最終更新日:
2024/08/30

特別保存論文

記紀に隠された史実を探る③

白村江の敗戦 と 唐による倭国の
羈縻(キビ)支配

著者:飯田 眞理
初出:2022/01/08
目次
  1. 第1章 百済滅亡と白村江の戦い
  2. 第2章 唐による羈縻(キビ)支配
≪はじめに≫

前回には、乙巳の変の首謀者は軽王子(孝徳大王)であること 、②政争の最終勝利者は皇極・斉明大王であること 、③藤原不比等の父親とする中臣鎌足は中臣金の可能性が高いこと 、④中大兄王子の実像などを述べた。

*孝徳大王が推し進めた改新政策は、蘇我氏をはじめとする既得権を有する氏族の抵抗にあって、その達成は半ばであった。そして、隠然として影響力を保持していた皇極大后は、真人皇后・中大兄王子・大海人王子と群臣たちを難波長柄豊碕宮 から 飛鳥に帰還させた。そして自ら飛鳥板蓋宮において大王に即位した。斉明 2 年には 狂心の渠などの大規模な土木工事させるなど、最高権力者としての地位を確立した。

今回は、その斉明王権が推し進めた百済支援の政策が、白村江での大敗北をもたらして、倭国は、短期間であるが倭国は唐の支配を受けたことを述べる。

第1章 百済滅亡と白村江の戦い

(1)斉明朝は親百済一辺倒の外交(新羅との関係は悪化)
  • ★孝徳朝の親新羅外交から親百済へ転換していることを、日本書紀の記述を紹介しながら示す。

    *百済の倭国に対する強い友好の意志が見てとれる。

    *当時、高句麗は百済と同盟して新羅にしている。おそらく対新羅に倭国の支援を求めたのであろう。 この年、西海(派遣百済使)の佐伯連栲縄らが帰っている。

  • ★一方、 新羅に対しては 次の記事がある。

    *及飡弥武は王族の金多遂より低位のものであり、新羅と倭国の関係は弱まったことになる。 弥武は百済の工作員または倭国の百済派に殺された可能性もある。

    *新羅とは不和になったことがわかる。これ以降、白村江の敗北後から 4 年後まで、新羅との通交は記されていない。この外交政策は、左大臣であったと巨勢徳太や右大臣であったと考えられる蘇我連子(石川麻呂の弟)が主導したと推察できる。(解説は省略するが両者とも反新羅親百済であった。)

(2)百済滅亡から白村江の戦いへ
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★日本書紀の記述を要約して次に示す。そのうち➀~➅は軍兵を送った記事である。

  • *百済は唐と新羅によって滅ぼされる。

    (百済の王都泗沘城が蘇定方の軍により陥落して、義慈王や太子の扶余隆などは捕虜となり唐の長安へ送られる。)

  • *これを受けて、倭国の斉明王権は百済の復興のために全面的に支援する政策をとる。倭国に滞在していた百済王子豊璋を復興軍の拠点に送ることを決める。
  • *斉明大王は難波において数々の武器を準備させ、駿河において軍船を造らせた。
  • *斉明大王は自ら先頭にたち総動員で九州に百済支援のために筑紫に向かう。那大津に着いて、磐瀬行宮に入る。その後、朝倉橘広庭宮に遷幸する。
  • *ところが、その年の 7 月 24 日斉明大王は朝倉宮にて崩御する。
  • *(8 月)皇太子(中大兄王子は天皇の喪をつとめたのち、磐瀬行宮に帰り白衣を着て、即位式を挙げないで政務を執る。
  • (同月) 前の将軍として阿曇比邏夫連・河辺百枝臣たち、後の将軍として、大花下の阿倍引田比邏夫臣・物部連熊・守君大石などを派遣して百済を救わせようとする。兵杖五穀を送る。
  • *(9月)皇太子は長津宮で、織冠を百済の王子の豊璋に授ける。また、多臣蔣敷の妹を豊璋の妻とする。
  • (同月) 狹井連檳榔・秦造田来津を派遣して、軍 50000 人余りを率いて、本郷(豊璋の本国)を守るために送る。(百済復興軍の将軍の)鬼室福信は豊璋が国に入る時に迎えに来る。
  • *(10月23日) 中大兄王子は斉明大王の亡きがらを船で運び、11月 7 日 、飛鳥川原において殯する。

