最終更新日:
2024/08/30

特別保存論文

弥生時代の開始時期

著者:丸地 三郎
初出:2021/03

はじめに

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』記事では、とうとう、弥生時代の始まりは『紀元前10世紀頃から』になってしまった。国立歴史民俗博物館(以降、歴博と記す)が唱える 『弥生時代の始まりは500年遡った』説が一般に認められたように見える。困った現象だ。流石に東京国立博物館の展示説明は約2400年前としているが、一部の歴史博物館では、「3000年前から弥生時代は始まる」と展示しているし、徐々に増加する傾向に、危機感を覚える。

この『弥生時代の始まりは500年遡った。』との説は、歴博が科学的年代測定法で計測した結果として唱え始めたもの。考古学会や考古学者達は認めず、異議を唱えているが、この説は、広く喧伝されており、異常な状況になっている。

筆者は、2018年に「弥生時代の始りは500年遡らない!」とする文を発表し、異議を唱えた。今回は、その論旨を整理して記し、加えて、新しく判明した歴博の年代測定の不合理な結果を示すこととする。しかし、異議を唱えるだけでは埒が明かないので、「弥生時代の開始時期」に、起きた歴史的事実を解明し、分析した。結果、開始時期は、従来通り、凡そ紀元前500年頃で、遡らないことを示した。

「弥生時代の開始時期」に起きた歴史的事実を調べた結果、判明したことの要点を以下に示す。 歴博では、弥生前期の開始年代を「夜臼・板付共伴期」として、一つのまとまった時代として見ているが、そうでは無く、激動の時代だったことが判る。

  1. 日本への水田稲作渡来が二度あったこと。
  2. 二度目の渡来時期に「弥生の戦争」が発生していたこと。
  3. 最初(一度目)の渡来の当事者は、先住民である海洋性縄文人で、中国春秋の呉の難民を招聘し、その水田稲作の技術を用いて「最初の水田稲作」を行ったこと。
  4. 二度目の渡来と水田稲作の当事者は、いわゆる弥生渡来民・倭人で、大陸から直接来た人々で、別の米の品種と新しい水田耕作を含む文化をもたらした。
  5. 弥生渡来人は、ある時点で、北九州にあった海洋性縄文人の集落を襲撃し、弥生人の集落とし、縄文系の土器を廃止し、弥生土器に変更し、米の品種も、自分達が持ち込んだ別の品種に置き換えた。
  6. 古代米の品種が、中国・朝鮮日本で、科学的・統計的に解明されたことにより、渡来した品種の源郷と類推される個所が判明した。一度目の品種は、中国春秋の呉に源郷があり、その品種の米が朝鮮半島に渡り、更に北九州に渡来したもの。二度目の品種は、山東半島の付け根部分の焦庄遺跡付近から来たものと目される。
  7. 一度目に:最初に行われた水田稲作を主導した海洋性縄文人は臨海地帯の水田耕作適地に居を構え、半農半漁の生活を送り、海洋性食料を多く摂る生活を営んでいたと推測される。海産物を多量に摂食することによって炊事用具・食器に海産物が付着することになる。それが土器付着物となる。その土器付着物を炭素14年輪年代法で計測すると、海洋性リザーバー現象が発生する。これが誤って、「弥生時代を500年遡らせる」要因となった。
  8. 一度目の水田稲作は、中国春秋・戦国の呉が滅亡し、難民が朝鮮半島に移ったことが契機で、滅亡時期紀元前473年より後のことになる。従って、従前からの定説であった起源5世紀が正しい渡来時期と云える。
  9. 二度目の弥生人渡来の時期は、従前からの土器研究から生まれた土器編年に従い、紀元前3世紀から紀元前2世紀を支持する。

因みに、日本の水田稲作に関する学説に関しては、「朝鮮半島から渡った」とする説は十分な根拠が有る。また、「大陸から直接日本へ渡って来た」とする農学者の唱える説も十分な根拠が有る。どちらが正しいのか結論が出ていなかったが、ここで、結論が出る。それは、両方とも正しい。一度目の渡来は朝鮮半島経由で、二度目の渡来は大陸から直接。一度目に渡来した米の品種が駆逐され、二度目に大陸から来た品種に置き換えられた。このように理解すると、稲作起源の問題が氷解する。

これ以降、下記の順に、記述を進めて行く。

  • 「500年遡る説」への批判に対して、歴博が自ら反論した論文の重要部分を紹介する。その反論の根拠が、成り立たないことを示す。更に計測結果に矛盾が生じる事例を、新たに見つけ示す。
  • その後、「弥生時代の開始時期」の解明に入り、従事した人々・墓制・米の品種などを調べ、人の種類・米の種類・墓制も異なり、時期も異なる「二つの渡来」が有ったことを論じる。その中で、米の品種から二つの源郷と異なる渡来ルートが類推されることを示す。
  • 「二つの異なった渡来」を行った二つの人種の人々が起こした戦争とその結果を論じる。
  • 弥生時代の開始時期が明瞭になったことから、何故、歴博の計測結果が誤ったものになった原因を論じる。

I. 弥生時代の始まりは 500年 遡らない!

問題を簡略に整理し直して記す。

  • ご存知のように、『2003年5月に,国立歴史民俗博物館(通称「歴博」,千葉・佐倉市)は, 九州北部や韓国の弥生早期から前期の土器を炭素14年代測定法のAMS 法によって計測し,その結果,弥生時代の始まりは,定説より約500年古い、紀元前 10世紀とする新説を発表した。』 ここからこの問題はスタートする。
  • 歴博の一連の計測結果とその発表に対して、考古学者達が、基礎データを示さない発表の仕方への非難や、計測結果を海洋リザーバー効果の影響とみる批判などが集中して行われた。
  • それに対応するため2005年に、『総研大文化科学研究』に、藤尾 慎一郎氏・今村 峯雄氏・西本 豊弘氏の共著として、「-AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築-」を発表し、反論した。
    • 「この問題に対する私達(歴博)の考え方と、海洋リザーバー効果の影響をどのように認定しているのか説明しておこう。」「海洋リザーバー効果の影響の有無は、その試料のδ13C、δ15Nの値、炭素/窒素比を調べて、総合的に判断する。」として、海洋リザーバー効果の影響はないとの見解を記している。(有効性が十分に認められていない手法)
    • 更に、本文ではないが、注2)において、『ちなみに歴博では海岸に接して立地する遺跡から出土した試料は原則として測定の対象としてこなかった。』と海洋リザーバー効果の影響排除を断言している。(この論文の注2)は、文末に全文を示す。)
1) 歴博の反論で断言したことが、正しく行われたか、検証する。

