特別保存論文
中臣鎌足の虚像と皇極・孝徳時代の政変
- 目次
- 【はじめに】
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前回の「聖徳太子編」の続きになる。628年の推古大王逝去から天武朝成立まで、倭国の王権内部において様々な政変が起こった。ほとんどが東アジア情勢に起因しているのである。卑弥呼の共立・ヤマト王権の成立などの古代だけでなく、鎌倉幕府の滅亡・江戸幕府による鎖国・明治維新・昭和の15年戦争の敗北など、日本の大きな政変のほとんどは対外関係が大きく影響している。今回、日本書紀における舒明朝から孝徳朝までを記述を批判的に検討した。その結果、史実を元にしながらも創作された箇所が極めて多いと感じた。特に賛辞ばかりの中臣鎌足に関する記載などから、その実在を疑うことになった。いくつかの先学者の説を参考にしながら自説を述べる。
1.舒明大王即位が蘇我本家の滅亡への道となる
- ★乙巳の変において蘇我本家が滅ぶことになった大きな要因は、推古大王の後に、非蘇我系の田村王子(舒明大王)が即位したことにあるのは間違いないであろう。日本書紀における舒明即位に至る記述を記しておく。
- *蘇我蝦夷大臣が阿倍麻呂臣と合議して群臣たちを集めた。阿倍臣は、推古大王が生前中に田村王子と山背大兄王に言った遺言内容を語った。
- *田村王子に対しては『天下は大任だ。・・田村王子よ、慎しみ、よく観察しなさい。緩めてはいけない』
- *山背大兄王に対しては『お前一人でやかましく言ってはいけない。必ず群臣の言葉に従い慎め・』
- *大伴鯨連・采女臣摩礼志・高向臣宇摩・中臣連弥気・難波吉士身刺の4人は田村王子を推す。
- *許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣塩手の3人は山背大兄王を推す。
- *蘇我倉麻呂臣は態度を保留する。
(筆者の注:赤字の人物は後の乙巳の変~孝徳朝に関係する人物またはその親族である。)
- *山背大兄王は蘇我蝦夷大臣に対して「叔父の意志を知りたい。」と問うた。大臣は「私めが、どうして独りで容易く大王の後継者を定めることができましょうか。遺言の通りに、田村王子は自然と後継者となって大王になります。」と言った。山背大兄王はまた問うた。 「推古大王の遺言は少々、私が聞いたことと違う。(推古)大王は『お前は、本から朕の心にあった。国家の大きな基盤は朕の世代だけのことではない。務めよ、お前は幼いと言っても、謹んで発言するのだ』その時、近くに仕えている者たちは、全員知っている。叔父に間違いがあるのではないか?」
(筆者の注:山背大兄王の発言が真実なら、推古大王は山背大兄王を後継者として遺言していたことになる。ということは、推古大王の遺言を無視して田村王子が即位した可能性もある。)
- *大臣は翌日、蘇我蝦夷大臣は山背大兄王に言った。「私めは不賢なのに・・群臣の上に居るだけです。それで基盤を定めることはできません。その後、大臣は山背大兄王派の境部臣と益々対立するようになる。境部摩理勢は従わないで、斑鳩の泊瀬王(山背大兄王の弟)の宮に住むようになるが、急に泊瀬王は亡くなり、境部摩理勢一家も大臣の兵によって殺される。そして、田村王子が即位する。
- ★境部摩理勢(馬子の弟)は山背大兄王を推していたが、蘇我倉麻呂(蝦夷の兄弟)は態度保留だった。大臣の蘇我蝦夷は父の馬子と異なり優柔な性格であったと推測できる。大臣としての立場から多数派の意見に従うことにしたと推測できる。いずれにしても、蘇我氏一族は結束して蘇我系の山背大兄王を擁立できなかった。その理由は前回に述べたように、山背大兄王の父親である聖徳太子が遣隋使の失敗により、政治生命が絶たれたことであると考える。今後隋唐帝国から多くの先進文化を導入するためには、随の煬帝を激怒させた聖徳太子の子の即位には反対したのだろう。それ故に多くの群臣たちが山背大兄王の即位に異を唱え、蘇我氏一族も結束して山背大兄王を擁立出来なかったと推測する。このような聖徳太子の汚点がなければ、蘇我氏一族全員の意志により、山背大兄王が即位したはずだった。結果的にこの田村王子(舒明大王)の即位は、非蘇我系の勢力を強めることになり、蘇我本家滅亡の道をつくったのである。
2.反蘇我の蠢きと乙巳の変の予兆
- ★舒明朝においては、唐からの先進文化を取り入れる必要性については、全ての群臣たちに共通したことであろう。舒明即位直後630年に早速遣唐使が派遣されているのである。ところが、舒明4年632年の高表仁を伴って遣唐使が帰国している。
- *舒明4年8月:大唐は高表仁を派遣した。学問僧の霊雲・僧旻と勝鳥養、新羅の送使なども従って来た。10月、唐国の使者の高表仁たちは難波津に宿泊し、大伴連馬養を派遣して江口に迎えに行かせた。翌年1月26日、高表仁たちが国に帰った。送使の難波吉士雄摩呂・高向黒摩呂たちは対馬に到着して帰った。
(筆者の注:ここには、蘇我氏関係者はみられず、全て、後の孝徳大王と関係ある氏族である。)
- ★当時、新羅は百済・高句麗と戦争状態にあり唐に支援を求めていたのである。
- *百済は626年に高句麗と和親を結び新羅をたびたび攻撃した。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求め、百済の武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して仲裁を受け入れたが、その後も新羅との紛争は続いた。
- ★舒明朝においては、唐からの先進文化を取り入れる必要性については、全ての群臣たちに共通したことであろう。舒明即位直後630年に早速遣唐使が派遣されているのである。ところが、舒明4年632年の高表仁を伴って遣唐使が帰国している。
- *舒明4年8月:大唐は高表仁を派遣した。学問僧の霊雲・僧旻と勝鳥養、新羅の送使なども従って来た。10月、唐国の使者の高表仁たちは難波津に宿泊し、大伴連馬養を派遣して江口に迎えに行かせた。翌年1月26日、高表仁たちが国に帰った。送使の難波吉士雄摩呂・高向黒摩呂たちは対馬に到着して帰った。
(筆者の注:ここには、蘇我氏関係者はみられず、全て、後の孝徳大王と関係ある氏族である。)
- ★当時、新羅は百済・高句麗と戦争状態にあり唐に支援を求めていたのである。
- *百済は626年に高句麗と和親を結び新羅をたびたび攻撃した。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求め、百済の武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して仲裁を受け入れたが、その後も新羅との紛争は続いた。
- ★唐としては、倭国に対して新羅を支援するか、または百済と新羅を仲裁するような意向を伝えたと考えられる。しかし、倭国は雄略~欽明朝以来伝統的に親百済であり、これを拒否したのだろう。親百済非新羅の外交は皇極朝まで続いていることがわかる。(詳細は後述)しかし王族や群臣たちの中には、唐と争うことを危惧して蘇我氏が障害であると考えていたはずである。微妙な対立も生じていることがわかる。
- *舒明8年秋7月1日:大派王(敏達大王の王子)は豊浦大臣(蘇我蝦夷)に語った。
「群卿と百僚は朝参を怠っている。今より以後、卯(朝6時)に始まり、朝廷に参上して、巳刻以降に退出するように。鐘を叩いて、節を整えろ」 しかし大臣は従わなかった。
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★反蘇我氏勢力が蠢き始めたのは、その後の舒明11年(639年)頃からであると推察する。
*唐の学問僧恵隠と恵雲が新羅の送使に従って飛鳥に入京している。新羅の倭国に対する積極的な外交が感じられる。
- ★大きな転機は、舒明12年(640年)、唐から南淵清安と高向漢人玄理らの新羅を経由しての帰国にあると考える。
- *舒明12年10月11日:大唐の学問僧の南淵清安、学生の高向漢人玄理らが、新羅を通じて到着した。なお、百済・新羅の朝貢の使者も従っていた。それぞれに爵を1級与えた。
- ★高向漢人玄理は、親新羅に転換した孝徳朝において、既に帰国していた僧旻と共に国博士になっている。彼らは推古朝の608年に遣唐使の一員として入唐した人物である。おそらく彼らは、倭国を唐のような中央集権国家にするために、唐の政治制度を模倣した倭国の改革案を提示していたのであろう。とりわけ最大の氏族である蘇我氏の力を削ぐ必要性を説いたと考える。これが乙巳の変が起きるきっかけになったと推測する。
3.山背大兄王一家抹殺事件と乙巳の変の検証
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★この二つの事件はわずか1年半の間に起きていて、連続したものと考えるべきである。
