最終更新日:
2024/08/30

特別保存論文

年輪年代法の弥生古墳時代100年遡上論は誤り

著者:鷲﨑 弘朋
初出:2020.11.01

Ⅰ)飛鳥奈良時代:年輪年代「測定値」が記録と100年違う

法隆寺五重塔ヒノキ心柱
(直径82cm、樹皮型)

607年創建の法隆寺は、670年に全焼(日本書紀天智九年)、7世紀末~8世紀初の再建とされる。

法隆寺五重塔(670年全焼後の再建)

1941~1952年の解体修理に際し、厚さ 10 cmの円盤標本が切り取られ、京都大学に保管されていた。

  1. 測定値は594年伐採。心柱は五重塔(免震)構造上から最も重要で、100年前の古材転用は建築学では考えられない(建築学の鈴木嘉吉氏、藤井恵介氏)。また解体修理時に、心柱に転用取扱い跡や転用加工跡はなかった。
  2. 貯木場に100年保管していたとの説も、まず考えられない。
  3. 2002~2004年の法隆寺西院伽藍の調査でも、樹皮型・辺材型11点の中で心柱以外は全焼記録と整合性があるのに、なぜ心柱だけが突出して古く、異様な数値(後述)⇒今でも謎のまま

ではなく、測定値は100年狂っており694年伐採が正しい。

以下において、法隆寺、元興寺、紫香楽宮、法起寺、東大寺正倉院の年輪測定値を記録(日本書紀・続日本紀・元興寺縁起・元興寺記録・東大寺記録・聖徳太子伝私記・法隆寺記録「別当記」など)と比較する。

この法隆寺五重塔心柱の測定は2001年だが、肝心の 旧標準パターン の基礎データは公開されておらず ブラックボックス化しており 、 作成者の光谷氏以外は誰も科学的妥当性を検証していない。これにつき、多くの識者(肩書は発言当時)が以下のように指摘した。

『日本の年輪年代法は、信頼性の検証は難しく、結論を急ぐ必要はない』(東大名誉教授の太田博太郎氏)、『光谷氏が独自に開発したこの手法の基礎データは公開されておらず、チェックする同業者が一人もいない。自然科学の実験データや操作は互いにチェックし合う者がいないほど危ういものはない』(橿考研調査研究部長の寺沢薫氏)、『古い木材を転用しようにも法隆寺以前の時期に大和にそんな巨大な建物は無い。悩ましい問題が起きた』(京都教育大教授の和田萃氏)、『(法隆寺の問題は)なぜそんな柱が使われたのか不思議としか言いようがない』(成城大名誉教授の上原和氏)、『(法隆寺の問題は)とても理解できず説明する準備もない。説得力のある見解を聞いたこともない』(東大准教授の藤井恵介氏)、との批判は当然のことである。

肝心の旧標準パターン(BC37年~AD838年)の基礎データはブラックボックスで誰も検証しておらず、「統計的に洗練され測定結果は信頼できる」との誤った評価は、エビデンス(具体的証拠) が無い心証・印象に過ぎない。

元興寺禅室の部材(巻斗・頭貫)

*元興寺禅室は、僧坊の一部を鎌倉時代に改築したもの。巻斗(樹皮型、建物の横材を支えるヒノキ部材。38cm四方、高さ27cm)と頭貫(樹皮型に近い辺材型、屋根裏の横柱)582年、586年頃の伐採と測定された。

元興寺
  1. 596年完成(元興寺縁起、日本書紀)の飛鳥寺は平城京遷都に伴い718年に飛鳥から平城京へ移転(続日本紀)。
  2. 中核の金堂・塔は「本元興寺」として飛鳥に残り、僧坊も残った⇒平城京の元興寺は新築
    • * 本尊の飛鳥大仏は21世紀の今も飛鳥寺に鎮座する(日本最古の丈六銅仏)。
    • * 塔は1196年(建久七)に落雷で焼失するまで飛鳥に存在(元興寺記録)。
    • * 1956~1957年の調査で、舎利容器、「本元興寺」「建久七年」と書かれた木箱、蘇我馬子が創建時に埋納した玉類・金環等の宝物等が塔跡から発掘された。
  3. 本元興寺と元興寺は併存、禅室部材が飛鳥から運ばれ平城京の元興寺で再利用されたとの移築説は誤り ⇒年輪年代が100年狂っている。
  4. 光谷氏は、「現在の元興寺本堂(極楽堂)の屋根の一部には、この飛鳥時代の瓦が葺かれており、奈良に運ばれ使われた」とする。しかし、屋根瓦は平城京で元興寺新築の際、飛鳥寺と同じ行基葺様式(百済系)の瓦を新たに製造しただけのこと。
<移築と寺号受け継ぎ>

