特別保存論文
記紀神話を歴史として読む1
I 日本の古代史に欠けているもの ―― 問題の提起 ――
1) 戦後75年たった現在の古代史
戦前に、勇気をもって弾圧に立ち向かった津田左右吉氏の歴史観が、戦後の歴史に“過大な”影響を与えているように見える。古事記・日本書紀のその時代の記述は、神話と云うレッテルを張られ、歴史から除外されしまった。今日の歴史書や歴史教科書では、古墳時代とそれ以前の歴史については、考古学の遺物・遺跡と中国の歴史書だけを材料として書かれている。
何とも素っ気ない歴史書になっている。
歴史学者は、歴史を科学的に、史実・事実にもとづいたものとすべきだとして、古事記・日本書紀の「神話時代」と呼ばれる時代の記述を、非科学的であるとして全て排除してきた。太平洋戦争(第二次世界大戦)へ国民を駆り立てる役割を担った「紀元2200年の祝賀」や、「八紘一宇」のスローガンの思想的根拠が、記紀にかかれた神話であったとする反省にもとづいている。反省から、新しい歴史観を築き、古墳時代以前を「神話と位置づけ」、歴史から排除してきたものと考える。戦後しばらくは、それで良かったかとも思う。
しかし、津田左右吉が疑問を示した神武東征の難波の白肩津や楯津が、復元された大阪湾の地図上に、上陸作戦の好適地として存在することが判明した。疑問の提示が、逆に、実在の証明になった。歴史上の新しい事実が発見された時点で、歴史観を再検討すべきだったと、私は考える。
それにも拘らず、戦後75年経っても、古事記・日本書紀の記述は、歴史として取り上げられてこなかった。石器・土器・人骨など「物」にかかわる題材だけではなく、「人と人にまつわる物語」・「人と社会・政治」を題材として歴史を私達は、知りたいと願う。古墳時代以前の「人と人にまつわる物語」・「人と社会・政治」を記したものは、排除されてきた記紀神話で、日本人の誇る文献史料だ! 考古学者が調べて来た遺跡・遺物の歴史の上に、人の活躍する歴史を読んでみたいものと願う。
2)歴史としての読む主な神話
物語を思い起こしてもらうために、大和朝廷成立期までの主な出来事を記す。
- 天照大神 (アマテラスオオカミ) と須佐之男命 (スサノオノミコト) の対立
- 天照大神 (アマテラスオオカミ) が武装して、須佐之男命 (スサノオノミコト) の到来を待つ
- 天照大神と須佐之男命の誓約
- 須佐之男命の狼藉
- 天の岩戸事件
- 須佐之男命の追放
- 八岐大蛇 (ヤマタノオロチ) 退治と出雲の国造り
- 大国主命の神話
- 八上比売(ヤガミヒメ)への求婚の旅・因幡(いなば)の白兎神話
- 八十神 (ヤソガミ) の迫害
- 根の国訪問(須勢理毘売命 (スセリビメノミコト) との婚姻)
- 奴奈川比売 (ヌナカワヒメ)へ 求婚
- 須勢理毘売命 (スセリビメノミコト) の嫉妬
- 少名毘古那神 (スクナヒコナノミコト) と国造り
- 葦原中国 (アシハラノナカツクニ) の平定(出雲の国譲り)
- 天菩比神 (アメノホヒノミコト) の派遣
- 天若日子 (アメノワカヒコ) の派遣
- 建御雷神 (タケミカヅチ) の派遣
- 事代主神 (コトシロヌシノカミ) の服従
- 建御名方神 (タケミナカタ) の不服従と服従
- 大国主命 (オオクニヌシノミコト) の国譲り
- 天孫降臨 (テンソンコウリン)
- 天忍穗耳尊 (アマノオシホミミノミコト) 降臨せず
- 子の瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト) 降臨
- 猿田毘古神(サルタヒコノカミ)・猿女の君(サルメノキミ)・従者達
- 木花之佐久夜毘売 (コノハナノサクヤビメ)
- 火遠理命 (ホオリノミコト)
- 海幸彦・山幸彦
- 海神の宮訪問
- 火照命 (ホデリノミコト) の服従
- 鵜葺草葺不合命 (ウガヤフキアエズノミコト) 誕生
- 神武東征
- 五瀬命 (イツセノミコト) と3兄弟で東征の会議
- 筑紫の岡田宮・阿岐 (あき) 国の多祁理宮 (タケリノミヤ) ・吉備 (きび) 国の高島宮 (タカシマノミヤ)
- 浪速 (なにわ) 国の白肩津 (シラカタノツ)
- 長兄の五瀬命が負傷、退却し、
- 東から攻めることを宣言
- 紀国の男之水門(おのみなと)(五瀬命死亡)
- 熊野で暴風雨に遭遇(残る2兄 海難死亡)