    (この後、中大兄王子は九州の長津宮に戻ったと思われる。)

  • 1月27日) 百済の鬼室福信に矢を十万隻・糸を五百斤・綿を一千斤・布を一千端・韋(なめし皮)を一千張・稲種三千斛を与えた。 の重複と思われる。
  • 5月) 大将軍の大錦中の 阿曇比邏夫連 たちは、船師 170 艘 を率いて、 豊璋たちを百済国へ送って、宣勅して、豊璋たちにその位を継がせた。また、金策を鬼室福信に預けて、その背を撫でて、褒めて爵禄(冠位)を与え た。その時に、豊璋と福信は拝んで勅 を受け、周囲の諸々の人たちはそのために涙を流した。

    (豊璋たちを百済国へ送る記事で、斉明 7 年 8・9 月の記事 ➀・② の重複と推測できる。どちらにも阿曇比邏夫連が記されていることなどから。

  • *(12月) 百済王の豊璋と福信たちは狹井連と朴市田来津と合議した。
  • *(2 月) 福信が唐の捕虜・続守言(後の日本書紀編纂者 の一人)を届けて来た。
  • 3 月) 前将軍の上毛野君稚子・間人連大蓋・中将軍の巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂・後将軍の阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を派遣して 27000 人を率いて新羅を討たせた。
  • *(7 月) 豐璋が佐平福信を殺した。
  • *(6 月) 前軍の将軍上毛野君雅子ら、新羅の沙鼻、岐奴江の二つの城を奪った。
  • 8 月) 百済王が語った「 救援将軍廬原君臣が 10000 余り の兵を率いて到着した。」 と
  • *(8 月17日) 賊の将軍(新羅の将軍)は州柔城(復興軍の本拠)を囲み、大唐の将軍は軍船 170 艘を率いて白村江に陣取った。
  • *(8 月27日)倭国の軍船うち最初に到着したものと大唐の軍船が出会って戦争に なった。倭国軍は負けて退却して、大唐は守りを固めた。
  • *(8 月28日) 日本の諸々の将軍と百済王豊璋は状況を観ずに、語り合って言った 。
    「我らが先に戦争を仕掛ければ、彼らは自然と退却するでしょう」と
  • *倭国軍は統率が乱れながら兵卒を率いて進んだ。大唐軍は陣を硬くして 、左右から船を挟んで囲んで攻めた。須臾之際(あっという間に)、倭国軍は破れた。水に落ちて溺れて死ぬ者が多かった。船の舳先と船尾を回旋させることができなかった。朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが戦死した。この時、百済王の豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去った。
  • *(9 月7日) 百済の州柔城(ツヌサシ)が唐に降伏した。
  • *佐平余自信、立率木素貴子、谷那晋首、憶礼福留と一般人民は弖礼城についた。翌日、船を出して日本へむかった。