『海岸に接して立地する遺跡から出土した試料は原則として測定の対象としてこなかった。』との断言が、正しいのか否かを検証する。

  • この排除されるべき試料の条件を検討してみる。
    • この注2)の中で、「海産食料に多く依存していると思われる人びとが営んだ遺跡から出土した土器の付着炭化物は、海産食料を調理する際にできた煮焦げや吹きこぼれである可能性があるので、試料としては避けたほうがよいという意見もある。」としている。この文章から、「海産食料に多く依存する」古代集落を、地理的条件として、「海岸に接して立地する遺跡」とする。
    • 検討に当たっては、「海産食料を多く依存する」要件を満たすものとして、『容易に海産物接取が可能な』、海岸線から1km以内の集落、又は、河口から数km以内の川に面する集落と考える。
  • 『検討対象とする遺跡』
    • 上記の論文「-AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築-」に①考古学的調査の項目で「較正年代を考えてみよう」と挙げられた藤尾氏外の前記論文中で測定結果のグラフ等を挙げて示された「菜畑遺跡、梅白遺跡、雀居遺跡、那珂君休遺跡」の4遺跡を検討の対象とする。
      ➢ 遺跡の所在地(地図:歴博 2004.9.8
      【研究広報】 弥生時代の開始年代/プレス配布より)
      1. 菜畑遺跡
      2. 梅白遺跡
      3. 雀居遺跡
      4. 那珂君休遺跡

      の4遺跡

2) 雀居遺跡と那珂君休遺跡について検討
「1999年3月暦博研究報告」中の論文・藤尾慎一郎著
「福岡平野における弥生文化の成立過程」の図

これを見ると地形は現在のもので、「点線」で示されたラインは、縄文海進時の海岸線として示されている。一般的には、縄文海進の最進時期は、6~7千年前の時期で、その後、海岸線は退いている。この常識に基づき、この現在の地図を見てみると、雀居・那珂君休遺跡は、縄文海進の海岸線から3km程度、離れており、海退したはずの弥生時期の海岸線からは、更に遠く離れ、『海岸に接して立地する遺跡』では無いように見える。

  • 同一の地図は、1994年12月に第四紀研究で発表された「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」当時九州大学理学部の下山正一著に記載されている。下山氏はこの海岸線は縄文海進の最も海進の進んだ時期のものとしている。
  • 続いて、この海岸線について述べている記述がある。(財)九州大学出版社1998年発行の「福岡平野の古環境と遺跡立地 -環境としての遺跡との共存のために-」の第4章に「博多遺跡群をめぐる環境変化 -弥生時代から近代まで、博多はどう変わったか」著者は、磯 望・下山 正一・大庭 康時・池崎 譲二・小林 茂・佐伯 弘次。
    • この論文では、この海岸線の時期を見直し、「14C年代で、3,190年前から2,580年前の間となる。」と記し、「堆積物の厚さなどを考慮すると、その年代は約3,000年前で、数百年の誤差をもつものと判断された。」と結論づけている。

従って、縄文海進時の海岸線と示された線は、丁度、歴博の弥生開始時期とする約3000年前の海岸線であったことになる。歴博の主張する年代が正しいとすると、この海岸線がその時代の海岸線になる。従って、雀居遺跡と那珂君休遺跡は、この海岸線にある河口から3km程度上流の川沿いの遺跡で、『容易に海産物接取が可能な』地域に存在する。懸念された『海岸に接して立地する遺跡』そのものとなる。

従って、雀居遺跡と那珂君休遺跡は、『原則として測定の対象としてこなかった』はずの遺跡になる。

3) 菜畑遺跡・梅白遺跡について検討
菜畑遺跡付近の地図
  • 菜畑遺跡付近の地図を確認すると発掘現場から海までの直線距離は約900m。これだけでも、臨海遺跡と云える距離だが、古地図で検証を行う。

2014年3月に佐賀教育委員会の発行した中原遺跡Ⅷと云う文化財調査報告書があり、その中で、遺跡の位置と環境を確認するために唐津付近の地形を調べ、報告している。

この中の地形図 : 図3 旧海岸線・砂丘列地形分類図(オリジナルのモノクロの図に、丸地が色を付け、コメントを入れた。) を使い検討する。

図3 旧海岸線・砂丘列地形分類図(オリジナルのモノクロの図に、丸地が色を付け、コメントを入れた。)

古砂丘は、縄文海進後に砂が堆積したもので、縄文時代に堆積したもの。

新砂丘は、それ以降に砂が堆積したもので、弥生時代・古墳時代の遺跡は発掘されない。

従って、弥生時代初期の海岸線は、古砂丘列と新砂丘列の境にあったと推定される。

菜畑遺跡から海岸までは、古砂丘を越えることになるが、現在の地図より、距離は更に縮まり、500m以内になる。

梅白遺跡も海に近く、現在の地形でも、海岸線から川に沿って2km以内で川に面している。弥生時代初期には、やはり古砂丘まで海が来ていたと考えられるため、海岸の河口から1km強の距離にある「海産物を入手するのに便利な地域で、「海岸に接して立地する遺跡」になる。

4) 結論:

古代の地形図・地質図の示す海岸線からの距離を調べてみると、「菜畑遺跡、梅白遺跡、雀居遺跡、那珂君休遺跡」の全ての遺跡は、今からおよそ3000年前又は弥生時代初期には、海岸から1km未満、2km未満、河口から2~3kmの川沿いと云う立地であり、4か所、全ての遺跡は、『海産食料を入手するのに便利な地域で』、「海岸に接して立地する遺跡」であることが判明した。

2005年、藤尾 慎一郎氏外の批判に反論した論文では、『ちなみに歴博では海岸に接して立地する遺跡から出土した試料は原則として測定の対象としてこなかった。』としているが、4遺跡は、全て海洋リザーバー効果影響の可能性のある遺跡で、除外されるべき遺跡であることが判明した。