近年の通説では、山背大兄王の暗殺には、多数の王族が加わっていたとされており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、大王位継承における優位を画策する諸王族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。筆者も基本的に賛同する。
(1)山背大兄王家抹殺事件の首謀者は軽王子(後の孝徳大王)
※前回に詳しく述べたことであるが、再度簡潔に述べる。
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直接、斑鳩宮を襲撃した巨勢徳太と入鹿との親しい関係は見いだされない。他方、襲撃の実行者は全て軽王子(孝徳大王)・舒明大王・皇極大王に関係する人物ばかりである。
- ≪巨勢徳太≫
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- *舒明大王の葬送の際に、誄を読んでいる。
- *入鹿殺害の直後、蘇我蝦夷のところに遣されて、降伏するように伝えている。
- *孝徳朝の大化五年(649年)に左大臣になっている。
- ≪大伴馬甘≫
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- *徳太と同様に、舒明大王の葬送の際に大臣に代わって誄を読んでいる。
- *孝徳朝では右大臣になっている。
- ≪土師娑婆連≫
- 軽王子と皇極大王の生母である吉備嶋皇祖母命(吉備姫王)が薨去したとき、葬儀執行を担当する。
- 蘇我入鹿は山背大兄王と対立していたかもしれないが、一族を抹殺するほどの動機はない。
日本書紀の記述「入鹿が上宮の王(山背大兄王)を捨てて、古人大兄を立てて大王にしようとした。」はある程度真実であると考えられるが、入鹿は討伐には参加しておらず首謀者とは考えられない。入鹿が山背大兄王家を襲撃したとの日本書紀の記述は、乙巳の変において入鹿を悪臣としているのと同様に、編纂者による潤色と考えられる。 - 山背大兄王を殺戮するような軍事行動は、事前に皇極大王の承認または命令なければできないことであると推測する。皇極大王らは13年前に夫の舒明が即位した経緯から、自分たちに恨みをもつ山背大兄王の即位を極めて恐れていたのであろう。皇極大王としても息子の中大兄王子を大王に就けたい意図もあったはずである。
- ★以上の考察より、この事件は、皇極大王の意志と了承を元に、軽王子が中心になって行った事件であったと考えられる。(皇極大王と軽王子は父母を同じにする姉弟である。)
(2)事件後の蝦夷・入鹿の対応
- 入鹿の父の蝦夷は「入鹿!甚だ極めて愚痴で、全く乱暴な悪行をした!お前の命も危うくないことがあろうか!」と言われる。「次に狙われるのは入鹿お前だ」という意味であると解釈できる。
- 蝦夷・入鹿の親子は、甘檮岡に軍事施設を造っている。
- *翌年皇極3年冬11月、蘇我大臣蝦夷と入鹿臣は家を甘檮岡に二つ並び立てた。「上の宮門」、「谷の宮門」と言った。・・家の外に城柵を作り、門のほとりに兵庫を作った。門ごとに水を入れる桶を一つ、木鉤を数十置いて、火災に備えた。常に力人に兵を持たせて家を守らせた。また家を畝傍山の東に立て、池を掘って城とした。庫を立てて、矢を蓄えた。常に50人の兵士を身の回りに巡らし、出入りさせた。
- ★これについては、蝦夷・入鹿が「王家を威嚇したもので、横暴な振る舞いと専横極まるもの」との解釈が多いが、そのようには読み取れない。舒明紀からは蝦夷は大臣であったが、決して専横ではなかったことがわかる。そもそも、蘇我の稲目、馬子、蝦夷の三代は大王家と倭国のために尽くしてきた。入鹿殺害を正当化するために、入鹿を悪者とする日本書紀の記述を疑うべきである。
- ★蘇我蝦夷の邸宅があった甘樫丘というのは、敵からの防御用の砦である。馬子や蝦夷は、次は自分たちが襲撃される危険を感じて、防備を固めたと考えるべきである。
(
ついでに、日本の悪臣とされる人物には、他に弓削道鏡、足利尊氏、吉良上野介らがいる。
筆者にいわせれば、彼らは決して悪臣ではなかった。権勢を誇ったが、上司に対してなんら悪行はしていない。最大の悪氏族はむしろ不比等をはじめとする藤原氏である。数々の謀略により次々と政敵を抹殺排除している。
(3)山背大兄王一家殲滅の要因
- ★舒明と大王位を争った山背大兄王である。当時の大王位の継承の仕方から考えれば、舒明の次は山背大兄王が大王となるはずである。しかし、舒明の王后であった皇王女(皇極大王)が即位した。筆者はその理由として、第一に山背大兄王の汚点、第二に大王位争い、と推測する。
- 【第一の理由】
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山背大兄王を絶対に大王に就かせてはならない、という多くの群臣たちの意向があったと考える。
『旧唐書』には、唐の高表仁が訪日したとき、「・・表仁、綏遠の才無く、王子と禮を争い、朝命を宣べずして還る。」
と記す。
(日本書紀には、高表仁の来日は記しているが、なぜか、王子との争いは記していない。)*この王子は山背大兄王と考えて間違いない。今後、唐の文化を取り入れるためには、このような唐の大使と争うような山背大兄王子は大王候補としては失格となったのではないか、それが、入鹿が山背大兄王子一家の殺害に賛成した理由の一つと考えられる。
(遣唐使が再開されるのは、孝徳朝の白雉4年653年になる。) - 【第二の理由】
- 大王位争いが考えられる。皇極大王としては、息子の中大兄王子を即位させたかった。また蘇我氏としては、古人大兄王子(入鹿の従妹)の即位を考えていた。山背大兄王は13年前の舒明即位のとき、自分の即位に反対した者達を恨んでいたはずである。皇極大王や軽王子などの舒明大王の関係者と山背大兄王に反対した蘇我本家にとって、山背大兄王の即位は絶対に阻止しなければならなかった。両陣営は山背大兄王を排除することで一致したのであろう。実際『藤氏家伝』にも「入鹿が諸王子と共に謀りて上宮王太子の男・山背大兄等を害すと欲して・・」と記されている。つまりこの事件は事前に謀議されていたのである。ただし、謀議の中心は既に述べたように入鹿ではなく軽王子であったと考えられる。
(4)乙巳の変の首謀者が中大兄王子と中臣鎌足ではあり得ない
- 《参考文献》
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- 「遠山美都男『大化改新と蘇我氏』吉川弘文館 2013」
- 「中村修也『偽りの大化改新』講談社現代新書 2006」
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★山背大兄王一家殲滅事件のわずか1年半後に乙巳の変が起こっている。
以下に日本書紀における乙巳の変に関する記述を記す。(一部省略)
- *(皇極4年6月8日)中大兄は密かに蘇我倉山田麻呂に語った。それで入鹿を斬ろうとする策を陳述した。麻呂臣は許諾した。
- *6月12日。天皇は太極殿に居た。中臣鎌子連は方便を言って、蘇我入鹿臣の剣を解かせた。入鹿臣は太極殿の中に入って座した。倉山田臣麻呂は進んで三韓の表文を読唱した。すると中大兄は衞門府に戒め、一時的に12の通門を閉じて、衞門府を一箇所に呼び寄せ集めた。
- *中大兄はすぐに自ら長い槍を取って、宮殿の側に隠れた。中臣鎌子連たちは、弓矢を持って、助け守った。海犬養連勝麻呂に、箱の中の二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けて言った。
「努力努力、あからさまに、あっという間にすぐに斬るのだ!」子麻呂たちは水で飯をかき込んだ。恐ろしくて、吐き出した。中臣鎌子連は叱咤激励した。倉山田麻呂臣は表文を読みおえようとしたが、子麻呂たちが来ないのを恐れて、流れ出る汗が全身を濡らし、声が乱れて手がわなないだ。鞍作臣(蘇我入鹿)は怪しく思って問うた。「なぜ、震えてわなないているのか」
山田麻呂は答えた。「天皇に近づける恐れ多いことに、不覚にも汗が流れ出ているのです」- *中大兄は、子麻呂たちが入鹿の勢いに恐れて巡るばかりで進まないのを見て言った。
「咄嗟(ヤア)!」すぐに子麻呂たちと共に、不意に剣で入鹿の頭肩を傷つけ、割った。入鹿は驚いて、立った。子麻呂は手で剣を拭いて、一つの足を傷つけた。入鹿は御座(天皇の元)へと転んでたどり着いて、頭を床に叩きつけて言った。「まさに嗣位(天皇位)に居るべきは天子です。私は罪を知らない。このようなことをするのは、何事があるというのですか!」- *中大兄は地に伏して天皇申し上げた。「鞍作は天宗を全て滅ぼして、日位(天皇位)を傾けようとしているのです。どうして天孫が鞍作に代わるというのでしょうか」天皇はすぐに立って、宮殿の中に入った。佐伯連子麻呂と稚犬養連網田は入鹿臣を斬った。