710年、藤原京から平城京への遷都に伴い相当数の寺社が移転した。しかし、平城京の元興寺は飛鳥寺からの単なる寺号(称号)受け継ぎで、飛鳥寺は遷都後も「本元興寺」として永く飛鳥の地に残ったのは多くの記録から明白。飛鳥寺を解体して、その木材を平城京へ運び元興寺を建設したとの光谷氏「年輪年代測定値による移築説」は全くの誤り。すなわち「移転」とは「移築」と「寺号受け継ぎ」の異なる意味がある。日光東照宮も久能山東照宮からの称号引き継ぎで「移築」ではない。

1197年の元興寺記録(弁暁『本元興寺塔下掘出御舎利縁起』によれば、飛鳥寺(本元興寺)の塔は前年1196年(建久7年)に雷で全焼し基壇上部が失われ、翌1197年に掘り出された仏舎利と金銀容器などの埋納物が再び埋め戻されたと記録され、ごく近年1956~1957年の発掘調査でこれが確認された。このように、多くの記録や発掘調査からは、飛鳥寺は平城京遷都後も「本元興寺」として永く飛鳥に残ったのは明白。従って、飛鳥寺を解体して部材を平城京へ運び奈良「元興寺」で再利用との光谷氏「ブラックボックスの年輪年代」は誰も検証しておらず、非科学的で全く成立しない。

もう一つ「瓦」の事だが、瓦は「型」での大量生産品で「型」は100年間も使用され同じ「型」で製作された瓦の製作年代が100年違うこともある。また、大阪府南部の須恵器生産の陶邑の窯も100年使用されたこともある。従って、元興寺屋根瓦が飛鳥寺の瓦と同じような行基葺様式で平城京時代に製作されても不思議ではない(同じ型を使ったか行基葺様式の新型で製作)。遷都に伴い藤原京から平城京へ移転した薬師寺も同様。今般薬師寺東塔の解体修理に伴い、東塔(三重塔)心柱の最外年輪が719年、また1階天井板2点は樹皮も残り729年と730年伐採と発表された(2016年12月)。これは『扶桑略記』(平安時代1094年作)で三重塔の建立が天平二年(730年)とする記録と全く一致する。すなわち薬師寺も「寺号受け継ぎ」で「移築」ではなく、藤原京の薬師寺は「本薬師寺」として平安時代まで存在し(後に廃寺となり現在は礎石だけ残る)、薬師寺の「移築」「新築」100年論争はついに決着した(記録VS様式論争は記録の勝利)。

紫香楽宮跡出土の柱根9本

紫香楽宮は、聖武天皇が742年に造営を開始し、745年に短期間都とした(続日本紀)。

柱根
  1. 第1群5本(No.1~5柱。樹皮型、辺材型)は続日本紀と一致
  2. 第2群4本(No.6~9柱。心材型)は続日本紀と約200年違うこの4本の測定値は100年狂っているか、100年前の古材使用
紫香楽宮跡の試料年輪年代文献の建築年代整合性
No.1柱 樹皮型 第1群AD743AD742~743
No.2柱 樹皮型 同上743AD742~743
No.3柱 樹皮型 同上743AD742~743
No.4柱 樹皮型 同上742AD742~743
No.5柱 樹皮型 同上741+𝛼AD742~743
No.6柱 心材型
第2群
530+𝛼AD742~743×
No.7柱 心材型
同上
533+𝛼AD742~743×
No.8柱 心材型
同上
561+𝛼AD742~743×
No.9柱 心材型
同上
562+𝛼AD742~743×
紫香楽宮跡の第2群4本
(文献と200年違う)

ヒノキの場合、1年(1層)は 1mm。200年は、200層 × 1mm =20cm に相当し、直径80cmの原木の全周を外から20cm削り直径40cmの柱に仕上げたことになる⇒断面積の75%を削り取った宮殿の柱となるがあり得ない。削り分は最大100年まで(下図)

