特別保存論文
年輪年代法の問題点――弥生古墳時代の 100 年遡上論は誤り
- 【目次】
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- Ⅰ)はじめに
- Ⅱ)飛鳥奈良時代:「測定値」が記録と 100 年違う・・・法隆寺:元興寺等
- Ⅲ)弥生古墳時代:「測定値」が考古学通説と 100 年違う・・池上曽根遺跡等
- Ⅳ)標準パターン相互の類似度の高さ(t値=確からしさ)の検証
旧標準パターン(BC317~AD838)は飛鳥時代で接続ミスを起こし、AD640 年以前の測定値は全て 100 年古く狂っている。
- Ⅴ)ヒノキ原木からの木取り
- ケースA:原木から板材だけを木取り
- ケースB:丸太原木を長尺柱として木取り
- ケースC:原木から板材・柱の両方を木取り
- Ⅵ)標準パターンの接続ミス
・・・新井文書「接続ミスは無い」は本当か?
・・・安本美典氏、新井宏氏、内野勝弘氏の見解
Ⅰ)はじめに
年輪年代法で、弥生中後期および古墳開始期が通説より100年遡上し(池上曽根遺跡等)、古代史全体に重大な影響を与えている。しかし、肝心の標準パターンと基礎データは非公開でブラックボックス。また、飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり、100年修正すると記録と整合する。光谷拓実氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターン(BC317~AD838)は飛鳥時代で接続を100年誤り、AD640年以前の測定値は全て100年狂っている。そして、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、木曽系新標準パターンは正しいと思われるが、古代の測定事例はまだほとんど無く、またブラックボックスで中身は全く見えない。
- 旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984)全国各地のパターンの寄せ集め。
- 木曽系新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000)木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。
以上の状況を踏まえ、鷲﨑は論文「木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」(東アジアの古代文化136号、2008年。大和書房)、口頭論文発表「年輪年代法の問題点」(2013年、日本考古学協会総会研究発表会)等で、①旧標準パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、AD640年以前の測定値は全て100年狂っている、と指摘すると共に②ブラックボックスの標準パターンと基礎データの公開を、光谷拓実氏と独立行政法人国立文化財機構・奈良文化財研究所に要請して来た。
これに対し、光谷氏は2019年5月の全国邪馬台国連絡協議会東京支部大会で、論文「年輪年代法の現状と展望」(以下、「光谷2019論文」と表示)を講演し、「鷲﨑による批判は当たらない、年輪年代法の測定値は正しい」と反論した。そこで本稿では、以下、鷲﨑から「光谷2019論文」に再反論したい。また、安本美典氏・新井宏氏・内野勝弘氏にも若干言及する。
Ⅱ)飛鳥奈良時代:「測定値」が記録と100年違う
- 法隆寺五重塔ヒノキ心柱
(直径82cm、樹皮型) -
607年創建の法隆寺は、670年に全焼(日本書紀天智九年)、7世紀末~8世紀初の再建とされる。
1941~1952年の解体修理に際し、厚さ 10 cmの円盤標本が切り取られ、京都大学に保管されていた。
- 測定値は594年伐採。心柱は五重塔(免震)構造上から最も重要で、100年前の古材転用は建築学では考えられない(建築学の鈴木嘉吉氏、藤井恵介氏)。また解体修理時に、心柱に転用取扱い跡や転用加工跡はなかった。
- 貯木場に100年保管していたとの説も、まず考えられない。
- 2002~2004年の法隆寺西院伽藍の調査でも、樹皮型・辺材型11点の中で心柱以外は全焼記録と整合性があるのに、なぜ心柱だけが突出して古く、異様な数値(後述)⇒今でも謎のまま。
謎ではなく、測定値は100年狂っており694年伐採が正しい。
以下において、法隆寺、元興寺、紫香楽宮、法起寺、東大寺正倉院の年輪測定値を記録(日本書紀・続日本紀・元興寺縁起・元興寺記録・東大寺記録・聖徳太子伝私記・法隆寺記録「別当記」など)と比較する。
この法隆寺五重塔心柱の測定は2001年だが、肝心の旧標準パターンの基礎データは公開されておらずブラックボックス化しており、作成者の光谷氏以外は誰も科学的妥当性を検証していない。これにつき、多くの識者(肩書は発言当時)が以下のように指摘した。
『日本の年輪年代法は、信頼性の検証は難しく、結論を急ぐ必要はない』(東大名誉教授の太田博太郎氏)、『光谷氏が独自に開発したこの手法の基礎データは公開されておらず、チェックする同業者が一人もいない。自然科学の実験データや操作は互いにチェックし合う者がいないほど危ういものはない』(橿原考古学研究所調査研究部長の寺沢薫氏)、『古い木材を転用しようにも法隆寺以前の時期に大和にそんな巨大な建物は無い。悩ましい問題が起きた』(京都教育大教授の和田萃氏)、『(法隆寺の問題は)なぜそんな柱が使われたのか不思議としか言いようがない』(成城大名誉教授の上原和氏)、『(法隆寺の問題は)とても理解できず説明する準備もない。説得力のある見解を聞いたこともない』(東大准教授の藤井恵介氏)
との批判は当然である。
肝心の旧標準パターン(BC317年~AD838年)の基礎データはブラックボックスで誰も検証しておらず、「統計的に洗練され測定結果は信頼できる」との誤った評価(内野勝弘会長の「邪馬台国の会」HPでの解説)は、エビデンス(具体的証拠)が無い心証・印象に過ぎない。
- 元興寺禅室の部材(巻斗・頭貫)
-
* 元興寺禅室は、僧坊の一部を鎌倉時代1244年に改築したもの。巻斗(樹皮型、建物の横材を支えるブロック型のヒノキ部材。38cm四方、高さ27cm)と頭貫(樹皮型に近い辺材型、屋根裏の横柱)が582年、586年頃の伐採と測定された。
- 596年完成(元興寺縁起、日本書紀)の飛鳥寺は平城京遷都に伴い718年に飛鳥から平城京へ移転(続日本紀)。
-
中核の金堂・塔は「本元興寺」として飛鳥に残り、僧坊も残った⇒平城京の元興寺は新築。
- * 本尊の飛鳥大仏は21世紀の今も飛鳥寺に鎮座する(日本最古の丈六銅仏)。
- * 塔は1196年(建久七)に落雷で焼失するまで飛鳥に存在(元興寺記録)。
- * 1956~1957年の調査で、舎利容器、「本元興寺」「建久七年」と書かれた木箱、蘇我馬子が創建時に埋納した玉類・金環等の宝物等が塔跡から発掘された。
- 本元興寺と元興寺は併存、禅室部材が飛鳥から運ばれ平城京の元興寺で再利用されたとの移築説は誤り ⇒年輪年代が100年狂っている。
- 光谷氏は、「現在の元興寺本堂(極楽堂)の屋根の一部には、この飛鳥時代の瓦が葺かれており、奈良に運ばれ使われた」とする。しかし、屋根瓦は平城京で元興寺新築の際、飛鳥寺と同じ行基葺様式(百済系)の瓦を新たに製造しただけのこと。
<移築と寺号受け継ぎ>
710年、藤原京から平城京への遷都に伴い相当数の寺社が移転した。しかし、平城京の元興寺は飛鳥寺からの単なる寺号(称号)受け継ぎで、飛鳥寺は遷都後も「本元興寺」として永く飛鳥の地に残ったのは多くの記録から明白。飛鳥寺を解体して、その木材を平城京へ運び元興寺を建設したとの光谷氏「年輪年代測定値による移築説」は全くの誤り。すなわち「移転」とは「移築」と「寺号受け継ぎ」の異なる意味がある。日光東照宮も静岡県久能山東照宮からの称号引き継ぎで「移築」ではない。
1197年の元興寺記録(弁暁『本元興寺塔下掘出御舎利縁起』によれば、飛鳥寺(本元興寺)の塔は前年1196年(建久7年)に雷火で全焼し基壇上部が失われ、翌1197年に掘り出された仏舎利と金銀容器などの埋納物が再び埋め戻されたと記録され、近年1956~1957年の飛鳥寺発掘調査でこれが確認された。このように、多くの記録や発掘調査から、飛鳥寺は平城京遷都後も「本元興寺」として永く飛鳥に残ったのは明白。従って、飛鳥寺を解体して木材(部材)を平城京へ運び奈良「元興寺」で再利用との光谷氏「ブラックボックスの年輪年代」は誰も検証しておらず、非科学的で全く成立しない。
