特別保存論文
温羅伝説を考える(上)――こんな物語だった「次々実在人物を取り込む」
<はじめに>
「温羅伝説」あるいは「温羅物語」といわれるものは、史実とは一線を画するものだろう。季刊邪馬台国で昨年7月に発表した「吉備津彦命伝承を追う」で「温羅」に触れなかった理由でもある。伝承と伝説にも境目はあいまいな部分があろうが、伝説は架空の物語と認識してよいのだろう。
しかし、伝承から吉備を見ようとしたとき、やはり触れざるを得ない面がある。そのため、あえて温羅伝説について3回にわたり検討してみる。
1.温羅伝説とは
吉備津神社や吉備津神社に伝わる神話とよばれるものと、鬼ノ城縁起や吉備津宮勧進帳として民間で語り継がれるものがある。さらに語り継がれる中で、たがいに影響しあい物語が変容していっている姿が見える。
吉備津彦命(稚武彦)の末裔である賀陽氏は江戸中期まで吉備津神社の中心的な神主家として代々宮司職等を世襲してきた。
その後、藤井家、堀毛家が中心的な神主家を受け継いでいる。その藤井家の出身で岡山大学教授をつとめた藤井駿氏(故人、註 1)が、同神社の縁起として伝える温羅神話の異本を綜合して要領よくまとめている。それを文末のコラムに紹介してある。
そのあらすじを一言で述べるなら、「異国の王子が吉備にきて鬼ノ城を築き、暴れまわるので、吉備津彦命が退治した。温羅は自分の名前“吉備冠者”を奉る。退治した温羅の首を御釜の地下に埋めたがなお唸り続ける。命の夢に温羅が現れ御釜殿に吾を祀れ、精霊・丑寅みさきとなる。これが釜鳴神事のおこりだ」というものである。時代順にこれらの物語の変遷を検討したい。
2.徐々に変わる物語
温羅の伝説は時代とともに変わっている。楯築遺跡発掘に携わった考古学者で現在は高校教諭である古市秀治氏 (註 2 は岡山県立図書館に勤務時に、レファレンス業務の中で「温羅」にかかわり、多くの資料を整理研究、それを「温羅伝承に関する若干の考察」(平成20年3月刊)のタイトルで発表されている。その中で9つの資料をA,B,Cの3群に分類して分析している。
まずその表を引用させていただく。
掲載史料 | 掲載史料と同じまたは類似の史料 | 備考 | ||
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吉備津神社関係 | A1 | 【金山寺文書】『岡山県古文書集』備中吉備津宮勧進帳 1583(天正11)年 | ||
A2 | 【吉備津神社史料】『神道体系』備中吉備津宮縁起 | 『備中誌』は成立年不詳、江戸末頃成立か | 『備中誌』は成立年不詳、江戸末頃成立か | |
A3 |
【吉備津神社史料】『神道体系』 備中吉備津宮縁起 1700(元禄13)年 |
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A4 |
【岡山県立図書館史料】 備中国大吉備津宮略記 |
『備中誌』吉備津宮略縁起 【吉備津神社史料】『神道体系』備中大吉備津彦宮略記 |
・県立図書館の史料は賀陽為徳「吉備津宮略記」【KW170/22】 | |
A5 |
【岡山県立図書館史料】吉備津彦神社書上絵図 大日本国仙陽道備中国一品吉備津彦明神縁起 |
【吉備津神社史料】『神道体系』 備中一品吉備津彦明神縁起 【正宗文庫】『備中国吉備津宮伝記』 |
・県立図書館の史料は1880(明治13)年の岡山県の調べ吉備津神社古文書宝物目録更正届「古文書写」内、【KW170/22】この他明治写【KW170/22】などあり。『備中話』は成立年不詳、江戸後期頃成立か | |
吉備津彦神社 | B1 |
【岡山大学池田家文庫】『神道体系』 備前国々中神社記 1675(延宝3)年 |