- 神武とその配下が熊野の荒坂津へ丹敷戸畔 (ニシキトベ) を誅す
- 高倉下 (タカクラジ) が剣発見、大和へ進軍
- 菟田 (うだ) ・国見丘・鳥見 (とみ) など転戦
- 大和入り
- 天津瑞 (アマツシルシ) (天の羽羽矢など)を示されたことから、饒速日命 (ニギハヤヒノミコト) が恭順し、戦闘終結
- 大和入りし、畝火 (うねび) の白檮原宮 (かしはらのみや) で即位
- 事代主の娘(伊須気余理比売 (イスケヨリヒメ) )を皇后に選定
- 手研耳命 (タギシミミ) の乱と後継天皇
- 手研耳命の乱(神武天皇の崩御後、九州から同行した子が権力奪取)
- 皇后(伊須気余理比売)の子:神沼河耳命 (カムヌナカワミミノミコト) が、手研耳命を殺害、
- 綏靖 (スイゼイ) 天皇として即位
- 綏靖天皇、事代主の娘(五十鈴依媛命 (イスズヨリヒメノミコト) )を皇后とする
- 子の安寧 (アンネイ) 天皇が即位
- 安寧天皇、事代主の孫娘を皇后とする
II 神話を歴史として読むと云うこと
1)文学として読むこととの違い
古事記・日本書紀の解釈については、文学者・国語学者に依存することが多い。しかし、文学者の判断も、文学の側からだけではできず、歴史的事実にもとづいて思考し、その上で、解釈を決定することがある。西郷信綱と云う文学者の古事記の講義の中でも、大和朝廷成立以前に、日本の中核が、九州にあったのか、畿内にあったのかによって、この解釈が変わると説明されたことがあった。「歴史の解釈が決まらない今は、二つの解釈を併記せざるを得ない。」と、やや悔しそうな説明をされたことが、複数回あったことを、今も思い出す。
文学は、言葉と美の世界に重きを置き、歴史は、時間と空間と事件・出来事の内容に重きを置く。歴史として、神話を読むときは、文学者の解釈を頼りとするが、別の視点をもって、整理しながら読み、解釈の仕方を別途、再検討する必要がある。
端的に言うと、時間・空間をしっかりと整理しながら読むこと。その文章自体が、信用できるものか、史料批判しながら読むこと。このように整理しながら読むことにより、事件と事件の関連性を把握して行くと、別の歴史像が浮かび上がってくるはずだ。
2)複数の書籍にかかれた異なった内容の神話
先に、古事記・日本書紀の二つの文献の取扱い方・取り上げ方を示す。一方だけに依存した歴史を構築する人も居るが、記紀に記載された内容に違いが含まれることを承知で、両方を読むこととします。
古事記は、一貫した話を記載しているが、日本書紀は本文と、本文とは違った内容を示す複数の「一書」で構成されている。古事記と日本書紀の本文、そして複数の「一書」では、登場人物とストーリーも変わりますが、それをどのように解釈するかは、考古学や中国歴史書、更に、古地理などの関連科学と照らし合わせ、どの解釈が最も合理的であり、論理的に合致するかを検討します。
勿論、この作業は膨大なもので、私一人で、出来るものではありません。多くの方々が既に、解釈を試みていますので、それらに学びながら、歴史構築を行います。今後、別の良い解釈や、事実が提示されれば、(お教え頂ければ)、思考をめぐらし、改めるべきとの結論に至れば、変更することにします。正しい歴史解釈をあくまでも追求しますので。
3)時間軸の整理
リストアップした神話の事件をたどってゆくと、事件の順番と登場人物の辻褄が合わない気がする。歴史は、時間と空間と事件・出来事の内容に重きを置く。そこで、時間軸を揃えて整理して行きたい。残念ながら、各々の事件の年代は分からない。日本書紀・古事記の年代については、正確ではないことが、既に、論議されている。では、何を見るべきか?と云うと、登場人物とその親子・子孫の関係が、一つの糸口になる。
古事記・日本書紀では、人物名に「誰それの祖」との記述が多くされている。又、一連の家系が長々と記されている。記紀を成立させた理由の一つとして、成立時に存在した有力一族の祖先を明らかにし、一族をアッピールする意義があったものと推察される。従って、記紀成立当時に、人物名・系図は、十分に吟味されて記載されたと考えます。