以上が日本書紀の記述であるが、中国文献にも次のように記されている 。

『旧唐書・劉仁軌伝』
『列伝・劉仁軌伝』
【解説】
  • ★戦いに至るまで の経緯は それなりに 詳しく記されているが、戦いそのものの記述は海戦のみで、しかも簡潔すぎる。ただし完敗であったことは読み取れる。倭国軍はただ突撃するだけであった。「統率が乱れ」と記すように、倭国軍には指揮系統がなく戦術もない。また全軍を指揮する体制も整っていなかったようである。軍船の構造・兵器の質や兵士の数・戦術など、倭国軍は唐軍とまともに戦えるものではなかった。倭国軍は対外戦争をした経験は全くない。唐に限らず中国では秦漢時代以前から様々な内戦や異民族との戦いを経験している。様々の強力な兵器が開発されていて、軍船も倭国のものとは比較にならないほど大型で頑強である。
  • ★唐軍との戦いに勝ち目がないことを、倭国の斉明・中大兄王子政権が理解していなかった とは考えられない。それなのに、なぜ無謀ともいえる唐との戦いに突き進んだのであろうか。その理由は、やはり倭国は応神・仁徳朝以降、200 年間以上百済との同盟関係にあったことであると推測できる。また蘇我氏を代表とする百済系の豪族が王権の中枢に存在していたからである。彼らにとって百済は同盟国以上に無くてはならない国であったと推測できる。百済が滅んだなら、唐・新羅連合は間違いなく倭国に攻めてくるはずと考えたのであろう。無謀な戦いであっても倭国を唐・新羅から防衛するためには、百済復興軍を支援するしか選択肢はなかったのであろう。投入した日本側の兵力は日本書紀の記述を信じるならば、総数は 5000+27000+10000=42000 人ある。このうち、白村江で戦った倭国の兵はおそらく、戦いの直前に記す 10000 人余りのことだろう。これに対して唐軍は三国史記によれば 40 万人であった。
【倭国がとるべき道は防衛ではなく唐との外交
  • ★「旧唐書」劉仁軌伝や百済伝によると、ほぼ全滅であったと想定される。とすると、豊璋を送るときに従った 5000 人や白村江の 5 カ月前に新羅を討つとして派遣した 27000 人はどのようになったのだろう。日本書紀はこれらの陸戦については何も記さない。ただ派遣した将軍 13 人 のうち、敗戦後に記されているのは、間人連大蓋と守君大石の2人だけである。捕虜になった者の帰国の記事が天智 8 年や持統 4 年に記されているが、ほんのわずかである。おそらく倭国の兵はほとんどが殺されるか捕虜になったのであろう。白村江の戦いの 後も、百済復興軍残党の抵抗は泗沘山城などで続いていたが、翌 664 年 3 月に、陥落して唐に対する抵抗は完全に終わった。
  • ★倭国が投入した 42000 人という数字は、律令制下の軍団制(歩兵)が禁止となる8世紀末の全国の兵力が 10 万人である事から、当時の倭国の人口からしても、大変な負担となる数字である。つまり倭国はもはや唐と戦う力はと戦う力は全く無くなったということである。敗北を覚悟していたとはいえ、42000人がほぼ全滅し、百済復興軍も降伏したことを目の当たりにして、人がほぼ全滅し、百済復興軍も降伏したことを目の当たりにして、中大兄王子政権には唐と戦うという選択肢は無くなっていたっていた。阿倍氏・上毛野君・安曇氏・廬原君臣・廬原君臣などなど出兵した氏族たちは、多くの一族郎党が帰らぬ人となった。これらの氏族だけでなく出兵しなかった氏族も、もはや唐との戦いを続ける意志はなかったはなかっただろうだろう。中大兄王子政権にとって、倭国の存続ために必要なことは、防衛ではなく外交による倭国の存続である。唐に恭順することが唯一取るべき政策であった。日本書紀には数々の山城などを築いたと記されていて、これは防衛のためとするのが通説である。しかし、この説はこの説は到底成り立つものではない。山城を築いたとき、倭国は既に唐の支配を受けていたからである。山城築城は唐の指示によるものであったであったのである。次章において詳しく解説する。

第2章 唐による羈縻(キビ)支配

参考文献
(1) 筑紫都督府

★白村江での敗北はあくまでも韓半島での戦に負けただけであるとの考え方が主流になっている。しかし新羅を属国扱いして百済を支配していた唐が、敗戦国の倭国に対して何の要求もしないことはあり得ない。筆者は短期間ではあるが倭国が唐の羈縻支配を受けていたのであると考える。その最大の根拠は日本書紀の天智6年(667 年)の次の記述である。3 月の近江遷都の後である。

≪天智 6 年11月9日≫

★羈縻支配を認めたくない方は「筑紫都督府」は大宰府のことだとするが、当時、大宰府はまだ存在していない。「大宰」とは「地方行政長官」のことで、天武・持統朝に「筑紫大宰」や「吉備大宰」などの地方長官が任じられたのがはじまりである。その後大宝令によって大宰府のみが残ったのである。

★唐は百済を滅ぼした後、熊津都督府など5つの都督府をつくっている。高句麗が滅んでから安東 都護府を設置している。新羅の文武王を鶏林大都督として、朝鮮半島全域を支配下にしようとした。倭国は百済のように滅んでいないが、属国同盟であった新羅に対してさえ都督府を設置いている。筑紫都督府ということより、倭国の九州も唐の羈縻支配を受けていたのである。

