最終更新日:
2024/08/29

新着ニュース(bn.02)

盾形の銅鏡と全長127センチの最古/最長の蛇行剣が発掘!
奈良市 富雄丸山古墳

4世紀後半に造られたとみられる奈良市の富雄丸山古墳から、専門家でも見たことのない盾形銅鏡が見つかりました。さらに蛇のように曲がりくねった「蛇行剣」も出土。全長は237センチと国内で見つかったなかで最大のもので、年代も古いといいます。邪馬台国の時代の後、ヤマト王権が発展していく4世紀ごろは記録が残っておらず、歴史の世界では「空白の4世紀」と呼ばれているのです。(テレビ朝日系(ANN)配信1/27(金) 23:11)
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<コメント=丸地三郎(当会会長)>
2023/02/01

テレビ朝日系(ANN)1/27(金) 23:11配信 の動画中に盾形銅鏡の大きさの判る動画があります。その一画面は次のもの。

発見された盾型銅鏡

盾形銅鏡は長さ64センチ、最大幅31センチ、最大の厚さ 0.5 センチの青銅製。

一方、蛇行剣は長さ237センチで、古墳から出土した鉄剣では国内最大。奈良市教育委員会の発行した富雄丸山古墳の発掘調査 -第6次調査- に掲載された写真には次のように映っている。

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奈良文化財研究所のHP(下記の頁)を見ると資料がダウンロードできるのでご参照下さい。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/130515

古墳の形状図・発掘区位置図など現場の写真が沢山あり、参考になります。

特に注目する点は、

  1. 「年代」:邪馬台国の時代の後、ヤマト王権が発展していく4世紀ごろは記録が残っておらず、「空白の4世紀」の歴史史料となる。
  2. 「地域」:この地域は、奈良盆地の大型の古墳群から離れたところで、古墳や遺跡が少ない地域であること。この地域は、記紀に記すナガスネヒコ(トミヒコ)の地域で、ナガスネヒコは、東征する神武軍を迎え撃ち、敵対したことが記されている。又、この地域は、物部氏の支配地域と考えられる富雄川流域に近接している。
  3. 「円墳」:一般的と思われる前方後円墳では無く、円墳であること。

決して、「空白の4世紀」では無く、記紀に記された大和朝廷成立時期の実在を示す発見と思える。

王権とは距離を置いた、又は属さない集団が存在し、特異な盾と剣を副葬したのかも知れない!

奈良在住の会員から頂いた情報を基にコメントしました。

「類例を見ない盾形銅鏡」「最長・最古の蛇行剣」の二つの「国宝級」の発見された富雄丸山古墳のニュースは、大変興味深いものです。

3万年前巨大噴火の警告火砕流が100メートル以上堆積
 姶良カルデラ 産総研が再調査

3万年前に鹿児島・姶良カルデラで発生した破局噴火で、噴出した火山灰や火砕流などの量が、従来想定されていたより1.5倍の規模だったことが、産業技術総合研究所の調べで明らかになった。

3万年前の姶良カルデラ爆発では、富士山の体積の2倍の8千億~9千億立方の噴出物だったとのことで、九州地方では、100mの火砕流が堆積し、火山灰は、大阪でも35cm、東京で10cmの降灰があった。

7,300年前には、南九州の縄文文化を壊滅させたとされる鹿児島沖の鬼界カルデラの爆発があった。

新聞の元記事
朝日新聞 2022/02/25(金)
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<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2022/02/26

姶良カルデラ級の噴火が、現代に起きたら、想像もつかない被害だと思います。

将来のことも重要ですが、過去のことも考えて必要があるかと思います。「日本人の起源」・「古代人の成り立ち」に重大な影響を与えたものと考えます。

  1. 年代が「3万年前」と明確に記されていることに注意

    少し前の旧石器の書物を見ると、AT(姶良丹沢火山灰)と呼ばれ、2万5千年前頃と記されていました。それが、正確に3万年前と判明したので、年代が変更されていることに、ご注意ください。
    水月湖の年縞を調べて、30078±48年とカウントされ、年代が確定しました。)

  2. 姶良カルデラなどの噴火による被害

    凡そ4万年前に日本に来た旧石器人が、この時代に生活していたはずです。このころは、九州と四国と本州は(海面が70-80m低い)陸続きで、暮らし良い処だったと想像します。突然、姶良カルデラの大爆発で、今の九州の地域の人は全滅し、今の四国・中国の人々もダメージを受け、近畿地方も35センチメートルの火山灰で、生活環境は悪化した筈です。何年で樹木が回復し、生物が戻り、人が生活できるようになったのか、気になる処です。