古事記では、出雲族の家系を、須佐之男命から7代目の大国主命まで記している。大国主命の4人の子供が記され、子の鳴海神の9代の子孫を記している。それとは別に、出雲神話の終章には、須佐之男命の子の大年神の家系を16神と8神の記載を長々としている。この家系に記述は、普通の読み手には、退屈なものだが、記載された一族とその子孫にとっては、最も重要な事柄だったかも知れない。歴史として読む場合も、重要な事柄、手掛かりになる。天孫族の家系も古事記の記述から辿れる。日本書紀は本文と「一書」では、違いがあるが、十分に辿れる。但し、日本書紀では、出雲神話の大部分が欠落しており、出雲系の家系も十分に掲載されていない可能性が残る。
4)家系と事件の整理
天照大御神・須佐之男命の時代から神武東征までの事件と登場人物を並べ、記載された順に図示してみる。主要な事件として、4つを取り上げ、登場人物を示す
- 天の岩戸事件:天照大御神と須佐之男命
- 出雲の国譲り:・・・・・・大国主命と事代主
- 天孫降臨 :邇邇藝命
- 神武東征 :神日本磐余彦尊(神武)と伊須気余理比売
登場人物に合わせて、家系と事件を①②③④と配置してみると、以下のようになる。
“物語“として語られる順番と、登場人物の世代の順が異なる。登場人物の世代順を正しいとすると、事件の起きた順番が違うことが明瞭。
事件の発生した順番は ①天の岩戸事件 ②天孫降臨 ③出雲の国譲り ④神武東征であった ことが判る。
「登場人物の系統図と話の展開」の図で示された時代を逆行する矢印は、やはり、有りえず、出雲族にも天孫族にも均等に時は流れたことになる。
- コメント:
- 出雲系の家系に関しては、古事記に、父母と子の関係を明瞭に示して記載されているが、天孫族に関しては、世代数が少ないことが気になる処。
5)事件の順番が判明すると
事件の順番が正しく判った状態で、もう一度、古事記、日本書紀を読み直して見ると、その印象が大きく変わる。天孫降臨の時期が従来の印象よりずっと早い時期であったことに驚く。
もう一つ、神武東征の開始時期のことを取り上げて記す。
国譲りの出雲側の登場人物は、大国主命とその息子の事代主・建御名方神。神武東征には事代主の娘の伊須気余理比売が登場する。結婚適齢期の伊須気余理比売は神武天皇の皇后となる。この婚姻を考慮すると、国譲りの登場人物と神武東征の登場人物が重なると云うことは、出雲の国譲りの終了から神武東征開始までの期間は、空いていないと推定される。では、神武東征の開始の描写を見てみよう。東征の物語は、会議から始まる。
- 古事記:
- 「いずこに坐さば、平けく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ。」
- 日本書紀:
- 『東に美き地有り。青山四周(ヨモニメグレリレリ)。(中略) 彼の地は、必ず以て大業(アマツヒツギ)を恢弘(ヒラキノ)べて、天下に光宅(みちお)るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心か。
会議の主題は、何処が、政治・支配に最も適した土地なのかを問い、移転先を問う。結論は、「東へ」、「大和へ」。この結論に従い、神武東征は始まる。
この会議の背景を考える。出雲の国譲りの直後の時期であったすると、天孫族側が、出雲方の支配してきた土地を接収し、その広大な領域を支配することになり、円滑に政治支配する方法が問題になっていたのではないかと考える。五瀬命と神日本磐余彦尊(神武)の支配拠点の位置関係と、広がった支配地域の関係を調べてみる必要がある。記紀には、支配地の大きさ・広さについての記述は無い。そこで、出雲の国譲りの立役者である③ 建御雷神・経津主神(フツヌシノカミ)の行動範囲から見て行く。
地図上の黒の曲線の示す経路は、大国主に国譲りを迫り、反抗した建御名方神を諏訪の地まで追い詰め、降服させた追撃ルートと、国譲りを成功させ、その首尾を報告しに戻ったルート。
青色の曲線と矢印は、出雲の岐神(クナドノカミ)(久那斗神(クナドノカミ) )を道案内人として同行させ、出雲の支配地域の接収を行いながら行った終端の地、鹿島・香取の地までのルートを推定し、記したもの。地図中の赤い丸は、高地性集落の遺跡を示す。
尚、矢印のルートの先の地点には、一方は諏訪大社があり、その途中には、建御名方神とその母の奴奈川姫を祀る神社が点在し、伝承が残る。もう一方の先には、建御雷神を祭る鹿島神宮があり、経津主神を祭る香取神宮と岐神(久那斗神)を祭る息栖神社があり、東国三社と云われる。