★倭国が羈縻支配を受けるようになったのは、その 4 年前、白村江の敗北から半年後のことと考えられる。

≪天智三年 664 年≫

★唐は倭国軍の捕虜などから、倭国がどのような状態にあるか察知していたはずである。表函には 羈縻支配の具体的な 要求書が入っていたのだろう。ところが後世の文書『 善隣国宝記・海外国記 』には次のように記されている。

★唐は倭国軍の捕虜などから、倭国がどのような状態にあるか察知していたはずである。表函には 羈縻支配の具体的な 要求書が入っていたのだろう。ところが後世の文書『 善隣国宝記・海外国記 』には次のように記されている。

*「表函の表書が唐の皇帝ではなく将軍からのものだったので、入国させなかった。」ということである。

★『善隣国宝記・海外国記』の記述のスタンスは、倭国が唐に対して、対等以上の上から目線である。敗戦国である倭国としてはあり得ない。皇帝からの書でなくても、表函内の書を読まなかったことは考えられない。しかも入国もさせないような、外交の原則に反することをするはずがない。そのような無礼極まることをすれば、劉仁願を怒らせ軍事行動 を受けることになる。もはや唐と戦う気力が喪失した中大兄王子政権は、唐がどのような行動にでるか戦々恐々としていたはずである。郭務悰らが 7 カ月も滞在していたことは、中大兄王子政権が対応に苦慮していたことを示唆する。郭務悰らの帰国の前に、中大兄王子が勅を出して、郭務悰らに物品を賜与し饗宴をしたことは、唐の要求を受け入れることになったと考えられる。

★羈縻支配 を受けたことは、その翌年に、唐が多人数での重要な派遣をしている記事からもわかる。

(2)泰山での封禅の儀式

★665 年 10 月:唐の高宗と則天武后らは山東省の泰山で封禅の儀式を行った。封禅の儀式は秦・漢の時代から行っていた儀式である。山の下で土檀をつくり、そこで地を祓い清めて山川を祀り、皇帝(天子)が天下太平を天に報ずる儀式である。この泰山での封禅については、『旧唐書』、『冊府元亀』『資治通鑑』『三国史記』の 4 つの文献に記されている。

  • 旧唐書・巻八「劉仁軌伝」
  • 冊府元亀(中国の北宋時代に成立した類書)
  • 資治通鑑(中国北宋の司馬光が、1065 年の英宗の詔により編纂した歴史書。)
  • 三国史記(新羅本紀の文武王五年 665 年の条)

★これらから分かることは、泰山での封禅の儀式の前の 7 月に、熊津都督府尉の扶余隆と新羅の文武王とが熊津の就利山で和睦していることである。その後 10 月に、劉仁軌が四国の使者(酋長)をいて、泰山での封禅の儀式が行われている。一方倭国においては、劉徳高らが 9 月に来倭して、11 月に送使の守君大石らと熊津都督府に帰っている。よって 10 月の封禅の儀式に参加した倭国の使者(酋長)は、劉徳高らと共に熊津都督府に赴いたのではなく、7 月の就利山で扶余隆と文武王との和睦のときに、既に熊津に滞在していたことになる。ということは、その使者(酋長)が熊津に赴いたのは、前年664年の12月の郭務悰らの帰国の際であったかもしれない。いずれにしても、天智33年664年に年に郭務悰らがもたらした表函内には、筑紫都督府の開設の他に、泰山の封禅の儀式への参加要請があったのであろう。郭務悰らの帰国の前に、中大兄王子が出した「勅」は、おそらく唐の要求を承諾することことだったと考えられるる。

【封禅の儀に参加した倭国の使者(酋長)は大友王子】

★ 以上のように、劉仁願が新羅や百済と倭の酋長を率いて泰山での封禅の儀式に参加させたことは、倭国(少なくとも九州)も百済や新羅と同様に唐の羈縻体制に組み込まれていたことになる。では参加した倭国の「酋長」は誰であったのだろうか。「酋長」と記すことより、臣下ではなく、王およびそれに準ずるものと考えられる。泰山に参加した 倭国の「酋長」はだれであったのだろうか。「その人物は大友王子だったと考えられる。その根拠は懐風藻(奈良時代に成立した漢詩集:大友王子の曾孫・淡海三船が編者)』における次の記述である。