もう一つ「瓦」の事だが、瓦は「型」での大量生産品で「型」は100年間も使用され同じ「型」で製作された瓦の製作年代が100年違うこともある。また、大阪府南部の須恵器生産の陶邑の窯も100年使用されたこともある。従って、元興寺屋根瓦が飛鳥寺の瓦と同じような行基葺様式で平城京時代に製作されても不思議ではない(同じ型を使ったか行基葺様式の新型で製作)。遷都に伴い藤原京から平城京へ移転した薬師寺も同様。今般薬師寺東塔の解体修理に伴い、東塔(三重塔)心柱の最外年輪が719年、また1階天井板2点は樹皮も残り729年と730年伐採と発表された(2016年12月)。これは『扶桑略記』(平安時代1094年作)で三重塔の建立が天平二年(730年)とする記録と全く一致する。すなわち薬師寺も「寺号受け継ぎ」で「移築」ではなく、藤原京の薬師寺は「本薬師寺」として平安時代まで存在し(後に廃寺となり、2021年現在は礎石だけ残る)、薬師寺の「移築」「新築」100年論争はついに決着した(記録VS様式論争は記録の勝利)。
<新築と移築、記録VS様式論争>
過去の再建/非再建論争を見ると、法隆寺五重塔・薬師寺三重塔は、共に記録による再建説が勝利した。同様に、元興寺(奈良市中院町)も藤原京(飛鳥)からの移築ではなく、寺号(称号)引き継ぎによる平城京での新築。
- 聖徳太子が607年に創建した法隆寺は、670年に「一屋余すところ無く」全焼し(日本書紀・天智九年の記事)、現在の五重塔は700年頃の再建とされる。この全焼記録を巡り明治20年頃から「再建論争」が続いた。非再建説の根拠は現存法隆寺の建築様式が古いことであった。しかし、東南隣接の若草伽藍跡の発掘調査(昭和14年)で焼けた痕跡があったことから、若草伽藍が創建法隆寺で現存法隆寺は再建されたと論争は決着した。また最近2004年には法隆寺南大門前で7世紀前半の高温で焼かれた壁画の破片が多数発見され、再建説を更に裏付けた。
- 藤原京から平城京へ移転の薬師寺も同様。前述の通り、薬師寺東塔(三重塔)は、遷都後の平城京での天平二年(730年「扶桑略記」)の新築。創建時の古い様式での再建は事例が多く、様式論は当てにならない。
- 光谷氏が紹介した元興寺:狭川副所長の年代評価 ――『元興寺の移転、具体的には建物の移転に関して、最も評価したいのは『白鳳』時代です・・・詳細が未だ明らかでないことですが、飛鳥寺の調査の進展で天武朝にかなりの規模の修理をしていることが突き止められています。おそらく僧房もその時に修理されたのでしょう。その修理された建物が奈良に運ばれていると理解できるのです。』―――
鷲﨑コメント⇒年輪年代法で元興寺禅室部材が測定(巻斗/582年伐採)された2000年より以前は、「奈良市中院町の元興寺は平城京での新築で、藤原京(飛鳥)からの移築ではない」が通説だった。飛鳥寺の僧房を解体して「平城京へ移築して禅室とした」は、年輪年代「100年の狂い」を利用した2000年以降のトンデモ説。
蘇我氏の氏寺の飛鳥寺は、蘇我馬子が建立した596年当初は元興寺または法興寺と呼ばれたが、後に飛鳥寺へ名称変更された。平城京への遷都に伴い、飛鳥の元興寺が新都に移転したが(718年「続日本紀」)、元興寺中核の金堂・塔等の建物は飛鳥に残り、「本元興寺」として廃寺されることなく、飛鳥大仏は金堂本尊として21世紀の今も飛鳥に鎮座する。
創建時の飛鳥寺は、東西200m・南北300mの寺域を持ち、塔を中心に東金堂・中金堂・西金堂・講堂・回廊・僧房等を配置する大寺院であった。しかし、鎌倉時代初期の建久7年(1196年)に、飛鳥寺は雷火に被災した。中金堂本尊の飛鳥大仏はその時の火災で損傷が激しく、補修が著しい。火にさらされた飛鳥大仏は、オリジナル部分は目周辺や右手中央の指3本等で、その姿のほとんどが後世の作というのが従来の通説だった。それが日本最古(1400年前、飛鳥時代)でありながら、国宝になれない理由と言われている。
この建久7年(1196年)年の大火災では、塔も基壇上部が全て失われたが、近年1957年の調査で、埋納物(舎利容器、本元興寺・建久七年と書かれた木箱、玉類金環等)が塔跡から発掘されたのは前述の通りである。このように、飛鳥寺は鎌倉時代建久7年(1196年)の火災で金堂や塔等が焼失するまでは、「本元興寺」として飛鳥に存在したのは歴史事実である。飛鳥「元興寺」の平城京への移転は「寺号引き継ぎ」で「移築」ではなく、僧房の木材は移動していない(僧房だけの移転は有り得ない)。
結論は、ブラックスボックから出た年代測定値を唯一の根拠とする「飛鳥寺の僧房を解体し平城京へ運んだ」は誤りで、奈良市元興寺禅室の年輪年代測定値(飛鳥時代582年―巻斗、586年―屋根裏横柱)が100年古く狂っている。鎌倉時代初期(1196年)まで、金堂・塔・講堂・回廊・僧房など主要建物は飛鳥に存在したのは事実だから、718年の移転は、寺号(称号)引き継ぎで、「解体移転」ではない。
【飛鳥大仏のX線分析】:飛鳥大仏は1196年の雷火で大きく損傷、大部分は後世の作が従来通説。しかし、最近2012年・早稲田大学大橋一章教授等のX線調査で「仏身のほとんど(80%)は飛鳥時代当初のままの可能性が高い」、また2016年・大阪大学藤岡穣教授等の同調査でも「少なくとも顔はほとんどが造立当初のもの」との鑑定結果が出された。実は飛鳥大仏は「国宝」だった時期がある。昭和15年(1940年)に国宝指定されたが、昭和25年に文化財保護法が施行され、それまでの国宝の見直しが行われ飛鳥大仏は選から漏れ、重要文化財として今日に至っている。しかし、最近のX線調査を踏まえ、今後、国宝への再指定もあり得る。
- 紫香楽宮跡出土の柱根9本
-
紫香楽宮は、聖武天皇が742年に造営を開始し、745年に短期間都とした(続日本紀)。
- 第1群5本(No.1~5柱。樹皮型、辺材型)は続日本紀と一致。
- 第2群4本(No.6~9柱。心材型)は続日本紀と約200年違う。この4本の測定値は100年狂っているか、100年前の古材使用。
紫香楽宮跡の試料 最外年輪
形成年計測年輪数 造営開始742年と
最外年輪の差整合性 No.1柱 樹皮型 第1群 AD742 194 ほとんど零 ○ No.2柱 樹皮型 同上 743 245 ほとんど零 ○ No.3柱 樹皮型 同上 743 187 ほとんど零 ○ No.4柱 樹皮型 同上 743 166 ほとんど零 ○ No.5柱 樹皮型 同上 741+𝛼 337 ほとんど零 ○ No.6柱 心材型 第2群 530+𝛼 240 212 層 × No.7柱 心材型 同上 562+𝛼 318 180 層 × No.8柱 心材型 同上 533+𝛼 136 209 層 × No.9柱 心材型 同上 561+𝛼 153 181 層 × - この表は左右スクロール可能
- 紫香楽宮跡の第2群4本
(文献と200年違う) -
ヒノキの場合、1年(1層)は 1mm。200年は、200層 × 1mm =20cm に相当し、直径80cmの原木の全周を外から20cm削り直径40cmの柱に仕上げたことになる⇒断面積の75%を削り取った宮殿の柱となるがあり得ない。削り分は最大100年まで(下図)
結論:測定値が640年以前を示す第2群4本は、造営開始742年と約200年乖離
200年乖離=
- 外からの削り約100年分+測定値の誤り100年、或いは
- 外からの削り約100年分+100年前の古材。
①又は②の二者択一
- 法起寺三重塔ヒノキ心柱
(直径70cm、心材型) -
- *法起寺は聖徳太子の岡本宮を後に寺にしたもの
- *三重塔の建立は706年頃(聖徳太子伝私記や法隆寺記録「別当記」が記録する露盤銘)
-
年輪年代は572+𝛼年(心材型)で、文献と134年違う。ヒノキの場合、年輪1層は約 1mm で、134層(年)は 13.4cm に相当する。
そうすると、原木の直径は70cm + 26.8cm(13.4×2)=96.8cm、すなわち約97cmとなる。これを比較すると、直径70cm心柱は直径97cm原木の断面積のちょうど50%を削り取って柱に仕上げたことになる。
しかし、これはまず考えられない。 - 現状は古材使用と説明しているが、100 年修正して新材のヒノキとするのが正しい。
- 法隆寺五重塔心柱は樹皮型。これを踏まえ、法起寺三重塔心柱が134層も削られたのは光谷拓実氏も疑問とする。
結論:記録との乖離134層=樹皮・辺材の削り34層+測定値の狂い100層(100年)
- 東大寺正倉院
-
正倉院の試料 年輪年代 建築年代 整合性 No.1 心材型 AD600+𝛼 AD760頃 × No.2 心材型 594+𝛼 AD760頃 × No.3 心材型 639+𝛼 AD760頃 × No.4 辺材型 714+𝛼 AD760頃 ○ No.5 辺材型 741+𝛼 AD760頃 ○ No.6 辺材型 716+𝛼 AD760頃 ○ No.7 心材型 679+𝛼 AD760頃 ○ No.8 心材型 576+𝛼 AD760頃 × No.9 心材型 569+𝛼 AD760頃 × No.10 心材型 576+𝛼 AD760頃 × No.11 心材型 556+𝛼 AD760頃 × No.12 心材型 719+𝛼 AD760頃 ○ No.13 心材型 718+𝛼 AD760頃 ○ No.14 心材型 677+𝛼 AD760頃 ○ No.15 心材型 709+𝛼 AD760頃 ○ -
