最終更新日:
2024/08/30

特別保存論文

吉備の古代史シリーズ 第1回

ふたりの天皇が行幸された谷

著者:NPO法人福岡歴史研究会副理事長 石合 六郎
初出:2021/06/29
目次
  1. <はじめに>
  2. <コピペではない>
  3. <備中誌とは>
  4. <応神天皇と兄媛に関する部分>
  5. <黒媛と仁徳天皇に関する部分>
  6. <地名が補強材料に>
  7. <吉備にあった兄媛命、黒媛命の墳墓>

<はじめに>

5世紀に大和朝廷の大王(おおぎみ)が二代にわたって訪れた谷が吉備にある。岡山市北区足守の「深茂(ふかも)」という谷である。ふたりの天皇とは応神、仁徳の両帝だ。

応葦守八幡宮
「岡山縣指定史蹟
葦守八幡宮」の碑➡

古事記には仁徳帝が黒媛命を、日本書紀には応神帝が兄媛命を慕って訪れた逸話が載っている。古事記と日本書紀は編集時期が異なり、元史料によって異なる場合もある。吉備のように大和朝廷へ反逆の時期を持ち、没落の憂き目をみた国では、そのようなこともあったかもしれない。

<コピペではない>

応神帝が訪れたのは葉田葦守宮となっている。それは現在の葦守八幡宮(岡山市北区下足守)とされている。岡山県が建てた「岡山縣指定史蹟葦守八幡宮」の碑もある。

応神、仁徳帝が船で通ったという
三井谷(みいだに)

一方、仁徳帝が黒媛命を慕い訪れた場所は不明で、遠藤堅三氏(倉敷市玉島)が、「古代のロマンス 黒媛伝説」という著書を出され、備前、備中、美作の7地区での候補地を検証している。図1の通りだ。しかし、どれにも筆者には有力な根拠があるようには思えない。

季刊邪馬台国が7月号で総力特集「吉備・瀬戸内の古代文明 大陸への大動脈」を組むことを知り「吉備津彦命伝承を追う」のタイトルで投稿の機会を得た。そのための確認調査で「備中誌」を読み直して、改めて伝承の宝庫であることを実感した。

読み込むほどに二人の天皇は吉備にしかも同じ谷へ行幸されていたことを確信した。コピペではない。

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<備中誌とは>

備中誌は地誌として広く網羅的に記述されながら、著者不明で必ずしも世間(研究者)の評価は高くない

岡山文庫シリーズの「岡山の古文献」で著者の中野美智子氏は「備中誌の著者は総社に住居のある吉備津宮の神官家・堀家の安道が小早川秀雄の収集資料を基に補充編集した」(p56)と推論している、岡山県が明治35~37年に出版するにあたって岡山県地理歴史調査会委員の塚本吉彦氏なる人物がその解題を書いている。それには次のように述べている。

「本書は備中国の人、小寺清之・古川古松軒・小早川秀雄の三氏をはじめ、その他知名諸氏の考説、神社・寺院の文書、家譜、伝記、紀行、日記、雑書などから地理・歴史にかかわる事項を抄出、網羅した善書である。(略)行文中嘉永六年まで年代云々とあることから考えれば当時の編纂であることは疑いない」(同書p54)

信頼できる書物だ。歴史研究の手段の一つとして伝承の再評価が叫ばれるなか同書の評価も見直しが必要である。今回の「吉備津彦伝承を追う」の寄稿でも大いに助けられた。

<応神天皇と兄媛に関する部分>

そこでまず応神天皇らにかかわる部分を紹介してみたい。地誌のため記述が分散し、同じテーマが複数カ所に分かれて記述されている。(引用にあたってはできるだけ原文に沿った。読みやすくするため句読点などの代わりにスペースをいれた。旧字は当用漢字に替えた)

《葉田八幡大神宮 日本紀所載の御旧跡の故に大神宮たるべし。今足守村の内カガリ山と云所に応神帝御舟着岸せる古跡有 御友別 帝を御饗応の地ハ上足守村の内にて大神谷と云へり 吉備津彦命御館此地に有て 御友別命まで二代の間 御舘の旧地也 応神帝の仮宮の跡なれば大神谷の名も起れり 兄媛も此館に住給ひしに 依て婦ケ面(ふかも)と云名も起れり 中彦命の時 応神帝をば山方の地に社を建 兄媛の廟を婦ケ面に造らしむ云々》(備中誌p1489)

