最終更新日:2022/03/28

季刊「古代史ネット」第6号

隠された天智大王暗殺と天武天皇の真実

飯田眞理(いいだ・まこと)上半身写真飯田 眞理(いいだ・まこと)
京都府木津川市在住
大阪大学理学部博士課程単位所得
元東大寺学園〈奈良市〉理科教師

  1. 唐による羈縻(キビ)支配の消滅と外交の変化
  2. 天智紀の重複記事の謎
  3. 天智は山科で暗殺された
  4. 壬申の乱についての若干の考察
  5. 天智・天武は異父兄弟(大海人王子=漢王子)
  6. 日本書紀の嘘
≪はじめに≫

前回には白村江での戦いとその後の唐による羈縻(キビ)支配について解説した。今回はその後の天 智朝の外交と壬申の乱について述べる。さらに天智暗殺説と天武は天智の異父兄弟(漢王子)説についても述べる。

1.唐による羈縻(キビ)支配の消滅と外交の変化

日本書紀に記す天智6年からの対外関係を記しながら、倭国の外交の変遷を考察する。

≪天智6年667年11月9日≫
≪天智六年667年11月13日≫
≪天智七年668年4月6日≫

★この時点までは、唐一辺倒の外交である。唐による羈縻(キビ)支配が続いていたのである。

ところが・・

≪天智七年668年7月≫

★「筑紫率」とは九州を統括する倭国の行政と軍事の長官名である。つまり、この668 年には「筑紫都督府」は消滅していたのである。唐の軍人や文官人も引き上げたと思われる。おそらく唐は「筑紫都督府」を倭国に移管したのであろう。その最大の原因は、高句麗が滅亡する直前から、唐と新羅が争うようになったことである。三国史記によれば、667 年ころから唐と新羅の関係が険悪になっている。

『三国史記・文武王八年668年』

★元百済人を含む唐軍と新羅との争いが始まっている。唐としては、倭国を羈縻支配する余裕がなくなり、筑紫都督府を閉鎖して対新羅戦争に兵力を集中しなければならなくなったのである。そして突然に新羅と倭国との外交が頻発するようになる。

「中村修二『天智朝と東アジア』 NHK BOOKS, 2015」より
≪天智七年668年9月12日≫
≪同年9月26日≫
≪同年9月29日≫
≪同年11月1日≫
≪同年11月5日≫
≪天智8年669年≫

★ところが、この後は再び新唐の外交に変化する。

≪天智8年、最後の記事≫
≪天智9年≫
≪天智10年1月13日≫

2.天智紀の重複記事の謎

★天智紀の最大の特徴は重複記事が多いことである。他にも重複の可能性がある記事もあるが、確実なものだけを次に示す。

  1. (a)斑鳩寺(法隆寺)の火災
    ≪天智8年12月≫
    ≪天智9年4月≫
  2. (b)郭務悰等2,000人を伴う来倭 ≪8年是歳条 と10年11月10日条≫

    (これについては後に詳しく解説する。)

  3. (c)鬼室集斯叙位
    ≪天智4年2月≫
    ≪天智10年1月≫
  4. (d)長門・筑紫の築城
    ≪天智4年≫
    ≪天智9年2月≫
  5. (e)高安城の築城
    ≪天智6年≫
    ≪天智8年≫
    ≪天智8年・冬≫
    ≪天智9年2月≫
  6. (f)大蔵の出火
    ≪天智8年12月≫
    ≪天智10年11月≫

★以上のような多くの重複記事は他の天皇紀には見られないことである。なぜなのであろうか。その理由として、天智紀は未完成であったとの説がある。しかし、それは考え難い。重複記事は気付きやすいことであり簡単に修正できるはずである。つまり、同じ事象であることがわかりながら異なる年のこととしているのである。未完成ではなく、何らかの意図により重複記事を載せたと考える方が適切である。

★結論を先に述べておくと、先の年が正しく後の年のほうは、重複がわかりながら記載したと考える。その意図的な重複の後の年が、全て天智9年と10年に集中していることである。天智9年が(a)(d)(e)天智10年が(b)(c)(f)である。