「×」表示7点の年輪年代と建築年(AD760)の平均乖離は173年。一方、この7点の残存年輪は平均177層(175, 99, 204, 153, 226, 207, 179層)。
ということは、板面積の約50%【173層÷350層(173+177)=49.4%】を切断処理したことになるがあり得ない。 - 測定値が640年以前を示す7点すべてが100年前の古材使用となるが考えられない。
-
「×」表示7点の年輪年代と建築年(AD760)の平均乖離は173年。一方、この7点の残存年輪は平均177層(175, 99, 204, 153, 226, 207, 179層)。
飛鳥奈良時代:年輪年代と文献の整合性
(一覧表)
測定値が AD 640年以前 の15事例(表の赤字)は全て旧標準パターン(BC37年~AD838年)で測定し、記録と全て 100~200年 違う。測定値が正しければ、この15事例が 全て古材使用 でないと説明不能。逆に、この15事例の年代を100年修正すると、記録と全て整合性がある。そして、これら15事例以外に記録と比較可能な事例は存在しない。
建築物の試料 | 分類 | 測定 実施年 | ①年輪年代 測定値 (※1) | 文献の 建築年代 | 整合性 | ②100年 修正後の 測定値 (※2) | 100年 修正後 整合性 |
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法隆寺五重塔 心柱 | 樹皮型 | 2001年 | AD594 | AD673 ~711 | × | AD694 | ○ |
同金堂 天井板 | 樹皮型 | 2002~ 2004 | 667, 668 | 673~711 | ○ | ||
同五重塔 部材 | 辺材型 | 2002~ 2004 | 673+α | 673~711 | ○ | ||
同中門 部材 | 辺材型 | 2002~ 2004 | 685+α | 673~711 | ○ | ||
法起寺三重塔 心柱 | 心材型 | 1990 以前 | 572+α | 706~709 | × | 672+α | ○ |
元興寺禅室 巻斗 | 樹皮型 | 2000 | 582 (再調査 588) | 710~718 | × | 682 (再 688) | ○ |
同 頭貫 | ほぼ樹皮型 | 2010 | 586+α | 710~718 | × | 686+α | ○ |
紫香楽宮跡 No.1柱 | 樹皮型 | 1985 | 743 | 742~745 | ○ | ||
同 No.2柱 | 樹皮型 | 1985 | 743 | 742~745 | ○ | ||
同 No.3柱 | 樹皮型 | 1985 | 743 | 742~745 | ○ | ||
同 No.4柱 | 樹皮型 | 1985 | 742 | 742~745 | ○ | ||
同 No.5柱 | ほぼ樹皮型 | 1985 | 741+α | 742~745 | ○ | ||
同 No.6柱 | 心材型 | 1985 | 530+α | 742~745 | × | 630+α | ○ |
同 No.7柱 | 心材型 | 1985 | 533+α | 742~745 | × | 633+α | ○ |
同 No.8柱 | 心材型 | 1985 | 561+α | 742~745 | × | 661+α | ○ |
同 No.9柱 | 心材型 | 1985 | 562+α | 742~745 | × | 662+α | ○ |
東大寺正倉院 No.1板 | 心材型 | 2002 | 600+α | 760頃 | × | 700+α | ○ |
同 No.2板 | 心材型 | 2002 | 594+α | 760頃 | × | 694+α | ○ |
同 No.3板 | 心材型 | 2002 | 639+α | 760頃 | × | 739+α | ○ |
同 No.4板 | 辺材型 | 2002 | 714+α | 760頃 | ○ | ||
同 No.5板 | 辺材型 | 2002 | 741+α | 760頃 | ○ | ||
同 No.6板 | 辺材型 | 2002 | 716+α | 760頃 | ○ | ||
同 No.7板 | 心材型 | 2005 | 679+α | 760頃 | ○ | ||
同 No.8板 | 心材型 | 2005 | 576+α | 760頃 | × | 676+α | ○ |
同 No.9板 | 心材型 | 2005 | 569+α | 760頃 | × | 669+α | ○ |
同 No.10板 | 心材型 | 2005 | 576+α | 760頃 | × | 676+α | ○ |
同 No.11板 | 心材型 | 2005 | 556+α | 760頃 | × | 656+α | ○ |
同 No.12板 | 心材型 | 2005 | 719+α | 760頃 | ○ | ||
同 No.13板 | 心材型 | 2005 | 718+α | 760頃 | ○ | ||
同 No.14板 | 心材型 | 2005 | 677+α | 760頃 | ○ | ||
同 No.15板 | 心材型 | 2005 | 709+α | 760頃 | ○ |
- この表は左右スクロール可能
- ※1:AD640年以前の測定値に付けられた「+α」は、年輪年代の「狂い100年分」と外からの「削り分」の合計
- ※2:100年修正後の測定値につけられた「+α」は外からの削り分
- 心材型柱(丸太)の「+α」は、削り分だけなら最大約100年まで(辺材部「35~70層」+α=約100層)。例として、紫香楽宮跡No.6~9柱(直径40㎝程度)は文献(続日本紀)と約200年違う。樹齢200~400年のヒノキの場合、1層(1年)は平均1mmで200層×1mm=20cmに相当し、直径約80cmの原木の周囲両サイド20cmを削り直径約40cmの柱(丸太)に仕上げたことになる。これは断面積の75%を削った柱となるが有り得ない。従って測定値に削り分最大約100年を加算しても文献となお相当乖離すれば、古材使用または測定値の誤りでこの表では「×」表示。
-
測定値がAD640年以前を示す15事例中で、記録と200年ぐらい乖離するのは12事例で全て心材型。
これらは全て「年輪年代の狂い100年+外から削り100年分=約200年」で、記録との乖離を説明できる。 残り樹皮型3事例(法隆寺五重塔心柱、元興寺禅室巻斗及び頭貫)は、単純に測定値の狂い100年(外からの削り分は無し)。紫香楽宮の事例のように丸太を外から200層(年輪200年分)も削り柱に仕上げることはあり得ない。逆に年輪年代が正しければ、200年乖離を削り分で説明できるのは約100層(100年)まで。残り100年分は古材利用となる。その場合、この12事例を含む15事例が全て古材利用にしないと説明不可能。しかし、いくら古代でも全てが古材利用はあり得ない。これは、後で述べる弥生古墳時代の事例も全く同様。
Ⅲ)弥生古墳時代:年輪年代「測定値」が考古学通説と100年違う
- 弥生中後期・古墳時代(ヒノキ及びスギ)
-
貨泉や土器と比較し、検証可能な6事例も100年違う。全て旧標準パターン(BC37年~AD838年)で測定
貨泉(中国でAD14~AD40年の短期間に鋳造された銅銭で年代論の定点)問題からは、日本での貨泉出土状況から見て、池上曽根遺跡ヒノキ柱根No.12のBC52年伐採は成立しない(寺沢薫氏などの指摘)。
上表での弥生中後期と古墳時代は、測定値が従来考古学通説の遺跡年代より100年古い。
-
石塚古墳周濠のヒノキ板は、炭素14年代がAD320年(1994年、古城泰氏測定)。
従来の考古学通説で、石塚古墳は土器年代(編年)を根拠に、4世紀初頭頃の築造とされてきた。炭素14年代のAD320年は従来通説と一致する。光谷氏「AD177+α」は、従来通説(古墳築造AD280~310)および炭素14年代測定値(AD320)と100年矛盾する。 - 琵琶湖周辺(二ノ畔横枕遺跡、下之郷遺跡)は伊吹山や霊前山などの石灰岩地帯の湧水、河川水等泥炭層に由来する古い炭素の影響で炭素濃度が低下し、琵琶湖水の炭素年代は実際(真実の年代)より300~450年古い測定値となっている(宮田佳樹:2013年3月名古屋大学加速器質量分析計業務報告書)。このため、琵琶湖周辺遺跡の炭素年代は、参考とならない。なお、二ノ畔横枕遺跡は年輪年代を100年修正しても、まだ従来通説と40~60年の乖離があるが、いま指摘した琵琶湖水のリザーバー効果の影響であろう。
