中臣氏や高皇産霊尊系統の大伴・宇佐・忌部氏などはイザナギを経由しないために脱落する。
共通していえることは、天皇家はじめ、すべての古代氏族が「天御中主命」を始祖としていることである。まるで、中国の黄帝のようである。
何度も繰り返したように、「中=奴=那珂=nag」は、福岡平野の那珂川・御笠川流域に栄えた奴国を指し示している。天照大神もその系譜のなかに位置している。
奴国――邪馬台国――大和朝廷の時代が、「天御中主命」を始祖とする系譜で連綿とつながっている。
これが、日本におけるもっとも根源的な系譜である。
『新唐書』日本伝冒頭に記された「日本は古(いにしえ)の倭の奴国なり」ということを、古代氏族の系譜が実証している。
天照大神の登場
すでに述べたとおり、もし「天照大神=卑弥呼」、「天御中主=奴の国王」であるならば、右手に日本の文献、左手に中国文献を掲げて、日本の古代史を論じることが可能となるという「可能性」――ないし、「仮説」を求めてこのシリーズを開始した。
いまでは、右手に日本の文献、左手に中国文献を掲げて、日本の古代史を論じれば、「天照大神=卑弥呼」 、「天御中主=奴の国王」という結論にならざるを得ない――――そう確信している。
すでに述べたように、イザナギの禊によって、ワタツミ三神、住吉三神、警固三神が生まれ、左目から天照大神、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれた。ただし、これは『古事記』に基づくものである。
天照大神 | 月読命 | スサノオ | |
---|---|---|---|
『古事記』 | 左目 | 右目 | 鼻 |
『日本書紀』本文 | イザナギ・イザナミ | ||
『日本書紀』第五段の一書の 1 | 左手の白銅鏡 | 右手の白銅鏡 | 首を回す |
『日本書紀』第五段の一書の 6 | 左目 | 右目 | 鼻 |
左目や右目、鼻あるいは手でつかんだ白銅鏡(ますみのかがみ)などから生まれるわけはなく、文字がなく口で伝える時代の暗記術の名残に過ぎない。時間の経過とともに、伝承が変化することは当然のことであり、このバラバラの伝承が記されていること自体、大和朝廷の役人が 6~7 世紀に机上で創作したとする説に対する反証となっている。創作するのであれば、一つで足りる。労力をかけて、いくつも作る必要はない。
本質的な問題は、天照大神・月読命・スサノオは、目や鼻などからではなく、一体誰から生まれたのかということである。
『日本書紀』本文のように、イザナギとイザナミから生まれたのであろうか。
天照大神は高天原を支配する女神となり、月読命はそれを月のごとく補佐し、スサノオは出雲の支配者となった。この三者はどういう関係なのか。彼らの母 は、一体誰なのか。
ヒメ・ヒコ制
古代の日本社会は、母系制を土台としている。このような 母系制社会の研究は、高群逸枝(1894~1964)に始まる。高群逸枝は、その『母系制の研究』(1938 年)において、古代日本では祭祀をつかさどるヒメと軍事をつかさどるヒコが共同して一定地域を統治していたとするヒメ・ヒコ制を提唱した。
確かに、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』などにおいて、兄弟や夫婦の男女ペアによる統治の例がいくつも確認できる。
イザナギとイザナミをはじめ、神代の淤母陀琉(おもだる)神と阿夜訶志古泥(あやかしこね)神、意富斗能地(おおとのじ)神と大斗乃弁(おおとのべ)神、角杙(つのぐい)神と活杙(いくぐい)神、宇比地邇(うひじに)神と須比智邇(すひじに)神など の男女ペアなどである。神武天皇東征の途中、筑紫の宇佐で出迎えた菟狭津彦・菟狭津媛 もそうである。
また、第 12 代 景行天皇の巡幸記事にみられる阿蘇津媛・阿蘇津彦や、神功皇后の巡幸記事に出てくる菟夫羅媛・大倉主などの男女ペアも同様の例であろう。
ただし、これらの例においては、男女いずれに優位があるか不明である。
女性優位のオナリ神信仰
それにひきかえ、沖縄においては、女性の霊力(セジ)を 優位とする オナリ神信仰が残っている。姉妹(オナリ)の霊力(セジ)が、兄弟(エケリ)を守護する。