兄媛を祀ってあった「応后神社」の名残として今も祭祀が続けられている応光さま

カガリ山といわれる場所。船が付いた場所といわれている

《葦守宮旧趾 上足守村の内大神谷と云所也 土人訛て 大釜谷と云 実ハ大神谷の名も八幡の御旧趾より起れり》(同p1490)。

このあと、日本書紀応神巻二十二年春三月の条を引用し兄媛が西の方を望み、父母への情を述べ吉備への帰還の許しの場面を紹介している。

《応后神社 深茂と伝所に鎮坐 吉備兄媛を祭りしなる成へし 書紀応神巻二十二年云々 以服部縣 賜兄媛(葦森宮の條に委しく挙たり) 今 服部の郷にて長良村の兄媛の兄仲彦の後に王部臣等足守に居此辺をも領する兄媛の墳を移して祭りしにや 慶長畑別帳に王后の字を用ゆ、貞享二年改にハ応広或ハ応光の字も書たり》(同p1494)
《吉備武彦命宮趾 上足守の内 深茂と云所ニ 今大神谷と伝有 此地葉田葦守宮の跡趾も此地ニて吉備武彦命及ひ御友別二代の居住の趾なり》(p1499)

以上を箇条書きにまとめると次のようになる。

  1. 葉田八幡大神宮は日本書紀に載るのだから大きなお宮である。
  2. 応神帝はカガリ山というところへ船で着いた。
  3. 葉田葦守の宮での供応は、これまで言われていた現在の葦守八幡宮ではなく、大神谷の御友別の邸宅であった。
  4. 吉備津彦命の館もこの地にあった。
  5. 御友別命まで二代の間の舘の場所だ。
  6. 応神帝の行宮の跡なので大神谷の名もついた。
  7. 兄媛命もこの館に住んでいた。
  8. 地名の深茂は婦ケ面(ふかも)からきている。
  9. 中彦命の時、応神帝を山方の地に社を造って祀った。
  10. 兄媛命の廟を婦ケ面に造らした。
  11. 地元人は大神谷のことを大釜谷といっていた。
  12. 応后神社は深茂という所に鎮坐し吉備兄媛を祭りしている。
  13. 吉備の国分けで兄媛が服部縣を賜ったが、服部郷の長良村にいた仲彦の子孫の王部の臣等が、自分の領地がある足守にお墓を移して祀ったのかもしれない。
  14. 慶長時代の畑別帳には「王后」の字を使っていたが、貞享二年には「応広」か「応光」の字に新ためられている。
  15. 吉備武彦命宮趾は上足守の内の深茂という所にあり、今は大神谷という。この地は葉田葦守宮の元あったところだ。ここは吉備武彦命及び御友別命二代の居住の趾だ。

この情報は、いまから見ると新しい情報といってもいいかもしれない。ただ、現在の葦守八幡宮が大神谷から移ってきたことは昭和初期から戦後まで活躍した永山卯三郎氏の著作では、当然のことと語られている。戦前は当然、備中誌に目を通さない岡山の郷土歴史家などいなかったのかもしれない。

だからそれが忘れられだけだ。いつのころ移ったかは定かではないが、式内社が定められた後であることは間違いないだろう。おそらく八幡宮に合祀される形で移動したのであろう。ところが、13.は服部郷にあった「墳」を移動し「廟」したとなっている。これは後で論ずる吉備の巨大前方後円墳の一つ「作山古墳」が兄媛命のものとする仮説と矛盾する。

筆者は館跡が宮になり、年月とともに小さくなっていく中、八幡宮に移動吸収された。それでも地元の人々が「応光さま」を懐かしみ、小さな祠か社殿を作ってお祀まつりしたのだろう。

地域の人は1600年間もの間、「応光さま」と暮らしてきたのだ。この里山の地も高齢化の波は押し寄せ、祭祀を簡略化したいとの思いと守りたいとの気持ちとでせめぎあいがあるという。

また、4.の「吉備津彦命の館がこの地にあった」は、吉備津神社縁起の中で最も有力な仁徳天皇の行幸の時、吉備津彦命の功績を称え命が住んでいた「茅葺の宮」の地に祀ったとの縁起と矛盾する。

9.の「中彦命の時、応神帝を山方の地に社を造って祀った」は三井谷まで海が入り込んでいて、その山側が「山方」だという。

<黒媛と仁徳天皇に関する部分>

是守町の関連地名

次いで黒媛と仁徳天皇に関する部分を拾い出してみる。

《吉備黒媛の舘 車ヶ嶽の西の地に有 此地ハ昔海部直が居住の地也 今呼て婦元(ふもと)といふ其内にイモトといふ所有 即仁徳帝此国に行幸し給ふに爰に行宮し居給ふ也 其御車のかヽる所を車ヶ嶽といふ也》(同p1498~1499)
《吉備海部直舘趾 黒媛ハ海部直が女 仁徳帝に宮仕へせる故に 此舘を婦元を云妹イモトを云名起れり》(p1499)
《小屋ケ谷 カガリ山の東の地の名北を婦元と云ひ 其下の西を妹と伝ふ 中に小屋有て恋の乢と云ふ
秀雄云 古事記仁徳天皇 吉備黒比売を恋慕ひまして吉備の山方の地に行宮して坐ませしに其所の菘菜を摘て天皇を饗へ奉りたる事を此地なるべしといひて 小豆嶋より芦森の湊に御舟をかヽらせ給ひ 其地御居谷 今 井谷と云ひ 其上の山を移舟ケ嶽と云婦元も妹も黒比売より起りし名にて 小屋谷は行(かり)の宮小屋かけして置奉りしにて海部直というも 此辺海辺にて潮打寄る地なれば山方といふなるよし説なせれども猶考ふべし》(p1528~1529)
《恋の屹は小屋ヶ谷の婦元とカガリ山の間の屹なり 応神天皇吉備ノ兄媛に通ひ給ひし道にてしかいふよし一笑すべし》(p1529)