つまり、劉徳高は大友王子と面識があったということである。では劉徳高はいつ何処で大友王子と出会ったのであろうか。劉徳高は 665 年 9 月に来倭して 11 月に熊津に帰国している。よって劉徳高が大友王子と会ったのは劉徳高の来倭のときではなく、それ以前の就利山で和睦のときと考えられる。『懐風藻』に記される大友王子についての劉徳高の発言は、劉徳高の来倭のときに倭国の官人が劉徳高から聞き及んだことと推察できる。

大友王子像(法傳寺蔵)
(3)朝鮮式山城などの築造は唐の指示による

★筆者は、中村修二氏と斎藤潔氏の説を知るまでは、矛盾を感じながらも大野城や水城などは唐からの侵攻に備えた防衛施設であり、近江遷都も同様の理由であるとの通説を信じていた。しかし、中村氏の説を精読することより、これまでのモヤモヤが一気に解けることとなった。中村氏の説を取り入れながら、筆者の説を述べていくことにする。

➀ 防と烽の設置

通説では新羅・唐からの倭国の防衛のためとされている。しかし、防と烽を防衛のために築いたとは考え難い。防衛のためなら、戦争前や戦争中につくるはずである。しかも、烽が造られたのは、対馬・壱岐・筑紫の間だけで、筑紫より東の瀬戸内海にはつくられていない。唐からの防衛施設なら、郭務悰はたやすく来倭できないはずである。郭務悰が帰った後の記事として、記されていることより、郭務悰の要求により造られたと考える方が説明がつく。そもそも、烽火は古来からの中国の通信システムであった。倭国が独自に造ったのではない。つまり、唐が筑紫を羈縻支配するときの、朝鮮半島と筑紫との連絡所として設置されたと考えられるのである。

長崎県壱岐市・少弐公園に復元された壱岐の熢
② 水城について

★水城は大宰府市から大野城市・春日市にかけての「福岡平野と筑紫平野とを結ぶ地峡を塞ぐ長大な遮断城で、長さ 1.2 km、幅 80 m、高さ 10 mの土塁とこれに沿って設けられた幅 60 mの外濠」である。大宰府を防衛する施設との説があるが、これは誤りである。天智 4 年には大宰府はまだ存在していない。「筑紫大宰」吉備大宰などの大宰府制は天 武朝で成立した機関であるとのことである。大宰府はさらに後の 平城京(710 年)をモデルに、奈良時代前半に築造された。

★水城は下図のように、福岡市を南北に二分するような防御堤である。北からの侵攻を防ぐものなら、博多湾側の地域(対朝鮮半島の最前線であった中大大兄王子の長津宮)を放棄することになる。つまり水城は、防と烽と同様に、唐からの防衛のためではなかったのである。では水城は何から何を 防衛するためのものだったのか。これも、郭務悰の来倭と関係があるものである。つまり、防と烽と同様に、郭務悰の要求により造られたと考えるほうが整合性がある。筑紫都督府は中大兄王子の 那津宮 の傍の博多湾沿いに設置されたと推察できる。つまり、水城は北からの攻撃に対するものではなく、逆に博多湾地域を南からの攻撃から守るものであった可能性が高いことになる。白村江で戦死した兵士の一族からすれば、唐の人間は仇敵である。羈縻支配 に反対する一部の倭人が、那津宮や筑紫都督府を南から攻撃することから守る施設であったと推測できる。ただし、水城だけでは防御としては不完全なので、一定の防御的役割を果たすものであった考えられる。いずれにしても、水城は倭国防衛のためではなかったことは間違いない。