- 池上曽根遺跡ヒノキ柱根NO.12柱根の近くに落ちていた木の小枝のC14年代は炭素年代2020BPを示し、(2000年、歴博の今村峰雄氏測定、小枝をNO.12柱根最外輪と同年と仮定)。一方、最新のINTCAL20で2020BPは、実年代(暦年)換算はBC50~AD100で、年輪測定値BC52年と整合性がない(100年違う)。2020BPの中心はAD50年頃で、従来通説(AD1世紀中頃~1世紀後半の遺跡)と一致する。遺跡は大阪湾海岸から 2 km の至近距離で、海洋リザーバー効果で炭素年代が古く出ている可能性が強い。また、遺跡近隣の和泉産ヒノキ丸太が掘立柱に使用されており、50~150年程度の海洋リザーバー効果を見込む必要がある。
下の左図は、歴博が池上曽根遺跡ヒノキ柱根の最外輪の炭素14年代をINTCAL98で測定したら2020BPとなり、年輪測定値のBC52年伐採と一致したとする。しかし最新のINTCAL20(2020年版)では、2020BPの中心はAD50年頃で年輪測定値BC52年伐採と100年違う(下の右図)。すなわち、最外輪の年代は従来考古学通説のAD50頃に戻り、年輪標準パターンが100年狂っていることが明らかとなった。
結論として、年輪年代法の測定値で AD640 年以前を示す事例は、全て 100 年古く狂っている。これは、のちほど紹介する旧標準パターン(BC37~AD838)の飛鳥時代AD640年頃に「100年の接続ミス~系統的な誤り」が有るからだ。すなわち、① 飛鳥奈良時代の 15 事例 は記録(日本書紀・元興寺縁起・続日本紀・東大寺記録・聖徳太子伝私記・法隆寺記録「別当記」)と比較すると、全て 100 年狂っている。
他に検証可能な事例は存在しない。仮に測定値が正しければ 15 事例は全て 100 年前の古材使用としなければ説明不能。古代は木材が貴重品だったのは事実だが、重要建築物の構造材(柱など)は原則的に新材使用で、古材転用(使用)を過大評価すべきでない。木材使用は新材か古材の二者択一(丁か半か。コインの表か裏か)しかない。
仮に古材比率を 50%まで認めたとしても、15 事例全てが古材の確率は 0.5×0.5×0.5・・・即ち 0.5 の 15 乗=0.00003 と 1 万分の 1 以下で、ほとんどあり得ない。② 弥生古墳時代 も貨泉(AD14~40 年鋳造で年代論の定点)等との比較で 検証可能な 6事例も 100 年狂っている。
仮に測定値が正しければ、飛鳥奈良時代を含めた 21 事例は全て古材使用となるが、その確率 は 1000 万分の 4 で、ほとんど DNA 鑑定並み の精度で「旧標準パターンには系統的な誤りがある」 と断定できる。
【弥生古墳時代の年代論】
弥生古墳時代の年代論は、主に近畿地方の土器編年や大陸との青銅器・鉄器等の並行関係、また中国の銅銭「貨泉」(AD14~40年の短期間で製造され年代論の定点)を参考に議論されてきた。この年代論の変遷を以下に「近畿地方 土器編年比較表」として示す。
弥生時代と古墳時代の境目、すなわち古墳時代の始まりは戦後長らくAD300年頃とされてきた(1970年の佐原編年)。ところが科学的年代法の「年輪年代法」が1980年代から登場し、池上曽根遺跡出土のヒノキ柱根がBC52年伐採と測定され、弥生中後期が従来考古学通説より100年遡上した。連動して、古墳時代の始まりも大幅遡上し、最近はAD200年頃まで遡上させる考古学者も少なくない。しかし、この100年遡上論は誤りで、100年遡上の根拠となった年輪年代法の是非を本論文で論じているのである。
【ヒノキ、スギ、コウヤマキの標準パターン】
標準パターンはヒノキが基本。また、スギはヒノキと年輪パターンが大変似ており、ヒノキと連動させているので、ヒノキが狂えばスギパターンも同時に狂う。ただし、この他に独立のコウヤマキ標準パターン(AD22~AD741年)があり、ヒノキとは非連動(相関係数0.258)で、これは正しい。主に、平城京跡および隣接の法華寺跡出土コウヤマキ柱根15本からの年輪パターンで構成されている。これは、平城京時代のど真ん中のAD741年頃伐採のコウヤマキ丸太で、大きな狂いはないと思われる(狂っても20~30年か)。従って、大阪府狭山池遺跡出土のコウヤマキ製の樋の測定値AD616年伐採は、ほぼ正しい。
Ⅳ)標準パターン相互の類似度の高さ(t値=確からしさ)の検証
- 鷲﨑指摘:
- 旧標準パターンE(BC317~AD838)は飛鳥時代で接続を誤り、AD640年以前の測定値は記録や土器編年の従来通説と比較し、全て100年古く狂っている(下図参照)。
- ヒノキの旧標準パターン(BC317~AD1984)
-
- 旧標準パターンは、1985年にBC37年まで作成、1990年にBC317年まで延長された(図は『年輪に歴史を読む――日本における古年輪学の成立』1990より)。
- パターンE(BC37~AD838)は飛鳥時代で接続に失敗し、AD640年以前は100年狂っている。これと連結したF(BC317~AD258)も同様。
光谷氏は、2019年5月の全邪馬連東京支部大会で、「光谷2019論文」(年輪年代法の現状と展望)を講演し、「測定値は正しい、接続ミスは無い」と鷲﨑へ反論した。
- 光谷氏反論①
-
標準パターン同士のパターン一致の類似度指数(=t値、相関係数から計算)は高い t 値を示す(図1と表1)。
- 鷲﨑再指摘①
-
光谷氏の上図1に現れるヒノキ標準パターン(A、B、C、D、E、F、G、H)の8パターンはいずれもデータは全く無く、単なる概念図(ポンチ絵)。これでは、標準パターンの正しさを第三者が何も検証できない。スギ標準パターンも全く同じ。⇒ブラックボックス状態で説明になっていない。
- 光谷氏反論②
-
旧標準パターン(E、F)と新標準パターン(G、H)相互の類似度(t値)は高い。
表1:新旧の4標準パターンの比較 旧標準パターン
(EとF)木曽系新標準
パターン(G)近畿系新標準
パターン(H)E(BC37~AD838)
F(BC317~AD258)t = 12.1
(BC37~AD838)
t = 5.3
(BC317~AD258)t = 12.5
(BC37~AD838)
t = 9.7
(BC317~AD258) - 鷲﨑再指摘②
-
上記の4標準パターン同士の類似度検証(t値)は、根拠が全く示されておらず意味が無い。旧標準パターン(E、F)および新標準パターン(木曽系G、近畿系H)は、いずれも基礎データが全く非公開の空白で、データ無しのブラックスボックス同士の比較は意味無し。光谷氏が示す類似度指数(t値)は、誰も正しさを検証できず、説得力も無い。すなわち、光谷氏の「ご託宣」は非科学的、だから多くの研究者が検証に必要な基礎データの公開を長らく要請してきた。
- 光谷氏反論③【4遺跡の測定値と標準パターン】
-
測定値は新旧標準パターンで同じ。
遺跡出土資料 旧標準パターン Gパターン Hパターン 武庫庄遺跡
の柱根BC245+𝛼 t = 7.0
(BC245+𝛼)t = 5.2
(BC245+𝛼)池上曽根遺跡
の柱根BC52 t = 5.2
(BC52)t = 7.5
(BC52)纏向石塚古墳
周濠板材AD177+𝛼 t = 6.4
(AD177+𝛼)t = 13.6
(AD177+𝛼)勝山古墳
周濠出土板材AD199+𝛼 t = 5.9
(AD199+𝛼)t = 5.4
(AD199+𝛼)- この表は左右スクロール可能
- 鷲﨑再指摘③:遺跡出土木材と標準パターンの比較
-
パターン一致の類似度(確からしさ=t値)旧標準パターンで測定した個別事例(武庫庄BC245、池上曽根BC52、纏向石塚AD177、勝山古墳AD199)も全く同様。ブラックボックス「旧標準パターン」から出された4測定値(算出根拠は全く示さず)を別のブラックボックスG、Hパターンと比較しても、結論の類似度(t値)は全く意味を持たず、基礎データを開示しないブラックボックスの中味を誰も検証出来ない。基礎データ開示が先決。
上記4遺跡の測定グラフはそれぞれ100年程度の巾で、次頁の標準パターンは途中空白で連続して繋がっておらず、また年輪巾の個別測定値データが何も無い概略図(ポンチ絵)に過ぎない。このブラックボックスでは、第三者が標準パターンの正しさを検証出来ない。
次ページ「4遺跡の測定グラフ」で、光谷氏は「各遺跡の測定値」と「新標準パターン」を比較して年輪年代法の妥当性を主張している。しかし、弥生古墳時代100年遡上をもたらしたのは「旧標準パターン」の中のEパターン(BC37~AD838)である。旧標準パターンは飛鳥時代の接続ミスでAD640以前の測定値は全て100年狂っている。鷲﨑はこのことを、①飛鳥奈良時代の記録との比較、②土器編年等の考古学通説からの検証、合わせて③年輪年代法の基礎データ公開を要請している。
今回、光谷氏は新標準パターンを持ち出し旧標準パターンの妥当性を主張している。しかし、「新標準パターン」「旧標準パターン」共に依然としてブラックボックスである。ブラックスボックス同士の新旧パターンを比較して妥当性を主張しても、客観的な説得力は全く無い。要するに、基礎データが非開示なので「非科学的」「天の声」となってしまう。だから情報公開を要請しているのである。
⇒⇒⇒新標準パターンはブラックボックス!