【三老和気島家文書】『吉備津彦神社史料』備前吉備津彦神社縁 『和気絹』『吉備温故秘録』『東備郡村志』(以上三冊『吉備群書集成』所収) |
『和気絹』は1709(宝永6)年頃成立 |
B2 |
【吉備津彦神社史料】『吉備津彦神社史料』 備前吉備津彦神社縁起写 1677(延宝5)年 |
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その他 | C1 |
【左行事大守家文書】『吉備津彦神社史料』 鬼城縁起写 |
【吉備津神社史料】『神道体系』巌夜鬼城記、窟屋之記 『備中誌』備中一宮年譜考 『備中集成志』、『備陽記』 |
『備中集成志』は1753(宝暦3)年頃成立 |
C1 |
【岡山県立図書館史料】 備之中州吉備津宮御縁記井宝物略写 1811(文化8)年 |
※鬼城縁起を読み下し改変【KW170/29】 |
※「岡山びと 岡山市デジタルミュージアム紀要第3号」(2008年)掲載の古市秀治著「温羅伝説に関する若干の考察」から引用
※この表は横スクロール可能。
古市氏の考察に従うと、A類系は確実な年代がわかる最古の資料である備中吉備津宮勧進帳(金山寺文書)をはじめとする吉備津神社関連資料だ。B群は吉備津彦神社関連資料、C群はその他だが、いわゆる民間伝承資料だ。
3 群の 9 つの資料の物語構成比較 表 図 1,2,3)もそれぞれのグループでよく似ている。古市氏の説明によると 構成だけでなく漢字表記の一致もみられるとしている。すなわち書写され引き継がれていることもわかる。
これを見るとほぼ納得できる類型分類になっているように思える。これまでの先人の方々の努力の結果である。
3.時代別の伝説のかたち
◎室町時代 記録としては最古の左行事文書
文献的として最も早い年代が記されているのが吉備津彦神社の左行事大守(同神社宮司家名)(註 3)が書いた「鬼城縁起写」(類型分類 C-1)である。吉備津神社でなく吉備津彦神社であることも注目されるが、その巻末には延長元年(西暦 923)の書写がある。延長は平安中期の10世紀のことで古すぎるとされている。事実、文中に登場する鬼ノ城山中腹にある「新山の釜」は、現在も伝わっており、これまでも多くの研究者の見解によれば、鎌倉時代のものであるされている。この文献平安時代とすることはできない。
それについて、中山薫氏(註 4)は「温羅伝説―資料を読み解く―」(岡山文庫)の中で、10世紀前半に、実際、成立したかどうかは疑問である。同時に文末に書かれている「菩提寺」「本覚寺」のうち江戸末期の記録 (備中誌 には「本覚寺」が見えないことを考えると古記録であることは確かだ。室町期に使われた庄園名「生石庄」「阿曾庄」もみられることなどから、「鬼城縁起は室町時代に成立した」と結論付けている。この縁起で注目すべきことは、鬼の名前が「温羅」でないことだ。「剛伽夜叉」 と表現していることだろう。
◎安土桃山時代 勧進帳として庶民にPR
温羅伝説で年号の確実な最も古いものが、岡山市北区金山の金山寺に伝わる「備中国吉備津宮勧進帳」(類型分類 -1 で、天正 11 年(1583)の年号がみられる。
同書は 最初に 紹介した藤井駿氏が昭和 28 年(1953 )に同寺の古文書を調査して見つけたもので、岡山県古文書集第 2 輯(昭和 30 年、山陽図書出版)に収められている。
鬼神の名前は「冠者」としている。鬼神は初めのほうでは「異国の国王」と記され、中ほどのお釜殿の釜主は「古代新羅国の国王」となっている。左行事文書では、鬼神は串差しにされ、お釜の下に埋められるのに対し、冠者(鬼神)は改心し一宮彦命(吉備津彦命)に殺害されず、冠者は自分の名前を大和から来た彦五十狭芹彦命(吉備津彦)に譲って、御釜殿の釜主である精霊となり、吉備統治に協力したことになっている。