古い時代、沖縄各地のマキヨとよばれる集団・集落は、男性の長老(アジ)によって治められていたが、 その 政治権力は姉妹(オナリ)の霊力(セジ)によって支えられていた とい う 。
たとえぱ、兄弟が遠い旅にでるときは、姉妹は航海の安全を守る印として手布(ティサジ)を渡し、稲の収穫のときには、兄弟は初穂を姉妹に捧げ、種おろしの際には、他家に嫁いだ姉妹は実家に帰って兄弟のために豊作を祈った。
そして、12、13 世紀ごろからグスク時代(castle period)へと突入する。
那覇市総務部女性室編の『なは・女のあしあと―那覇女性史(前近代編)』(琉球新報社・2001 )には、次のように書かれている。
「十二、三世紀の琉球は、長い貝塚時代からグスク時代へと突入していく。古琉球の始まりである。各地のアジたちはやがて互いに勢力を争うようになっていくが、その過程で彼らが築いたのが数多くのグスクであった。グスクは、集団の聖地、拝所、集落跡、アジの居館、防御施設等々、種々の説が唱えられているが、いずれにせよ、十二、三世紀、一定の権力を持つに至ったアジ(長老)もしくはその所属集団によって築かれたであろうことは間違いない。グスクのアジ(長老)たちの争いを経て、権力は次第に強力なアジ(長老)の下に収斂していった」
やがて、沖縄南部を拠点にした「南山」の大里アジ、中部を拠点にした「中山」の察度(さっと)、北部を拠点にした「北山」の今帰仁アジが鼎立する「三山時代」となった。 14 世紀のころである。
三山は互いに抗争を繰り返したが、南山の一角を拠点とする尚巴志(しょう・はし)が急激に勢力を拡大し、15 世紀の初めに中山、北山、南山を滅ぼして、琉球を統一した。
こうして成立した第一次尚氏王朝は、都を首里として 1406 年から 1469 年まで、七代 64 年間つづいた。ところが、尚氏の家臣金丸(のちの尚円)がクーデターをおこし、第二次尚氏王朝をうちたて、官僚制度を整備し、王の姉妹または王女から選ばれた聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする国家祭祀システムを整備した。
伝統的なオナリ神信仰が、国家制度のなかに組み込まれたのである。
聞得大君・君々(きみぎみ)・大阿母(おおあも)などの神女の下、村々のノロ(祝女)が、公的に村の祭祀をつかさどった。
男王は政治の世界をつかさどり、その姉妹・王女が聞得大君として、宗教的世界をつかさどった。男王は役人を支配し、女王はノロ(祝女)を支配した。
このようにして、沖縄に古くから伝わるオナリ神信仰が、国家の宗教的統治システムとして整備されたのが、聞得大君(きこえおおきみ)(チフジンガナシーメー)を頂点とするノロ(祝女)制度であった。
沖縄 の 女性優位の オナリ神信仰 について、中国福建省や台湾などの媽祖信仰や、インドネシアなど 南方系の影響を指摘されることもあるが、古代九州の影響を見逃すことはできないであろう。
何故なら、琉球方言が古い時代の日本語を伝えているからである。
言語学者の服部四郎は、『日本語の系統』(岩波書店)のなかで、
「琉球方言を含む現代日本諸方言の言語的核心部の源となった日本祖語は、西暦紀元前後に北九州に栄えた弥生式文化の言語ではないか。そして、紀元後二、三世紀の頃、北九州から大和や琉球へかなり大きな住民移動があったのではないか」
と指摘している 。
また、安本美典・野崎昭弘氏は、『言語の数理』(筑摩書房)のなかで、
「首里方言と本土方言との分裂の時期は、およそ千七百年前、邪馬台国の時代のころとなる。琉球の諸方言は、かつて南から来た人々が琉球に残留したものではなく、ほぼ邪馬台国の時代に、南九州から南下したものと考えられる」
と指摘している。
大野晋氏もまた、『日本語の起源』(岩波書店)に、
「日本語と那覇方言との代名詞が同じ構造で対応し、語源的にも日本語で説明がつく。その上、アクセントにも明らかに日本語との対応があることが、服部四郎博士によって証明されている。日本語と那覇方言とでは語順もほとんど一致する。日本語と琉球語とが同系語であることが知られると思う」
と書いている。
家族主義などかつての日本の美風が、現在の日本では廃れたが、ハワイやブラジルなどの日系社会で温存されているように、古代九州における言語や男女ペア首長制・女王制などの政治体制 などが周辺地域へと伝搬し、それが琉球方言や風習のなかに残存しているのではないか。