⇒⇒⇒新標準パターンはブラックボックス!
(池上曽根、纏向石塚)
⇒⇒⇒新標準パターンはブラックボックス!
V)ヒノキ原木からの木取り
森林木材が豊富な日本では、木造建築でヒノキやスギ等を建築材料に、丸太(柱)・板材(壁・床等)・部材に大量に使用されてきた。木取りについて光谷氏は、法隆寺五重塔部材は「樹齢700~800年を超える大径木の中心部から外周部まで無駄なく木取されていた」、また紫香楽宮跡出土の柱根9本についても、「大径木の外周部で木取りされたものは他の建築部材に使われ、残った中心部は柱として使われた」、と解説している。すなわち、「大径木の外周部は他の建築部材に、また中心部は柱として使用」と説明する(下の図)。しかし、現実には、この木取りはどんな条件下で可能だろうか?
【古代での大型木造建物の7事例】
そこで、まず最初に木造建築7事例での長尺柱「大径木」の使用状況を、参考として以下に示す。① 法隆寺五重塔心柱1本、② 法起寺三重塔心柱1本、③ 池上曽根遺跡25本、④ 紫香楽宮9本、⑤ 東大寺大仏殿84本、⑥ 東大寺南大門18本、⑦ 薬師寺東塔心柱1本の合計139本。大型木造建物で「大径木」の長尺丸太が柱としてどのように使われるかは、「木取り」を検討する時の重要な要素である。
なお、大型建物は、長さ10~20mの柱が多い。ちなみに、東大寺大仏殿の柱は創建時の記録では、長さ約20mが56本と9mが28本、合計84本。
ここでの注意点は、柱は短尺(2~3m)を何本も繋ぎ合わせたのではなく、各1本が10~20mの長尺丸太という事だ―――これは、「木取り」との関係で重要な意味を持つ(後述)。
ケースA:原木から板材だけを木取り
(例)法隆寺五重塔心柱と同じ全長18mのヒノキ原木丸太を、例示して説明する。
まず最初に、18mのヒノキ原木を2~3m単位に短く切断するのが大切。次に細かく板材だけを木取り。
ケースB:原木を長尺柱として木取り
光谷氏は法隆寺を例として、「樹齢700~800年を超える大径木の中心部から外周部まで無駄なく木取されていた」、また紫香楽宮跡出土の柱根9本についても、「大径木の外周部で木取りされたものは他の建築部材に使われ、残った中心部は柱として使われた」、と説明している。
このように、光谷氏は「大径木の外周部は他の建築部材に、中心部は柱として使用」と説明するが、長尺柱(10~20m)の場合では、板と丸太を同時に木取は現実には不可能―――以下で説明する。
① 断面の真ん中部分は丸太柱として残す ② 外側から丸く削る(カンナみたいな道具で) ③ 丸太を短くは切断しない。10~20mの長尺丸太のまま柱に加工するのは、現実の大工仕事としては不可⇒全周を丸く削るしかない
切断ではなく全周を丸く削る
長尺丸太の周り全周を削る場合、
- 削らず樹皮付きで柱として使用⇒法隆寺五重塔心柱のケース。
- 辺材部(35~70層)や心材部まで外から大きく削る。
⇒法起寺三重塔心柱や紫香楽宮がこのケース。しかし紫香楽宮では下図の200層も断面積75%を削る宮殿柱はあり得ない(長尺柱を短尺に切断しないと断面積75%も削れない!)⇒年輪年代が100年狂っているか、100年前の古材使用の二者択一。
ケースC:原木から板材・柱の両方を木取り
(例)法隆寺五重塔心柱と同じ全長18mのヒノキ原木丸太を、例示して説明する。
まず最初に、18mの丸太原木を2~3m単位の短尺丸太に切断するのが大切。次に細かく板材と丸太を木取。重要な事は、丸太を最初に短尺(2~3m)に切断したら、下図が示すように長尺柱の木取りはできない。つまり原木丸太から長尺柱と板材を同時に板取りが不可能ということだ。
光谷氏は「大径木の外周部は他の建築部材に、中心部は柱として使用」と説明するが、「中心部は柱」はせいぜい2~3mの短尺。先ほど説明したように大型建物の柱は10~20mの長尺が原則。紫香楽宮や法起寺三重塔等の柱はみな10~20mの長尺である。そうすると、① 原木丸太の周囲を削り柱として使用、② そこからさらに細かく板取りするのは、下図から分かるように不可能な作業工程。
つまり、原木丸太を最初から短尺に切断したら、長尺柱の木取りは出来ない(下図のように短尺柱のみ可能)。光谷氏の説明「紫香楽宮の大径木の外周部は他の建築部材に、中心部は柱として使用」は、長尺柱を外から200層も削るとの有り得ない木取り実態を示す。結論:紫香楽宮の柱は、200層も削っていない。外から削るのは最大100層まで⇒測定値が100年狂っているか、あるいは100年前の古材使用の二者択一。
例示:上図:全長 18m、直径 80cm の丸太から以下寸法に木取り・切断する場合
丸太柱: | 長さ 200~300cm | 直径 80cm | |
---|---|---|---|
板材: | 長さ 200~300cm | 断面幅 36~63cm | 断面厚さ 3~5cm |
- 作業工程(手順)
-
- まず原木の丸太を 200~300 cm 毎に切断
- 上図のように切断し、丸太と板を木取り。但し、丸太の長さは 2~3mぐらいで、長丸太柱 (10m~20m)から板と丸太を同時に木取りは、大工作業としては不可能(非現実的)
Ⅵ)標準パターンの接続ミス
新井文書:「鷲﨑説・年輪年代の標準パターンに接続ミスはない」は本当か?