従って、測定に使用してはならない試料を計測した結果、導き出された『弥生時代の始まりは500年遡るとする新説』は、直ちに、破棄されるべき説である。

II. 一ヵ所の遺跡で複数の土器・木杭が試料として計測された事例

図:縄文晩期後半の水田耕作の証明~寺沢薫「王権誕生」より

初期水田稲作は北九州で始まったが、その後、上記の図のように、瀬戸内海沿岸・大阪まで広がった。

波及先での情報が無いか探して見ると、歴博のホームペイジの中に、次の報告が有ることが判った。

科学研究費補助金による研究|研究活動|研究|国立歴史民俗博物館
(rekihaku.ac.jp) 平成16~20年度
文部科学省・科学研究費補助金 学術創成研究費:
弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築-

その中の『3 堰(せき)跡(あと)の年代』は、歴博の報告の中では珍しく、同一遺跡の縄文時代から弥生時代までの複数の試料を計測し、その全ての結果が示された事例が掲載されていた。計測された年代をグラフ化してみた処、興味深い結果が出た。まず、この項目の全文を示す。

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農業用水を供給するための堰(せき)は水田稲作には重要な設備、この堰が縄文時代の晩期(突帯文式土器の時期)のものだとして、大阪府の牟礼遺跡が話題になった。この遺跡から出土した縄文式土器・突帯文式土器・弥生式土器の年代測定を行うと共に、堰を構成する杭の年代を測定したことを報告している。

処が、この堰の杭の年代測定に関しては、問題が発生した。別の機関で年代測定した結果と違うと云うことで、歴博は、PG液(木製品の保存用に使うプロピレン・グリコールと云う薬剤=年代測定する場合には汚染物質になる)がかかっていない箇所の試料を探し出し、測定のし直しを行った。(堰の杭1・2・3の計測に関しては、PG液がかかった木材を計測するというずさんな計測をしていたことが窺える。)この結果、新たな年代測定結果の数値を入れて報告したのが上記と云える。

引用した文の下から4行目の「その結果、・・・」以降の文章は、文意の通じない処だが、前文の流れから理解して、数値をグラフ化してみたのが次の図となる。

歴博による岩屋遺跡試料計測年代をグラフ化
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上3行の堰1~3は問題があった計測年代。計り直した堰1~2の年代を堰の正しい年代として見る。水田稲作に係る堰の年代は、計り直した年代で、前450年~前200年になっている。

土器の年代順は、出土した地層の上下関係や形式・製作方法などから、厳密に調べられている。順番としては、縄文式土器・突帯文式土器・弥生式土器となることは言うまでもない。しかし、歴博の年代測定の結果によると、牟礼遺跡では、突帯文式土器は、縄文土器よりも古く、弥生式土器は、縄文式土器と同じ時期になっていて、異常な状態。

水田稲作と関わりの深い突帯文式土器・弥生式土器の年代は、堰の年代とひどく離れている。水田稲作との関係を考慮すると、堰の時期と突帯文式と弥生式の土器の時代は、同じか近いはずで、これもおかしい。

グラフ化してみた場合、歴博の計測した突帯文式土器と弥生式土器の年代は、極めて異常であることが明確化になる。北九州の土器と同様に、海洋性リザーバー現象が起きていたと推定される。

現在の牟礼遺跡は海から離れた位置にあるが、古代の地図での位置関係を確認してみる。

大阪の5000年前と2100年前の地図~大阪市HPより
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縄文時代には、現在の大阪市の位置には広く海が入り込んでおり、弥生時代にも河内湖と呼ばれる大きな汽水湖が発達していた。牟礼遺跡は、古い淀川沿いの河川に面した場所にあり、海産物を食料として入手できる地域に有る。北九州の海洋性縄文人から水田耕作を習得すると共に海産物を食料とする生活方式を学んでいた可能性は高い。

現代の地理では海から遠い地区でも、復元された古代の地図を調べると、思いがけず、海に近いこともあり得る。

歴博の弥生時代の開始時期に関する計測結果は、基本的なデータが開示されなかったことが問題となり非難されたが、やはり、これは問題であったことが判る。牟礼遺跡のように、遺跡に有る前後の時代や土器以外の木製品なども計測することにより、計測物の年代順が判明する。その正しい順番を確認した上で、矛盾なく、年代が表示されるならば、誰しもが納得する。同じ遺跡の前後の時代の土器の測定結果も公表されることが、望まれる。

では、海産物を食料として供給できる臨海地域で、初期水田稲作を始めた人々と生活はどんなものであったのかを考え、初期水田稲作に関する複数の書籍や論文から全体像とはいかないが概要をまとめてみる。

III. 最初の水田稲作を行われた地域の共通点

菜畑遺跡、梅白遺跡、雀居遺跡、那珂君休遺跡」の4遺跡は、ただ偶然に、海 岸近くの例が取り上げられただけなのか? これを検討する。

歴博の500年遡る説が提起されて以来、複数論文で、遺跡名が挙げられている。上記の4遺跡の外に、計測した試料の出土しとして名前が挙げられた遺跡には、曲り田遺跡、橋本一丁目田遺跡、有田遺跡、板付遺跡、金隈遺跡などがある。

それらの遺跡がどんな地域に存在するのかを見て行く。地形図や古地図を参照しながら、弥生初期の時代に、海に近かったのか否かを検討して行く。

1) 糸島市の曲り田遺跡について見る
曲り田遺跡周辺地図

地質図で見ると深江平野の中央にあり、海までは遠い。しかし、埋立地・干拓地を示す灰色の部分が海であった可能性がある。そうだとすると、2.5kmとかなり近くなる。

12世紀の遺跡調査で作成された地図で確認をする。木舟の森遺跡二丈町文化財調査報告書第12集の第37図 遺跡周辺における当該期の海岸想定図がある。

木舟の森遺跡周辺地図~「木舟の森遺跡二丈町文化財調査報告書第12集」より

これによると、

  • 木舟の森遺跡と曲り田遺跡の間は1.5km
  • 曲り田から海までは1.2km程

この辺りの地域は、博多や唐津と同様に砂が堆積し、海を埋めて行く地形で、弥生時代の開始時期には、12世紀の地形よりも更に、海が陸地に広がっていたものと推定される地形。

従って、千年以上前の曲り田遺跡は、海に非常に近い遺跡と云える。

2) 名前を挙げた初期水田稲作の遺跡を地質図上に置いてみる。
北九州の地質図
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改めて見ても、全ての遺跡が、極めて海に近い場所に存在することが判る。これは、社会基盤、生業など何らかの基本的な理由が有ったことを示唆する。それは何であったのか? 検討する。