この勧進帳は備中・吉備津神社の有名な長い廻廊を天正年間に修復、再建するのための寄進を求めることが目的で、当時の庶民へのPR活動だったのだろう。それらのことは、同神社に伝わっている棟札でそれをたどることができる。執筆者は備前国神力寺の僧・祐栄だった。備中一宮の吉備津神社にも神宮寺に当たる大願寺がありながら、備前側の僧が協力したことは、同神社が友好的関係にあり、一体として運営されている面もあったのだろろう。
◎ 江戸時代初頭 “名前” の献上逸話登場
江戸時代に入ってもこの物語は変容しながら、庶民に広まっていた。江戸時代初頭の代表的 記録 が「 備中吉備津宮縁起」類型分類 A-3 だろう。吉備津宮社家・江國永軄(職)が元禄 13 年(1700)に筆写したもの。
この文献では、多くの書で吉備津彦の前線基地とされた楯築遺跡(東片岡山)が、冠者側の砦となっている。吉備津彦の側は飯山の南の魚搦となっている。血吸川の戦いでは、左行事文書は鬼神が鯉に化け、命が鵜に化けたのに対し、冠者は最初に鵜になり、鯉となり、命は鷹→鵣(らい)となっている。
冠者が破れ自分の「吉備津冠者」の名前を献上する時「勇者は自分の命がなくなることは恐れない。名前が滅ぶことを悲しむ願わくは彦五十狭芹彦命が改名されて、自分の名前を、ご自身の名前とされんことを…」と嘆願、続けて「(命の)死後、霊神になられたその時には、自分は霊神の使役者となって、未来永劫、霊神を信仰する衆生賞罰を加える所存です」と述べている。
この逸話は日本武尊の熊襲退治の場面からの着想のようにも見える。ただ、その誓いが現在の鳴釜神事で、物の善悪を衆生に知らしめるものであることを強調している。冠者の墓は有木山(吉備の中山)の山頂の南で、現在の八徳寺としている。
◎江戸時代後期 「温羅」 の名 が登場
「温羅」の名前が初めて登場するのが、吉備津神社の神官の賀陽朝臣爲徳(貞持、文政10年=1827=没)著作の「備中国大吉備津彦略記」類型分類 A-4 である。
現在も温羅伝説を語る場合、この伝説が原点とされ、記事の中身も古事記や日本書紀を利用している。例えば 吉備津彦命の出自、子孫についても「加夜臣」「上道臣」「下道臣」「 笠臣」「三野臣」「織部臣」等7つの 姓のほか、子孫の吉備武彦命、御友別命、鴨別命らもあげている。播磨の氷川の祭事、四道将軍のこと、武埴安彦の反乱、出雲振根のことも日本書紀の記述に合わせている。
さらには吉備津彦命の臣下である楽々彦、留玉臣、宇自直、吉備海部直、忍海直、夜目山主命、夜目麿、片岡建、日藝麿、叔名麿、中田古名、犬飼武ら、地域の伝承を網羅する形で登場させている。温羅については 百済の王とし、日向の国から吉備に来て悪事をはたらくとしている。これは筆者の賀陽為徳が相当博識で正史の情報だけでなく、宮崎県美郷町南郷区に伝わる百済王族・禎嘉(ていか)王伝説をも知っていたのだろうか。それ らを巧みに物語に組み込んでいった。
これは単に物語を面白くしようというよりは、この神社の縁起に史実性を与えたいという強い思いがあったのだろう。
例えば「温羅が楽々森彦に捕まった時、温羅は鯉に変身していた。取り押さえられた場所はコイカミ(鯉噛、鯉喰〔コイクイ〕)神社として祀られている」(中山薫著「温羅伝説」p75)とある。温羅伝説では、命か楽々 彦命が鵜に変身して温羅・鬼神の化けた鯉を喰い殺すのが定番である。ここでもそうなるのだが、実はこれらの伝説より古い形を伝えていると思われる「都窪郡誌」や「庄村誌」では、この神社の祭神は夜目山主命、夜目麿命らであるとし、「大吉備津日子命中国へ下向の時、軍中に参りて夜目山主の家に迎えて饗応したいと申し出たところ、これが聞届けられて一宿された時、夜目山主命が飼うていた鸕(ろ)鳥一双を門前の湾に入れて鯉を捕えさせ、これを御贄とした。吉備津彦命は大いに歓び、虜を討つのもこのようにしたいものだと仰せられたが、果して、その日の戦には勝利をおさめ、賊長が遂に軍門に降って来たので近国に平和がやって来た。そこでこの里を鯉喰の里といい伝えている」(庄村誌p215)と伝えられている。これは古い伝承を排除し、鯉喰神社を温羅伝説に組み込んだとみてよかろう。