以上を応神天皇と兄媛の時と同様に箇条書きにまとめてみると次の通りだ。

  1. 吉備の黒媛の舘は車ヶ嶽の西の地で昔は海部直が住んでいた。
  2. 今は婦元(ふもと)という。妹ともいうのでイモトといふ場所もある。
  3. そこは仁徳帝が行宮を置いたところだ。
  4. 御車のとおる所を車ヶ嶽という。
  5. 黒媛は海部直の娘で仁徳帝にお仕えした。それでこの家を婦元という。妹とも書く でイモトという名も起こった。
  6. 小屋ケ谷はカガリ山の東にあり婦元ともいう。その下の西を妹という。その間に小屋があり、恋の乢(たわ)という。
  7. 小早川秀雄が言うには「古事記では仁徳天皇が吉備黒比売を恋慕って吉備の山方の地に行宮置いて、そこで菘菜を摘んで天皇をもてなしたのはここだ。小豆嶋より芦森の湊に御舟を着かせたのはこの御居谷(みいだに)だ。今は仁井谷(三井谷)とよび、その上の山を移舟ケ嶽といい、婦元も妹も黒比売より起りし名だ。小屋谷は行宮(かりみや)で小屋を建てていた。海部直というも此辺海辺にて潮打寄る地なので山方というような説は再考すべきだ。勝負谷は御車ヶ嶽の東、ますかた山との中間の名だろう。恋の屹は小屋ヶ谷の婦元とかがり山の間の峠だ。応神天皇が吉備ノ兄媛に通った道というのは(不謹慎)一笑すべき。
  8. 備中誌の実質的筆者である小早川秀雄の談話の形になっており、兄媛と応神天皇の話も含まれている。兄媛と黒媛の住んでいるところもかき分けられており、単に兄媛のことを黒媛の話に置き換えているようには思えない。

足守地区の歴史を調べ、「足守の史跡、文化財」「足守の歴史」の著書がある池田克己氏はその著書の中で「足守では仁徳天皇のことは備中誌の作者の一存であり、応神天皇だけを中心に伝説を進めたい。ただ深茂にも海を支配する海部直がおったということは、粟井の柏尾に海部直赤尾という、雄略天皇に妻の稚媛を取られて、朝鮮半島で反乱を起こした田狭を征伐に行った者がいたなど、足守も太古は海であった臭いがする」(「足守の史跡、文化財」p22)と全く問題にしていない。応神天皇のことは事実として丁寧に書き込まれているだけに余計に不思議である。おそらく、記紀は信用すべきではない、ましてや片一方にしか書かれていない逸話はのちの造作に違いない。兄媛の話を焼き直して黒媛の話にしたとの一部学者の考え方に影響を受けたのであろう。

池田氏の名誉のために付け加えると、地域伝承の発掘には熱心のようで、その記述には深い愛情すら感じる。こうしてみると、冒頭で紹介した遠藤氏は備中誌の記事をご覧になっていないか、読まれていても備中誌は信用できないと教え込まれていたのだろう。

<地名が補強材料に>

これらを補強する地名(小字)は9カ所ある。吉備郡誌の巻末の付録「地名表の内、上足守と下足守の一覧」に応神、仁徳帝関連記事に登場した地名(小字)に着色した。

千数百年の故事を記録にとどめる地名はやはりもっと大事にしてもらいた。その場所の確認には地籍簿の閲覧申請をして発行してもらうしかない。発行してもらうまでわからず、片っ端から閲覧申請し発行してもらえば、手数料だけで数十万円の投資が必要だ。一度の申請で大きな地図で確認閲覧できる制度を実現してもらいたいものだ。蛇足だが付け加えた。

<吉備にあった兄媛命、黒媛命の墳墓>

安本美典氏の前方後円墳の年代測定法にならい、散布グラフを作ったところ吉備の巨大墳が見事に年代順に並ぶ(別表参照)。まず、分布表を見ていただければわかる。その中で兄媛は作山古墳、黒媛は造山古墳という仮説は十分成り立っているように思う。この仮説と備中誌の伝承、地名ほとんど矛盾なく一致する。この表では御友別命や大吉備津彦命の后の百田弓矢姫の墳墓候補もプロットしてみた。今後、吉備の巨大古円墳の被葬者についても考えていきたい。

この仮説が成り立つなら、今回の論考は吉備の古代史解明に一石を投ずることになる。その立場で日本古代史ネットワークに継続的に吉備の情報を提供したいと思う。(了)

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