★まず、天智9年の記事を検討してみる。

  • *「高安城築造」、「法隆寺の出火」「長門に一城、筑紫に二城」の重複記事が記されている。筆者は、この3 つの記事は、この天智9年のことではなく、それ以前のことと考える。
  • (d)の「長門・筑紫の築城」は白村江の敗北に絡んで築城されたものである。築城にはある程度の年数を要するが、敗戦後から7年も経ってから完成したとは到底考えられない。
  • (e)の「高安城」についても同様である。高安城は簡易なの山城なので造るのに年数は要さない。 天智6 年に造り始めたものなので、天智9 年完成では遅すぎるのである。
  • (a)の斑鳩寺(法隆寺)火災については、根拠はないが、天智8年が正しいと考える。
  • * そして重複以外の記事からは重複させた理由が推測できる。

    *外交としては:「9月:阿曇連頬垂を新羅に遣わした。」のみで、
    不可解なことに、新羅や唐からの遣使が全くない。

  • * 国内記事も、「1月の大謝礼」「浮浪者を取り締まり」「山の井での奉幣
    戯言・流言の禁止」「新宮の地の見学」など、とって付けたような些細記事ばかりである。
    さらに「戸籍を造り」の記事については、「庚午年籍」のこととされるが、それは現存してお らず、近江令と同様に創作記事と考えられる。
  • * 以上のように天智9年は、他の年とは異なり、重要な外交記事や国内記事が全くなく、重複記事を三つも記載しているのである。よって、この天智9年には隠さなければならなかったことがあり、その代わりに重複記事と些細記事を載せたと推測できるのである。

★次に、筆者が重複記事で最重要視するのは、郭務悰等2,000人を伴う来倭の記事である。

  • 天智8年の最後に記される記事

    大唐が郭務悰ら、2000余人を遣わしてきた。のみの簡単な記述

  • 天智10年11月からの記事は極めて詳しい。

★この郭務悰らの来倭は天智8 年が正しく、天智10 年には不都合なことを隠すために詳細に載せたのである。以下に解説する。

  • * 天智9年(670年)には唐と新羅の戦争が本格化する。天智10年(671年の夏には新羅は百済地域で唐に大勝し旧百済地域の大半を占領している。唐の水軍も潰滅状態になっていて、11月に郭務悰らが来倭することは出来なくなっている。『三国史記・文武王11年(671年)』の記事を示しておく。
  • *現に、671年7月に李守真と百済の使人が帰途についてから以降は、11月の郭務悰らの来倭を除いて唐からの派遣はない一方新羅からは、10月に金万物が派遣されていて、11月に帰国している。

★また、郭務悰らは 671 年 11 月に来倭したことになっているのに、4カ月も経ってから国書や信物を奉ったことや、唐・新羅戦争が激しくなっているときに半年以上も滞在していることは、到底真実とは思われない。

★一方、天智8 年(669 年)であれば、唐と新羅との戦争が本格的に起こり始めたときで、支援要請したことを合理的に説明できる。また、この後の唐からの次々との遣使とも整合性がある。既に記したことであるが再度記す。

  • ≪天智10年1月13日≫「百済居る鎮将劉仁願が李守真らを遣わして上表文を奉った。
  • ≪同年2月23日≫ 「百済が台久用善らを遣わして調を奉った。
  • ≪同年6月4日≫ 「百済の三部の使人が要請した軍事について、仰せ事があった。
  • ≪同年6月15日≫ 「百済の羿真子が調をたてまつった。
  • ≪同年7月11日≫ 李守真らと百済の使人らは共に帰途についた

    (この後、唐は元百済地区で新羅に大敗し水軍も敗れる。)

★さらに不可解なことは、天智10年12月に天智が亡くなってから壬申の乱が勃発する翌年6月までの近江朝の記事は皆無なのである。正月の記事さえ無く郭務悰記事だけなのである。
何かを隠しているのは間違いない。(郭務悰が帰国した直後に壬申の乱が勃発したようになっている。)

【天智紀に隠されたことを推理する】

★隠されたことは何であろうか。それは、天智の暗殺と大友王子の即位(弘文大王)であると筆者は考える。その天智暗殺と大友王子が即位していたことの記録が存在した。しかしそれを載せるわけにはいかない。そうすると天智9・10 年および天武元年の6 月までの記事がほとんど無くなってしまう。よってその穴を埋めるために、重複記事を載せたと考えられるのである。天智暗殺については次章で詳しく述べる。