- *この日に雨が降って、潦水が庭に溢れていた。席の障子で鞍作の屍を覆い隠した。古人大兄はそれを見て、自分の宮に走って入り、人に言った。「韓人が鞍作臣を殺した!我が心は痛い!」すぐに臥内(寝室)に入って、門を塞いで出なかった。中大兄はすぐに法興寺に入って、城として準備した。全ての諸々の皇子・諸々の王・諸々の卿大夫・臣・連・伴造・国造はことごとく皆、随従した。人を使って、鞍作臣の屍を大臣蝦夷に与えた。漢直たちは、眷属を全て集めて、甲を着て、兵を持って、大臣を助けて、軍陣を設置しようとした。中大兄は将軍の巨勢徳陀臣を使者にして、天地開闢より、君と臣は初めから有ることを、賊の党に説かせて、赴く進むべき道を知らせた。高向臣国押は漢直たちに語った。「我等は、君主である大郎(蘇我入鹿)のせいで、殺されてしまうだろう。大臣も今日か明日にでも、待っていれば、間違いなく誅殺されるだろう。それならば、誰のために虚しく戦って、ことごとく全員が罪に問われて刑に処されるのか」と言い終わって、剣を抜いて、弓を折って、これを捨てて去った。賊の仲間は従って、散って走って逃げた。
- *6月13日。蘇我臣蝦夷たちは、誅殺されるだろうと思って、すべての天皇記・国記・珍宝(タカラモノ)を焼いた。(蝦夷は自殺する。)船史恵尺は素早く焼かれそうになった国記を取って、中大兄に献上した。
- *6月14日。皇極天皇は軽皇子に位を譲った。中大兄を立てて皇太子とした。
- ★以上を読んでまず感じることは、ドラマや演劇を見ているような描写であることである。入鹿が殺されたことは史実であるが、この記述の大半は日本書紀編纂者による創作であることはまず間違いないであろう。その根拠を含めて筆者の説を次に記す。
- 王子であるものが、入鹿に直接斬りかかるような殺害行為を実行することはあり得ない。
- 数多の群臣や王族がいるなかで、20歳の若輩の中大兄王子が小官僚の中臣鎌子と共謀して、一大謀略事件を、計画して実行できるとは到底考えられない。
- 中大兄王子は孝徳大王即位のときに王太子となったと記されている。昔の通説(現在でも!)では孝徳大王は中大兄王子の傀儡で、大化改新を推進したのは中大兄王子であったとされる。しかし、日本書紀の孝徳紀を検証すると、そのようなことは全く読み取れない。(近年になり、孝徳が実権を握っていたとすることが歴史学者の間で増えている。)
- 中大兄王子は孝徳没後にさえ大王に即位せず、母の斉明大王が即位している。孝徳紀において、大兄王子が太子であったことを伺わせる記事は見られないので、太子であったことは疑われる。
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乙巳の変の前の中大兄王子と中臣鎌子との蹴鞠での出会いも、創作性が強い。
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*『三国史記』巻6・文武王(上)』に描かれる、新羅の武烈王(金春秋)と金庾信との出会いのシーンは、細部は異なるが、蹴鞠を通じて主と側近が出会うという点では共通している。
金春秋の妻(文明王后)は金庾信の妹だが、その出会いは蹴鞠でのくつぬげ事件がきっかけである。 - *二人が出会ったあと、金春秋に金庾信が姉を紹介しようとしたが、姉が断ったので妹が結婚したとする。中大兄王子の場合も、蘇我石川麻呂の長女を中大兄王子に紹介したが、長女は身狭臣(蘇我日向)に連れ去られたので、妹(遠智娘)がかわりに結婚した。そっくりである。
- *日本における蹴鞠の発祥については、『本朝月令』や『古今著聞集』に、文武天皇の大宝元年(701年)に日本で最初の蹴鞠の会が開かれたと記している。飛鳥時代に中国発祥の蹴鞠が倭国に伝わっているはずがない。
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*『三国史記』巻6・文武王(上)』に描かれる、新羅の武烈王(金春秋)と金庾信との出会いのシーンは、細部は異なるが、蹴鞠を通じて主と側近が出会うという点では共通している。
- 日本書紀では「蘇我臣入鹿が君臣長幼の順序を失い、社稷を奪おうと伺う権謀術数を憎んだ。」と記すが、年上の多くの王族や臣下をさしおいて、単なる王子である中大兄王子と小官僚の中臣鎌子が独断で乙巳の変を起こしたとしたら、「君臣長幼の順序を失い」はむしろ中大兄王子と鎌子になってしまう。
- 前に述べたが、蘇我本家の根本的な敗因は大王が非蘇我系であったことにある。蝦夷・入鹿親子は、皇極大王を奉じる反対勢力から孤立するようになって、滅ぼされたと推測できる。もし、蘇我系の大王であったら、乙巳の変は起きなかったはずである。日本のその後の政変をみても、政変に勝利するためには、玉(天皇)を手中にすること=錦の御旗が何よりも重要なことだった。(後の藤原氏は、この蘇我氏本家滅亡より教訓を得たのであろう。)
- 入鹿が殺された後、同席していたと思われる古人大兄王子が「韓人、鞍作を殺しつ。吾が心痛し」と語った。これについては、「韓政のことで殺されたこと」との解釈がなされている。しかし、そのようには読みとれない。「韓人」とは、直接入鹿を斬った入佐伯連子麻呂と稚犬養連網田(宮廷の護衛)に殺害を命じた人物のことである。筆者がいまのところその人物として推測しているのは、韓人=漢人すなわち軽王子のブレーンだった「高向漢人玄理」である。しかし他の人物かもしれない。いずれにしても宮廷内でこのような謀略殺人を起こすためには、事前に王権中枢のものが関与していたことは間違いないであろう。乙巳の変の直後、軽王子が即位していることから、軽王子が首謀者だったと考えるのが適切ある。
- 入鹿を「三韓の調の儀式」に宮廷に誘き寄せたとする日本書紀の記述は虚偽であると推測できる。倭国の恥になる殺戮を外国の使節に見せるようなことはしないはずである。そもそも三韓の使者が倭国に来たのは、事件の日(6月12日)の後である。(大化元年7月:高句麗・百済・新羅、遣使貢調)倉山田石川麻呂が進んで「三韓の表文」を読唱したのも疑わしい。「三韓の表文」を読唱するのにふさわしいのはむしろ入鹿である。「三韓の調の儀式」の記述は、崇峻大王が蘇我馬子の殺されるときの「東国の調」を真似て創作したとの説がある。
- 山背大兄王事件の後、入鹿は甘檮岡を要塞化して。襲撃されるのを警戒していた。入鹿がどうしても宮廷に来ざるを得ない理由が他にあったはずである。皇極大王が古人大兄王子に譲位すると偽って、入鹿を呼び寄せたのではないだろうか。古人大兄王子が臨席していたこともそれを示唆している。
- 【皇極大王も首謀者の一人である可能性】
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★そうすると皇極大王も軽王子と共に入鹿殺害の首謀者かもしれない。日本書紀には、後に斉明大王として重祚したときに不思議な記述がされている。「
これについて『扶桑略記』(平安時代に比叡山の僧・皇円が編纂)には次のように記す。「
」この「竜に乗る者」が、扶桑略記が記す「蘇我豊浦大臣(蝦夷)」の霊なら、皇極・斉明大王は乙巳の変に関わったことになる。少なくとも扶桑略記の編者はそう考えていたのである。
」
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★そうすると皇極大王も軽王子と共に入鹿殺害の首謀者かもしれない。日本書紀には、後に斉明大王として重祚したときに不思議な記述がされている。「
(5)乙巳の変の首謀者も軽王子(孝徳大王)
- ★上で皇極大王が乙巳の変に関わった可能性を述べたが、首謀者は軽王子であることは間違いないと考える。これについて解説する。
- ★日本書紀では、事件の2日後、皇極大王が中大兄王子に位を譲ろうとしたことになっている。そして古人大兄王子と軽王子と合わせて三人が譲りあった結果、軽王子が即位することになったと記す。しかしこの記述も創作である。このとき、実際の大王候補のトップは古人大兄王子であった。皇極大王が我が子とはいえ大王候補として3番以下であった中大兄王子に譲ることは考え難い。中大兄王子は既にこのころから、大王候補のトップであったとしたいための日本書紀の創作と考えられる。また古人大兄王子は同日に飛鳥寺で出家して、大王候補の資格を放棄している。よって3人の王子が譲り合うようなことはあり得ない。軽王子としては、山背大兄王を葬った後、大王候補トップの古人大兄王子を除かねばならなかった。そのためには後ろ楯の蘇我本家を滅ぼす必要があったのだろう。乙巳の変はそのために計画実行されたと考えられる。また、入鹿殺害計画を軽王子の実姉の皇極大王が知らなかったはずがない。皇極大王は事件の前から、軽王子に生前譲位するつもりだったと考えるのが適切である。
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★筆者の説をさらに詳しく解説する。
