最終更新日:
2024/08/30

特別保存論文

「吉備の古代史」シリーズ ②

吉備の巨大古墳
を考える(上)
吉備津彦の時代(4世紀)

著者:NPO法人福岡歴史研究会副理事長
 石合 六郎
初出:2021/10/08
目次
  1. <はじめに>
  2. <2>墳形もとに4世紀古墳を抽出
  3. <3>吉備の4世紀古墳の主たち
  4. <4>おわりに

<はじめに>

吉備の古代史シリーズの1回目の「ふたりの天皇が行幸された谷」で「吉備における前方後円墳築造時期推定グラフ」を最後に掲載、古墳の被葬者候補を筆者なりにまとめ表にした。唐突な感は否めなかったと思う。

今回は被葬者について、詳しく検討する。まず4世紀に活躍した吉備津彦の時代について考える。

前回掲載の表のリンクアドレスは下記の通り。

◎ 不思議な考古学者たち

古墳の被葬者について考古学者はなぜか語ろうとしない。正しい歴史を見ようとすれば、文献だけでなく考古学の知見は大きな力になるはずだ。それに神話や伝承は無視してはならない。それらを統合して初めてわかる真実もあるはずだ。

ましてや対象とする歴史上の人物の墓は、たとえ発掘しなくても、場所が特定されるだけで多くの情報が得られる。仮説であってもそれを複合的に検証すれば、間違っていればその仮説は破綻し、次に新しい真実へ進めるはずだ。

その視点から吉備の巨大前方後円墳の被葬者を探ることは大きな意味をも持つ。一歩でも前へ進むためにも。

「手法」と「基礎データ」についてはコラム1、2を参照のこと。

<2>墳形をもとに4世紀古墳を抽出

<表1>「邪馬台国と卑弥呼の謎」(安本美典著、昭和62年潮出版刊)
添付のものから抽出加工

安本美典氏の古代の天皇在位10年説に基づいた推定表(表1)を利用し吉備津彦命の活躍の時代を何世紀かを推定すると、吉備津彦命はおおよそ4世紀の前半(420年ごろ)から同中ごろ(460年ごろ)とわかる。

安本氏の「巨大古墳の被葬者は誰か」の中で、それぞれの世紀の被葬者をグラフで示している。それらをもとに4世紀の範囲を見ると、4世紀は横軸比率値40~105、縦軸比率値5~58の範囲(グラフ1に4世紀範囲と4世紀中ごろの範囲を着色)としている。

その範囲にはいる古墳を選び、その全長、後円部直径、前方部幅とその比率を表にしたのが表2である。次にこの表をもとに分布図に落とすとグラフ1が出来上がった。

この築造時期をもとに被葬者を推定したのが表3である。

吉備津彦時代の古墳の墳長、後円部、前方部幅の一覧<表2>
古墳名測定値(m)横軸比率縦軸比率出典
前方部幅
(a)
後円部径
(b)
墳丘全長
(c)
a/b×100
(横軸)
a/c×100
(縦軸)
①崇神天皇陵102.00160.00242.0063.7542.15大辞典p308
④中山茶臼山古墳45.0080.00120.0056.2537.50大辞典p362
⑤尾上車山古墳55.0085.00140.0064.7139.29大辞典p136
⑥一宮天神山2号墳25.0040.0060.0062.541.67県史p249
⑦金蔵山古墳72.00110.00165.0065.4543.64大辞典p153
⑧備前車塚古墳22.0023.8048.0092.4445.83大辞典p216
⑭網浜茶臼山古墳26.0055.0090.0047.2728.89大辞典p361
⑮都月坂1号墳8.0016.0033.0050.0024.24大辞典p408
⑯矢藤治山古墳14.0023.5035.5059.5739.44続編p484
⑰浦間茶臼山40.0081.00138.0049.3828.99岡山市hp
⑱湊茶臼山古墳84.0090.00150.0093.3356.00県史p241
⑲操山109号墳40.0045.0076.0088.8952.63i ネット1
⑳箸墓古墳128.00150.00275.0085.3346.55大辞典p463
㉑新中山茶臼山古墳45.0067.00105.0067.1642.86iネット2