太宰府周辺の水城
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③ 大野城と基肄城の築城
天智4年 665 年・8月
  • *大野城:全長 8 km、9 つの門、70棟以上の建物からなり、二重の土塁をめぐらしている。最下層から検出された掘立柱建物の柱穴から軒丸瓦が検出されている。単弁八弁連華文、時期的には 7 世紀後半を下らないとみられ、日本書紀に記載の 665 年築造記事とそれほどの矛盾はない。」とされる。
  • *基肄城:6km以上の土塁、4つの門、40 棟以上の建物が確認されている。
★ 大野城について

中村修二氏によれば、西谷正氏(東アジアの古代史に精通した考古学者)は次のように述べているとのことである。

「大野城と基肄城をみると、城壁・城門や城内の建物群などの構造形式は、古代朝鮮とりわけ百済の山城との共通点が少なからず認められる。ここにおいて、文献史料に記載される百済からの亡命貴族の築城への関与と、そのことを裏づけると見られる百済式山城という考古資料の存在によって、大野城と基肄城を典型例として、朝鮮式山城と呼ばれるようになったわけである。

また、『大宰府市史・考古資料偏』によれば、「大野城は、大宰府政庁背後の標高 400 mの四天王山に築かれている。西南方へ延びる丘陵は水城へと連なり、博多方面からの侵攻に対する防衛線を形成している。」とのことである。「尾根の平たん部を利用して建物が配置されている。

こうした考古学的な情報は、大野城が天智朝に築城を開始され、ある程度の内部構造を完成させたものであったことになる。日本書紀の記事は虚構ではなく実態を記したものであるといえる。このような朝鮮式山城は唐・新羅の侵攻に備えた防衛施設(鞠智城は有明海沿岸からの侵攻に備えたもの)ということが通説になっている。

福岡県大野城市宇美町の大野城百間石垣
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★しかし、水城と同じように大野城は博多湾から内陸に入り込んだ位置にある。朝鮮半島からの侵攻からの防衛であれば、元寇のときのように海岸線に土塁などを築いたはずである。大野城は、劉徳高等の来倭の年に築いたと記されている。筑紫が唐による羈縻支配を受ける体制が出来るときに、唐からの防衛施設を造るはずがない。これらの三つの城を築いた中心人物は、中大兄王子政権の官人ではなく、答㶱春初、憶礼福留、四比福夫である。この 3 人は、いずれも白村江の後で亡命してきた百済人である。当時百済は既に唐の羈縻支配を完全に受けていた。元百済は唐の属国となり、元百済の文官・武人は唐のために働くようになっていた。城を造ることを主導した 3 人は、故国の百済人と同様に唐の命により城を造ったと考えるのが合理的である。では築城の目的は何であったのだろうか。筑紫都督府は、おそらく中大兄王子の長津宮の傍の玄界灘沿岸に 設けられていたのであろう。つまり、大野城や基肄城は北からの防衛ではなく、筑紫都督府を、羈縻支配に反対する一部の倭人の、南からの侵攻から防衛するためだったと考えられる。また、長門の城は 東からの攻撃を防衛するためだったのであろう。そのように考えると、全てが合理的に説明できるのである。大野城が百済式山城ともいわれるほど百済の山城との類似性があることは、元百済からの工人なども築城にあたったことも推測できる。(ただし、後の高安城も含めて短期間で完成するはずがない。あくまでも築き始めた年を記したものであろうと考えられる。)

④ 高安城・屋島城・金田城
天智 6 年 667 年 11 月

これらの城が唐・新羅からの防衛のためなら、対馬の金田城は敗戦後、まず最初に築城されていたはずである。金田城の構造と立地よりわかることは、この城は防衛のためというより、『情報伝達を中心に据えた施設』ということである。後にも述べるが、高安城と屋嶋城も防衛施設ではなく、見張りや情報伝達のための城と考えられる。倭国防衛のためなら、高安城と屋嶋城も、大野城とほぼ同時期に築城されていたはずであるが、大野城築城より 2 年も後のことである。唐の劉仁願が司馬法聡たちを筑紫都督府に派遣した後に、築城が記されている。つまり、これらの 3 つの城は、司馬法聡たちの来倭に関係していることになり、唐の劉仁願による指示によって行われた可能性が高い。では築城の目的は何であったのだろうか。それを考えるのに重要なことは、築城の半年前近江遷都がなされていることである。次節において近江遷都について述べる。