- 中大兄王子が実権を握っていたなら、自らが大王に即位するか、または母の皇極が大王を継続するほうがよいはずである。孝徳が即位したことは、孝徳がこの事件の首謀者であったことにより全てを合理的に説明できる。孝徳は大王に即位してから、多くの詔を出して改革を行っている。また孝徳大王の意志により難波長柄豊碕宮への遷都をしている。孝徳大王は中大兄の傀儡ではなく孝徳が実権を握っていたことは明らかである。また中大兄王子が王太子となったと記すが、大化期の記述には中大兄王子はほとんど登場しない。中大兄王子が王太子となったとしたら、それは皇極重祚(斉明大王即位)のときであろう。
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孝徳大王は乙巳の変の前に,阿倍内麻呂の娘(小足媛)と蘇我倉山田石川麻呂の娘(乳娘)を妃にしている。そして、即位した
つまり、乙巳の変は、軽王子―皇極大王―阿部内麻呂―蘇我倉山田石川麻呂のラインで姻戚関係を結び、計画されていたことになる。中臣鎌子と中大兄王子とが計画して実行したというようなことはあり得ない。乙巳の変を計画し、孝徳朝での諸改革を立案したのは、孝徳の最強のブレーンであった高向玄理であったと考えられる。さらに、高向臣国押も軽王子と通じていた。事件を知った蘇我蝦夷が一族を全て集めて、軍陣を設置しようとしたとき、高向臣国押の発言により、倭漢直などの仲間は、散って逃り蝦夷一族は自殺する。このとき燃える館から国記を取った船史恵尺も通じていた可能性がある。高向臣国押と船氏はその後、天武朝にかけて出世しているからである。
。 - (遠山美都男氏の説)軽王子と皇極大王の父である茅渟王は和泉の出身である。阿倍内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂、高向氏、船氏大伴氏の所領など、乙巳の変の関係者のほとんどは大和が地盤ではなく和泉や河内を地盤とする氏族である。つまり軽王子は自分の地盤の周辺の氏族を味方につけていたことになる。他方、中大兄王子は河内・和泉にはほとんど関係しない。
- 大化2年に孝徳大王によって発せられた「改新の詔」は、大宝律令との類似性と郡評論争の決着によって、奈良時代に潤色されたことが明らかになっている。しかし孝徳大王を中心とする王権が、これまでの氏族制度を廃止して、国政改革を目指したのは真実と考える。ただし、氏族たちの抵抗で改革はそれほど進まなかったと推測する。
- ≪改新の詔の骨子≫
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- *それまでの大王の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)
- *初めて首都を定め、畿内の四至を確定させる。また今まであった国、郡(評)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。
- *国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。(孝徳は東国国司として8組の派遣をしている。)
-
*戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(後の班田収授の法)
公民に税や労役を負担させる制度の改革。(後の租・庸・調)
4.中臣鎌子(鎌足)の存在を疑う
- ★日本書紀では、中臣鎌子(鎌足)を立派な人物とする賛美記述ばかりである。中臣鎌足という人物はほんとうに存在したのであろうか。もちろん藤原不比等の父は存在したし、鎌足の娘とされる二人の娘も天武の妃になっている。筆者は、不比等の父は他の中臣氏の人物であり、鎌子として創作した可能性があると考える。以下に日本書紀における中臣鎌子(鎌足)記事の全てを解説つきで記す。
(1)軽王子との出会い
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*(大和岩雄の『中臣・藤原氏の研究』より引用)神祗伯は律令制のときに制定された役職でこの記事は粉飾されたもの。田村園澄は、神祇官を辞退したことは、後の不比等が神祇官ではなく、「律令官人」のコースを求めた願望の反映であると、述べている。
八木充は、「神祇拍辞退の記事は、慶雲二年、不比等が太政大臣を辞退したと関連する」と述べる。 -
*中臣鎌子を称揚する賛美記事であり真実ではない。ただし後に述べるが、軽王子が乙巳の変以前に中臣氏の人物を配下にしていたと推測している。
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*既に述べたように筆者は、軽王子に入鹿殺害計画を立案したのは、中臣鎌子ではなく高向漢人玄理であると推測する。
(2)中大兄王子との出会い
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*このような顕彰記事は、この時代には他には全く見られない。君臣長幼の序列を乱しているのは鎌子のほうである。
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*小官僚の鎌子がこのような婚姻の仲介や殺害の策ができるはずがない。皇極大王またはその弟である軽王子なら可能なことである。
(3)乙巳の変における鎌子の行動
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*入鹿が剣を解いたことは事実であったとしても、冠位の低い鎌子が重臣や王族しか入ることを許されない大極殿に居ることはあり得ない。
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*まるで現場で見たような、リアルで詳細な表現で、創作とするのが妥当である。
(4)孝徳即位のときの鎌子
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*大王の即位謀議に、重臣たちが登場せず鎌子だけが関与していることは、この記事が創作であることを示している。「内臣」は養老五年「藤原房前の内臣任命」との関わりが指摘されている。また、諸臣を役に任ずるとき、鎌子だけを特別扱いした記述である。
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★以上が、皇極3年(644年)と皇極4年・大化元年(645年)の中臣鎌子の記事である。
*藤原氏の祖として鎌子を偉大な人物として描く記事ばかりである。このような最大級の 賛美記事は継体・欽明以降には(聖徳太子を除いて)他にない。
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★これ以降、中大兄王子は事件に幾度も登場するのに対して、中臣鎌子はほとんど登場しない。
*鎌足記事は、644年と645年の2年間だけなのである。これ以降天智3年まで20年間、鎌足の記事は全くない。
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わずかに一つだけ、白雉5年(654年)春1月5日:「紫冠と若干の封を増したこと」が
記される。(このときから鎌子ではなく鎌足と記す。)
*記事は非常に唐突で鎌足の初出である。「続日本紀」によれば、慶雲四年707年に、不比等へ封戸勅賜五千戸を与えようとしたが、断ったので結局二千賜与した。これを元に後世に追加したとの説がある。
(5)白村江の敗北後の天智紀における鎌足
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*20年間の空白後、突如として記される。八木充氏はこの記事について、
「和銅六年:執政官である不比等が新羅使に、前例ない接待をしていることとの関連がある。」と述べている。(大和岩雄『中臣・藤原氏の研究』より) -
*孝徳大王が、僧旻の死の前に見舞ったことをまねて創作したとの説がある。これも最大級の賛美である。
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*「内大臣」は奈良時代に制定された官位で、藤原氏の姓も、与えられたのは持統朝であると考えられる。大織冠も虚偽であろう。鎌足が亡くなる直前に最大級の冠位を貰ったことにしたとの作り話と考える。後に述べる中臣鎌足=中臣金との筆者の説を元にすれば壬申の乱で死刑になった大錦上右大臣中臣金を登場させる必要があったので、鎌足が亡くなったことにしたと考える。
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*この日本世紀からの引用記事は『藤氏家伝』と関係があり、藤原不比等の指示により記載 された可能性が強くある。