出雲族の支配地は、北九州から日本海側の北陸から新潟・長野県までが広がっており、太平洋側は関東地方まで広がっていたものと推定できる。北九州の一角に、五瀬命と神日本磐余彦尊(神武)が拠点あったと推定する。その遠隔の北九州の地から、この広大な土地を有効に支配できるのか? 北九州から支配をすべきか、広大な新たな支配地の中心地域に、拠点を置き支配すべきか、と云う問いは、自然なものと考えられる。そう考えると、「いずこに坐さば、平けく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ。」と云う問いと答えは、簡潔な、優れた描写に思える。
事件の順番と、事件と事件の間隔の目途が付くと、神武東征開始時の会議の目的と結果が理解できる。
この理解は、文学者が言葉の解釈から検討したものとは、自ずと異なる。従来、事件の順序も判らなかった時には、五瀬命と神武が、理由もなく、突然、東征を言い出すとの印象を受けていた。
東征の理由も判らないで、大遠征を評価することもできず、判然としないものが有った。国譲りと東征の順序と間隔が判ることで、神話の読み方が大きく変わることになる。
III 事件の順序に従って、一連の神話を見直す
1)天孫族と出雲族の対立と抗争
- 天照大神と須佐之男命の対立
武装して、須佐之男命の到来を待つ天照大神、須佐之男命の乱暴狼藉の物語は、きな臭いものを感じる。 天孫族と出雲族に対立が、この時点から発生しており、天の岩戸事件は、その対立が、抗争に至ったように見える。その対立は、天孫族が巻き返し、須佐之男命を罰し、追放で一段落してように理解する。
- 天孫降臨
天孫降臨の部分を読み直すと、アマテラスから指示を受けた天忍穗耳尊は、天橋立から下界を見て、躊躇して、降臨を止め(日本書紀「一書」)、子ができたとして、瓊瓊杵尊を降臨させた。従者を多くて付け、工人も同行させ、出発するが、途中の道が分かれる処に立つ猿田毘古神に怯える。人を出してみるがうまくゆかず、天宇受売命(アメノウズメノミコト)が出て、そこに立つ理由を聞き、安堵する話が載る。この緊迫感のある記述から、天孫降臨は、危険のある中で、決死の行動であったとの印象を深める。「一書」には、国譲りの後であるので、平穏になってから安心して出発したように読める記述もあるが、実際には、緊迫した状況の中で挙行されたように読める。須佐之男命を追放して、一段落したはずの対立が、再び、厳しくなったと考える。
- 武装対立と戦争
記紀神話では、須佐之男命を捉え、爪を抜くなど凄惨は罰を与え追放するが、戦争を意味するような記述はしていない。天照大神が存在し、天岩戸事件の発した処が九州だったと唱える学者も多い。争いの発生場所が、九州だったとすると、戦傷遺跡を考えざるを得ない。弥生時代の九州の遺跡からは、多くの戦傷遺骨が発掘されている。戦傷遺跡は、図のように、北九州で3つに区分される期間で、多く発生している。縄文時代には、戦傷遺骨は極めて少なく、弥生時代だけに多い。弥生時代でも、多くの場所は平穏で、戦傷遺骨は、北九州に集中している。北九州以外は、弥生の初期の山口県土井が浜遺跡、その外は、弥生の後期のもので、鳥取県の青谷上寺地(アオヤカミジチ)遺跡、長野県の松原遺跡、大阪湾近辺の複数遺跡。
長野県は、建御雷神により、建御名方神が追い詰められた地域。大阪は、神武東征で、五瀬命が負傷し、撤退した場所で、その地域では激戦が行われたと考えられる。共に、神話に登場する争い・戦争の記述の残された場所。その外は、日本海側の青谷上寺地遺跡で、戦傷遺骨が大量に破棄されたような状態で発掘された処。調査の結果、大量虐殺の時期は、弥生後期とされている。出雲の国譲りの際に、反抗した建御名方神に関わるものかと推定される。建御名方神は、「手をつかみ批(ヒシ)ぎ投げ離ちたまへば、すなわち逃げ去にき」と力比べに負けた。青谷上寺地遺跡は、後ほど図で示すように、管玉の加工・集積地で、奴奈川姫・建御名方神の拠点で作られた勾玉と合わせて、装飾品としていた地域であったと最近の研究成果が報告している処。建御名方神が深くかかわった土地で、虐殺が行われたことが、古事記では、「手を引きちぎられて逃げた」と柔らかく記載したものと考える。記紀では、戦闘・戦争の記述を殆どしない、しても、軽微な争いと記述している傾向が見られるため、天孫族と出雲族の対立や天孫降臨の緊迫感が、実際には、戦闘や戦争であった可能性がある。まだ、九州の戦傷遺跡と神話の関連については、明らかにされていないが、今後、検討すべき課題と考える。