長崎県対馬市の金田城第三層石垣
(4)近江遷都は飛鳥の明け渡し
➀ 中大兄王子はようやくの飛鳥に帰る。

★これまで述べてきたように、白村江の敗北後、唐の使者が毎年のように来倭し、その度に山城などが造られている。このことだけからも、山城築城などは、唐の意向によるものであったことが推測できる。ただし、天智 5 年 666 年には、唐からの来倭は無い。そして翌天智 6 年 667 年 3 月に近江遷都の記事がある。おそらく天智 5 年 666 年には近江宮の建設が行われていたのであろう。また、筑紫都督府がそれなりに機能するようになったことより、中大兄王子は九州の長津宮から飛鳥に帰っていたと推測できる。そのことは、天智 5 年 3 月「皇太子は自ら佐伯子麻呂連の家に行き、その病気を見舞った・・」との記事からもわかる。

★この後の出来事を順に記すと次のようになる。

★以上より推測できることは、近江遷都はその前年の天智 5 年に、中大兄王子が九州の長津宮から飛鳥に帰っていたときから準備されていたと考えられる。飛鳥に帰ることによって中大兄王子は、ようやく斉明大王と間人大后の葬儀をすることが出来て、その後に近江に遷都したということである。

★日本書紀は遷都について、「天下の百姓は遷都することを願わず、諷諫(遠回しに批判する)する者が多く。童謡も多く。毎日毎晩失火が多かった。」と記している。
この記述は遷都に反対するものが多かったことを示す。反対したものは百姓と記すが、むしろ多くのヤマトの氏族たちが反対したのであろう。「毎日毎晩失火が多かった。」とのことから反対はかなり強いものであったと推測できる。

★では、多くの反対にも関わらず、なぜ近江に遷都したのだろうか
近江京の位置については、琵琶湖西岸の大津市の錦織地区(三井寺や近江神宮の傍)であったことが判明している。通説は「対外防衛のため、大和より安全でかつ敵に攻められたときに船で東国に逃げやすいから」とのことである。しかし、この説は成り立たない。

近江大津宮の位置と想像図
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  • 近江京は大和の飛鳥より防衛に適していない西は比叡山系の山が迫り東は琵琶湖で、極めて狭いところである。攻め込まれたらたやすく陥落する。(実際、壬申の乱においては近江京は簡単に陥落している。)
  • 東に逃れやすいというような逃げの姿勢で遷都することは考え難い。畿外の地でかつ狭いところで宮都には適さないところである。

★多くの人々が遷都に反対するのは当然である。おそらく中大兄王子は、多くの氏族などから遷都に強く反対されていたのだろう。中大兄王子としても遷都は不本意であったはずである。にもかかわらず、なぜ遷都せざるを得なかったのか、その答えは一つしかない。それは唐(筑紫都督府)の指示による遷都であったということである。筑紫都督府が設置されたとき、何らかの盟約があったためか、または後に唐からの指示があったかどちらかであろう。筑紫都督府には唐の軍兵が常駐していた。遷都を拒否すれば、唐が筑紫都督府だけでなく熊津都督府からも軍事行動に出る可能性が極めて高い。中大兄王子政権としては、遷都を受け入れざるを得なかったのであろう。

★ 筆者は、中村修二氏の説をふまえて、「唐( 筑紫都督府)は長年にわたり倭国の都であった飛鳥を明け渡させて、 唐(筑紫都督府)が監視しやすい地に宮都を移させた。」と考える。