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*これも賛美記事であるので疑わしい。鎌足には、恩詔に値するような政治に関する事績が日本書紀にはほとんど記されていないのである。
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★以上のことをまとめると次のようになる。
- *鎌子(鎌足)の記事のほとんどは、鎌子(鎌足)を特別扱いしている最大級の賛美記事である。
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*乙巳の変前後の2年間以降天智3年まで20年間、全く鎌足記事はない。
蘇我石川麻呂事件のときも、有間王子事件のときも、中大兄王子が中心の事件なのに、忠実な臣下あるはずの中臣鎌足はまったく登場しない。百済支援のとき、斉明大王と中大兄たちが総動員で九州へ行ったときも、鎌足の形跡は全くない。大化元年前後と天智紀だけに集中することは、鎌足が創作されたことをにおわす。さらに、乙巳の変の前後に鎌足に関する多くの記述がされているが、孝徳紀には中臣鎌子が政治に関した記述は全く記されていない。
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★中臣鎌子という人物は実在性に乏しく、創作された人物である可能性が極めて強いことがわかる。
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*青木和夫氏も「鎌足はただ偉かった人という以外に、評価の言葉がなさそうなのである。」
と述べている。(大和岩雄『中臣・藤原氏の研究』大和書房 より)
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*青木和夫氏も「鎌足はただ偉かった人という以外に、評価の言葉がなさそうなのである。」
5.不比等の父親は中臣金か?
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★多くの歴史家は日本書紀編纂に藤原不比等の関与があったと述べているが、鎌足の存在は否定していない。しかし、筆者は中臣鎌足という人物は存在しなかったと考える。もちろん不比等の父も中臣氏であったことは間違いない。「中臣鎌足=百済の王子余豊璋」のような、根拠の薄い奇説には到底賛同できない。不比等の父については次の二つが考えられる。
- 日本書紀の記述はほとんどが創作であるが、中臣鎌足は実際に存在した。
- 中臣鎌足は存在せず、不比等の父親は他の中臣氏の人物である。
- 【その根拠】
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- ★欽明朝に中臣鎌子という同名の人物が記されている。通説では、不比等の父の中臣鎌子とは別人とされているが、3世代ほど前の同氏族の人物と同じ名を付けることは考え難い。
- ★尊卑分脈の中臣氏系図では、欽明朝の鎌子と敏達朝の勝海の名は見られない。不比等の中臣氏は欽明・敏達朝の中臣氏とは別系統である。(中臣=藤原氏の出自については後述)
- ★松本清張は、不比等の父のされる鎌子という名は欽明朝の中臣鎌子から名前を横取りしたと書いている。(松本清張『清張通史④ 天皇と豪族』 講談社文庫 1978)
≪中臣鎌足=中臣金とする説について≫
- ★中臣鎌足=中臣金を考えることになったきっかけは、日本書紀には記されていないが、鎌足の娘の耳面刀自が大友王子に妃になっていることである。以下に詳しく解説する。
- 【Wikipediaより:耳面刀自】
-
大友王子の妃の一人であったとされている。父は藤原鎌足。
『本朝皇胤紹運録』に弘文天皇(大友皇子)の妃となり壱志姫王を産んだと伝えられている。 同時代史料には全く名前が出てこないため実在を疑問視する意見もあるが、『懐風藻』に「鎌足が娘の一人を大友皇子の妃とした」という記述があることから見て、鎌足の娘で大友皇子妃となった人物がいたことは間違いがないとされる。壬申の乱で大友皇子が敗れると近江宮から落ち延び、海路父鎌足の故地鹿島を目指し九十九里浜に上陸したが病に倒れ亡くなったといわれ、匝瑳市野手には媛の墓とされる内裏塚古墳がある。
- 天智大王の晩年に左大臣となった蘇我赤兄は、有間王子事件のときから中大兄王子=天智と関係があった。その蘇我赤兄の娘・常陸娘は天智大王の妃になっている。しかし赤兄より年長で天智大王とは大化前から関係があったとされる中臣鎌足の娘は天智の妃になっていない。つまり鎌足とされる人物が、中大兄王子(天智大王)と親しくなるのは、大化期からではなくもっと後であると考えられる。鎌足の娘が天智の子である大友王子の妃になっていることも、天智と鎌足の関係は天智の即位前後であることを示唆する。
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そこで天智朝で中臣氏の人物として、思い浮かぶのは、天智晩年に右大臣となった中臣金である。中臣金は、鎌足の死の翌年の天智天皇9年(670年)に、山御井の傍らで神々を祀った祝詞のときに、突然に登場する。それから急速に出世している。翌天智天皇10年(671年)には、右大臣に任じられた。冠位は大錦上であった。それ以前の記事は一切なく鎌足の死後、突然に登場するのが極めて不可解である。
★中臣金は壬申の乱後、処刑されているが、一子英勝は、鎌足の娘である大友王子の妃(耳面刀自媛)と共に、東国へ流されてその地で亡くなっている。
- 【Wikipediaより:英勝】
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- *中臣金の一子英勝は流罪になり、大友王子の妃・耳面刀自媛(鎌足の娘)の従者として、父鎌足の故地鹿島を目指し九十九里浜に上陸したが病に倒れた媛が亡くなり、・・英勝らは、媛の御霊を弔いながらこの地で一生を終えたと伝わる。
- *匝瑳(そうさ)市野手には媛の墓とされる内裏塚古墳がある。中臣金の子英勝をはじめとする従者たちは、この地にあって媛の御霊を弔ったとされ、旭市の内裏神社は内裏塚古墳の墳土を分祀したものと伝わる。また、内裏神社の近くには大塚原古墳があり中臣英勝の墓とされている。媛の御霊をなぐさめるため、33年ごとに内裏神社から大塚原古墳を経て内裏塚古墳にお浜下りと呼ばれる神幸祭が行われる。
- ★大織冠で内大臣であった中臣鎌足が真実なら、その娘である耳面刀自媛が、大友王子の妃であったとしても流される可能性は低い。死刑になった中臣金の娘であったから流されることになったと考えるほうが適切である。そして、英勝は耳面刀自媛が実の妹だったからこそ、耳面刀自媛と共に東国に赴いてしかも死後も弔っていたのであろう。
- 【筆者の推理の追加】
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- 壬申の乱後、島流しになった左大臣の蘇我赤兄の娘(大蕤娘)が天武の妃になっている。 同様に、右大臣の中臣金=中臣鎌足の娘(氷上娘と五百重娘)も天武の妃になったのではと推測できる。敗者の娘を妃にするのは、古代における常である。
- 大化期から20年ぶりに記されるようになった天智3年以降の中臣鎌足記事は、基本的に中臣金の記事を鎌足の記事としたと考える。(皇極3年と大化元年の中臣鎌子の記事は全て創作)中臣金が鎌足の死後に突然に登場するのは、壬申の乱のあとで中臣金が死刑になったことに起因すると考えられる。日本書紀編者は、鎌足が死刑になったとは絶対に記すことができない。よって、天智8年に病死したことにして、ここで中臣金を登場させたのであろう。鎌足=金の子供である不比等(659年生まれ)は天武朝では全く干されていたことも反逆者の子供だったからであると推測できる。
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中臣氏一族が孝徳(軽王子)と関係が深かったことを示唆する記事
- ★鎌足の父とされる中臣弥気は、舒明の即位に賛成する。(非蘇我系であった)
- ★中臣塩屋連牧夫は、山背大兄王一家殺害事件に(軽王子の配下として)参加する。
- ★同族と考えられる塩屋連鯯魚は有間皇子(孝徳の王子)事件のとき死刑になっている。
- ★鎌足の長男である定恵は、出家していることから、孝徳大王の落胤の可能性が強い。白雉4年653年(孝徳の死の前年)に遣唐使の一員として唐へ行き、天智4年665年に帰国して飛鳥で死ぬ。孝徳の子であるとすれば、天智王権にとっては邪魔な存在である。暗殺された可能性がある。つまり、中臣鎌足(中臣金)は孝徳大王の配下であったことになる。
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中臣金は、乙巳の変前後では孝徳大王側であったが、その後天智に寝返ったのでは?