男の兄弟よりも姉妹を優位に置くオナリ神信仰は、古代九州の伝統に由来しているのではないか。
北部九州に残存した女王制度
『日本書紀』や『肥前国風土記』『豊前国風土記』などの記事をみると、景行天皇・神功皇后の時代、北部九州各地において、女性を首長とする例がみられる。
- ① 豊前国の魁師(ひとごのかみ)――神夏磯姫(かむなつそひめ)
- ② 豊後碩田国速見村の一処(ひとところ)の長(ひとごのかみ)――速津媛(はやつひめ)
- ③ 日向国諸県君――泉媛
- ④ 肥前国浮穴郷の土蜘蛛――浮穴沫媛(うきあなわひめ)
- ⑤ 肥前国彼杵郡の速来村の土蜘蛛――速来津姫(はやきつひめ)
- ⑥ 肥前国杵島郡の盤田杵(いわたき)の土蜘蛛――八十女(やそめ)
- ⑦ 肥前国松浦郡の賀周の土蜘蛛――海松櫃媛(みるかしひめ)
- ⑧ 筑後八女国の神――八女津媛
- ⑨ 筑後山門の 土蜘蛛 田油津媛
- ⑩ 肥前佐嘉の川上の土蜘蛛――大山田女・狭山田女
- ⑪ 肥前佐嘉の川上の石神――世田姫
- ⑫ 豊後国日田郡の神――久津媛
- ⑬ 豊後国日田郡五馬山――五馬媛
13 か所のうち、6 か所が肥前国で、4 か所が豊前・豊後国――豊の国、筑後国 2 か所となっている。卑弥呼=邪馬台国の女王、もしくは天照大神=高天原の女神のような女性を首長とする伝統が、第 12 代景行天皇や第 14 代仲哀天皇・神功皇后の時代にいたるまで、中北部九州を中心とした地域に残存していたことをしめしている。
母系制社会
女性を優位とする男女ペア制、あるいは女性首長制は、朝鮮や中国など東アジア諸国ではみることのできない制度である。
これは、古代日本固有の母系制社会に由来するようにおもえる。
母と子の関係は 、出産という事実によって、客観的に明白であるが、父と子の関係は不明確である。
父と子の関係を明確にするためには、一人の男が女を占有する「 一夫多妻制」か「一夫一婦制」が効果的である。
問題は、古代日本において主流であったとみられる「夜這い婚」「妻問い婚」などの場合である。女性のもとに複数の男が出入りすることから、父と子の関係は不明確となる。
このような社会では、母と子の客観的な関係をもとに家族関係を築くしかない。母親・叔母・祖母などの女性をトップとする母系制社会が形成される蓋然性が高くなる。
たとえば、「A 母・B 母・C 母・・・」という姉妹の家族集団は、やがて「A祖母・B祖母・C祖母・・・」からなる大家族集団および連合体を形成するであろう 。
母系制社会は、必然的に女性首長(女王)を生む。そして、男の兄弟が彼女を補佐する。
『魏志倭人伝』にも、卑弥呼について、「男弟が佐けて国を治めている」と書かれている。
ただし、乱世においては、腕力に勝った男の兄弟が前面に出てリーダーシップを発揮することは当然のことである。それが男性首長男王である。母系社会での男王である。東アジアの男系男王とはまったく性格が異なる。男王が軍事政治をつかさどる場合でも、女王は祭祀を担いつづけて集団の無事平穏を祈る――それが、男女ペア制(ヒメ・ヒコ制)の本質ではないか。戦時には男王、平時には女王というシステムである。戦時には男王、平時には女王というシステムである。男王と女王の柔軟な互換性もまた、母系制社会の効用である。
卑弥呼ないし天照大神は、母系制社会を基盤として出現した。――それが結論である。
天照大神・月読命・スサノオの役割分担
『古事記』『日本書紀』には、天照大神・月読命・スサノオ三者の役割分担が記されている。
天照大神 | 月読命 | スサノオ | |
---|---|---|---|
『古事記』 | 高天原 | 夜の食国(おすくに) | 海原 |
『日本書紀』本文 | 天上(あめ) | 日に配(なら)ぶ | 根の国 |
『日本書紀』一書の 1 | 天地(あめのした) | 天地(あめのした) | 根の国 |
『日本書紀』一書の 11 | 高天原 | 日に配(なら)ぶ | 滄海原 |
『日本書紀』一書第 6 | 高天原 | 滄海原の潮の八百重 | 天下(あめのした) |