【下記は筆者独自の説】
  • 監視役のひとつは、近江に住んでいる多くの亡命百済人である。遷都の 2 年前、天智 4 年 665 に百済の民男女 400 人を近江の神崎郡(彦根市や東近江市あたり)に住まわせている。そしてこんどの遷都と同時に亡命百済人 2000 余人を東国に住まわせている。このとき元百済の熊津都督府は完全に唐の傀 儡になっていた。倭国に亡命していた百済人も同様に、熊津都督府の元百済人と同じ立場になったと考えられる。既に述べたことであるが、大野城・基肄城・長門の城を築いた亡命百済人の答㶱春初、憶礼福留、四比福夫は唐(筑紫都督府)の指図によるものであった。
  • もうひとつの監視役は、大友王子の養育氏族である大友村主一族であったと考える。大友王子の母は弱小氏族の娘・伊賀宅子娘であるが、大友村主という氏族によって養育された。大友村主は近江国滋賀郡大友郷(現在の大津市)を本拠地とする渡来系氏族である。『続日本後紀』では後漢の献帝の末裔と記すが、それはあり得ない。大友氏の一族が百済人の末裔と称しているとこから百済系である。近江京は大友村主の本拠地の傍である。白村江の敗戦後、亡命百済人を多数近江に居住させたのも、そこが百済系の大友村主一族の本拠地だったからである。大友王子は亡命百済人とも強く結びつくようになっていたのである。天智の有力な後継者王子として川島王子がいたが、大友王子が天智の後継者になった。それは大友王子が百済との関係が強く、唐(筑紫都督府)から支持されていたからである。大友王子が倭国の代表として、泰山での封禅の儀式の出席したときから、唐(筑紫都督府)は大友王子を天智の後継者にする意図があったのであろう。

★以上のように当時近江京周辺は、倭国における百済分国のようなものだったのである。亡命百済人たちは大友村主とともに天智政権の動向を監視する役割だったと考えられる。つまり、都を、唐の傀儡となった元百済の関係者によって囲むことにより、天智政権を唐の支配から抜け出せないようにするためだったと考えられる。

★遷都後の3つの記事についても、合理的に説明できる。

  • * 同年 8 月:中大兄王子は飛鳥に御幸する。
    なぜ旧都の飛鳥に行くことになったのか、何も記されていない。明け渡した飛鳥に来ていた唐の役人と何らかの現地確認であった可能性を、筆者は考えている。二年前の来倭のとき、「菟道で劉徳高らの閲兵した」と記していることから、唐人たちは筑紫都督府(北部九州)だけでなく、畿内にも来ていたことは間違いない。
  • * 同年 11 月:高安城・屋島城・金田城の築城
    高安城は難波・河内と大和・飛鳥の監視と情報伝達の拠点、屋島城は瀬戸内海の監視と情報伝達の拠点であったと考えられる。
  • * 同年 11 月:劉仁願が司馬法聡たちを筑紫都督府に派遣する。
    司馬法聡は元百済官僚とのことである。亡命百済人と会うことを通じて遷都の確認をしたのだろう。
【高安城について】

★高安城は生駒・信貴山系の尾根すじに存在したことが判明している。筆者はこの尾根を 何度もドライブしたことが ある。このようなところは、防衛には全く適さない ことがわかる。しかし、このあたりからは、東に大阪平野が眼下に望むことができて、少し歩けば奈良盆地が眺望できる。この地域はまさに、難波・河内と大和・飛鳥の両方を見ることが出来る場所なのである。高安城は、難波・河内と大和・飛鳥の両方を監視するためのものであったことを確信している

高安山の位置とそこからの眺望
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【終わりに】

★以上述べてきたように、唐による倭国支配は着々と進んでいた。ところが天智 7 年 668 年に急変する。

天智七年(668 年)7 月に次の記事がある。「栗隈王を筑紫率に任じられた

筑紫率」とは九州を統括する倭国の行政と軍事の長官名である。つまり、この 668 年には「筑紫都督府」は消滅していたのである。占領軍や軍政人も引き上げたと思われ。おそらく唐は「筑紫都督府」を倭国に移管したのである。その最大の原因は高句麗が滅亡する直前から、唐と新羅が争うようになったことである。三国史記によれば、667 年ころから唐と新羅の関係が険悪になっている。唐および元百済民と新羅との争いが始まっている。唐としては、倭国を羈縻支配する余裕がなくなり、筑紫都督府は閉鎖して対新羅戦争に兵力を集中しなければならなくなったのである。唐による倭国の羈縻支配は消滅したのである。しかし天智政権は親唐政策を続けることになる。しかし天智政権に対する不満が、古くからの氏族のなかで、水面下で増大していた。これを受けて大海人王子は、反天智の氏族を結集して壬申の乱を起こすことになる。

次回は壬申の乱と天智・天武の隠された真実について述べる。