※この表は横スクロール可

吉備の4世紀古墳一覧<表2>の注意書き

出典の「大辞典」は日本古墳大辞典、「続編」は続日本古墳大辞典、「県史」は岡山県史第18巻考古資料。

浦間茶臼山古墳は前方部幅が不明のため図面から推定した。

基礎データとした「日本古墳大辞典」「続日本古墳大辞典」でグラフを作った場合の時、整合性が高いようである。しかし、データがないためやむを得ずホームページやYuTubeのデータを活用した。今後、新たな確実なデータを取り入れたい。

グラフ1 吉備の4世紀古墳築造年代推定表(Excelで制作)

古墳名の色=紺色は吉備中山山塊とその周辺、ブルーは半田山山塊、茶色は操山山塊、濃い茶色は吉井川下流域、薄い茶色は龍ノ口山山塊に属する。
薄緑で着色した範囲が4世紀古墳、黄緑の範囲が4世紀中ごろまでの古墳の範囲

4世紀古墳の被葬者推定表<表3>
古墳名想定人物所在地
❹中山茶臼山古墳大吉備津彦命岡山市北区
❺尾上車山古墳稚武彦命岡山市北区
❻一宮天神山古墳※百田弓矢姫命?岡山市北区
❼金蔵山古墳御鉏友耳建日子岡山市中区
❽備前車塚古墳吉備武彦命岡山市中区
⓮網浜茶臼山古墳不明岡山市中区
⓯都月坂1号墳不明岡山市北区
⓰矢藤治山古墳不明岡山市北区
⓱浦間茶臼山古墳不明岡山市東区
⓲湊茶臼山古墳不明岡山市中区
⓳操山109号墳 不明 岡山市中区

<3>吉備の4世紀古墳の主たち

被葬者につて、筆者の現段階における推定を述べてみる。

◎ 吉備中山に眠る吉備津彦命兄弟

❶中山茶臼山古墳は、吉備津神社をはじめ多くの伝承が「大吉備津彦の墓」を示唆している。プロットされた位置(緑のプロット点は後述)も巨大前方後円墳の中では最も古く表示され、伝承にふさわしいといえる。出土物も特殊器台型土器片が採取されている。また、同墳出土と伝えられる三角縁神獣鏡も存在する。その古墳の東の尾根にある❷尾上車山古墳は2番目の古さを示しており、大吉備津彦の弟の稚武彦と推定される。発掘調査は行われていないが、埴輪片の採取とともに、墳形は鍵穴型(または柄鏡型)で古式の墳形を示している。

大吉備津尊の墓といわれる中山茶臼山古墳。
御陵として宮内庁管理となっている。
稚武彦尊の墓と考えられる尾上車山古墳。
地元ではギリギリ山の別称で親しまれている。
◎ 新発見となるかお后の墓

❻一宮天神山古墳は山陽自動車道の建設で、破壊されてしまっており、これまであまり注目されることはなかった。季刊邪馬台国(梓書院)が吉備特集を企画、筆者が「吉備津彦命伝承を追う」を執筆にあたっての伝承調査で次のような記述が見つかったことから次々と意外な発見があった。すこし長くなるが紹介してみる。

最初のきっかけは旧都窪郡吉備町(現岡山市北区吉備地区)の観光協会から発刊されていた「きびのさと」というガリ版刷りの定期郷土だよりに出会ったことによる。

同紙は昭和33年から43年ごろ、吾道山人<本名・宇垣武治>氏が執筆したもので、吉備・陵南観光ボランティア「庭瀬かいわい案内人の会」が再編集してインターネットにアップしていた。それに弓矢姫の墳墓について「天神山説」を上げていた。ところが、よく読むとこの天神山は、尾上車山(昔天神様を祀っていたので天神山といった。今はない)のことを指していた。筆者が勘違いして一宮天神山古墳2号墳と思い込み、調査すると、初期前方後円墳で墳長60m、同時に破壊された円墳の一宮天神山古墳1号墳からは、中山茶臼山古墳と同様に三角縁神獣鏡も出土していた。さらに墳形による分布図でも、崇神天皇陵とほぼ同じ位置にプロットされた(グラフ1参照)。瓢箪から駒だが、百田弓矢姫か、高田姫かどちらかの墳墓候補として十分な条件を備えていた。