IV. 初期水田稲作を始めた人々の概要

開始時期を決める要素は、水田稲作であるとして弥生時代の開始時期が議論されている。ではその最初に水田稲作を始めたグループについて、言われていることを整理してみる。

  1. 土器は、従来型の縄文式土器とは異なり無紋の突帯文式土器を使用し始めた。
  2. 住宅は、縄文時代からの竪穴住居が使われるが、松菊里住居(方形又は円形)の住居が使われる集落もある。又集落の中で一部だけ松菊里型の住居が混じることがある。
  3. 墓制は、新しく支石墓が使われた。碁盤式の支石墓の下に、土壙又は木棺に入れて埋葬した。この碁盤式支石墓は、朝鮮半島の南部に多い形式。
  4. 支石墓に埋葬された人骨が良く残っていることは少ないが、残されていた事例では、低顔・低身長の縄文人の特徴を持つ。 支石墓に埋葬される人々は、集落のリーダー格の人々との見方も示されており、縄文人が初期の水田稲作の集落の主体であったと解釈される。
  5. 稲の品種につぃて、縄文時代には熱帯ジャポニカ米が古くから(6000年以上前)栽培されてきたが、水田稲作では、それと異なる温帯ジャポニカ米が栽培された。

このような特徴を持った人と文化と云える。この支石墓に埋葬された縄文人と、新規に持ち込まれた米について、その特徴を詳しく見て行く。

1) 墓制・支石墓から検討

埼玉大学・中村大介著 「支石墓にみる日韓交流」の日本列島の支石墓分布の図を見る。

日本列島の支石墓分布~「支石墓にみる日韓交流」より
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支石墓が分布するのは、「初期水田稲作」が行われていた唐津平野、糸島半島、早良・福岡平野。その外に、三国丘陵、佐賀平野が有り、西北九州西部の地区があり、より広い領域で支石墓が広まっていたことが判る。著者の中村大介准教授は、この支石墓に葬られた人々について、人骨の形質から縄文人の特徴を有していると記している。更に、海洋資源によった食事をしていたことを挙げている。

一般的には、どんぐりや栗などを主食としてきたと云われる縄文人とは違った生活をしてきたように見える。

支石墓に葬られた縄文人がどのような人であったのか知るには、参考となる情報がある。国立科学博物館で展示されていた。

2) 西北弥生人・西北縄文人

この支石墓の領域は、西北縄文人・西北弥生人と云われる人々の分布図に重なる。

西北弥生人・西北縄文人の分布~2019年1月 国立科学博物館:土井ヶ浜の展示より
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この図では、海産物を食料としてきた大友遺跡の人骨を代表的に取り上げ、西北九州弥生人としていた。この人々も縄文人の形質を持っているとしていた。この西北弥生人の数世代前の祖先(西北縄文人)が、初期水田稲作を行った人々であったと推定する。(後述するが、縄文人が弥生渡来人に戦争で敗れた事実から、「渡来弥生系」の分布地域は西北縄文人のものと推測する。)

➢ マッチョな西北弥生人
長崎県佐世保市の離島、高島にある弥生時代の宮ノ本遺跡で見つかった人骨が、マッチョだったと、複数のメディアで報道された。発掘に立ち会った人類学者の海部陽介さんがコメントをだし、調査をしている。筑波大学でスポーツ科学を研究する足立和隆准教授に依頼し、CTスキャンなどで、骨の断面図などを調べ、筋肉の付き具合を推定。身長は弥生人平均の162.6cmより4cm低いが体重は77㎏あり、上半身が筋肉隆々の屈強な体の持ち主であったことが判ったと記事に記す。高島以外にも、長崎県の平戸や五島、そして熊本県の天草など、九州西北部の複数の島からマッチョな体躯だった人骨が見つかっているとのこと。足立准教授は、彼らが“舟のこぎ手”だったと推測している。貝輪が出土することもあり、“貝の交易”を行っていたのではないかと推測されている。
➢ 海洋性縄文人
最初の水田稲作を行っていた集落の長たちは、支石墓分布の広がりを考慮すると、このマッチョな西北縄文人と同族で、海洋性の縄文人であったと推測する。唐津の大友遺跡の縄文人は人骨から海産物を沢山食べていたことが判っている。海に近い、舟を漕ぎ出せる地域に住み、海の交易を行い、海産物を食べ、備蓄の可能な米を栽培する半農半漁の生活を行っていたものと推定する。死ぬと最新の支石墓に葬られた。
3) 稲の品種

稲の品種に関しては、菜畑(唐津平野)・有田(早良平野)・板付(福岡平野)・瑞穂(福岡平野-大野城市)の各遺跡で採取した米粒は、筑後川流域の吉野ヶ里、安永田、須川、津古田や、遠賀川流域の立石、有明海に近い八女などの遺跡で採取した米粒とでは、「違いが有る」との報告がある。

前者の遺跡は最初に水田稲作を行ったグループに属する遺跡で、ここで作られた米は「極短小米」と称され、ややバラつきの大きいものであったとのこと。それに比べて、後者の遺跡では、米粒の粒形がやや大きく、「やや長粒米」と称される。

古代稲発掘遺跡の時代別分布~「東アジアの稲作起原と古代稲作文化」より
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この報告は、佐賀大学の和佐野喜久生氏の「東アジアの稲作起源と古代稲作文化」。

日本国内の遺跡に留まらず、朝鮮半島・中国大陸の主要な遺跡で発掘された米を調査した。米粒の形状を一粒・一粒の巾・長さ・厚さを計測し、粒のバラつき具合の統計的処理を加えた。試料の出土地(年代)、測定データ・統計処理した結果など、根拠の辿れる優れたレポートと云える。

遺跡から出土した米粒
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北部九州古代遺跡の米粒長の頻度分布図

図の赤枠内の米粒が、最初に水田稲作を行った遺跡のグループ、菜畑(唐津平野)・有田(早良平野)・板付(福岡平野)・瑞穂(福岡平野-大野城市)の各遺跡で採取された米粒。右の統計処理を行ったグラフでは、粒の長さについて行ったもので、4.4mmよりも短い:左側に寄り、ややバラつきが大きいことが判る。
「極短小米」と称される。