3.天智は山科で暗殺された

*この章のほとんどは井沢元彦氏の説を引用したものである。
「井沢元彦の『逆説の日本史2・古代怨霊偏』1994 年 小学館」

(1)天智暗殺の根拠
  1. ① 最大の根拠は平安時代に書かれた『扶桑略記』

    *意味不明の十二字は「以往諸皇不知因果恆事殺害」である。
    あえて読み下せば「以往(のち)諸皇因果を知らず、恒に殺害を事とす」となるが。これでは意味が通じない。ただ、「つねに殺害を事とす」とある以上、「殺害とみなしていた。」と解釈できる。

    ★『扶桑略記』の編者である皇円は、天台宗の阿闍梨で、法然の師でもあった人である。『扶桑略記』には歴史を素直に伝えようという意気込みが感じられる。天台宗の僧であることも重要なポイントである。天台宗の本山は延暦寺だが、もう一つ大津市の三井寺(園城寺)がある。この寺は、近江京の跡地に、大友王子の子・余多王によって創建されたとされるものである。大友王子の子・余多王が実在したかどうかは疑わしいが、この寺が天智大王と関係深いことは間違いない。つまり皇円は、天智・大友の情報を得ることができる立場にあった。天智大王に関係ある寺の僧が、「遠乗りに出かけて消えてしまった」のような不名誉なことを創作することは考えられない。皇円は、おそらく信じるにたる理由があったからこそ、「略記」に書き残した、と考えたほうがはるかに自然ではないか。日本書紀には、天智の殯や埋葬・墓も記されていない。これは天智の死が異常だったことになり、死体が見つからなかったことや山科に天智陵が存在することと整合性がある。では暗殺者は誰であったのだろうか。(A)大海人王子自身(B)大海人王子の刺客(C)新羅人(D)栗隈王の配下、などが考えられるが、これについて筆者は現時点では判断できていない。

    三井寺(園城寺)付近図
  2. ② 万葉集の天智の王后・倭姫の歌も天智暗殺を示唆

    ★大后(古人大兄皇子の王女=倭姫王)の奉献る歌(一四八)には、
    青幡の木幡の上を通ふとは目には見れども直には逢わぬかも」と歌われている。
    (訳:「山科の木幡の山の上を、魂が行き来していることは見えるけれども、天皇のお身体に呼びもどして会えないことだ)」

    古代巨椋池想像図

    ★「木幡」は現在も宇治市の地名として残っている。古代には宇治郡山科郷に属していた。「天皇の魂が山科を彷徨しているが、会うことができない」ということになる。天智大王が行方不明になって、遺体が見つからなかったとする扶桑略記の記事と合致するのである。

  3. ③ 京都府宇治市小倉町の「小字天王地区」の石碑

    (「井沢元彦の『逆説の日本史2・古代怨霊偏』1994 年 小学館」より)

    ★明治になるまでにはそこに「天智天皇」と名のみ刻まれた石碑が存在したとのことである。郷土史家の山田万吉郎氏は「天智は『扶桑略記』にあるように山科で殺された後、この『天王』地区に葬られた。」と唱えておられた。(井沢元彦氏は、この地域は、山背国久世郡栗隈郷で天武側だった栗隈王が育った地である。暗殺に栗隈氏が関係していたのではと、述べる。)
    この「天王」地区には小さなも建てられていた。この石碑も「不敬罪の疑い」ということで、明治時代になって撤去されてしまった。(石碑は地蔵院という寺に、社は巨椋神社に移転保存されている。ただし、石碑は字体などからそれほど古くないとのことである。)

  4. ④ 『宇治市史・第8巻』
    「小字天王から宇治へ通じる旧道の傍には・・かってはそのエノキの根元に若宮と呼ばれた小祠と、「天智天皇」と刻んだ墓石があって、天智大王がここに葬られていると伝えていたという。天智大王は、山科の御廟野に沓を残していずこともなく去ったという伝説があり、その陵地は詳かではないという俗説が、一般に語り継がれていたので、天王の地名から思いついた陵地伝承が生じたのであろう。・・・なお、小字寺内にある浄土宗観音寺の寺伝によれば、元観音寺は寺内の南東のカドノワキというところにあった、付近には御社殿、門ノ外などの地名があったと伝える。門ノ外というのも天智天皇陵の門外という意味であったとされる。」
  5. ≪大友王子は即位していた≫