また、大吉備津彦略記には吉備津神社の有力宮司家の一つ堀家にかかわる「鹿」の逸話も紹介されている。それは「吉備津彦命が戦勝祝いでもらった鹿が悪臭を発するので、留霊臣に埋めさせたが、悪臭が続くので命が埋め直しを指示、掘り返すと鹿が生き返り、どこかへ逃げ去った」と。「これをご覧になっていた吉備津彦命は大変お褒めになり、留霊臣に堀生の姓を与えられた。
このような事情があるため、吉備の中山には鹿は棲まない、と伝えられている。このトメタマノオミ(留霊臣)は、堀毛(家)の姓の人々の先祖に当たる」いずれも中山薫著「温羅伝説 」p76~77)というものだ。ありえない神話の類に属するが、おそらく浅く埋めすぎたことから起きた事件だろう。何かのきっかけで神話となったもので、そうした家伝を取り込んだのだろう。
波区芸縣を支配していた笠臣らが祀っていた矢掛町の鵜江神社(式内社)や大元鵜江神社は、吉備津彦命の「棺」から飛び立った鵜が降り立った神社に仕立て上げられたのではなかろうか。このように実在の家伝や 古い神社の伝承を変更・仕立て直すことで、史実により近づけ伝説から伝承への道をつけたかったのかも知れない。
◎幕末期 現在の一般的伝説として普及
「吉備津宮縁起」(類型分類 A-5 は 前項の「備中国大吉備津宮略記」を受け継いでいる。幕末期の地誌「備中誌」に収録され、現在われわれが耳にする伝説といえる。
鯉に化けた温羅を吉備津彦命や楽々森彦命が鵜に化けてとらえる話も、温羅が雉→鯉となり逃げようとしたが、吉備津彦命は鷹→鵜と変身して温羅をとらえるという、現在一般的に語られるストーリとなっている。温羅は 「 今後、自分は吉備津神社の末社となって、吉備の国の人々を吉備津彦命共に守っていきたい。吉備の中山の 麓で死去した」(同 p91)。
鬼ノ城と命が陣を敷いたとされる楯築神社の中間にあるのが矢喰神社(現在は天満宮が合祀され矢喰天満宮が正式名)である。同社の看板には、この伝説を引用し、よく要約された説明書きがあったので紹介してみる。
吉備津宮縁起によれば第十代崇神天皇の時百済の王子温羅という者があった。両眼大きく毛髪赤く、頬骨強大、身の丈抜群。その性勇悍腕力絶大常に仁義を守らず、日本を覗わんとする志があった。
本朝に来たり諸州を歴覧する内遂に吉備の国新山(後方の山)に登った。この地方の勝れたるを見てこの所に大門を起し、城壁を築き、矢倉を立てて城壁となし居を構え、時には西国より帝京に送る貢物奪取した。近里に往来して人民を悩乱せしめた。時の人この城を鬼の城と称し恐れた。
天皇勅して大吉備津彦を派遣して之を征伐せしめられた。即ち彦命は兵数千を率いて東の方吉備の中山に陣し 、西方は日畑西山(楯築山)に出で石楯を築き甲兵を率い鬼の城に向かい温羅と戦った。
彦命、矢を放てば温羅の矢と空中に噛み合い海中に飛び入る。其の所に宮を建てて矢喰宮と伝った。これが今日の矢喰神社である。彦命再び千鉤の矢に大矢二筋を番え発したところ、その一矢は喰いあって前の如く海中に飛び入ったが、他の一矢は温羅の左目に命中した流血で流水の如くであった。其の所を名づけて血吸川という。