    その後、1万3千年前には、桜島-薩摩テラフの大爆発があり、南九州を火砕物が襲い、壊滅的被害を被りました。

    更に、朝日新聞の記事にあるように7300年前の鬼界カルデラの爆発で南九州の縄文文化を壊滅させました。

    今月中旬のトンガ海底火山爆発で懸念され、過去には、フィリピンやインドネシアの巨大噴火によって、太陽の光が遮られ、寒冷化が起きたことがあったように、上記の巨大火山噴火は、気象への悪影響を招いたものと思われます。

    縄文人の人口が推定されていますが、東北・関東に大部分の人が住み、関西以西には人口が少ないのは、これらの火山爆発の被害かと推定されます。恐ろしい気がします。

  3. 現在の有力な沖縄の歴史

    沖縄では多くの遺跡から旧石器人の人骨が発掘されていますが、これらの人々は、死に絶えたことになっています。発掘された資料から、1.3~1.1万年前と8~5千年前に断絶があり、この時期に沖縄人が死に絶え、無人となった沖縄に、九州から縄文人・弥生人が移り住んだことになっています。

    今回の記事を見ると、九州では、何回も、人が絶滅したことになります。火山爆発の被害の無かった沖縄へ、被害の絶大だった九州から、人が移住したという説が、常識となっていることに、疑問を感じます。

  4. 当会「古代史を解明する会」での議論

    当会の古代史を解明する会でも、沖縄の古代史を取り上げていますので、気になる方はご覧下さい。

沖縄 1万年前の人骨出土 旧石器人と縄文人の「空白期」を埋める

旧石器人の港川人が、縄文人や現代日本人とつながるのかが問題になっているが、その間をつなぐ1万年前の人骨が出土したことが、大きな手掛かりになるとのこと。注目に値する。

新聞の元記事(オンライン)

沖縄で1万~9000年前の人骨発見 貝塚時代で最古、「空白期」埋める 藪地洞穴遺跡

うるま市の藪地島洞穴遺跡で出土した
貝塚時代の人骨(頭骨片)

沖縄県うるま市の藪地洞穴遺跡で、約1万~9千年前の貝塚時代の人骨が発見されたことを8日、うるま市教育委員会が発表した。発見された人骨は頭蓋骨の一部で、これまで県内で発見された貝塚時代の人骨では最も古い。県内では1万4千年以前の旧石器時代と7千年以前の貝塚時代の間で、人骨は発見されていない。「空白時代」を埋める貴重な発見となる。

沖縄諸島では、旧石器時代の後の縄文時代から11世紀ごろまでを「貝塚時代」と呼ぶ。沖縄本島では、約2万2千年前の「港川人」が、旧石器時代としては、日本で初めて見つかった完全な形に近い人骨として知られる。しかし、これまで貝塚時代では、名護市大堂原(うふどうばる)貝塚で発見された約7千年前の人骨が最古のものだった。

残存部の位置
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地上60~70センチの深さから発掘された人骨片は2点で、どちらも約10センチ程度の大きさ。部位は前頭骨の部分で、眉間が平坦で、なだらかなアーチを描いてるため、女性と推定している。また、前頭骨と頭頂骨の間の「冠状縫合」の縫合線が現存することから、成年(16~20歳)から壮年(40歳未満)の年齢と推定している。県内で発見されている貝塚時代の人骨から見られる、「眼窩(がんか)が四角い」という特徴も備えている。

人骨の保存状態は良好で、市では、今後はさらに多くの人骨が周辺から発見できる可能性があるとしている。旧石器時代と貝塚時代の関係性などの調査研究も進めていく。

市では、今回の人骨とこれまで藪地洞穴遺跡で発掘された土器なども含め、9~21日と12月14日~来年1月30日までに市勝連のアマワリパーク歴史文化施設で展示する。11月23日~12月5日は県立博物館・美術館で開催されている企画展での展示も行う。

朝日新聞2021年11月9日
朝日新聞記事「沖縄 1万年前の人骨出土」
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<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2021/11/12

日本国内では、沖縄では、旧石器人の人骨が多く出土する。だれもが、この人骨が日本人の祖先と期待するが、不思議なことに、沖縄の古代史では、旧石器人は死に絶え、九州から縄文人が南下して、沖縄人となったとの説が主流となっている。沖縄では、1万4千年以前の旧石器時代と7千年以前の貝塚時代の間が、人骨は発見されていない「空白時代」と言われてきた。 その空白の時代を埋めるものがこの人骨となるかと、期待される。