図の青枠内の筑後川流域の吉野ヶ里、安永田、須川、津古田や、遠賀川流域の立石、八女などの遺跡から採取された米粒は、前述のものより粒形が大きい。粒長は、4.4mmよりも右側の長い側に寄っていることが判る。
「やや長粒米」と称される。

和佐野喜久生氏の報告書とは別に、初期水田稲作の地域の米の粒形を調べた論文が有る。この論文では、早良平野と福岡平野の出土米を調べ、初期の米の粒形と、その後の時代:前期前葉の出土米と比較している。

弘前大学の上條信彦准教授著の「弥生時代開始期における出土米の形質変異」と云う論文。この論文の結論部分「おわりに」を下に示す。

早良・福岡平野の遺跡から出土した米粒について、早期(夜臼式土器)のイネと前期(板付けI式土器)のイネについて、米粒のサイズとバラつきを調査し、報告している。

  • 早期(夜臼式期:突帯文式土器の時期)のイネは、菜畑・宇木汲田貝塚のものと形質が類似し、多様性に幅のあるものが導入された。
  • 次の前期前葉(板付I式期:弥生式土器の初期)のイネはバラつきが小さくなるとともに、より丸く大きい粒へ収斂されていく、としている。

早良・福岡平野では、水田稲作が開始された時期=突帯文式土器の時代の米粒と、次の弥生式土器の時代の米粒の形質が違うことを示している。米の品種が変わったことになる。

「東アジアの稲作起源と古代稲作文化報告論文集」研究代表の佐賀大学の和佐野喜久雄教授と弘前大学の上條信彦准教授著の「弥生時代開始期における出土米の形質変異」の両方から以下のように判断できる。

  • 玄界灘沿岸・早良・福岡平野に入った早期(夜臼式期:突帯文式土器の時期)の米の品種は消滅し、次の時代(板付I式期:弥生式土器の初期)には、別の米の品種に置き換わった。
  • 次の世代の品種の栽培地域は九州の中でも広がり、筑後川流域の吉野ヶ里遺跡等や、遠賀川流域の立石遺跡、有明海に近い八女遺跡等に拡散した。

以上のことから、初期の水田稲作で栽培された品種とは、別の品種の米が、時期を隔てて九州に(日本に)持ち込まれ、弥生時代にはこれが主たる栽培種となった。

最初の「極短小米」を栽培したのは、海洋性縄文人で、「やや長粒米」を持ち込んだのは、弥生渡来人と見ることができる。

4) 二種類の稲の源郷は?

この二種類の米の品種がどこから来たのか? 源郷によって、もの(米の品種)とそれを持ち込んだ人(民族)が判明することが期待される。 二種の米の品種の源郷を解く鍵が、先ほどの「東アジアの稲作起源と古代稲作文化報告論文集」に記されていた。

そこでは、日本に渡来した二種類の米と同一の形質(米粒形のサイズとバラつきの)米を出土した遺跡を明示している。

  1. 菜畑・有田・板付遺跡の「極短小米」と同じ品種は、朝鮮半島の松菊里遺跡(BC500)と固城遺跡(AD100)から出土。 更に、中国長江の河口域の崧澤遺跡(BC4000)と銭山漾遺跡(BC2800)から出土
  2. 筑後川流域の吉野ヶ里などで出土する「やや長粒」の品種は、中国・山東半島付近の焦庄遺跡(西周:BC770年以前)から出土した。

日本の最初の水田稲作で使われた「極短小米」の源郷は、中国の長江河口域の崧澤・銭山漾の地域で、BC500年頃に朝鮮半島の松菊里遺跡に海路移動し、松菊里遺跡から日本へ移動したと見る。崧澤・銭山漾から松菊里への移動は、陸路ならば、山東半島・遼東半島・朝鮮北部から朝鮮中部までのルートを通るはずであるが、そのルート上では「極短小米」は発見されず、別のタイプの米が発見されるため、和佐野喜久生氏は、海路で直接、長江の下流域から、朝鮮半島中部に入ったと推測している。

図1 中国・朝鮮半島・北部九州の古代稲粒調査遺跡地の分布と地形
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因みに、朝鮮半島南部に多い碁盤式支石墓も北九州へ伝播しているが、この碁盤式支石墓は長江河口域の南の温州市から出土しており、東夷の墓制と云われる。温州は、呉の伍子胥の出身地で、崧澤・銭山漾遺跡は、春秋時代の呉の本拠地に近い。

春秋・呉が滅んだ後に、呉の難民が韓半島に多く渡来したとの記述ある。支石墓と「極短小米」の水田稲作が同時に、朝鮮半島へ移った可能性が高い。

筑後川流域の吉野ヶ里などで出土する「やや長粒」の品種は、山東半島の付近の焦庄遺跡が源郷とすると、弥生時代前期前葉に渡来した弥生人の源郷も同じ地域と推測される。因みに、ここに近い臨淄市から出土した多数の人骨は、土井ヶ浜遺跡から出土した弥生人の人骨に極めて近いことが調査報告されている。(土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム館長の松下孝幸氏が、中国各地で調査し、共同報告書を出している。)

V. 二度の渡来(異なる品種の米と異なる時期の渡来)

最初に水田稲作が行われた遺跡の名前をリストして置く。

  • 唐津平野:菜畑遺跡・梅白遺跡、糸島の曲り田遺跡
  • 早良平野:橋本一丁目田遺跡・有田遺跡
  • 福岡平野:雀居遺跡・那珂君休遺跡・板付遺跡など

これらの遺跡では、突帯文式土器が使われ、「極短小米」が栽培され、支石墓で埋葬された。これらの遺跡の次の世代と筑後川・遠賀川流域の弥生遺跡では、弥生式土器が使われ、「やや長粒米」が栽培される。

1) 変化の理由は?

主食の米の品種が全面的に変わる事態は、どのようにして起きたのか?