結論:測定値が640年以前を示す第2群4本は、100年狂っているか100年前の古材使用の二者択一

丸太の削り方
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法起寺三重塔ヒノキ心柱
(直径70cm、心材型)
  • * 法起寺は聖徳太子の岡本宮を後に寺にしたもの
  • * 三重塔の建立は706年頃(聖徳太子伝私記や法隆寺記録「別当記」が記録する露盤銘)
法起寺三重塔
  1. 年輪年代は572+𝛼 年(心材型)で、文献と134年違う。ヒノキの場合、年輪1層は約 1mm で、134層(年)は 13.4cm に相当する。
    そうすると、原木の直径は70cm + 26.8cm(13.4×2)=96.8cm、すなわち約97cmとなる。これを比較すると、直径70cm心柱は直径97cm原木の断面積のちょうど50%を削り取って柱に仕上げたことになる。
    しかし、これはまず考えられない。
  2. 法隆寺五重塔心柱は樹皮型。これを踏まえ、法起寺三重塔心柱が134層も削られたのは光谷拓実氏も疑問とする。
  3. 現状は古材使用と説明しているが、100年修正して新材のヒノキとするのが正しい。
東大寺正倉院
正倉院の試料年輪年代建築年代整合性
No.1 心材型AD600+𝛼AD760頃×
No.2 心材型594+𝛼AD760頃×
No.3 心材型639+𝛼AD760頃×
No.4 辺材型714+𝛼AD760頃
No.5 辺材型741+𝛼AD760頃
No.6 辺材型716+𝛼AD760頃
No.7 心材型679+𝛼AD760頃
No.8 心材型576+𝛼AD760頃×
No.9 心材型569+𝛼AD760頃×
No.10 心材型576+𝛼AD760頃×
No.11 心材型556+𝛼AD760頃×
No.12 心材型719+𝛼AD760頃
No.13 心材型718+𝛼AD760頃
No.14 心材型677+𝛼AD760頃
No.15 心材型709+𝛼AD760頃
東大寺正倉院
正倉院建築はAD760年頃
(東大寺記録)
  1. 「×」表示7点の年輪年代と建築年(AD760)の平均乖離は173年。一方、この7点の残存年輪は平均177層(175, 99, 204, 153, 226, 207, 179層)。
    ということは、板面積の約50%【173層÷350層(173+177)=49.4%】を切断処理したことになるがあり得ない。
  2. 測定値が640年以前を示す7点すべてが100年前の古材使用となるが考えられない。
飛鳥奈良時代:年輪年代と文献の整合性

測定値が AD 640年以前 の15事例(表の赤字)は全て旧標準パターン(BC37年~AD83年)で測定し、記録と全て 100~200年 違う。測定値が正しければ、この15事例が 全て古材使用 でないと説明不能。逆に、この15事例の年代を100年修正すると、記録と全て整合性がある。そして、これら15事例以外に記録と比較可能な事例は存在しない。