2021年6月の読売新聞と7月の朝日新聞の「港川人のDNA解析」の記事が、一方は「現代日本人に繋がらず」他方は「ご先祖は、2万年前の港川人」と正反対の内容を伝えたが、このような「旧石器人と縄文人をつなぐ資料」が見つかることで、沖縄の旧石器の人と縄文人のつながりが明らかになることが望まれる。

“要注意”の朝日新聞記事:
日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説

『金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人や弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。』

とする記事が掲載された。

注目した古代史ファンが多かったはずだが、この記事の内容には、疑問がある。

新聞の元記事(オンライン)
朝日新聞の紙面
朝日新聞記事「現代日本人の祖先 古墳時代に誕生?(2021/09/18)」
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<コメント=丸地三郎(当会会長)> 2021/11/12

現代日本人の成り立ち

「金沢大外の国際研究チームが論文を18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。」として報じたもの。

主な内容は、

  • ① 右図のように、「縄文人と弥生人が混血して現代日本人ができた」とする従来の説とは違い、「縄文人と弥生人が混血した後に、東アジア集団が混血した結果、古墳人ができた。これが現代人につながった」とするもの。
  • ② 縄文人7体、弥生人2体と古墳人3体の合計12体のサンプルのDNAを解析した結果判明したとする。
Fig.1

発表の中で、図中で水色のマークをされた「弥生人」が重要な要素になっている。この「弥生人」2体の遺伝子を弥生人全体を示すものとして取り扱い、古墳人の遺伝子の評価を行っている。代表させて良いものか疑問に思い、発表論文からサンプルを確認すると、2019年に日本人類学会誌に発表された論文:「西北九州弥生人の遺伝的な特徴 ― 佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析 ― 」著者:篠田謙一・神澤秀明外 の中で、解析され、発表されたサンプルであることが判る。

「下本山岩陰遺跡」の場所は、篠田・神澤論文の図1「弥生時代の九州・山口地域の遺跡」を参照下さい。

このサンプル:下本山岩陰遺跡出土人骨は、「一般に縄文人に共通する低顔,凹凸のある鼻根の周辺形態,四角い眼窩などの特徴を備えていた」もので、渡来系弥生人とは異なる特徴を持っていた。そこで、「西北九州弥生人」は縄文人の系統を引くと判断されていたが、DNA解析の結果は、予想に反して、「縄文人と渡来系弥生人の双方のゲノムを併せ持つ」ことが判明し、現在、大変注目されている存在。一般的に弥生人と云われる人々は、図1の「弥生時代の九州・山口地域の遺跡」の渡来系弥生人。

図1 西北九州弥生人の特徴
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篠田・神澤論文では、このサンプルの取り扱いに関して、今回の分析例を持って西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできないと記し、さらに、 今回はひとつの遺跡のわずか2体を分析したものなので、この結果をそのまま九州全体の弥生時代の状況に演繹することは難しい。との文章も加えている。

篠田・神澤論文では、弥生人を代表するサンプルとして取り扱っていないことは明らか。

ところが、今回の記事では、この『弥生人2体』のサンプルを「弥生人」として扱っており、弥生人を代表させていることになる。この「西北九州弥生人」をもって、「弥生人」を代表させることは、無理が有るというよりも、誤っていると言わざるをえない。しかも、DNA解析を発表した先行論文の注意書きを全く無視した内容になっている。

金沢大外の国際研究チームの発表論文は、誤ったサンプルを「弥生人」として解析した論文で、認めがたい内容になっている。従って、それをベースに書かれた朝日新聞の記事も認めがたい。

追記:
  • 一般的に、最先端の科学技術を利用した発表記事の場合、裏付け取材がされないまま、誤った内容の記事が出ることがある。科学に疎い文系出身の記者が取材した場合には、「先端技術」と云うと、内容が理解できず、しかも、裏付け取材もしないまま、ニュース・リリースの内容を写して記事にすることが多いとも言われる。
  • 今回の場合も、「DNA、ゲノム解析」という最先端の科学技術に関わるもので、更に、発表論文は英文で、おいそれと読めないという難しい状況であったことは、想像がつくが、誤りを伝えた影響は大きい。
  • 金沢大外の国際研究チーム発表の論文では、この「西北九州弥生人」を、 two 2000-year-old individuals associated with the Yayoi culture from the northwestern part of Kyushu Island, と、九州西北部の2000年前の弥生文化に関わる人と記し、弥生時代の水田稲作の拡散:「Dispersal of paddy field rice farming during the Yayoi period」と名付けた章の中で、弥生人の働きを展開している。
  • “弥生時代の水田稲作の拡散”を担った人々は、図1の「弥生時代の九州・山口地域の遺跡」の渡来系弥生人で、「西北九州弥生人」ではない。