福岡市教育委員会菅波正人氏の「北部九州における弥生文化の成立」の中の弥生初期の土器変遷図(次頁)が有る。ここでは、北九州の16の遺跡について、時期毎に、突帯文式土器(夜臼I,II式)と弥生式土器(遠賀川式:板付I,II式)及び、その中間型の弥生土器化した突帯文式土器を一覧表にしている。

この一覧表は、読み方が分ると示唆するところが明瞭に読み取れる。

突帯文土器~遠賀川式(系)土器の遺跡一覧表
  • ✧ 縦列は遺跡名  並び順は、唐津平野から東に向かい、糸島、早良平野、福岡平野、から東の宗像まで並ぶ、最後の二つの遺跡は、筑後平野(前田遺跡は有明海に近い大川市、大木遺跡は朝倉市筑前町=旧夜臼町)
  • ✧ 横列は、時代順 : 左が古く、右が新しい。上にある項目名は、発掘する地層の名称で左側が下の層で古い。地層から示される時代順は高い正確性を持つ。
  • ✧●○◎は、土器形式で、下に注記がされている。
    1. ● は突帯文式土器(夜臼式I,II式)
    2. ○ は弥生式土器(遠賀川式土器:板付I,II式)
    3. ◎ 作り手と技法は縄文土器の製作者で、弥生式土器に似せて作られた。

注目すべきことは、ある時期に、一斉に、突帯文式土器と弥生式土器の両方が出土すること。その後は、一斉に弥生式土器に替わる。一斉変化の次の時期には、一部の地域では、縄文土器の製作者が、弥生式土器に似せて作った土器が出土することがある。

土器の変化から読むと、ある時から縄文の村が弥生の村に置き換わったことになる。この現象をどう見るかが、興味深い処。 土器の外に、このような例が有るのか検討する。

2) 戦争遺跡 初期の戦争遺跡 支石墓に埋葬vs甕棺埋葬

縄文時代には戦争の痕跡は無く、弥生時代に入ると戦傷遺跡が、北九州とその外限定された地域にのみ発生したことが、調査されている。

初期の水田稲作遺跡
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初期の水田稲作遺跡を、再び地図上に配置して見る。この遺跡の中には、戦傷人骨を含む戦争遺跡も含まれている。新町遺跡・長野宮ノ前遺跡には、支石墓の下に、2名ずつの戦傷人骨が含まれる。

次いで同じ地図に、弥生時代の初期形式の甕棺に埋葬された戦傷人骨を含む戦争遺跡を配置してみる。

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甕棺の戦傷遺跡が近くに無いのは、菜畑遺跡と新町遺跡・長野宮 ノ前遺跡。

但し、長野宮ノ前遺跡は、現状の遺跡の場所は、移動して設置されたもの。

殆どの初期水田遺跡そのものに、又はその近くの遺跡に甕棺埋葬の戦傷遺跡が存在する。

これをどう評価するのか? 考えてみたい。

戦傷遺骨が甕棺に埋葬されたことは、戦いで傷を負い、死んだ兵は、仲間の手で手厚く葬られたと考えると、甕棺埋葬方式を持つ弥生人が戦いに勝った側と見る。その戦いで負けた側は、初期水田稲作を行っていた集落となる。

甕棺の戦傷遺跡が近くに無い新町遺跡を訪れ確認してみた。

糸島半島の海に近い、農地が広がる中に、遺跡が存在した。新町遺跡の支石墓に埋葬された人骨は縄文人の体躯をしていたことで有名。戦争が有り、戦いに勝った側の集落であったことになる。この集落の墓域を説明する看板を見ると、縄文人の眠る支石墓の区域に隣接して甕棺の区域が広がる。このことは、縄文人の集落が、弥生人達に乗っ取られ、弥生人の集落に置き換わったことを意味する。

糸島市新町遺跡
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初めの戦いでは、縄文人側が勝組で、その後、弥生人が縄文人の集落を襲い、弥生人の集落としたものと読み取れる。

「弥生初期の土器変遷図」で見られた「ある時期に一斉に」変わったことは、ここでは、戦争を伴ったことが判る。外の初期水田稲作の行われていた集落も全て、甕棺に納められた戦傷人骨のある弥生集落に囲まれていたことが、先ほどの地図で分かったが、これも「ある時期に一斉」に発生した縄文人と弥生人の戦争によるものと推定する。

3) 最も早い弥生の戦争遺跡

最初は、縄文人側が勝利者だったとすると、大変気になる遺跡がある。大量の弥生渡来人が、渡来して間もなくの時期に襲われ、大量に虐殺され、故郷をのぞむかの如く、切られた頭蓋骨が浜辺に並べられた遺跡がある。土井ヶ浜遺跡で、32個の頭蓋骨だけ集められて埋葬、首のない遺体、15本の鏃が刺さったと推定される遺体などが埋葬される。到来後まもなくの弥生渡来人であるとのこと。この遺跡では、貝殻・貝粉が大量に含まれる浜辺に並べられたと云う稀な好条件によって、現代まで遺骨が残された遺跡。弥生人達の頭蓋骨が、一斉に西を向いて埋葬されている。

2019年1月20日、科学博物館で開催された土井ヶ浜展の折に、土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム 学芸員の高椋 浩史氏が講演した。取り上げたのは、頭蓋骨だけ埋葬された例についてで、詳細な説明がありました。風葬・土葬などの後に、骨を拾い上げ「再埋葬」する場合は、喉仏や頚骨は、頭蓋骨とは別に取り扱われ、別になる。喉仏や頚骨が、頭蓋骨側の残る場合は、体から首が切り離された場合に起きる。土井ヶ浜の頭蓋骨には、喉仏の骨が一緒についている場合があるとして写真を示した。従って、土井ヶ浜遺跡は戦争遺跡だったことになる。

この多数の首を切られた遺骨が、浜に並べられた状況をどのように推測するか? ネット上で様々な推測がされていた。争いに備えをもってきたはずの渡来人が、渡来直後に集団虐殺された理由や、殺戮した相手は誰かなど、疑問が示されていた。

土井ヶ浜遺跡 人骨発掘の分布図
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そのネット上の議論では、「武器を持った弥生渡来人が先住民の縄文人達を襲い、殺したことは想像が付くが、土井ヶ浜の場合は、その逆のケース。」「戦争経験を持ち、武器を持った縄文人集団が襲ったとしか思えないが、そんなことは有り得ない。」とした意見が有った。その意見は、極めて印象的だった。

新町遺跡・長野宮 ノ前遺跡などの縄文人グループが、山口県下関市土井ヶ浜の遺跡の弥生人主集落を襲ったとすると、縄文人グループが、海洋民であるならば、海流に乗り、襲撃できる距離と位置関係にある。玄界灘に面して集落を構えていた、海洋性縄文人族にとっては、行動範囲であった可能性は有る。

初期水田稲作を行っていた縄文人は、そんな戦争能力を持っていたのだろうか? 初期水田遺跡では、青銅製剣・磨製石剣・磨製石鏃が出土する。従来の縄文人の武器と違い、金属製の武器を持ち、その磨製石鏃は大型化し、縄文時代の石鏃に比べ殺傷力の大きなものになっている。