建築物の試料分類測定
実施年
①年輪年代
測定値
(※1)
文献の
建築年代
整合性②100年
修正後の
測定値
(※2)
100年
修正後
整合性
法隆寺五重塔
 心柱
樹皮型2001年AD594AD673
~711
×AD694
 同金堂 天井板樹皮型2002~
2004
667, 668673~711
 同五重塔 部材辺材型2002~
2004
673+α673~711
 同中門 部材辺材型2002~
2004
685+α673~711
法起寺三重塔
 心柱
心材型1990
以前
572+α706~709×672+α
元興寺禅室
 巻斗
樹皮型2000582710~718×682
 同 頭貫ほぼ樹皮型2010586+α710~718×686+α
紫香楽宮跡
 No.1柱
樹皮型1985743742~745
 同  No.2柱樹皮型1985743742~745
 同  No.3柱樹皮型1985743742~745
 同  No.4柱樹皮型1985742742~745
 同  No.5柱ほぼ樹皮型1985741+α742~745
 同  No.6柱心材型1985530+α742~745×630+α
 同  No.7柱心材型1985533+α742~745×633+α
 同  No.8柱心材型1985561+α742~745×661+α
 同  No.9柱心材型1985562+α742~745×662+α
東大寺正倉院
  No.1板
心材型2002600+α760頃×700+α
 同  No.2板心材型2002594+α760頃×694+α
 同  No.3板心材型2002639+α760頃×739+α
 同  No.4板辺材型2002714+α760頃
 同  No.5板辺材型2002741+α760頃
 同  No.6板辺材型2002716+α760頃
 同  No.7板心材型2005679+α760頃
 同  No.8板心材型2005576+α760頃×676+α
 同  No.9板心材型2005569+α760頃×669+α
 同 No.10板心材型2005576+α760頃×676+α
 同 No.11板心材型2005556+α760頃×656+α
 同 No.12板心材型2005719+α760頃
 同 No.13板心材型2005718+α760頃
 同 No.14板心材型2005677+α760頃
 同 No.15板心材型2005709+α760頃
  • ※1:AD640年以前の測定値に付けられた「+α」は、年輪年代の「狂い100年分」と外からの「削り分」の合計
  • ※2:「+α」は外からの削り分
  • この表は左右スクロール可能
  1. 心材型柱(丸太)の「+α」は、削り分だけなら最大約100年まで(辺材部「35~70層」+α=約100層)。例として、紫香楽宮跡No.6~9柱(直径40㎝程度)は文献(続日本紀)と約200年違う。樹齢200~400年のヒノキの場合、1層(1年)は平均1mmで200層×1mm=20cmに相当し、直径約80cmの原木の周囲両サイド20cmを削り直径約40cmの柱(丸太)に仕上げたことになる。これは断面積の75%を削った柱となるが有り得ない。従って測定値に削り分最大約100年を加算しても文献となお相当乖離すれば、古材使用または測定値の誤りで「×」表示。
  2. 測定値がAD640年以前を示す15事例中で、記録と200年ぐらい乖離するのは12事例で全て心材型。
    これらは全て「年輪年代の狂い100年+外から削り100年分=約200年」で、記録との乖離を説明できる。
    残り3事例(樹皮型)は単純に測定値の誤り(年輪年代の狂い100年)。紫香楽宮の事例のように丸太を外から200層(年輪200年分)も削り柱に仕上げることはあり得ない。逆に年輪年代が正しければ、200年乖離を削り分で説明できるのは約100層(100年)まで。残り100年分は古材利用となる。その場合、この12事例を含む15事例が全て古材利用にしないと説明不可能。しかし、いくら古代でも全てが古材利用はあり得ない。これは、後で述べる弥生古墳時代の事例も全く同様。

Ⅱ)弥生古墳時代:年輪年代「測定値」が考古学通説と100年違う

弥生中後期・古墳時代
(ヒノキ及びスギ)

貨泉や土器と比較し、検証可能な6事例も100年違う。全て旧標準パターン(BC37年~AD838年)で測定

貨泉(中国でAD14~AD40年の短期間に鋳造された銅銭で年代論の定点)問題からは、日本での貨泉出土状況から見て、池上曽根遺跡ヒノキ柱根No.12のBC52年伐採は成立しない(寺沢薫氏などの指摘)。

遺跡の試料分類年輪年代
測定時期
年輪年代
測定値
従来の
遺跡年代
整合性100年
修正後
整合性
兵庫県
武庫庄遺跡
辺材型1997年BC245+𝛼BC1世紀×BC145
 +𝛼
岡山県
南方遺跡
辺材型1996頃BC243+𝛼BC1世紀×BC143
 +𝛼
滋賀県
二ノ畦横枕遺跡
樹皮型1995BC97、BC97
BC60
AD50頃×AD3、
AD40
大阪府
池上曽根遺跡
樹皮型1996BC52AD50頃×AD48
纏向
石塚古墳周濠
辺材型1989AD177+𝛼AD280
~310
×AD177
 +𝛼
纏向
藤山古墳周濠
辺材型2001AD199+𝛼AD290
~320
×AD199
 +𝛼
  • この表は左右スクロール可能