    ★江戸時代の学者である伴信友は『長等の山風』で『扶桑略記』『水鏡』『西宮記』を引用して
    大友天皇は、天智天皇の第一皇子、始めの御名伊賀皇子、後に大友皇子と称し奉る。」と書いている。『扶桑略記』『水鏡』『西宮記』にも、大友王子が即位したと記している。

    (日本書紀は天智が暗殺と大友王子の即位を隠して、大海人王子と
    大友王子との大王位争いのように書いたと、筆者は考える。)

(2)天智天皇の山科陵(御廟野古墳)の謎

*「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳である。築造年代は7 世紀末から8 世紀。上円部が八角形の上円下方墳(『Wikipedia』より)

*史書に山階陵、山階山陵などとも記す。京都市山科区御廟野町にあり、・南辺中央テラスには、約2mメートル×3mの「沓石」とよばれる上面平坦な切石があり、礼拝の施設と考えられる。
(「国史大辞典」吉川弘文館)(この沓石にちなんで「沓塚」と呼ばれていた伝承もある。)

*『延喜諸陵式』に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」と記されている。

*日本書紀によれば、壬申の乱の発端は、天智陵の造営が大海人側の開戦の理由になっている。

*その後、天智陵については、続日本紀・文武三年に「・・諸臣を遣わして陵を修造せしめた・」と記す。壬申の乱の前に、山階陵が造られたかどうかは、疑問であるが、遅くとも文武三年には陵は造られていたのであろう。「沓石」は、いつ置かれたかはわからないが、『扶桑略記』の「・・ただ履を発見したところを陵とした。」と一致する。

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≪なぜ山科なのか≫

★天智陵について問題なのは、なぜ山科なのかということである。日本書紀に記すように、天智が病死なら、父や母と同様に飛鳥周辺にその陵を造営するのが普通である。天智自身が、母の斉明と妹の真人王后を飛鳥(牽牛子塚古墳)に埋葬している。天智大王は自分も飛鳥周辺に埋葬するように遺言したであろう。しかし、飛鳥でもなく近江京付近でもない山科に陵が造営されたということは、『扶桑略記』の真実性がより強くなる。行方不明になった山科の地に遺骸と魂が存在はずなので、そこに陵を造った、と考えることが適切である。

★日本書紀には、「天智8 年(669 年)10 月16 日藤原内大臣は死んだ。・・遺骸を殯は山科の南に移して行われた」と記す。さらに藤氏家伝には「天智即位2 年(669 年)10 月16 日、鎌足は淡海の邸宅で亡くなった。・・庚午年(670 年)閏9月山階之舎(山科寺)で火葬に付した。」と記す。山科での天智暗殺を、山科での鎌足の殯や火葬にすり替えたとの憶測ができる。

(3)天智暗殺と大友王子の即位

★既に記したことであるが、『扶桑略記』には「十二月三日、天皇崩、同月五日、大友皇太子即為帝位、生年廿五 (訳:十二月三日に天皇が亡くなり、五日に大友皇子が即位した。二十五歳である。)と記されている。『水鏡』『西宮記』にも、大友王子が即位したと記している。

江戸時代後期の国学者であった伴信友は『長等の山風』でこれらを引用して「大友天皇は天智天皇の第一皇子、始めの御名伊賀皇子、後に大友皇子と称し奉る。」と書いている。

大友皇子像(法傳寺蔵)

★大友王子が即位したことは、日本書紀・天智 10 年 1 月の記事からも推測できる。

1月5日、大友皇子を太政大臣につけた。蘇我赤兄臣を左大臣、中臣金連を右大臣、蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣を御士大夫とした。1月6日、東宮太皇弟は奉宣して…ある本によると大友皇子が宣命したという。」

これは新体制のことであるのは間違いないが、大友王子が「皇太子」ではなく「太政大臣」というのは不可解である。このとき大友王子は王権の主であったことは「…ある本によると大友皇子が宣命した」との記載からわかる。大友王子はこのとき即位していたのであろう。しかし、それでは壬申の乱が大海人王子による王権の簒奪になる。それゆえに大友王子は即位でも皇太子でもなく、太政大臣という当時は存在しない官職として虚偽記載したと考えられる・

★天智10 年11 月23 日の記事も大友王子が即位していたことを示唆する。

このような誓盟記事は大王の死の直前になされるとは考え難い。むしろ新大王の即位のときの記事と考えるほうが合理的であり、1月の大友王子の即位と新体制に対応するものと推測できる。