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★鎌子がはじめ軽王子と親しかったが、その後中大兄王子に近づいたとする記事は、この事実より創作したとも考えることができる。孝徳側であった大海人王子(天武)としては、鎌足=金の裏切りが許せなかった。それが壬申の乱後、ただ一人だけ処刑された理由では?
(中臣金より上位の左大臣・蘇我赤兄は死刑になっていないからである。)
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★鎌子がはじめ軽王子と親しかったが、その後中大兄王子に近づいたとする記事は、この事実より創作したとも考えることができる。孝徳側であった大海人王子(天武)としては、鎌足=金の裏切りが許せなかった。それが壬申の乱後、ただ一人だけ処刑された理由では?
- 日本書紀編纂のとき、乙巳の変~孝徳朝における中臣金の一切を消し去って、その代わりに、欽明朝の鎌子の名を横取りして、中大兄王子の忠実な臣下として、中臣鎌子を捏造したと筆者は推理する。
- 「中臣鎌足=中臣金」としたときの子女
- *定恵(643年生まれ?:孝徳の落胤の可能性が大)
- *英勝(壬申の乱後に流罪)
- *不比等(659年生まれ:天武朝では全く登場しない。持統三年から)
- *耳面刀自:壬申の乱以前に大友王子夫人
- *氷上娘:天武天皇夫人
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*五百重娘:天武天皇夫人、後に不比等の妻
(定恵・不比等と氷上娘・五百重娘の母は別人)
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★以上解説してきたように、中臣鎌足=中臣金説は多くの根拠あり充分に説として成り立つものである。ただし、中臣氏系図では鎌足と金は従兄弟同士になっている。
これについては、金は弥気(御食子)の子であったが鎌足を創作したので、糠手子の子としたと推測できる。
6.中臣・藤原氏の出自について
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★奈良市内に存在する春日大社の祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四神である。
筆者は、以前春日大社を訪れたとき、宮司さんに、「この神社の4神のうち、武甕槌命と経津主命が中臣・藤原氏の始祖の天児屋命より上位になっているのは何故ですか。」と尋ねた。宮司さんは「この2神は国(平城京)を守る神なので、始祖神より上なのです。」と答えられた。そのときは納得したが、後で疑問に思うようになった。国を守る神なら、もっと他にふさわしい神が存在するのに、なぜ鹿島の神なのか、この答に疑問を持つようになった。さらに、中臣・藤原氏の出自に諸説があることを知り、今回詳しく調べることにした。その結果、中臣・藤原氏は鹿島の常陸出身である説に賛同することとなった。
≪中臣・藤原氏は常陸の出身≫
~「大和岩雄『中臣・藤原氏の研究』大和書房 2018」より、一部を紹介する。~
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『続日本紀」宝亀八年(777年)の条には、次の記事が載る。
内大臣従二位藤原朝臣良継病めり。その氏神鹿嶋神を正三位に、香取神を正四位に叙す。
病気になった藤原良継が祈願したのは、始祖神の天児屋根命ではなく、遠方の鹿嶋神・香取神なのはなぜか。『大鏡裏書』は「春日社」について、「称徳神護景雲二年(768年」、藤氏四所明神を春日山に奉祝」とある。『古社記(鎌倉時代成立)』にも、神護景雲二年、建御雷命が常陸の鹿嶋神宮より白鹿に駕して出発して、三笠山に遷座した。同時に経津主命が下総の香取神宮より遷座して、天児屋命と比売神を河内の枚岡神社から歓請し、春日の地に造営したと書く。 -
応永二年1395年または、その直前に成立した『尊卑分脈』記載の「中臣氏系図」を示す。
- ★推古紀に記される中臣宮地連麻呂・鳥麻呂の二人(豊前の中臣氏)は記されていない。さらに欽明紀の中臣連鎌子、敏達紀の中臣連勝海、中臣磐余連も、この系図に載っていない。
- ★この系図の「巨狭山」は『常陸国風土記』香島郡に記載の「巨狭山」である。「大鹿嶋命」に続いて、「巨狭山」と書かれているから、この系図は常陸出身者の系図だからであることを証している。
も藤原・中臣氏の出身が鹿島であることの根拠になる。
-
廃仏派であった欽明・敏達朝の鎌子と勝海の河内の中臣氏が滅んでから、崇仏の推古朝で受け入れられたのは、豊前の中臣宮地連麻呂・鳥麻呂と、常陸の中臣連弥気・国の兄弟であった。豊前の中臣宮地連麻呂・鳥麻呂は、用明天皇二年に、馬子が豊前の豊国法師を天皇の病気治療に招いたとき、付き人として来た兄弟である。中臣宮地連麻呂は欽明陵の改葬のとき、病気の馬子の代行として、誅を述べている。中臣鎌足(金)の叔父の中臣国は、推古朝で新羅討伐の大将軍に任じられている。
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★横田健一、青木和夫、井上辰夫も
「鎌足の中臣氏は、古来からの中臣氏が途絶えた後、一傍系氏族が常陸から来た。」とする。
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★横田健一、青木和夫、井上辰夫も
※以上、大和岩男氏の説のほんの一部を紹介したが、藤原・中臣氏の出身が常陸であることは間違いないことである。
7.東アジア情勢と舒明朝以降の外交の変遷
(1)舒明朝までの親百済外交から孝徳朝の親新羅外交へ
(年表は「中田興吉『倭国末期の政治史論』同成社 2017]より引用」)
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★表13より、舒明朝においては、百済・高句麗の使者が多く来倭していることがわかる。
当時、百済と高句麗は新羅に対して同盟していた。親百済であったことがわかる。おそらく大臣であった蘇我蝦夷の意向であったと考えられる。 -
★ところが孝徳朝になると、ころっと転換して親新羅になる。(表12参照)
孝徳即位直後の七月に、高句麗・百済・新羅の三国の使者に難波から飛鳥に来るように呼んだが、百済のみ大使は来ずに調使のみが来た。「百済の大使佐平緑福のみは、遇病して京に入らず。」と書く。さらに、孝徳は百済の大使代理に対して「今回の調は不十分なので返却する。・・今後は貢ものについて、産地と品名をくわしく記せ。そのため同じ顔ぶれで来朝せよ。また鬼室逹率竟斯を人質として出せ。」およそ承諾できない要求をしている。 - ★既に述べたことであるが、乙巳の変以降の孝徳朝における改革政策は、帰国した遣唐使からの情報や助言が元になったことは間違いない。その中心人物としてふさわしいのは、高向漢人玄理である。孝徳朝の親新羅外交からも玄理の関与がわかる。(欽明~推古朝から)舒明・皇極朝までの長期にわたる親百済外交から、孝徳朝での親新羅への転換は、高向玄理(黒麻呂)の助言を元にした政策であろう。(壬申の乱後の天武政権の外交も親新羅であり孝徳大王の外交と同じである。)
(2)高向漢人玄理について
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★608年(推古天皇16年)遣隋使小野妹子に従って隋に留学。その期間は33年にも及び、その間、隋の滅亡と唐の成立を目の当たりにした。640年に帰国していて33年におよぶ唐での生活から、唐の文化や政治制度を知り尽くしていた。(隋から唐への内乱も経験している。)政治制度に関する豊富な学識と海外情勢にも明るいことから、帰国後、大化改新政権において、僧旻とともに国政最高顧問である国博士に任ぜられ、改新政治のブレーンとして活躍した。