是に於いて温羅は雉となって山中に隠れたが、命は鷹と化してこれを追った。次に鯉と化して血吸川に入ったので命は鵜と化して噛んで之を揚げ、その所を名づけて鯉喰宮と云った。(東南 2 キロにあり)温羅、遂にすい旗を垂れ鋒刀を捨てて降ったとある。
4.諸伝説のまとめ
長い年月の間に形成された物語だけに微妙に変化し、混乱を招きそうなので、一覧表にまとめてみた。
この表を見ると各項目でかなりのバリエーションがあることがわかる。「温羅伝説」の著者・中山薫氏が指摘している。「二本の矢のアイディアは共通のものであるが、しかし、その矢のアイディアも、のアイディアも、吉備津彦命が自ら考えだしたというものと、他の神の教示によるものとのとがある」(同書 p97)と指摘する指摘する。中山氏は二本の矢は、どの物語にも共通する古い逸話としている。
類型分類 | 文献名及び筆者 | 成立年代 | 出自 | 2本矢をつがえる時の示唆者 | 鬼の呼称 | 鬼神の様子 | 命、鬼神の年齢と墓 | 互いの陣 | 雉・鯉・鵜・鷹への変身 | 名前の献上 | 命の登場家臣 | 天皇 |
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【A-1】 | 「金山寺文書」 備中国吉備津宮勧進帳 備前国神力寺僧・祐栄 |
1583(天正11)年 | 新羅 | 自ら一計を案じ2矢を射放った | 鬼神(冠者) | 賀陽郡の高山に城を築き、日本の西半分を支配した | お竃殿の霊神は新羅国王命の神徳を守護している | 命=記述なし 鬼神=賀陽郡の高山 |
冠者はいろいろな姿に変身し逃亡したが、ついに捕虜となる | 勇士は名誉を失うことを心配、願わくば名を奉る | 特になし | 孝元天皇 |
【A-2】 | 「吉備津神社資料」大系 備中吉備津宮縁起 |
不詳 | 日本? | 自らの賢策 | 吉備津冠者(伊弉泄利彦尊之曾孫) | 特になし | 命=不明、 吉備津冠者=中山のふもとで死去し、八徳寺に葬る |
命=中山 鬼神=楯築 |
鬼神は雉、魚 命は鷹、鵜 |
吉備3領と我名を献上 | なし | 孝霊天皇 |
【A-3】 | 「吉備津神社資料」大系 備中吉備津宮縁起 江國永軄 |
元禄13年1700年 | 百済 | 自ら素晴らしい計略 | 吉備津冠者 | 特になし | 命=不詳冠者=有木山山頂南で八徳寺あたり | 命=中山と飯山、 冠者=鬼の城と楯築 |
冠者は鵜→鯉 命は鷹→鵣 |
名が滅ぶことを悲しむと献上 | 特になし | 不明 |
【A-4】 | 「吉備津神社資料」 備中国大吉備津宮略記 賀陽為徳 |
文化年間1810年ころ? | 百済 | 中山の主(岩山宮の神)が現れ、陣の敷き方と共に助言 | 温羅 | 温羅の鬼としての描写はない。日向を経てやってきて、超自然的な力を持つ鬼を集めた | 命=281歳、墓は中山の南の山頂(中山茶臼山御陵)に葬る。 温羅=181歳、中山の東の谷に葬る |
命=中山、日差山、楯築 温羅=鬼ノ城、岩屋の城 |
温羅は水のなかを鵜のように逃げる。楽々森彦も鵜のように泳ぐ。 | 「命には敬服、家臣として奉公し続ける」と恭順 | 楽々森彦、留霊、夜目山主、夜目麿、片岡健、叔名麿ら多数 | 垂神天皇 |
【A-5】 | 「備中誌」 吉備津宮縁起 |
江戸末期 | 百済 | 命自身が、神秘的な妙術として思いつく | 温羅 | 両眼は大きく爛々、豺の目のごとし、ひげと髪は赤く、身長は1丈4尺(4.2メートル) | 命=280歳、中山の御陵に葬られる 温羅=中山のふもとで死去 |
命=中山と楯築 温羅=鬼ノ城と岩屋の城 |
温羅は雉→鯉 命は鷹→鵜 |
疲労困憊した温羅が旗を下ろし、降伏 人々を守る |
特になし | 垂仁天皇 |
【B-1】 | 岡山大学池田家文庫 備前国々中神社記 |