まず、光谷拓実氏の2019年5月11日講演「年輪年代法の現状と展望」の時に、司会の内野勝弘氏が別資料として配布した『新井文書』―「鷲﨑説・年輪年代の標準パターンに接続ミスはない」―の由来に触れる。この「新井文書」は、約10年前の鷲﨑/新井の年輪年代論争での新井氏講演資料から部分的に抜き出し、加工した文章と推定される。
1. 鷲﨑/新井の年輪年代法論争(2011~2012年)
2011~2012年にかけて、鷲﨑/新井で「光谷氏の年輪年代法」に関する論争があった。舞台は「考古学を科学する会」(「東アジアの古代文化を考える会」分科会:会長は藤盛紀明氏)であった。
新井氏は2012年9月4日、第52回「考古学を科学する会」での講演『考古学における科学的な議論とは-「年輪年代批判」を事例として―』で、4事例(法隆寺五重塔心柱、法隆寺五重塔雲斗、東大寺法華堂通肘木、室生寺五重塔心柱)の個別パターンと標準パターンとの比較図を示し、AD500~AD800 年の標準パターンが繋がったとする(図 19-1)。そして、個別パターンと標準パターンの「検証用のT値」を計算し、標準パターンに「接続ミス」は無いと断定した。これは、鷲﨑による年輪年代法批判(旧標準パターンの接続ミスで飛鳥時代D640年以前の測定値は全て100年狂っている)に対する反論である。
しかし、この「新井文書」は間違い。
この新井氏の鷲﨑批判に対し、2012年12月3日の第53回「考古学を科学する会」で、鷲﨑より新井氏に以下のように反論した――講演「年輪年代法の問題点――真の科学的思考とは」。なお講演で配布した全文を鷲﨑HPに掲載⇒Ctrlキーを押しながらクリック nenrinnendai20121203.pdf (coocan.jp)
――以下は、2012年12月3日、鷲﨑より新井氏への当該部分への反論内容――
新井氏は、標準パターンが AD570~AD610 年のどこかで接続ミスがあれば、次のようになると指摘する。 ・・・「法隆寺五重塔心柱の年輪年代(594年)を例に採れば、その照合に使った標準パターン図(500~594 年)は、本来は 600~694 年頃のものだと言うことになる。そうであれば、500~594 年の標準パターン図と類似するパターン図が 100 年新しい 610~740 年頃に必ず存在するはずである」・・・一見もっともらしいが、この発想自体が誤りである。「類似するパターン図が100年新しい 610~740 年頃に必ず存在」すれば、そもそも光谷氏は接続ミスなど簡単にしない。類似するパターンが無いから光谷氏は接続ミスを起こしたのである。同じ区間のパターンでも、類似しないことは幾らでもある(これが日本の年輪年代法が欧米と違い難しい理由だ)」・・・。
これと関連し、以下の図 19-2 を示しておく。 図 19-2 の上段は、法隆寺五重塔心柱の年輪パターンとヒノキ標準パターンの比較図で、AD500~AD600 年をカバーする。下段は、次項【4-2 正倉院のスギ古櫃】で検討する「中倉 202 古櫃第 108号」の年輪パターンで、AD511 ~AD611 年をカバーする。そうすると、双方は AD511~AD600 年の約 90 年間が重複する。 このスギ古櫃年輪パターンはスギ標準パターン 579 年分(AD158~AD736)の一部を構成し、スギ標準パターンそのものがヒノキ標準パターンとの照合で年代が確定されている(「年輪年代法による正倉院宝物木工品の調査」 2001)。そうすると、ヒノキ標準パターンに接続ミスがないとする新井説の立場では、上段と下段で重複する約 90 年間(AD511~AD600 年)は、標準パターン同士が一致しなければならない。ところが、図を見れば分かるようにパターンは似ていない。すなわち、同じ区間でもパターンが一致しない。これが、先程述べたように、「同じ区間のパターンでも、類似しないことは幾らでもある(これが日本の年輪年代法が欧米と違い難しい理由だ)」 ということである。新井流の理屈で言えば、どちらかの標準パターンの区間設定が誤っているとしなければならない。
さて、話を先に進める。 ① 原点に戻り、年輪年代の基礎データが「ブラックボックス」の事を、よくよく考えなければならない。基礎データは国家機密や企業秘密あるいは個人プライバシーに関係せず、本来なら一般公開されるべき代物である。多くの人が公開を求めているのに、光谷氏が一切拒否しているのは、重大な欠陥や矛盾が潜んでいると疑わなければならない。ブラックボックスならぬ「パンドラの箱」かもしれない。箱を開けたら、ぐちゃぐちゃの「お化け」が飛び出すかもしれない。表面的また断片的な光谷情報を疑うのは当然ではないか。 ② この状況で新井氏が示す4事例の比較図 19-1(標準パターン/個別パターン)は、数値が無い概略図(ぽんち絵)に過ぎない。東大寺法華堂通肘木については、目盛りすら無い。光谷氏は概略図(ぽんち絵)を公表する以上、都合良く整合性が有るように多少の加工やお化粧をしている可能性があり、信頼性が乏しい。従って、この概略図(ぽんち絵)から新井氏が計算した「検証用の T 値」も信頼性が乏しい。 ③ 年輪は毎年形成される規則性を持ち、同種の木材(例えばヒノキ同士)ではパターンの区別が難しい。このため、年輪幅のわずかな違いを正確に読み取り、パターンの違いを探るしかない。年輪幅は双眼顕微鏡付きの年輪読取器で 10ミクロン単位まで計測する。そうしないと、確実な「検証用のT 値」は計算できない。光谷氏は、「年輪年代法の基本は、年輪幅を 0.01mm(=10ミクロン)まで正確に読み取ることが重要」と述べている(「年輪年代法による正倉院宝物木工品の調査」2001)。この意味は、「年輪幅を10ミクロンまで正確に測定しないとT値の計算は出来ない、これが鉄則だ」ということだ。
ところが、新井氏は信頼性が乏しい概略図(ぽんち絵)を目視だけで読み取っており、精度は 0.05mm(50 ミクロン)程度さえ怪しい。また光谷氏のグラフを自宅やコンビニで拡大コピーする際、グラフが微妙に歪むこともあり得る。こんなデータ無しのグラフから、まともな「T 値」が計算できるとは思えず類推に過ぎない。従って、類推の T 値による「標準パターンに接続ミスは無い」も類推・想像である。
基礎データから標準パターンの妥当性を検証するのは、オーソドックスな正しい手法である。鷲﨑も、当然この手法を考えた。ところが、肝心の基礎データが「ブラックボックス」で、類推・想像しか出来ない。そこで、同時代記録との対比(照合)を行った。この同時代記録との対比は極めて重要かつ確実で、これだけで「標準パターンには 100 年の狂いがある」と断定できる破壊力をもつ。 新井氏がデータから標準パターンに「接続ミスは無い」との断定を望むなら、まず「生の基礎データ」を入手する必要がある。これは必ずしも不可能ではない。法律に基づき、独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所の松村恵司所長を相手に(光谷氏が相手ではない)、基礎データの開示を求める「開示請求」を行うことである。基礎データは国家機密や企業秘密ではなく、本来は公開すべきものである。また、年輪年代が 100 年狂っているかは古代史に決定的影響を及ぼすので、「開示請求」は認められる可能性が極めて高い。万一、拒否されたら訴訟に踏み切る。これは単純な訴訟であるから裁判が長期化することは考えにくい。鷲﨑は、この「開示請求書」に名前を連ねる事、およびに「訴訟」の場合には原告団に参加する事にやぶさかではない。
――――以上、2012年12月3日、鷲﨑講演での新井氏への反論――――
2. 内野氏が配布した「新井文書」は、出所不明の文書か?
2019年5月11日、光谷氏は「年輪年代法の現状と展望」を講演した(文京区・文化シャッター会場にて)。司会の内野氏が、光谷氏発表資料に新井氏の論考「鷲﨑説・年輪年代の標準パターンに接続ミスはない」を追加添付した。ただ、光谷氏は壇上で「この新井文書は光谷の発表資料ではない」と発言した。
鷲﨑も会場で聴講していたが、鷲﨑もこの新井文書は知らない。後日、内野氏に新井文書の出所を聞いたが返事はなかった。「新井文書」での新井氏の肩書は「工学博士・慶尚大学招聘教授・数理考古学・古代計量史」と4個もの肩書を並べており不自然だ。しかも、新井氏は2009年に韓国国立「慶尚大学招聘教授」を退任し、以後その肩書を使用していない、「元・慶尚大学招聘教授」は使用しているが。従って、この「新井文書」が本当に新井氏自身の作成なのか、疑念が残る。
また、この新井文書は通常記載される「作成日付」がない。ただ、「新井文書」を子細にチェックすると『今年になって「平城京ヒノキ標準パターン」の五〇〇年~八〇〇年の部分がつながったのである。それは、「東大寺法華堂ならびに八角二重壇の年輪年代調査」・・・』と書かれ、この調査報告書は2011年12月の奈文研発行である。ということは、内野氏による新井文書は2012年以降かつ2019年5月光谷氏講演の直前頃の作成の可能性もある。
内野氏は2012年9月4日「考古学を科学する会」の新井氏講演は聴講していたので、今回「新井文書」は、その時の新井講演配布資料が元ネタであろう。しかし、12月3日の鷲﨑講演では内野氏は不参加で、鷲﨑講演資料を会場で受け取っておらず、鷲﨑の新井氏へ反論は知らない可能性が強い。
また、「東大寺法華堂通肘木」も以下グラフのように、内野氏提供図と新井氏本人による佛教藝術321号コピーは相当違う。内野氏提供図は「新井文書」でのグラフとの事だが、本当に新井氏本人の作成なのか?