(国博士とは唐の律令制度を実際に運営する知識としての政策諮問機関のようなもの) - ★当時、唐は百済・高句麗と対立する新羅を支援していた。高向玄理は帰国のとき、新羅を経由している。彼は親新羅であった。(つまり反蘇我氏と考えられる。)
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★大化2年に高向玄理は新羅へ大使として遣わされ、翌年には金春秋と共に帰国している。
日本書紀は次のように記す。「新羅は、大阿飡の金春秋たちを派遣して、博士の小徳の高向黒麻呂・小山中の中臣連押熊を見送り来て、孔雀を1隻・鸚鵡(オウム)を1隻を献上した。そして春秋を人質とした。」
- ★金春秋は人質とされるが、短期間で帰国していることからもあり得ない。日本書紀の嘘であり、実際は大使であったと考える方が適切である。
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★『旧唐書』および「新唐書」からも孝徳朝の新唐・親新羅外交がわかる。
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*『旧唐書:倭国・日本伝』貞観22年(648年大化4年)の記述では、
「附新羅奏表、以通起居」と記す。(起居は大王の言動記録) -
*『新唐書・日本伝』でも
「永徽の初め(650年ころ)、其の王孝德即位し、改元して白雉と曰う。・・
ときに新羅は高麗、百濟の暴す所と爲す。高宗、璽書を賜い、出兵して新羅を援けしむ。」
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*『旧唐書:倭国・日本伝』貞観22年(648年大化4年)の記述では、
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★高宗が孝徳大王に対して、新羅を助けるために出兵するように求めていたのである。
これらの唐と倭国の外交はおそらく金春秋を通じてなされたのであろう。実際に出兵したかどうかは記載がないが、孝徳王権が親新羅・親唐であったことは間違いない。
(3)親新羅外交の実行者は左大臣・阿倍内麻呂
国博士である高向玄理の助言を元に孝徳の親新羅外交を実際に行っていたのは、左大臣の阿倍内麻呂(倉梯麻呂)であると考えられる。
- ★阿倍氏は難波吉士集団を掌握していた。難波吉士は阿倍氏と同族とされるが、おそらく新羅からの渡来氏族である。「吉士」は新羅の冠位十四位の呼称である。主に新羅との交渉のときの渡航を担っていた。雄略朝、敏達朝、推古朝にも新羅へ派遣されている。難波吉士集団は新羅との交渉の専任だった。左大臣阿倍内麻呂の本拠地である難波への遷都は(親百済氏族が多く居住する飛鳥から離れて)親新羅外交を推進するためであったと考えられる。
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★その阿倍内麻呂は孝徳が最も信頼する臣下であった。彼の娘である小足媛は孝徳の妃となり有間王子(640年生まれ)を生んでいる。阿倍内麻呂が死んだとき、孝徳はその死を悲しんで号泣したと記す。
一方、右大臣であった蘇我石川麻呂は親百済であったと考えられる。(筆者は蘇我氏は百済出身の氏族なので、一族は全て親百済であったと考える。)その石川麻呂の娘二人は中大兄の妃になっている。(642年前後か?)- 遠智娘:太田王女と持統天皇(645年生まれ〉を生む。
- 姪娘:御名部皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)を生む。
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★蘇我石川麻呂のもう一人の麻呂の娘:乳娘も孝徳の妃になっているが、子は生まれていない。
中大兄王子は親百済の石川麻呂の娘たちを愛して、一方、親新羅の孝徳は石川麻呂とは疎遠であったことがわかる。
(4)白雉期からの外交の変化(表14)
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大化5年、5月 新羅へ三輪君色夫などを新羅へ派遣これに対して、新羅王は金多遂を人質として派遣(金春秋に替わる大使と考える。)
- ★白雉元年にも、新羅は使いを遣わして、調を献じた。このあたりまでは親新羅である。
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しかし、その後の大化5年の阿倍内麻呂の死後、白雉期になり外交のスタンスが変化する。
-
★新羅に対する強硬な意見が出る。
(白雉2年に左大臣巨勢徳太は新羅を討伐すべきとの意見を述べている。) -
★百済とも親交するようになる。
- *白雉元年には、百済船二艘を建造している。
- *『三国史記:百済本記』義慈王13年(白雉4年)「王与倭国通好」と記す。
-
★その一方で遣唐使が再開される。
*『旧唐書・倭国・日本伝』
「附新羅奏表、以通起居」と記す。
「訳文:倭国が新羅に附して唐に奏表して、起居を通じた。」(起居は大王の行動記録)*631年以降途絶えていた唐との関係を
再開したいという孝徳王権の意志であったと考えられる。新羅に仲介を求めたのである。
そして、遣唐使がようやく再開する。
白雉4年には二艘が、白雉5年には一艘が出発している。
-
★新羅に対する強硬な意見が出る。
8.斉明大王による権力掌握と中大兄王子の実像
(1)蘇我石川麻呂事件について
- ★孝徳大王の強引で性急な改革政策は、既得権を有する多くの氏族から抵抗があったのだろう。抵抗勢力の代表格は右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂であったと考えられる。孝徳大王と石川麻呂の間には、対外交と改革の両方の面で対立があったと推測する。大化5年3月に最も信頼できる左大臣阿倍内麻呂が亡くなったとき、孝徳大王は「その死を悲しんで号泣した。」と記す。その直後に蘇我倉山田石川麻呂一家殲滅事件が起きている。石川麻呂の力が強まることを恐れた孝徳大王自身が、石川麻呂を排除するために起こしたのであろう。(事件の詳細解説は省略する。)
- ★この石川麻呂事件は中大兄王子が主導したとする歴史家が多いが、それは孝徳大王が中大兄王子の傀儡を前提とする説で間違いである。孝徳大王が実権を握っていたのは明らかであるからである。軍兵を派遣して右大臣を殺害する命令を出せるのは大王しかできない。実際、「 」など、孝徳大王が軍事行動を命じている記述がいつくか記されている。石川麻呂に対する攻撃命令は孝徳大王であることがわかる。
- ★中大兄王子は蘇我倉山田石川麻呂の娘二人を妃として、それぞれ子供をもうけている。中大兄と石川麻呂は親密な関係であり、中大兄が岳父である石川麻呂を誅殺することはあり得ない。それに対して、孝徳大王も石川麻呂の娘・乳娘を妃にしているが、子がなく関係はよくなかったことを示唆する。また、讒言した異母弟の蘇我日向は冤罪であることがわかってから、筑紫宰に任じられるが、ある意味で栄転でもある。上宮聖徳法王帝説によれば、「 」と記す。このことも、石川麻呂を排除した主役は孝徳大王であった根拠になる。
(2)孝徳大王に対する群臣たちの反発
- ★孝徳は蘇我氏内部の対立(乙巳の変における本宗家と石川麻呂との対立と同様)を利用して、日向に讒言させたものと推測する。こうして孝徳大王は、以前より配下であった巨勢徳太と大伴長徳(馬飼)を左大臣および右大臣に任じて、新体制を構築することになる。
- ★ただし、阿倍内麻呂の亡き後は、新羅だけでなく、百済とも通交するようになる。つまり、石川麻呂事件はかえって、孝徳大王に対する抵抗勢力の反発を強めることになったのであろう。親百済の蘇我氏一族(石川麻呂の兄弟である連子と赤兄など)を含む多くの群臣たちは孝徳大王との間の溝が深まったと推測できる。皇極大后・中大兄王子も孝徳大王の強引で悪辣なやり方には失望していて、多くの群臣たちに根回しをし始めたと推測する。そして、白雉四年、孝徳王権に対して無血クーデターを行った。それが「中大兄王子や群臣たちによる難波長柄豊崎宮から飛鳥への帰還」だったと推測する。