≪天智暗殺の時期≫

天智紀の5月5日記事の考察から、天智暗殺の時期が推測できる。天智6年に中大兄王子が正式に即位してから、毎年のように5 月5 日の記事が記されている。ところが天智9 年だけ5月5日の記事が無いのである。

  • 7年:蒲生野に狩に行かれた
  • 8年:山科野に猟をされた。
  • 9年:記事無し
  • 10 年:天皇は西の小殿においでになり、皇太子や群臣は宴席に侍った。田舞を二度演じられた。

★なぜ、天智9 年だけ5 月5 日記事がないのであろうか。また天智10年はなぜ薬狩りや猟ではなく田舞見物なのか、天智が生存していれば天智9 年と10 年にも猟や狩りの記事があるはずである。(旧暦5月5日は生命活動が最も活発なときで薬草取りなどをすることが習わしであった。推古19年には「夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。」と記されている。)

筆者は天智が山科で暗殺されたのは、天智 8 年 5 月 5 日の山科の猟のときであったと推測する。天智9年に 5 月 5 日の記事が無いことは、天智が亡くなっていたからであろう。天智10年には、この年の 1 月に即した大友王子や群臣たちの意向で猟ではなく田舞になったと推測する。ただ「天皇は西の小殿においでになり、皇太子や群臣は宴席に侍った。田舞を二度演じられた。」の記事には不可解なこともある。日本書紀は天智が生存しているとして「天皇」としたのであるが、「皇太子」はだれのことなのか謎である。大海人王子か大友王子のどちらかであろうが、どちらも考え難いからである。大海人王子は「大皇弟」「東宮太皇弟」「東宮」なので「皇太子」とは考えられない。また大友王子が「皇太子」なら、壬申の乱が大海人王子による王権の簒奪になるから、大友王子が「皇太子」であることも考え難い。この記事は単なる誤記かまたは日本書紀編纂者の何らかの意図のどちらかであろう。

★既に述べたことであるが、天智9年・天智10 年・天武元年の日本書紀の記事の不可解さも、天智暗殺と大友王子の即位の隠蔽を示唆する。

  • 天智9年は、多くの重複記事を載せていて、百済との外交記事が皆無で国内記事も取ってつけたものだけである。外交記事が記されていないのは、天智の死の関する弔問外交であったから隠したと推測する。
  • 天智 10 年も国内記事は些細なものばかりである。他方、外交は一転して極めて活発に記されている。大友王子が即位したことで唐との外交が再開したのであろう。
  • 天武元年(672 年)では、この年の6月までは近江朝が存在していた。天智 10 年 12 月に天智が亡くなったとすれば、翌年の1月からは、殯や後継者などの重要な記事があるはずである。近江宮には記録も残っていたはずである。ところが壬申の乱勃発までの半年間、近江朝側の記述が全くない。重複の郭務悰記事だけなのである。なぜなのか、その理由は一つしか考えられない。大友王子が即位していたことを隠すことだったのである。日本書紀編纂者は、大海人王子(天武天皇)は王権簒奪者ではなく、壬申の乱を大海人王子と大友王子との大王位争いのように記すためだったのである。

4.壬申の乱について若干の考察

壬申の乱については多くの古代史家が論じているが、筆者なりの考察を簡単にする。

(1)壬申の乱の要因

★この戦いの原因の元は、天智政権の政策にあったと推測できる。唐の羈縻(キビ)支配を受け入れて、亡命百済人を優遇する政策に対して、多くの氏族が憂慮していたのは間違いないであろう。とりわけ近江遷都に対する反発は大きかったと推察できる。日本書紀にも近江遷都に対して多くの民からの怨嗟が記されていている。怨嗟はおそらく民よりも飛鳥や大和を本拠とする氏族であったと考えられる。そのことは壬申の乱には大伴氏や物部系だけではなく、古くからの渡来氏族も大海人王子側になっていていることからわかる。一方、大友王子側の有力な氏族としては蘇我氏(赤兄と果安)巨勢氏などと少なく、近江側の軍の中核は新たな渡来氏族であった。