2)大国主命の国造り(出雲国の広がりと産業)
大国主命の国造りに関しては、具体的な事実を示すものは少ないが、女性にまつわる物語が意味を持っていたことが、判って来た。
- 奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の物語と勾玉(マガタマ)・管玉(クガタマ)の産地・加工・流通ルート
奴奈川姫の物語、その子の建御名方神と話に繋がり、新潟・長野まで出雲の勢力範囲であった事を示唆する。勾玉・管玉の生産と流通の研究からみると、奴奈川姫の生まれた土地、糸魚川(イトイガワ)で産出するヒスイとその加工品である勾玉の生産地と、管玉の複数の産地が、日本海ルートで結びつき、勾玉・管玉を合わせた装飾品として、青谷上寺地や出雲を経由して、最終消費地である北九州までつながっていたことが、この図で明らかに示された。奴奈川姫とその子の建御名方神が、このルートを完成させる役割を果たしとすると、奴奈川姫のエピソードは、大国主の出雲国拡大を示すものであったとも考えられる。
- 須勢理毘売命 (スセリビメノミコト) の嫉妬の物語 ―― 出雲と大和の重要な関係 ――
嫉妬深い正妻の話で、やや艶めかしい描写と歌が入った話としか読めなかったが、興味深い話題が入っている。出雲の正妻の元から、倭国(やまとのくに)へ旅立とうとすると云う地名の入った場面設定の記述がある。この地名の記述は、出雲と大和が結びついた地域であることと出雲族にとって重要な地域であることを、文献から示したものと言える。出雲と大和の関係を示す考古資料としては、最近の青銅の祭器の研究がある。この資料によって、出雲と大和について、検討する。
- A)青銅の祭器
-
古い日本史の教科書では、銅鐸圏と銅剣・銅矛圏と云う分布図が掲載されていた。銅鐸は近畿圏を中心とし、銅剣・銅矛圏は北九州を中心とした二つの文化圏の存在をきれいに図示していた。処が、1983年に神庭荒神谷遺跡、1996年加茂岩倉遺跡が発見され、大量の銅鐸と大量の銅剣・銅矛が発見された。このことによって、古い教科書にあった二つの文化圏は、否定された。しかし、青銅器の文化圏について、何であるのか、どんな文化圏であったのか、誰も説明しないことになってしまった。
神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で発見された大量の銅鐸と銅剣・銅矛の意味を次のように考える。
- 銅鐸の出土・同伴関係を見ると、出雲と大和は密接な関係がある。
- 銅鐸と武器型青銅器が一緒に出土したことは、同じ文化圏・勢力の物である。
- 埋納された青銅器は出雲のものであったこと。
二つの文化圏の図では、出雲と大和の繋がりを示していないが、埋納された青銅器の分布を検討すると、出雲と大和の関係が明瞭になる。初期の段階=第一段階では、武器型青銅器は、出雲から瀬戸内海沿岸に広がり、銅鐸は、近畿圏に拡大する。第二段階・第三段階では、銅鐸は、近畿から東海に拡散する。この拡散の動きは、大和を中心とする近畿圏が、出雲一族の新たな中心地になっていたことを示唆する。嫉妬深い須勢理毘売命を嫌がって出雲から倭国(ヤマト)へ移動すると云う大国主命の行動は、もっと大きな事情があったと考えられる。
- B)青銅器の生産地
-
因みに、青銅器の主要な生産地は、吉野ヶ里に近い佐賀県エリアと、福岡平野の南側の丘陵地帯にある須玖岡本遺跡、更に前原・糸島地区にある。鋳型の出土地を生産地と見ている。
鋳型の出土地は、第二段階では、大阪湾沿岸に広まる。大阪湾沿岸の第三段階では、鋳型が出土しない。しかし、これは、石を彫刻して作成した鋳型から技術が進歩し、現代の鋳物でも使われる砂型に替わった時期で、大阪湾沿岸や東海地方に砂型の破片が出土している。石の鋳型に比べ砂型は遺跡として残ることは少ない。遺物として残る可能性の少ない砂型鋳型が、破片でも見つかったことは、第三段階では大阪湾から東海までが主要な生産地となっていたことを示すと見える。
- C)青銅器の埋納と副葬
-