1675年延宝3年 | 異域 | 空から声がして賢略を思いつく | 悪神 | 電雷のごとく猛々しい | 記述なし | 記述なし | 温羅は雉→鯉命は鷹→鵜 | 勇士の道は死を顧みずただ名の滅びるを憂うと。 | 特になし | 崇神天皇10年 |
【C-1】 | 「左行事大守宇文書」 「吉備津彦神社資料」 鬼城縁起写 圓會僧正 |
推定室町時代 文末には延長元年=923 |
異国 | 牧童に姿を変えた住吉の神 | 剛伽夜叉 | 身長1丈三尺額に硬い筋肉の角、歯は食い違い、炎を吐く | 命=年齢なし 鬼神=年齢なし、 首村(白山神社)に埋めた後、御釜殿の釜の下 |
命=昇龍山(中山) 剛伽夜叉=鬼ノ城 |
鬼神は鯉 命は鵜 |
特になし | 夜目丸、楽楽森彦、留玉の臣(鼓彦)、犬飼武ら | 孝霊天皇 |
- 【B-2】は【B-1】、【C-2】は【C-1】の主要部分が同じのため省略
- 「岡山びと 岡山市デジタルミュージアム紀要」(第3号 2008年)掲載の古市秀治著「温羅伝説に関する若干の考察」を参考に筆者が構成・作成。
- カギカッコ内は資料名、体系は「神道大系 神社編38 美作・備前・備中・備後国」(一九八六年)から引用。
- 成立年代は中野美智子「岡山の古文献」日本文教出版一九八八年による。
※この表は横スクロールできます。
筆者も同じ意見だが、二本の矢については、二人の吉備津彦命、すなわち大吉備津彦命と稚武彦命の兄弟が、 協力し合って温羅に勝ったという教訓を象徴的に語っていると考えている 。
古代において「戦」は霊力に頼り、占いが大きな決定権を持っていていた。吉備津彦の兄弟には武埴安彦の反乱を予言し大和政権を救った姉・倭迹迹日百襲姫命がいる。吉備津彦兄弟の役割は霊力が強い兄、戦で力を発揮する弟、この 2 つが相まって古代吉備の統治が進んだ。そのことの象徴でもあるのだろう。
温羅は物語だ。しかし、これらの伝説を紡いだ人々の心の中で史実の吉備津彦命兄弟を無意識に反映させていた。伝説か伝承かわからなくなるのはこのためだろう。
<おわりに>
今回は物語の紹介を中心にして「温羅伝説」について考えてみた。しかも、これらの物語は後世的な伝承とみており、古代史というよりは中近世史に入るかもしれない。古代史としてみれば違和感があっただろう。
次回の中ではこれらの物語はどこまでさかのぼれるか、神仏混淆の時代背景を通して検討する。次いで(下)では、「温羅伝説」から生まれた「桃太郎話の誕生」を中心に日本人の心の変遷にスポットを当ててみたい。
(了)
- コラム 温羅伝説のあらすじ
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人皇第十一代垂仁天皇のころ、異国の鬼神が飛行して吉備国にやって来た。彼は百済の王子で、名を温羅(ウラ)ともいい吉備冠者とも呼ばれた。彼の両限は爛々として虎狼の眼のごとく、蓬々たる鬢髪は赤きこと燃えるがごとく、身長は一丈四尺にも及ぶ。 膂力(りょりょく)は絶倫、性は剽悍で兇悪であった。彼はやがて備中国の新山(ニイヤマ)に居城を構え、さらにその傍の岩屋山に楯を構えた。しばしば西国から都へ送る貢船や、婦女子を掠奪したので、人民は恐れ戦いて「鬼の城」と呼び、都に行ってその暴状を訴えた。朝廷は大いにこれを憂い、将を遣わしてこれを討たしめたが、彼は兵を用いること頗る巧で出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。そこでつぎは武勇の聞え高い皇子のイサセリヒコノミコトが派遺されろこととなった。
ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、まず吉備の中山(この山の東西の麓に備前と備中の吉備津宮が鎮座している)に陣を布き、西は片岡山に石楯を築き立てて、防戦の準備をしたのである。いまの都窪郡庄村の楯築山はその遺跡である。
さていよいよ温羅と戦うこととなったが、もとより変幻自在の鬼神のことであるから、戦うこと雷霆の如く其の勢はすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐまれたのである。殊に不思議なのは、ミコトの発し給える矢はいつも鬼神の矢と空中に噛み合うていずれも海中に落ちた。今日も吉備郡生石村にある矢喰宮はその弓を祀っている。ミコトはここに神力を現わし、干釣の強弓を以て一時に二矢を発射したところが、これは全く鬼神の不意をつき、一矢は前の如く噛み合うて海に入ったのであったが、余す一矢は狙い違わず見事に温羅の左眼に当ったので、流るる血潮は混々として流水のごとく迸った。血吸川(今も吉備郡阿曾村から生石村の辺を流れている)は、その遺跡である。さすがの温羅もミコトの一矢に避易し、たちまち雉と化して山中に隠れたが、機敏なるミコトは鷹となってこれを追っかけたので、温羅はまた鯉と化して血吸川に入って跡を晦ました。ミコトはやがて鵜となってこれを噛み揚げた。今そこに鯉喰宮(郡窪郡庄村矢部部落の氏神)があるのはその由縁である。
温羅は今は絶体絶命、遂にミコトの軍門に降って、おのれが「吉備冠者」の名をミコトに献ったので、それよりミコトは大吉備津彦と改称されることとなった。ミコトは鬼の頭を刎ねて串に指して之を曝した。備前の首村(御津郡一宮町のうち)はその遺跡である。しかるに此の首が何年となく大声を発して唸り響いて止まらない。
ミコトは部下の犬飼武に命じ犬に食わした。肉は尽きて髑髏となったがなお吠え止まない。そこでミコトは其の首を釜殿の竈の下八尺を掘って埋めしめたが、なお十三年の間、うなりは止まらないで近里に鳴り響いた。或夜、ミコトの夢に温羅の霊が現われて、「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ、若し世の中に事あれば竈の前に参り給はば、幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現われ給え。吾は一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた。されば吉備津の御釜殿は温羅の霊を祀れるもの、その精霊を「丑寅みさき」という。これ神秘な釜鳴神事のおこりである。
(藤井駿著「吉備地方史の研究」から)
<註>
-
(1)藤井駿(ふじい しゅん) 日本史学者。(1906―1989)岡山大学名誉教授。同大法文学部日本史学科 教授。 岡山 市 吉備津出身。 1930 年京都帝国大学文学部国史学科卒。岡山大学法文学部教授。1970 年定年退官、名誉教授。長男は藤井学氏で 日本史学者。
著書に『藤井高雅』『吉備地方史の研究』『吉備津神社』『岡山県古文書集』『池田光政日記』『黄薇古簡集』など多数。
- (2)古市秀治(ふるいち ひでじ) 岡山市デジタルミュージアム紀要「岡山びと」に掲載された論文「温羅伝承に関する若干の考察」の著者。同氏は岡山県立瀬戸高等学校教諭。岡山大学考古学教室で楯築遺跡発掘などに携わる。
- (3)左行事とは宮司職に次ぐ上級神職で吉備津彦神社の宮司家名の「大守」を名乗っている。
- (4)中山薫(なかやま かおる) 岡山文庫「温羅伝説―史料を読み解く―」 の 著者。昭和12年生まれ。岡山大学法文学部史学科卒、県立高校勤務の後、岡山大学文学部非常勤講師。著書に『吉備真備』 『岡山県修験道小史』など。『岡山県史』『総社市史』などの執筆を担当する。