以下の図は、2012.9.4「考古学を科学する会」の「新井論文」に掲載の佛教藝術321号のコピー
さらに、下の右図「内野氏引用の新井文書(内野氏作成?)」は、本当に新井氏本人の作成なのか? この右図は、左図「新井論文の標準パターン」(2012年9月4日・新井講演)とは図面構成も違う。右図はグラフを横に並べたもの、左図はグラフを縦に重ねたグラフ図で、縦横の構図が違い、作成者が違う可能性もある。
3. 内野氏の季刊「邪馬台国」137号(2019年12月)の論文
「魏志倭人伝・考古学・記紀・神話から読み解く邪馬台国時代の年代論」――以後、この内野氏論文を「内野2019論文」と表示する。
また、この鷲﨑論文「年輪年代法の問題点―弥生古墳時代の100年遡上論は誤り」を、以降は「鷲﨑2021論文」と表示する。
さて、2019年5月11日の光谷講演「光谷2019論文」の会場で司会した内野氏は、その後、季刊「邪馬台国」137号で「光谷2019論文」を以下のように支持擁護・解説をしている。
- 内野氏解説
- ⇒ ① 検証の結果100年狂っていると言われる旧標準パターンと鷲﨑氏が正しいと言われる新パターンはt値で見ると極めて同調性が高い。及び問題視されている平城京跡のE、Fパターンの年代照合を新旧標準パターンで行うと双方とも高い t 値が得られ新旧パターンでの強い一致を示す。
- 「鷲﨑2021論文」Ⅳ)で詳細反論済
- ⇒ 旧標準パターンE・Fおよび新標準パターンG・Hは全てブラックボックスで第三者は中身を誰も見れない。透視術でも使って中身のデータを見た人がいれば教授して欲しい。「新旧パターンでの強い一致」は光谷氏の「ご託宣」でエビデンス(具体的証拠)は何も無い。「t値」の計算根拠やデータを全く示さず結果だけ「正しい」と主張しても全く信憑性がない。まず、データ公開を!
- 内野氏解説
- ⇒ ② 法隆寺、紫香楽宮の多数の試料の中での100年の誤差は旧パターンの誤差ではなく、樹皮型、辺材型、心材型など芯に近づくほど年代が古く出る木材の木取りの違いである。同じ木材でも心材型の試料ほど100年~300年の差が出る
- 「鷲﨑2021論文」Ⅱ)で詳細反論済
- ⇒ 樹皮型、辺材型、心材型で木取りが違うことを十分配慮した上で、法隆寺、紫香楽宮、元興寺、法起寺は測定値が記録と明らかに100年違うと指摘した
- 内野氏解説
- ⇒ ③ 法隆寺から出た心柱1本が年代594年伐採がでた。新旧標準パターンで比較照合した結果、いずれも高いt値(きわめて同調性が高い)である。ほかの辺材型試料に比べて約80年近く古く出ることについては、約80年前の古材の「転用説」、「貯木説」などいずれが妥当か、いまだ謎である。
- 「鷲﨑2021論文」1)で詳細反論済。
-
⇒法隆寺五重塔心柱の問題は光谷氏も説明に苦慮し、「謎」とするだけ。「転用説」、「貯木説」、「相輪塔説」「二寺併存説」「大宰府観世音寺移築説」など思い付きばかりで、記録との100年乖離の根拠は何も示さない。
要するに「謎」ではなく、単純に「測定値が100年狂っている」、という事⇒標準パターンが飛鳥時代で「100年接続ミス」。 - 内野氏解説
- ⇒ 紫香楽宮跡の柱根(心材型)が200年古く出ているのは法隆寺の例と同じで、大径木の外周部で木取りされたものは他の建築部材に使われ、中心部は柱として使われた可能性がある。
- 「鷲﨑2021論文」Ⅴ)で詳細反論済
- ⇒ これは重要な問題で、ケースC:「原木から板材・柱の両方を木取り」で検証した。「大径木の外周部で木取りされたものは他の建築部材に使われ、中心部は柱」の条件が適用可能は、「柱」がせいぜい2~3m以内の短尺柱のみ。大型建物では長尺柱(10~20m)が使用される事が非常に多い。その場合、原木から「板材」「柱」両方を木取りは、通常の大工工程では無理。紫香楽宮の宮殿柱は長尺の大径木で、原木丸太の外から200層も削り一般板材を同時に木取りは無理(下の図)。光谷氏の説明には、錯覚・間違いがある。これに関連し、大型建物での長尺柱の使用例として法隆寺五重塔・法起寺三重塔・池上曽根遺跡大型建物・紫香楽宮・東大寺大仏殿・東大寺南大門・薬師寺三重塔の7事例を写真付きでこの論文に掲載しておいた。
- 内野氏解説
- ⇒統計学者でもある安本美典先生はすでに一般公表されてあるデータを検証し100年の接続ミスはあり得ないとした。炭素14の専門家の新井宏先生もとぎれとぎれに公表されている平城京ヒノキ標準パターンをつなぎ合わせてそれをつなぐと矛盾なくつながり未発表の平城京ヒノキ標準パターンAD500年からAD800年までを再現し接続ミスはないとした。
- 鷲﨑コメント:
-
〇安本美典氏について
2019年5月11日の光谷氏講演に安本氏は途中から聴講されたが、あまり発言されなかった。安本氏の発言は「鷲﨑さんを入れて3人で議論しましょう」、ぐらいと記憶している。なお、前月の4月に安本氏から鷲﨑へ直接電話があり年輪年代法について、2時間強も意見交換(議論)した。
電話会談で、鷲﨑より安本氏へ「年輪年代法の標準パターンを見たことが有りますか?」と質問したら、
① 標準パターンそのものを光谷氏から見せてもらったことは無い
、② 標準パターンの基礎データを光谷氏からもらったことも無い
、③ 基礎データをもらって統計処理で検証したことも無い
、との返事だった。ただし、④ 光谷氏の年輪年代法は統計手法としては優れている(ドイツの年輪年代法の高い統計手法を導入)
、
とのこと。要するに手法は優れているが、標準パターンそのものと基礎データは検証をしていないとのこと。なお、安本氏は、「邪馬台国の会」2010年第295回で「年輪年代論」を講演した。
〇新井宏氏について
「邪馬台国の会」HP掲載の講演記録の最後に、安本氏は「なお、鷲﨑弘朋氏が、年輪年代の基準データのつなぎ目が、ある年代で100年ほどずれていることを指摘している。この表のデータもそのように見えなくもない」、と述べている。以上のように、安本氏は光谷氏「年輪年代法」を必ずしも100%支持しているわけでは無い。2019年5月11日の光谷氏の講演会に、新井氏は出席せずコメントは何も無し。
- 「鷲﨑2021論文」
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⇒ この「鷲﨑2021論文:「Ⅵ)標準パターンの接続ミス」で、標準パターンの接続問題は新井氏へ反論済。
なお、鷲﨑/新井の論争は2012年12月3日の鷲﨑からの反論が最後で、新井氏は「もう『考古学を科学する会』では講演しない」と論争からの撤退を事前に表明し出席しなかった。このため、後日、鷲﨑より新井氏へ【12月3日講演資料】全文を郵送した。
新井氏は、もともと年輪年代法は100年の狂いがあると疑っていた。しかし、炭素14年代と比較したら整合性があると「光谷氏の年輪年代法は正しい」と、一度は支持派擁護派へ転向した
年輪年代法に関する鷲﨑と新井氏の議論は、安本美典先生の仲介で個人書簡のやりとりで始まり、その後2011~2012年に「考古学を科学する会」を舞台に鷲﨑/新井論争が実施された。議論の焦点は炭素14年代と年輪年代法の整合性であった。新井氏は11事例を挙げて、年輪年代と炭素14年代の測定値が全て整合性が有るので、光谷氏「年輪年代は正しい」、と主張した。
これに対し鷲﨑は、①飛鳥奈良時代の記録との整合性、②土器編年や貨泉等の考古学通説での検証、③年輪年代と炭素14年代との整合性――から多面的に検証し、「年輪年代法は100年狂っている」と主張した。炭素14年代との整合性は、新井氏は国際較正曲線を使用しての主張であった。鷲﨑は、炭素14濃度の地域差から日本産樹木較正曲線で判断すべきと主張した。今回、最新の国際較正曲線INTCAL20(2020年8月発表)によって、鷲﨑主張の正しさが裏付けられた
鷲﨑は飛鳥奈良時代の記録との整合性を最も重視してきた。新井氏へ「飛鳥奈良時代15事例全部で、年輪年代が記録と100年違うのをどう思うか?」、と質問したら「奇妙な現象・・・」との反応しか無かった。
結論:年輪年代法の旧標準パターンは、飛鳥時代で100年の接続ミスを起し、640年以前の測定値は全て100年狂っており、弥生古墳時代の100年遡上論は成立しない。
以下、補足説明――――――
【補足説明】:木曽系新標準パターン(BC705~AD2000)の作成経緯