青銅器の出土状況には、主に二通りの出土がある。墓に副葬された場合と埋納された場合である。
北九州の大王の墓と見られる墓には、玉・鏡・剣が副葬される。王の墓でも、この三種又は、二種が副葬されることがある。青銅器が手に入りやすい地域では、死者に捧げるものとして青銅器を副葬したと考えられ、手に入り難い地域では、青銅器を所有していても、副葬はせず、次の代、次の代に伝世し、使用し続けたと考えられる。三種の神器とつながる玉・鏡・剣を副葬していたグループは、天皇一族に繋がる天孫族であったと考える。
埋納される場合は、山の中など、人に目に触れることのないはずの場所に、ひっそりと埋められたケースが殆どである。考古学者の埋納の理由説明は、複数の異なったものが有る。例えば、祭祀用のもので、緊急事態などでは、人目に付かない山中に埋め、祭祀に必要な時には掘り出して使うと云う土中保管説。武器型青銅器は、攻撃的な性格を持ち、敵を呪う:呪禁の為に埋められたとする。しかし、これらの説明は、納得が行かない。
日本書紀の本文に「矛」の記述 がある。大国主命が、国譲りを認める時の記述に、「乃ち国平けし時に杖(ツエツ)けりし、広矛を以て、二の神に授(タテマツ)りて」とある。この文から、大国主命:出雲一族が、青銅の武器型祭器を使用して、支配地を拡大し治めてきたと読める。このことは、武器型青銅器と銅鐸の分布を基に出雲族の支配地拡大としてきた根拠になる。又、大国主命が、天孫族の建御雷神に、降伏の印として差し出したものと解釈される。この戦利品を、建御雷神たちが、二度と使えないように、山中に埋めたものが、荒神谷・加茂岩倉遺跡に埋納された大量の銅矛・銅鐸と考えると、納得のゆく埋納の説明になる。遠隔地などで、戦利品として回収されなかったものについては、敗者側で、地中に埋め、叛意の無いことを示したケースもあったと考える。
青銅の祭器、特に銅鐸の出土分布を見ると、明らかに出雲と大和の強い関係が判る。須勢理毘売命の元を去って、大和に行こうとした大国主命の記述は、考古資料と引き比べると、その重大さが判る。
- D)青銅器埋納は出雲族 vs 副葬は天孫族
-
青銅器を副葬していたのが、天孫族・天孫族系で、埋葬された青銅器を使っていたのは、出雲族であった云える。最も多数の埋納青銅器は出雲から出土する。埋納された銅鐸は、出雲を除くと、近畿地方を中心に出土する。ここで、出雲と大和に強い絆が推測される。埋納された武器型青銅器は、北九州と瀬戸内・四国に多い。この関係も重要と思われる。今後、青銅器を埋納した地域と副葬した地域を詳細に検討すると、出雲族と天孫族の支配地が区分できる可能性がある。九州で区分できると、「天照大神と須佐之男命の対立」「天の岩戸事件」「天孫降臨」などの解釈が一段と進むものと期待する。
IV 神武東征と手研耳命(タギシミミノミコト)の乱
- ✔ 古事記・日本書紀にかかれた神話と考古学資料・論文
-
神話を歴史として読み、考古学史料や論文の記す処を結び合わせることによって、神話が史実であったことを実証することができるものと考える。1. 天照大神と須佐之男命の対立 から 7. 手研耳命の乱と後継天皇までの神話について、今後、季刊「古代史ネット」に書く機会があれば、個々の歴史課題として、記して行きたい。
今回は、この一つの歴史課題:神武東征と手研耳命の乱について、具体的な実在の証拠を示しながら、記すこととする。
1) 大和攻略開始
九州を出発し、筑紫の岡田宮・阿岐国の多祁理宮・吉備国の高島宮を経由し、戦力を整え、いよいよ、大和を目指し、大阪湾から攻略を開始する。出発時は、大和に入っている饒速日命が同族の天孫族であることが判っており、敵対するとは予想していなかったと推定する。しかし、饒速日命が敵対することが判り、安芸や吉備で戦力を整えて、戦闘態勢で大阪湾に入ったものと考える。では、護る側の饒速日命は、その攻撃に準備体制をとっていたのか、これを考古学資料から検討する。
まずは、神武軍のルートを確認する。
古事記は、簡潔に記述され、日本書紀では詳細に記述されている。特に目立った矛盾はないと見て、日本書紀の記述に従い、経緯を示す。
- 浪速の渡を経て、草香邑(クサカムラ)の白肩津(シラカタノツ)に至る。4月
- 徒歩で龍田(タツタ)へ向かう。難路で断念。
- 戻り、生駒山を越えようとした。