(3)孝徳大王の憤死と高向玄理の唐への逃亡
(白雉4年653年)この年、太子(中大兄王子)は孝徳大王に請願して申し上げた。
「願わくば、倭の京に移りましょう。」 大王は許さなかった。太子は皇祖母尊(皇極上皇)と間人皇后を奉り、皇弟たちを率いて行き、倭の飛鳥河辺行宮に往居した。その時、公卿大夫・百官の人たちは、皆、従って移った。それで天皇は恨んで国位を捨て去りたいと思って、宮を山碕(京都府乙訓郡大山崎)に作らせた。・・・
(白雉5年)皇太子は天皇が病気になったと聞いて、すぐに皇祖母尊と間人皇后を奉じて、皇弟・公卿たちを率いて、難波宮に行った。・・・天皇は正寢で崩御した。
- ★このクーデターの前後に、遣唐使が再開されている、白雉4年には二艘が、白雉5年には一艘で遣唐使が出発している。重要なポイントは白雉4年に定恵が加わっていて、白雉5年のクーデター後には高向玄理が大使となっていることである。
-
★次の推理が成り立つ
- *定恵は孝徳大王の落胤であると考える。中大兄王ら飛鳥帰還のクーデターを察知していた孝徳は、息子の定恵を唐に逃れさせたと推測する。(生母の車持夫人は後に中臣鎌足=中臣金の夫人となり、不比等などを生む。)。その後定恵は、白村江の敗北後帰国するが急死している。おそらく刺客より暗殺されたのであろう。
- *最大のブレーンであった高向玄理も、倭国での居場所を失って、第二の故郷である唐に亡命したと推察できる。
(4)斉明重祚の理由と中大兄王子の実像
➀斉明大王こそが最終勝利者
- ★前項で記したように、日本書紀では「中大兄王子が中心となって飛鳥に帰還した」ことになっている。しかし筆者は、このクーデターの主役は中大兄王子ではなく、皇極大后であったと考える。なぜなら、飛鳥帰還の首謀者が中大兄王子であることが真実なら中大兄王子が即位しているはずである。「王后である間人王女が、夫である孝徳大王の意志を無視して、兄でしかない中大兄王子に従うはずがないと考えられる。それができるのは母である皇極大后しかないと推測する。また、「 」と記すが、単なる王子でしかない中大兄王子(このときはまだ王太子ではなかった)では公卿大夫・百官の人たちを従わすことが出来ないだろう。それができるのは、孝徳大王以上の権威と影響力をもっていた人物、つまり皇祖母尊と称えられた皇極大后に他ならない。つまり、このとき既に皇極大后は、再び最高権力者になることを決意していたのであろう。つまり、乙巳の変の首謀者であった軽王子が孝徳大王として即位したのと同様に、飛鳥帰還の首謀者であった皇極大后が斉明大王として即位したのである。 」と記されている。しかし、
- ★孝徳没後、中大兄王子が即位しなかった理由として、一部の歴史家から次の説が唱えられている。「 」との説である。
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★筆者はこの説を否定はしないが、最大の理由は「中大兄王子より斉明大王のほうが群臣たちに支持されていた。そして斉明大王に権力欲があった」と考える。その根拠として、日本書紀・斉明2年の記述を示す。
「(天皇は)興事(工事)を好んだ。すぐに香山の西から石上山に至るまで水工に溝を掘らせた。船200隻で石上山の石を積載して、水の流れに準じて引いて、宮の東の山に石を累積して垣根とした。時の人は誹謗して言った。『狂心の渠、功夫を損失させ費やした人数は3万人余り。垣根を作る功夫を費やし損失させた人数は7千人余り。宮材はただれ使えなくなり、山の頂上は埋もれた』と。また『石の山の丘を作る。作った先から自然とこぼれて壊れていく』と誹謗して言った。」
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★つまり斉明大王は民や群臣たちの批判を受けるほどの土木工事を自らの意思で精力的に行っているのである。さらに、百済救援のさいに老体にも関わらず、自ら軍事行動の先頭になって九州に赴いていることも、斉明大王が最高権力者であったことを示している。筆者は、山背大兄王一家抹殺事件から始まった政変の最終の勝利者は斉明大王であったと考える。
- ★山背大兄王事件と乙巳の変における入鹿殺害には、皇極大王が、軽王子とともに関わっていることは既に述べた。さらに、飛鳥帰還だけでなく、斉明4年における有間王子の誅殺事件(解説は省略)も、斉明大王の命で行われたと考えられるのである。
②中大兄王子の実像
- ★日本書紀において、中大兄王子は「入鹿殺害・蘇我石川麻呂の誅殺・孝徳大王を置き去りにしたこと・有間王子を殺害したこと」など、中大兄王子は冷酷非道な王子との印象を受ける記述になっている。既に述べたようにこれらは全て虚偽である。(真実は皇極・斉明大王が冷酷非道であったのである。)なぜ中大兄王子をそのような王子として記したのだろうか。中村修也氏は、日本書紀編纂において、壬申の乱における天武天皇の正当性を示すため、中大兄王子(天智大王)は大王としてふさわしくないことを示すためだったと、述べている。(中村修也『偽りの大化改新』講談社現代新書 2006)筆者もこれに基本的に賛同するが、さらに中大兄王子には隠された真実があるのではないかと考えている。
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★では中大兄王子は実際にはどのような王子だったのであろうか。筆者は次のように推測する、まず母の皇極・斉明大王に溺愛されていた(マザコンであった)のは間違いないだろう。さらに意志の弱い人物で大王としての資質に欠ける人物であった可能性が高い。
- ≪その解説≫
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- 既に述べたように、数々の謀略事件の首謀者は中大兄王子ではない。そしてなによりも不可解なのは、孝徳大王即位から王太子とされるのに、孝徳紀と斉明紀では政治に関与した記述は謀略事件以外にたった一つだけなのである。それもただ、孝徳大王の詔に従って「入部(王子の部民)の524人と屯倉181か所を献上した」だけのことである。それ以外、中王兄王子が積極的に政治改革した記述は一切見られない。王太子であったことは極めて疑わしい。
- 建王子が8歳で亡くなったときも、祖母である斉明大王の悲しみが極めて詳細に記されているのに、父である中大兄王子は登場しない。
- 斉明6年、難波津において百済救援軍の武器の準備を命じたのも斉明大王であり、王太子とされる中大兄王子は登場しない。中大兄王子が指導力のある有能な人物であったなら、斉明大王は全ての権限を中大兄王子に任せて、高齢の斉明大王自身が百済救援の先頭になり九州へ赴くようなことはしなかったと推測できる。
- 斉明大王が崩御した後も即位せずに称制となったこと(即位式を挙げずに政務を執られたと記す。)は、なにか不都合なことがあり群臣たちに大王として認められなかったことを暗示する。
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さらに天智紀の記述においても、天智大王の主体性はほとんど感じられない。白村江の敗北後の近江遷都や亡命百済人の重用なども、天智大王の意志ではなく近臣の助言に従っただけと推察できる。このような天智大王に失望した多くの氏族たちが大海人王子に期待したのであろう。それが壬申の乱の要因の一つと考えられる。
(日本書紀編纂者は、大王となった天智大王(中大兄王子)が資質に欠けることを示すような王権を貶める記事は、書くことができなかった。それ故に、真逆の冷酷な王子として潤色したと筆者は推測する。)
【終わりに】
親唐・親新羅の孝徳王権が崩壊して親百済の斉明王権となった。そして倭国は白村江の戦いへと突き進み、さらに壬申の乱が勃発することになるのである。次回はこれらについて述べる。