月刊誌『歴史読本』2009 年 8月号で、光谷氏はBC705~AD2000 年の2700 年間に及ぶ「新しい木曽系ヒノキ標準パターン」を作成済みと発表した。これは、同一地域(木曽)の埋没樹幹という良好な試料から作成され、「旧標準パターン」とは全く別物。「旧標準パターン」は全国各地(平城宮跡、木曽ヒノキ現生木、東大寺二月堂、清州城下町遺跡、一乗谷朝倉氏館跡、東京一橋高校遺跡、鳥羽離宮遺跡、広島草戸 千軒町遺跡など)の年輪パターンを寄せ集めて繋いだもの。一方、「新木曽系ヒノキ標準パターン」 は木曽系だけで 2700 年間もカバーし、「旧標準パターン」を修正・重畳した代物ではない。現在でも両者はそれぞれ別々に存在している。ただし、データがブラックボックスになっており、無批判には信用できない、検証が必要。
埋没ヒノキ樹幹の出現 | 測定時期 | 最外年輪 | 標準パターンとの照合 |
---|---|---|---|
2000~2002年 7本 辺材型、心材型 |
2003年5月以前 | AD710 687 682 657 609 600 556 |
AD640年以降を示す4本は、旧い標準パターンとの照合(特に問題なし) AD640年以前を示す3本は上記4本との間接照合(旧い標準パターンと照合するより精度が低い) |
2003年5月及び以降 2本、樹皮型 |
2003年6~11月 | AD714 714 |
旧い標準パターンとの照合(特に問題なし) |
- この表は左右スクロール可能
天竜川支流の遠山川河床ヒノキ :地元の研究誌『伊那』で寺岡義治氏が以下報告「遠山川埋没林の検証」 (2001)、「続遠山川埋没林の検証」(2003)。 すなわち、発掘責任者の寺岡義治氏は大地震の記録を知っており、それとの関係で埋没林の調査を長年にわたり行ってきた。これは、2002 年 5 月 11 日に放送された伊那毎日新聞のインタビューで「遠山川の埋没林は現在までの調査で 714 年の秋までは生命活動を続けていたことが分かっています」と発言しているので明らか(伊那毎日新聞記事)。また、それ以前にも 2001 年 11 月 4 日の伊那毎日新聞ニュース放送で、飯田市美術博物館の村松学氏が「1300年前に発生した山の大崩落で埋まった埋没林」と発言している。更に遡ると、2000 年 4 月の『伊那』で、寺岡氏は「古代史記述と埋没木の検証」として取り上げている。つまり、地元ではこの埋没林が 714 年(『扶桑略記』)または 715 年(『続日本紀』)に発生した大地震によることは常識だった。従って、年代測定を光谷氏へ依頼した時点で、寺岡氏と光谷氏は 714 年または 715 年に山崩れで一斉に埋没したのを最初から分かっていた。そして、2003 年 11 月に「714 年」と確定した―――以上、木曽系新標準パターン作成経緯の説明。
いま提示した「木曽系新標準パターン」は、光谷氏が示した以下の図1の「木曽系ヒノキ新標準パターンG」(BC1106~AD2000)の骨格に組み入れられていると思われ、旧標準パターンより精度は高い。しかし、この新パターンもブラックスボックスとなっている。光谷氏がこの新パターンで測定した結果を発表しても無批判には信用できない。やはり、新標準パターンの全貌と基礎データの開示が必要。旧標準パターンとは別物だが、極論すれば、ブラックスボックスにしておけば、何とでも言える。
【補足説明】:旧標準パターンE(BC37~AD838)の接続ミスは飛鳥時代か
鷲﨑は、旧標準パターンEが飛鳥時代のAD640年頃で接続ミスを起こし、AD640年以前の測定値は全て100年狂っていると指摘している。その根拠は主に以下三つの理由である。
1.思考実験による検証(2012.12.03「考古学を科学する会」での鷲﨑講演
「年輪年代法の問題点―真の科学的思考とは」)
以下において、鷲﨑なりの「思考実験」を行ってみるとしよう。
ヒノキ標準パターンE(BC37~AD838)は、平城宮跡から出土したヒノキ22点から作成された。この作成データを『年輪に歴史を読む』(1990)から抜き出すと以下の表9の通りである。これ以上のデータは無い。光谷氏の説明では、試料が15点以上存在する区間はAD419~AD639年の220年間だけである。また指標年輪部が存在するのはAD353~609年の区間の5か所(353 、515、548、568、609年)で、AD610~838年の区間には存在しない。
これを概念図(ぼんち絵)にすると、おおよそ図21となる。
- 22点の試料は柱根(丸太)2、曲物12、井戸材5、その他3で、高品質の柱(丸太)が2点しか無いのが目につく。つまり、この22点は標準パターン作成の試料としては、品質が悪い。
- 標準パターンは15点以上の試料のパターンを平均して作成する(欧米では20点以上)。ところが、Eパターン(BC37~AD838)の中で15点以上は区間Ⅱ(AD419~AD639)の 220 年間だけである。特に、区間Ⅲ(AD639~AD838)はわずか3点程度しか無く、標準パターンとして非常な不安がある。
- 標準パターンの作成は、「指数年輪部」の確認は大変重要である。この指数年輪部を基準として標準パターンを作り上げるのが原則である。ところが、区間Ⅲ(AD639~AD838)の 200 年は指数年輪部が1か所もない。標準パターンとして非常に問題。区間Ⅲに指数年輪部が存在しないのは、標準パターンとして、本来は致命的欠陥。
-
表9でのT値の分布を見ると、区間Ⅲの試料3点(No.1、2、3)は、区間Ⅱ、Ⅰと異質なのが分かる。すなわち、照合成立の目安となるT値=5.0以上は、No.3試料とNo.10試料のT値=6.8の1組みだけで、他の組み合わせは全て照合不成立の「*印」である。これから判断すると、区間Ⅲ(3点)は区間Ⅱと正しく接続しているのか非常に疑わしい。例えば試料No.1は 333 層あり、これをAD506~AD838とすれば、区間Ⅱと134層が重複する。ところが、試料1と区間Ⅱの15点(試料No.4~18)とのT値は全て5.0未満であり、とても接続しているとは言えない。
要するに、区間Ⅱと区間ⅢはAD639年/640年を境に大きな段差があり、この付近で接続ミスがあった可能性が高い。鷲﨑はこの段差(断絶)を疑い、「AD640年以前は100年狂っている」と指摘した。 - 一方、区間Ⅱ(AD419~AD639)の15点(No.4~18)は相互のT値が高く(表2の網掛け部分)、また区間内で指標年輪部が4か所もあり、区間Ⅱ単独としては正しい標準パターンと言えよう。
この状況からすると、以下の推定が成り立つ。
標準パターンE(BC37~AD838)は、本来は「Ⅱ区間」と「Ⅲ区間」を約100年間ダブらせて接続すべきであった。その場合、Ⅱ(15点)とⅢ(3点)とのT値は低いと想定される。しかし、これは前々項「繋がった標準パターンによる検証」で指摘したように、「同じ区間のパターンでも、類似しないことは幾らでもある(これが日本の年輪年代法が欧米と違い難しい理由だ)」、ということである。また、表9ではⅡ(15点)とⅢ(3点)相互のT値がもともと低く、Ⅱ・Ⅲを100年間ダブらせても大きくは変わらないと思われる。
以上、鷲﨑なりの「思考実験」を行った。しかし、これは鷲﨑の類推(思考実験)による見方である。だから、新井氏が「標準パターンに系統的な誤りはない」との断定をあくまで望むなら、「生の基礎データを入手する必要がある」と指摘したのである。そういう意味で、鷲﨑も基礎データの公開を奈良文化財研究所に求めたい。
2.飛鳥奈良時代の記録および考古学通悦との比較
前述の表「飛鳥奈良時代:年輪年代と文献の整合性(一覧表)」で、測定値がAD640年以前を示す15事例がある。この15事例を全部100年修正すると、記録と全て整合性がとれる。また、弥生中後期・古墳時代の6事例も、100年修正すると、年輪年代法登場以前の考古学通説と一致する。
3.炭素14年代との整合性
2020年8月、炭素14年代の国際較正曲線が改定された。この最新版「INTCAL20」によって、1~3世紀は、国際較正曲線=日本産樹木較正曲線となった。従来、鷲﨑は年輪年代と炭素14年代の整合性について、日本産樹木較正曲線を使用すべきと主張してきた。今回、最新版「INTCAL20」に日本産樹木較正曲線が採用された。これにより、鷲﨑説による年輪年代と炭素14年代の整合性は正しい事が証明されることになった。
以上