- 孔舎衛(クサカエ)の坂にて長脛彦軍と戦う。
- 流れ矢が五瀬命の肘に当たる。「皇師(ミイクサ)進み戦ふこと能わず。」
- 「日に向かうのは間違い、日を背にして戦う」と神武軍撤退 東側から攻めるとの意味か。
- 大阪湾を退き、南下する。
- 五瀬命死亡、紀伊国の竈山(カマヤマ)に葬る。5月
- 名草邑に至る。名草戸畔(ナクサトベ)を殺す。6月
現在の大阪では、日下(草香邑)は海から遠く離れて平野の真中にあるとして、このルートの信ぴょう性が問われたが、大阪湾の地質図が作られ、古地図が復元されると、海岸線にあり、港であったことを否定できないことが判った。大阪の古地図を参照。龍田 (タツタ)へのルートも、大和川の古い流れに沿っており、白肩津から移動が可能だったと思われる。しかし、日本書紀に記載される「其の路狭く嶮しくして、人並み行くこと得ず」 「乃ち還りて更に東胆駒山 (イコマヤマ) を越えて、中洲にはいらむと欲す」とあるが、地形から見て、龍田への道は、そんなに嶮しい道であったとは、思えない。別の理由があったのかも知れない。
この当時の戦争に関わる遺跡である高地性集落を見る。高地性集落は、交通の要所に見張り台を兼ねて作られた場合は、恒久的に、長期間使われたケースや、極めて短期間だけ存続し、特定の戦争・戦闘のために、見張りと戦うための山城として作られたケース、やや長期間に渡り存続し、敵の襲撃に備えたケースなどがある。
この図の神武東征のルート上には、高地性集が配置され、大和を護る。饒速日命側が、神武東征に備えて構築したものと見られる。若林邦彦氏の『「倭国乱」と高地性集落論・観音寺山遺跡』に掲載された図上の高地性集落を見ると、白方津から龍田のルートに沿って、高地性集落が並んでいることが判る。
龍田から大和川を遡り奈良盆地に至る付近には、饒速日命と、随行した物部氏一族の拠点地域が並んでおり、庄内式土器・布留 (フル)式土器の産地ともなっている。饒速日命側の要所であって、守備を固めていた処と推定される。従って、五瀬命・神武軍が徒歩で進もうとして龍田へ至るルートは、大和を守備する側の軍備や設備が整った地帯で、日本書紀に記すように、単に「其の路狭く嶮しくして、人並み行くこと得ず」では無く、ここでも激戦が行われ、五瀬命・神武軍が退却を余儀なくされた結果を、日本書紀ではさらりと「路が狭く、嶮しかった」と記したものと、考える。
2)熊野灘の遭難
指揮官の五瀬命を失った神武軍は、その後、海路を順当に航行し、熊野に至り、天磐盾(アメノイワタテ)(現在も観光地であるゴトビキ岩)を登るとの記述がある。日本書紀には、「海の中にして卒 (にわか) に暴風に遭ひぬ。」とあり、神武の兄二人が遭難死する場面が記述される。因みに古事記では、この遭難の記述は無い。神武の二人の兄については、その誕生の記事に、「波の穂を踏みて常世國に渡りまし」「妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)した」とだけ記し、熊野灘の惨劇の記述を回避したと考えられる。
この遭難をどのように受け取るべきか、考えてみたい。神武軍は、船団を組み、軍船を連ねて航行したものと考える。通常、指揮官の乗る旗艦は、最も大きく優秀で安全な船で、もっとも遭難し難いと考えられる。その船に乗る、神武の兄二人が遭難したことは、艦隊の大多数が遭難したと考えるのが妥当。神武とその息子手研耳命達だけが難を逃れ、上陸したと推測する。上陸する時は、重い刀や武器を捨て、身一つで高波の中、岩場や浜に泳ぎついたと想像する。
古事記に比べ詳細ルートや経緯を記している日本書紀を読むと、上陸後の神武軍の人員数は、本当に少ない数になっているように、読める。大和へ向かう神武軍の武器は、艦船で運んだものでは無く、高倉下の発見した剣であった。
考古学者は、神武東征に疑問を投げかける人も多い。その理由として、九州から畿内に、大挙して人が移動したならば、大量の九州産土器などが発見されるはずだが、出土しない。鏡・武器なども、出土しない。技術も移転したようには見えない。だから、神武東征は無かったのだ。このように理由を述べるが、熊野遭難の記述を読めば、神武軍と一緒に到着するはずだった土器・鏡・武器、さらに、技術を持った人々も全て、熊野灘に沈んでしまったため、失われたことが判る。考古学者の指摘は、鋭いものが有るが、文献と照らし合わせると、その答えが明らかになる場合がある。熊野灘の遭難はその例と云える。