天照大神と月読命は、天空の太陽と月になぞらえられ、スサノオは地下の根の国に配置されている。高天原は天上界にあり、根の国は地の下にある。まさに、神話的で垂直的な上下の配置である。
地上の話に置き換えるためには、それを水平方向へ補正しなければならない。
すると、天照大神は高天原という中央の都に君臨し、それを月読命が補佐し、スサノオは地方の根の国に配置されたとも解読できる。
女王を太陽になぞらえ、それを補佐する弟を月になぞらえた。集団のリーダーを、身体の一番上の部分によって、頭(かしら)と呼ぶようなものである。
空一番に輝く太陽から天照大神という名が生まれ、二番目に輝く月から月読命という名が生まれた。してみると、天照大神も月読命も、その順位をしめすだけの、天皇や内閣総理大臣とおなじく、普通名詞的な称号であったのかもしれない。
前述した卑弥呼の 80 歳前後という長命での死去の問題についても、もし卑弥呼が尊称であるのならば、二人以上の卑弥呼がいてもいいということになる 。
ずっと先で述べるように、天照大神の次世代の万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめ)については、天照大神と称して父のタカミムスビ(高皇産霊尊)とともに行動した可能性が高いとみているが、卑弥呼という称号を複数の女王が用いたという史料を見出すことはできない。これ以上進めば、空想の世界に巻き込まれることになる。古代史というものの難しさを痛感させられる一例である 。
天照大神と卑弥呼
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては、「日の神」、「大日孁貴(おおひるめのむち)」、「天照大神」、「天照大日孁貴」など、複数の神名が記載されている。
このうち、「大日孁貴」という名の「孁」という字は、きわめて重要である。
孁=霊+女
というように、女性の霊力をあらわしている。すると、
日+霊+女=日巫女=卑弥呼
と、ごく自然に卑弥呼の名が現われてくる。卑弥呼とは、「日の巫女」のことではないのか。卑弥呼については、
①日巫女(ひみこ)②日御子(ひみこ)③姫子(ひめこ)④姫御子(ひめみこ)
⑤日女子(ひめこ)
などとする説があるが、どの説もそれなりの説得力がある。意見を戦わせて勝ち負けを決するほどの差異はないようにみえる。
「日+女」の範囲で、ゆるやかに解釈しても特段の問題はなかろう。漢字で記された日本語であることだけはまちがいない。
いずれにしても、「天照大神=大日孁=卑弥呼」の関係が成り立つようにおもえる。
おなじく、「高天原と邪馬台国」も似ていないではない。
高天原は、神話的な概念を取っ払えば、山の平原というようなイメージである。確かに、古代人は水害を恐れて丘陵地を好んだ。
邪馬台国の「邪馬」は、日本語の「山(やま)」を写したものであろう。「台」が助詞の「つ」(現代の「 の」)でなければ、台地上の地形をあらわす。
このように、「高天原=邪馬台国」の関係も一応成り立つようにみえる。
天照大神と卑弥呼には弟がいた。
天照大神には、月読命とスサノオという二人の弟がいた。このうち、天照大神と月読命は太陽と月のようにセットになっており、もう一人の弟のスサノオとは名前からして異質な関係にあるようにみえる。
スサノオは高天原で乱暴狼藉を働いて天照大神と対立し、最終的に出雲に追放されている。『古事記』には、「母の根の堅洲国に帰りたい」と父のイザナギに泣いて訴えたとも記されている。スサノオの母は出雲のイザナミであった可能性が高い。父に連れられて高天原で父の手助けをしていたのであろう。ということは、スサノオを支えるべき母系集団が、高天原にはなかったことを意味している。
それにひきかえ、天照大神と月読命の父は奴国の国王とみられるイザナギ、母もたぶん(という留保つきで) 、地元の大母系集団の娘であったろう。地盤のないスサノオが出雲に追放される条件は整っている。
卑弥呼にも弟がいた。『魏志倭人伝』は「男弟」と記している。名は記されていない。
やはり、天照大神と卑弥呼には弟の存在という共通性がある。
天照大神と卑弥呼は、いずれも夫がいない。日本史上唯一の独身の女神であり、女王である。
中国・韓国など東アジアでみることのできない制度であるが、その稀有な例がネパールに残っている。