天神山古墳2号墳は石室だけ高速道路横の公園(西辛川4号遊園地)に移設復元されている。この古墳には主体が2つあり、T字型に埋められていた。T字型とは身分の差なのだろうか不明だが、正妻のお后・百田弓矢姫なのか、お妃・高田姫なのか? また近くの三角縁神獣鏡を出した1号墳があり、これがお妃の高田姫なのか? なぞは謎を呼ぶ展開になってしまった。一宮天神山古墳2号墳が大吉備津彦のお后の墳墓の候補にはなりそうだ。

「庭瀬かいわい案内人の会 「きびのさと・227号」 のアドレスは 下記の通り。
https://townweb.e-okayamacity.jp/kibi-r/kibinosato/pdf/102.pdf?fbclid=IwAR3RRTpEBGb0eH8a-cZMZFGIC3Uopqil95h8FzuGgyW4Pw-mBPb5VDhE-h8

一宮天神山古墳の詳しいデータは「古墳探訪大型古墳集成」(下記アドレス)にある。
https://kofun.dosugoi.net/e1070662.html

◎ 金蔵山と備前車塚は親子か

❼金蔵山古墳は備前地区の操山山塊(そうざんさんかい)にあり、同山塊では最も古い古墳に属している。

三角縁神獣鏡を13面出した❽備前車塚古墳は、安本氏の「巨大古墳の被葬者は誰か」では吉備武彦を候補者として取り上げている。出土した神獣鏡の文様からも東海地方の古墳から出土した鏡と同笵のものもあり、崇神天皇の2代のちの景行天皇の時代に日本武尊の東征時の副将として活躍した人物を当てている。

吉備武彦命は吉備氏の系図では稚武彦の後裔とされているが、直接の子とされるものと、孫とされるものと両方ある。天皇の代を数えると孫のほうが落ち着きがよい。さらに吉備武彦と御友別の宮殿が足守の深茂の谷にあったとの伝承も考慮すると、吉備武彦の子とも、親ともされる「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」は「親」とみるべきだろう。

それに基づくなら❼金蔵山古墳は吉備武彦の親・御鉏友耳建日子の墳墓とすることは一定の正当性があるかもしれない。吉備武彦の墳墓・備前車塚古墳(龍ノ口山山塊)と金蔵山古墳(操山山塊)は、山塊は異なるものの平野を隔てて約5キロの距離である。

◎ 手がかり少ない都月坂1号墳

特殊器台から発達し埴輪のもととなった「都月坂形埴輪」を出土した⓯都月坂1号墳は岡山大学の近くの半田山山塊に位置し、吉備では最も古式の遠方後円墳とされている。被葬者は吉備津彦兄弟が吉備国入りする以前の人物の可能性もある。被葬者の特定は難しいのかもしれない。

◎ 難解な3つの茶臼山と操山109号墳

⓱浦間茶臼山古墳は全長138メートル。岡山市の東部に位置し操山山塊を外れる。特殊器台形埴輪片が採取されている。盗掘を受けているものの、その後の発掘調査デ銅鏡片と銅族の出土品が確認されている。⓮網浜茶臼山古墳は操山古墳群に属し浦間茶臼山古墳より墳長は小さいが墳形比率がよく似ている。現在墳丘全体が墓地化され、元の形が大きく改変されている恐れがあり、プロット位置からは築造時期のヒントは不可能かもしれない。この墳丘からも特殊器台片が出土している。また近年すぐ近くの⓳操山109号墳は江戸時代に出土した三角縁神獣鏡を模写した記録と同時に出土した朱の包みが、旧家に保存されていることが判明し話題になった。「浦間茶臼山、網浜茶臼山とこの109号墳は“吉備の最古級古墳トップ3“といわれ、同時期(考古学者3世紀と考えている。安本年代観では4世紀)の古墳としては三角縁神獣鏡数が10面となり、全国の古墳保有数でトップテン入りした」(山陽新聞 2015年11月08日/13面 連載企画「幻の“卑弥呼の鏡” (下)変わる歴史像」からの要約、カッコ内は筆者注釈)という。

吉備では古式の形式で知られる浦間茶臼山古墳

⓲湊茶臼山古墳は全長125メートルで操山山塊の東南部(東山)に位置し、2008年から2011年にかけ発掘調査が行われたが、中心主体がなく、墳丘に2つの埋葬施設が確認されている。築造時期は4世紀の最末期から5世紀にかかる。被葬者の手がかりはない。