3)事代主の娘(伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を皇后に選定
熊野から神武一行は、予定しない遭難地点から日本で最も年間降水量の多い地域を越え、苦難を越え、大和に入った。日本書紀はその詳細を記す。少数の手勢を率いて、味方を増やしながらの行軍は、大変の苦労があったと思われる。最終的には、天孫族の印である天の羽羽矢と歩靭(かちゆき)が示されたことにより、 饒速日命 (ニギハヤヒノミコト)が、守備側の武将で義理の兄弟である長脛彦(ナガスネヒコ)を殺し、神武一行を大和に迎え入れた。
この結果、神武は即位したが、九州から来た天孫族は極僅かで、饒速日命達の正規軍はほぼ全員揃っている。このアンバランスな状態で、即位したが、安定した政権・勢力になったとは言えない。その不安定な状況を打ち破る秘策が、「事代主の娘(伊須気余理比売)を皇后に選定」と云う政略結婚である。神武の戦った相手である饒速日命について、記してみる。
饒速日命は、記紀には出雲へ派遣されたとの記述はないが、派遣された天孫の一人で、大国主命の娘の天道日女命を妻とし、子の天香語山が生まれている。天道日女命は事代主と兄弟。大和に入った時に、長脛彦の姉妹の登美屋姫を娶り、子の可美真手命が生まれている。饒速日命にとって、事代主は義兄弟に当たる。大和元々は、この近畿・大和を支配下に置いたのは事代主であったと推定する。少数派の神武が、この大和の地を治めるためには、以前の支配者である事代主の娘との政略結婚は、最良の手段だったかもしれない。
4)手研耳命(タギシミミノミコト)の乱と後継天皇
神武の死後、破廉恥な事件が起きている。神武の九州時代に生まれた息子の手研耳命が、神武の皇后であった伊須気余理比売を、強引に娶り、政権を奪取した。その後、伊須気余理比売と神武の間に生まれた子が、手研耳命を殺して、二代目の天皇となっている。
この乱が、その後の社会や記紀の記述にも、与えた影響は大きかったものと推定する。 手研耳命の乱に加担した人々は誰で有ったろうか。熊野灘の遭難を超えて、大和を勝ち取った九州から同行してきた人々は、どちらの側に付いたのだろうか? 共に戦ってきたメンバーの絆は固いものだったと考え、九州から同行した人々が手研耳命の側に付いたとする推定する。手研耳命の乱が収束する時には、主要なメンバーは、抹殺されたのではないかと懸念する。
この結果、天皇家には、九州時代からの天孫族の風習・伝統行事を伝える人も居なくなったと考える。又、伝承を伝えるも失われ、過去を伝える記述が不正確になったのではと、危惧する。天孫系の世代の少なさや、神武東征の出発からのルートの不正確な記述なども、ここに原因があるのかも知れない。
後継の天皇の妃について記すと、初代神武の皇后は、事代主の娘、二代綏靖天皇の皇后も事代主の娘、三代の安寧天皇の皇后も事代主の孫娘。(日本書紀による) 九州から来た一族が抹殺され、三代にわたる天皇の皇后が事代主の娘と孫娘であることを考えると、事代主の権勢の大きさが覗われる。日本神話の大和朝廷成立までの物語・神話は、出雲が敗北し、天孫族が勝った物語のように記されているが、実質は、負けたはずの出雲の勢力と饒速日命の一族は、しっかりと生き残り、大和朝廷の有力な勢力となったと理解できる。
おわりに
古墳時代以前の文献を神話の時代として、歴史から除外されてきたことの不合理を指摘し、歴史的事実を捉えて、考古資料を裏付けに「歴史として読むこと」の意義を例示してみた。神話中の事件とその登場人物及びその系図の関連を検討した結果、事件の発生した順番は ①天の岩戸事件 ②天孫降臨 ③出雲の国譲り ④神武東征であることが判った。この順序で事件を読み解くと、神話は架空の物語では無く、実際に起きたことを物語っていると理解できる。ここでは、僅かな例しか示していないが、考古資料などと、注意深く照らし合わせると、日本神話が、実際にあった事実や歴史を記述したものであることが更に明確になるものと考える。近い将来に、「神話を歴史として読む」ことにより、解明されてくる歴史的事実を順次つなぎ合わせ、「弥生時代の始まりから、古墳時代まで」を一望する俯瞰図を作成したいと考えています。