上表での弥生中後期と古墳時代は、測定値が従来考古学通説の遺跡年代より100年古い。

  1. 石塚古墳周濠のヒノキ板は、炭素14年代がAD320年(1994年、古城泰氏測定)。
    従来の考古学通説で、石塚古墳は土器年代(編年)を根拠に、4世紀初頭頃の築造とされてきた。炭素14年代のAD320年は従来通説と一致する。
  2. 池上曽根遺跡ヒノキ柱根NO.12の最外輪から内側100層分は、なぜかC14年代が測定されていない。柱根の近くに落ちていた木の小枝のC14年代は炭素年代2020BPを示し、INTCAL20で実年代(暦年)換算はBC50~AD100と年輪年代のBC52年と整合性がない。炭素14年代測定値の中心はAD1~50年頃で、従来通説(AD1世紀中頃~1世紀後半の遺跡)と一致する。遺跡は大阪湾海岸から2㎞の至近距離で、海洋リザーバー効果で炭素年代が古く出ている可能性が強い。また、遺跡近隣の和泉産ヒノキ丸太が掘立柱に使用されており、50~150年程度の海洋リザーバー効果を見込む必要がある。
  3. 滋賀県琵琶湖周辺(二ノ畔横枕遺跡、下之郷遺跡)は伊吹山や霊前山などの石灰岩地帯の湧水、河川水等泥炭層に由来する古い炭素の影響で炭素濃度が低下し、琵琶湖水の炭素年代は実際(真実の年代)より300~450年古い測定値となっている(宮田佳樹:2013年3月名古屋大学加速器質量分析計業務報告書)。このため、琵琶湖周辺遺跡の炭素年代は、参考とならない。

年輪年代法の測定値で AD640 年以前を示す事例は、全て 100 年古く狂っている。これは、次頁に示す旧標準パターン(BC37~AD838)の飛鳥時代AD640年頃に「100年の接続ミス~系統的な誤り」が有るからだ。すなわち、 ① 飛鳥奈良時代の 15 事例 は記録(日本書紀・元興寺縁起・続日本紀・東大寺記録・聖徳太子伝私記)と比較すると、全て 100 年狂っている。他に検証可能な事例は存在しない。 仮に測定値が正しければ 15 事例は全て 100 年前の古材使用としなければ説明不能。古代は木材が貴重品だったのは事実だが、重要建築物の構造材(柱など)は原則的に新材使用で、古材転用(使用)を過大評価すべきでない。木材使用は新材か古材の二者択一(丁か半か。コインの表か裏か)しかない。仮に古材比率を 50%まで認めたとしても、15 事例全てが古材の確率は 0.5×0.5×0.5・・・即ち 0.5 の 15 乗=0.00003 と 1 万分の 1 以下で、ほとんどあり得ない。 ② 弥生古墳時代 も貨泉(AD14~40 年鋳造で年代論の定点)等との比較で 検証可能な 6事例も 100 年狂っている。仮に測定値が正しければ、飛鳥奈良時代を含めた 21 事例は全て古材使用となるが、その確率 は 1000 万分の 4 で、ほとんど DNA 鑑定並み の精度で「 旧標準パターンには系統的な誤りがある 」 と断定できる。

ヒノキの旧標準パターン
(BC317~AD1984)
  1. 旧標準パターンは、1985年にBC37年まで作成、1990年にBC317年まで延長された(図は『年輪に歴史を読む――日本における古年輪学の成立』1990より)
  2. パターン(BC37~AD838)は飛鳥時代で接続に失敗し、AD640年以前は100年狂っている。これと連結した(BC317~AD258)も同様。なお、は標準パターンとするのに躊躇する問題があり、2001年に先端約100層を削除し「BC206~AD257」へ変更されている(後述)。
旧標準パターン図解
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(注)ヒノキ、スギ、コウヤマキの標準パターン

標準パターンはヒノキが基本。また、スギはヒノキと年輪パターンが大変似ており、ヒノキと連動させているので、ヒノキが狂えばスギ標準パターンも同時に狂う。ただし、この他に独立のコウヤマキ標準パターン(AD22~AD741年)があり、ヒノキとは非連動で、これはほぼ正しい。光谷拓実氏は、当初はコウヤマキをヒノキに連動しようとしたが、相関係数が0.258と異常に低く(悪く)、連動は失敗した。

その後、平城京跡および隣接の法華寺跡出土コウヤマキ柱根15本から標準パターンを作成し、その先端はAD741年で、ヒノキと一応連動すると設定した。これは、平城京時代(AD710-AD784)のど真ん中のAD741年頃伐採のコウヤマキ丸太で、年代設定に大きな狂いはない(狂っても20~30年か)。

従って、大阪府狭山池遺跡出土のコウヤマキ製の樋の測定値AD616年伐採は、ほぼ正しいと思われる。

以上