クマリ(Kumari)という女神制度が現存しているのである 。
クマリは、インド・サンスクリット語で「少女」「処女」を意味するという。国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が、初潮を迎えるまで女神をつとめる。
首都カトマンズのクマリの館 のなかで付き人たちにかしずかれて生活し、9 月に行われる大祭では、かつてはネパール国王も訪れてクマリにひれ伏す儀式がおこなわれていた。
そして、国を代表するクマリを頂点に、国内各地の村々に地方のクマリがいる。 ――まるで、沖縄のノロ(祝女)制度のようである。
遠く離れたネパールと、日本・沖縄の女神・女王との関係はまったく不明であるが、地球規模での人類学的・民俗学的な調査が必要であるかもしれない。
それはともかくとして、天照大神と卑弥呼は、等しく独身の女神・女王であった。
卑弥呼の後継者の壱与(台与)ついては、独身であったかどうか『魏志倭人伝』には記載されていない。記載されなかったということは、独身ではなかったとみるのが自然であろう。
普通に「夫婿あり」であったならば、あえて書くまでもない。
このように、天照大神と卑弥呼は、独身というきわめて稀有な一事でも共通している。
これまで述べた日中の文献を比較すれば、次のとおりとなる。
『魏志倭人伝』 | 『古事記』『日本書紀』 | |
---|---|---|
名前 | 卑弥呼 (日の巫女・太陽を祭る女王) | 天照大神 (太陽を祭る巫女神) |
別名 | ―― | 大日孁貴尊(日の巫女) |
地位 | 女王 | 女神 |
国名 | 邪馬台国(邪馬=山) | 高天原 |
父母 | 父母不明 | 父はイザナギ・母不明 |
弟 | 男弟(名は不明) | 月読命・スサノオ |
結婚 | 夫婿なし | 夫婿なし |
これまでのところ、「卑弥呼=天照大神」とみて矛盾はなさそうである(以下、次号へ続く)。
著者紹介
- 1947年(昭和22)年福岡県柳川市生まれ。
- 九州大学法学部卒
- 歴史作家、日本古代史ネットワーク副会長
- 福岡県文化団体連合会顧問
- ふくおかアジア文化塾代表
- 立花壱岐研究会会員
- 元『季刊邪馬台国』編纂委員長
- 西日本新聞TNC文化サークル講師
- 朝日カルチャーセンター講師
- 大野城市山城塾講師
- 〈おもな著作〉
-
- 『志は、天下~柳川藩最後の家老・立花壱岐~(全5巻) 』(1995年海鳥社)
- 「小楠と立花壱岐」 (1998年『横井小楠のすべて』新人物往来社)
- 『立花宗茂』 (1999年、西日本新聞社)
- 『柳川城炎上~立花壱岐・もうひとつの維新史~』 (1999年角川書店)
- 『西日本古代紀行~神功皇后風土記~』 (2001年西日本新聞社)
- 『筑後争乱記~蒲池一族の興亡~』 (2003年海鳥社)
- 『九州を制覇した大王~景行天皇巡幸記~』 (2006年海鳥社)
- 『天を翔けた男~西海の豪商・石本平兵衛~』 (2007年11月梓書院)
- 「北部九州における神功皇后伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』97号、98号)
- 「九州における景行天皇伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』99号)
- 「『季刊邪馬台国』100号への軌跡」 (2008年、『季刊邪馬台国』100号)
- 「小楠と立花壱岐」 (2009年11月、『別冊環・横井小楠』藤原書店)
- 『龍王の海~国姓爺・鄭成功~』 (2010年3月海鳥社)
- 「小楠の後継者、立花壱岐」 (2011年1月、『環』藤原書店)
- 『天草の豪商石本平兵衛』 (2012年8月藤原書店)
- 『神功皇后の謎を解く~伝承地探訪録~』 (2013年12月原書房)
- 『景行天皇と日本武尊~列島を制覇した大王~』 (2014年6月原書房)
- 『法顕の旅・ブッダへの道』 (『季刊邪馬台国』に連載)
- (テレビ・ラジオ出演)
-
- 平成31年1月NHK「日本人のおなまえっ! 金栗の由来・ルーツ」
- 平成28年よりRKBラジオ「古代の福岡を歩く」レギュラー出演