ここで築造年代推定グラフを見ていただきたい。浦間茶臼山古墳と湊茶臼山古墳は、大吉備津彦の墓とした中山茶臼山古墳の近くに位置している。一方、操山109号墳と湊茶臼山古墳は2,3世代後の吉備武彦の墓とした備前車塚古墳近くに位置している。

岡山市東部には100メートル以上の巨大前方後円墳が3基、48メートルから90メートルの古墳が3基以上ある。吉備武彦とした備前車塚古墳以外の被葬者の推定は困難だが、一つだけヒントはあると思った。それは古事記が「大吉備津彦の後裔は上道(かみつみち)である」としていることだ。日本書紀では応神天皇の行幸で稚武彦の子孫が栄えることになったとしている。

被葬者不明の古墳は比較的古式で、上道地区(岡山市中区、旭川の東側)に集中しており、古い時代は大吉備津彦命の“名前の伝わっていない子孫“の支配地区だったことを示していないか?

何らかの原因で彼らが若くして亡くなり、大吉備津彦の子孫は三井根命(芦北臣)だけになった。三井根命は吉備津彦の大和時代の子で、吉備にゆかりがなく肥後へ赴任。御友別命の子仲彦(なかつひこ)が受け継ぐというシナリオもあったのかも知れない。

さらに妄想を重ねれば、湊茶臼山古墳には中心埋葬施設がないという“謎”もある。吉備武彦とともに日本武尊の遠征に従軍し遠隔地での戦死やクーデターという血の匂いがしないわけではない。ただ、このシナリオは妄想に属するとも思う。ただ、大吉備津彦命の家系が絶えたことを考古学的にも裏付けていないか。

湊茶臼山古墳の現地説明会。
2011年の調査で中心主体がないことがわかった。
◎ 意外に新しい古墳か?

⓰矢藤治山古墳は弥生時代から古墳時代への移り変わる時代の古墳と評価されているが、プロット位置は中山茶臼山古墳や尾上車塚古墳に近く、これまでの評価と異なるのかもしれない。稚武彦命のお后(名前など伝わっていない)も候補者かもしれない。あるいは、墳形が改変されプロット位置がずれたのか。

<4>おわりに

吉備の4世紀古墳についてみてきたが、まだ謎が多い。しかし、これまで考えられてきたより、吉備津彦一族の流れがつかめたのではなかろうか。大吉備津彦命と稚武彦の分割支配から、稚武彦の流れをくむ吉備武彦の子孫に移っていった過程の解明は難しいかもしれないが、少なくとも記紀に記されていることはまごうことのない事実ではなかろうか? 吉備の巨大前方後円墳(後方墳も含む)の存在はそれを示していると思う。

次回は「吉備の5世紀の古墳」について考える。

<コラム1> 手法について

今回のこれらの推定の根拠は、安本美典氏の墳形の比率に基づいて築造年代を分類するものだ。これは「縦軸に前方部幅/墳丘全長の比率×100 横軸に前方部幅/後円部直径の比率×100を分布図にすることで、同時代の古墳をグループ」してとらえる手法(墳形比率法)で、それは時代とともに前方部(祭祀部分)が発達していく傾向を統計学にとらえ視覚したものである。

同氏は前方後円墳の高さや体積も加味する方法などいくつかのモデルを作って検討したそうだが、有意な結果は出なかったという。むしろこの手法が単純で良い結果でたと述懐している。

筆者はMicrosoft社のExcelのグラフ機能(分布図)を利用した。

<コラム2> 基礎データについて

「日本古墳大辞典」(平成元年=1989=8月20日初版印刷、同年9月10日初版発行、編者大塚初重 小林三郎 熊野正也 発行所 東京堂出版)と「続日本古墳大辞典」(平成14年=2002年=9月に発行、同)=写真=を活用した。両書とも編者は大塚・小林両氏らで共通している。

両書を活用したときは比較的年代順が記紀の記述と一致する。測量データで統一性が一定程度確保されているのかもしれない。

これに対し宮内省の中山茶臼山古墳の新データでは弟の墓とした尾上車山古墳より新しい古墳となってしまう。