初期水田稲作を行っていた海洋性縄文人は、渡来直後の弥生人の小集落を襲うだけの武力は持っていたと云える。

縄文人の従来の石鏃と磨製石鏃~伊都国歴史博物館・常設展示図録より
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4) 福岡県早良平野の遺跡
「早良王墓とその時代」表紙

もう一例、縄文末期の集落と弥生渡来人の集落の関係を、確認する。

福岡市立歴史資料館(現福岡市博物館)が特設展「早良王墓とその時代」開催に当たってまとめた優れた図録がある。早良平野の遺跡を一覧表として示し、その所在地を●で地図上に示してある。全て●で示された遺跡を時代区分毎に、一部色分けしてみた。その結果が下の図である。

  • が、縄文遺跡、オレンジ色・中黄色の〇は、弥生前期の遺跡。(その外の時代は●のままにした。)
  • カラーの〇の表示は、同一遺跡の場合、重ねないように脇にずらして配置した。

ここでも、全ての縄文の遺跡が、弥生前期の遺跡に置き換わっていることが判る。

弥生初期の土器変遷図、戦傷人骨を含む戦争遺跡の配置図、早良平野の遺跡配置地図の全てで、北九州の初期水田稲作遺跡(集落)と縄文晩期の遺跡(集落)が、ある時期に一斉に攻められ、戦争の末に、地域全体が、弥生の集落に置き換わったことが複数の事例の解析から認められた。

早良平野の主な遺跡
5) 初期水田稲作民と、後から来た弥生渡来民の一覧表

二つの集団の違いを一覧表としてまとめてみると下記のようになる。

二つの集団の違い一覧
  • 上の画像は横スクロール及びクリック〈タップ〉による拡大可能

一覧表にすると、違いが明白になる。

土器が異なり、米の品種が異なり、住宅が異なり、墓制が異なる。人・人種も異なる。

初期水田稲作を行った人は海洋性の縄文人。朝鮮半島には、中国・春秋戦国の呉の難民が移り住み、水田稲作を行っていた。その難民と水田稲作技術を招聘し、北九州で初期水田稲作を開始した。海岸沿岸や河口に近い河川沿いの水田耕作の適地に集落を作り、呉の稲(米)「極短小米」を栽培し、呉の墓制の支石墓を取り入れた。住居は、一部に松菊里型住居を取り入れたが、多くは従来の竪穴住居で暮らした。

春秋戦国の呉の難民が契機となっているので、水田稲作の開始時期は、呉が滅んだ紀元前473年以降となる。

一方、後の弥生時代以降に日本全土で広がる弥生人の生活が、二次の渡来以来一気に広がった。海洋性縄文人が水田開発した集落は、勿論、取り込んだ。海に近い処、河口に近い河川沿いは勿論、内陸の平野部や、河岸段丘など耕作地域を広げ、日本全国に拡大した。米の品種は、彼らが渡来時に持参した「やや長い小粒米」だった。「極短小米」は継承しなかった。そして、(縄文人達が、陸稲として栽培していた熱帯ジャポニカ米は、水田稲作時にも栽培され、「やや長い小粒米」と混在することにもなった。)

武器は、青銅製の銅剣・銅矛・銅戈に加えて、鉄製の剣、鉄鏃そして連弩まで持ち込まれた。海洋性縄文人との熾烈な戦いのために、北九州に導入され、有効に使われたが、強力な武器の導入は、弥生時代中期・後期の戦争にも、影響を与えたものと推定する。

6) 初期水田稲作民と弥生渡来民についての「まとめ」

初期水田稲作を始めた人々と、後に弥生時代を築き上げた弥生人=倭人との間に、大きな隔たりが存在する。従来は、菜畑遺跡で水田稲作を始めた人々が、そのまま、弥生時代を築いたかのように説かれているが、実際には、主体となる人々も、一方は縄文人で、他方は弥生人で、骨格も文化も異なる。

そこで、この時期に何が起きていたのか、判り易く、まとめてみる。ここまで示してきた事実を元に、一連の現象・事件を、時間軸に沿って、推察する。

  • 縄文時代の晩期には、北九州に西北縄文人が住み、海洋の民として、帆船を操り、日本国内だけに留まらず、朝鮮半島までを行動範囲としていた。
  • 朝鮮半島には、春秋戦国の呉の難民が来ており、極短小米による水田稲作を行い、青銅器を使い、支石墓の習俗を持っていた。
  • 西北縄文人は、その呉の難民を招聘し、水田稲作を北九州で試み、呉の技術・文化の習得を行った。米は呉の難民の「極短小米」を種もみとして栽培した。それが菜畑遺跡などの最初期の水田稲作遺跡となった。招聘した「呉の難民」の数は左程多くなく、主体は西北縄文人であった。
  • 初期水田稲作民は、海洋民の伝統を受け継ぎ、備蓄の可能な米の外に、海産物を食料とする半農半漁の生活パターンを保っていた。
  • 北九州各地に広まったが、それだけでなく、瀬戸内海沿岸から大阪湾まで、散発的に広がった。しかし、いずれの遺跡を見ても、臨海地区に存在し、半農半漁の生活パターンであったと推定する。
  • 初期水田稲作民が平穏に暮らしていたある時、突然に、別の集団が、船を連ねて渡来してきた。その集団は、水田稲作をベースとする集団で、水田稲作の好適地に上陸し、開拓を始めた。
  • 西北縄文人達は、やがて、その事実を把握し、いずれ自分達が広めようとしていた地域が、占拠されたことに腹立ちを覚え、いくつかの小競り合いが起き、対立が深まった。(この項は一般的な推測)
  • 西北縄文人達は、集まり、呉の難民から習得した武器や戦法を使い、渡来した集団の開拓地を襲った。襲撃した集落の一つが山口県土井ヶ浜で、多数の渡来民を虐殺し、集落を破壊した。
    • 土井ヶ浜では、襲撃を受け、戦った男共が殺された あと、避難していた女たちが戻り、切られた首を集め、浜辺に並べ、葬ったものと推定。
    • 土井ヶ浜以外の場所でも、襲撃が行われた可能性は大きいと考えるが、土井ヶ浜のような保存に好条件では無い普通の場所に放置又は埋葬された遺体・遺骨が、後の時代まで残らず、遺跡として見つからないものと考える。
  • 多数の集団で来ていた弥生渡来民達は、この先住民の海洋性縄文人との戦争を知り、憂慮した。縄文人の集団が、中国で使われていた青銅の武器や戦術を使う集団とは思わず、想定外の事態に陥ったものと推定する。
  • 渡来人集団は、何らかの方法で、最新の武器を調達し、兵士を集め、反撃体制を整えた。初期水田稲作の集落の全てを、計画的に襲った。戦略を持った戦争行為と云える。
  • 渡来人集団は、全ての縄文人主体の初期水田稲作集落を襲い、集落を奪取し、集落と集落民を支配下に置いた。
    • 襲撃された縄文人の人々は、皆殺しにされたのではなく、生き延びた人が多く居たものと推定できる。
      • 「◎弥生土器化した突帯文式土器」は、弥生渡来人の支配下に入った縄文人の女性が作った土器と考え、生き残った縄文人が居たことの証拠となる。
    • 弥生渡来人は集団で渡来したが、開拓を行い、生活を安定させるには、多くの人手が必要で、縄文人を殺さず、中に組み込んだものとも、理解する。
  • 渡来弥生人達は、危険な西北縄文人達の集落のすべてを奪い取り、自分達の集落とした後は、稲作の品種は、自分達が栽培に扱い馴れている(食べ馴れている)「やや長粒米」に切り替え、住居・土器等も自分たちのものに切り替え、弥生の集落に作り替えたものと推定する。
    • 墓地は、縄文の墓地を取り壊すことなく、墓域を広げ、死者を自分たちの埋葬方式の甕棺で葬った。但し、支石墓に関しては、弥生渡来人の人骨の形態が類似すると云われる 東シナ海から黄海沿岸の民族:東夷人の共通の埋葬方式の一つであったため、短期間、踏襲したケースが有ったものと推測する。(中国の海岸沿いの甕棺埋葬地帯では、甕棺と支石墓が弊立している。)
    • 西北縄文人の支配していた北九州沿岸も渡来弥生人の支配下に入り、四国・本州全土に渡来弥生人が栽培した温帯ジャポニカ米の「やや長粒米」が拡散した。
    • 縄文人が、古くから陸稲として栽培していた熱帯ジャポニカ米と共存する形となり、短期間(凡そ200年間)に水田米作を本州北部(青森県)まで、一気に広げることに成功した。

IV. 弥生時代の始まりについて:結論

国立歴史民俗博物館(歴博)の提言する「弥生時代の始まりは500年遡る」と云う説について記した。歴博が、「海洋リザーバー効果影響の可能性の有る試料」は測定の対象としてこなかったと断言したが、その試料が出土した4つの遺跡「菜畑遺跡、梅白遺跡、雀居遺跡、那珂君休遺跡」と、その他の遺跡も、全て、古地図を検証すると、臨海地帯に存在し、海産物を多く食料としてきた可能性が高いことを実証した。更に、水田稲作に係る遺跡で、縄文土器・突帯文土器・弥生土器及び堰の木杭と云った一連の試料を、歴博が計測したレポートを検討した結果、計測結果に大きな不具合が有ることが判明し、海洋性リザーバー効果の悪影響を、改めて指摘した。

誤り、不具合の指摘だけでは、歴史的事実が見えないため、弥生時代の始まりの時期の歴史的事実を、既に発表された著書・論文から調べ、明らかにした。その結果、水田稲作の日本への渡来は、二つの時期に、異なった人と技術で行われたことが判明。このことから、水田稲作の起源など様々なことが合理的に理解できた。

判明した歴史的事実から、最初の(一次)水田稲作を導入した集落の西北縄文人の残した土器付着物と、その集落を奪取した弥生人の残した土器付着物を試料として取り上げ計測した場合には、その集落が全て、臨海地帯存在し、海産物を多く接取する生活習慣を持っていたことから、当然、海洋性リザーバー効果が発生することを明らかにした。

一次(最初の)水田稲作が導入された時期(弥生時代の開始時期)は、春秋戦国の呉の難民とその技術に関わることから、呉が滅亡した紀元前473年以降のことと推定される。これは、菜畑遺跡が発見された頃に言われた年代に合致する。従って、『弥生時代の始まりは500年遡らない!』

次の弥生人が渡来した時期は、弥生土器・遠賀川式土器の年代から推定された紀元前3世紀が妥当と推定する。この件は別途、論考するものとする。

以上 2021年3月


歴博(国立歴史博物館)の論文のタイトルと注2)の全文を、改めて、ここに示す。

論文タイトル
『弥生時代の開始年代 ―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―』
学術創成研究グループ 藤尾 慎一郎・今村 峯雄・西本 豊弘
注 2)
なお、海洋性の魚介類を調理したものが試料である場合が考えられ、データの解釈には注意が必要である。魚介類は海水中のプランクトンを捕食することによって炭素を取り入れる。一般に海水中の炭素14濃度は大気中に比べると低いことが知られているが(食物連鎖の底辺にあるプランクトンはこの海水中の生物なのである)、大気と接している厚さが70mほどの海洋表層水は大気と炭素(二酸化炭素)のやりとりをしており、炭素14濃度の差はそれほどではない。しかし表層水と中層水・深層水は容易に混ざらないので、大気と接していない中層水と深層水は古い炭素を有し炭素14濃度がさらに低い。また深層水は2000年以上の長時間をかけて大洋底を移動し、高緯度地帯において上昇して表層水と混ざることが知られているため、高緯度地帯の表層水中の炭素14濃度は低く、オホーツク海では1000年も古く出るというデータがある。日本海においてはこのようなデータがないため未知数だが、海産食料に多く依存していると思われる人びとが営んだ遺跡から出土した土器の付着炭化物は、海産食料を調理する際にできた煮焦げや吹きこぼれである可能性があるので、試料としては避けたほうがよいという意見もある。ちなみに歴博では海岸に接して立地する遺跡から出土した試料は原則として測定の対象としてこなかった。2003年7月までに研究グループが提示した調査内容のなかにはこの点に関して言及していなかったために西田茂氏の批判をうけることとなった〔西田2003〕。しかし後述するように歴博が2003年5月に示した11点のデータには三つの理由から海洋リザーバー効果の影響はみられないことを反論した〔藤尾・今村2004〕。これについては後述する。