★乱の直接の誘因は、天智九年(670 年)ころからの唐・新羅戦争であろう。そして天智歿後の新羅は、近江政権を転覆させるため、大海人王子側になんらかの支援や工作をしていたと推察する。天武朝成立直後の新羅の「客人」金押実は新羅の工作隊員たちの長だった可能性がある。乱後、金押実には筑紫で饗応し船一隻を賜わっているからである。その後、天武朝になると新羅からは天武 2 年の金承元や天武 4 年の金忠元などの王族が、毎年のように来倭している。倭国からも天武 4 年の大伴国麻呂や天武 6 年の物部麻呂などを毎年新羅へ遣わせている。新羅との友好外交が極めて頻繁にされたこと記されている。一方遣唐使は、皆無であり唐とは疎遠になったことがわかる。親新羅の大海人王子が壬申の乱により、唐の属国であった近江政権を滅亡させたということである。もし唐新羅戦争が無ければ、倭国は異なった道を歩んだだろう。壬申の乱は大海人王子による王権簒奪とともに唐の属国からの独立でもあったと推測する。

(2)壬申の乱の経緯
吉野側は周到に戦いの準備していた。
  • * 天武元年(672 年)5 月:近江朝では天智天皇の山陵を作るためとして美濃で人夫を集めているが、兵士を集めているのではないかと、朴井(物部)連雄君が大海人王子に報告する。

    ★この記事は大海人王子側の挙兵を正当化する日本書紀の文飾であろう。

  • * 6 月 22 日:大海人王子は、不破道を塞ぐ命を美濃の湯沐の多臣品治に伝えるように、村国連男依に命じる。
  • * 6 月 24 日:近江京にいる高市王子と大津王子に伊勢で落ち合えるように伝える。大海人王子は妃の鸕野讃良王女・草壁王子ら 20 人余りと女孺(女官)10 人余りと共に吉野から東国へ出発する。伊賀の山中で、郡司らが数百の兵をつれて従う。高市王子が鹿深(甲賀)を越えて合流する。伊賀国司の三宅連石床らと湯沐令の田中臣足麻呂たちは、鈴鹿郡で合流した。三重郡家に到着したとき、鈴鹿関司の使者が山部王・石川王が関にいると報告する。
  • * 6 月 26 日:朝、朝明郡の迹太川(三重県三重郡の朝明川)の辺で、天照太神を望拝した。関に いたのは山部王・石川王ではなく大津皇子だった。大分君恵尺などが合流する。村国連男依が 不破道を塞いだと報告した。山背部小田・安斗連阿加布が東海の軍を、稚桜部臣五百瀬・土師 連馬手が東山の軍を起こす。天武天皇は桑名郡家に宿泊する。

    ★以上のことは吉野を出発してからたった 2 日間のことである。事前に、湯沐での武器の調達と共にそれぞれの人物と共に計画をたてていなければ実現できないことである。

  • この時、近江朝廷では大皇弟が東国に入ったと聞いて、その群臣は皆、驚いて、京中は震え騒いだ。あるいは逃げて東国に入ろうとする者もいた。あるいは引退して、山の中に隠れようとした。

    ★近江側は吉野の大海人王子の動向を警戒していたと思われるが、突然の挙兵に驚いたということであろう

  • この時、大伴連馬来田・弟の吹負は病気を自称して、倭の家に退いていた。大伴連馬来田と吹負の兄弟は天武天皇が勝利するだろうと考えて兵を集めた。馬来田は先立って大海人王子に従った。

    ★大伴兄弟が大和で挙兵することも事前の計画であったことは間違いないであろう。

壬申の乱地図
≪その後の経緯も記しておく≫
  • * 6月27日:不破で、尾張国司守の小子部連鉏鉤が2万の軍を率いて大海人王子に帰属した。大海人王子は高市王子に全軍を任せた。
  • * 6月28日:大海人王子が和蹔(関ケ原)に行き、軍事のことを調べる。
  • * 6月29日:大海人王子は和蹔に行き、軍に号令をかけてから野上(関ケ原付近)に帰る。大伴連吹負は数十騎で坂上直熊毛たちと合流して、穂積臣百足を呼び寄せ殺した。穗積臣五百枝・物部首日向を監禁して、軍に組み込む(大海人王子側になった。)留守役の高坂王・稚狹王を呼び寄せて、軍に従わせる。
  • * 7月1日~:大和の大海人王子側の軍は、河内から進軍してきた近江側の壱岐史韓国や犬養連五十君は等の軍との一進一退の激しい戦いになる。最終的に東国から援軍により大海人王子側が勝利する。
  • * 7月2日:大海人王子は紀臣阿閉麻呂・多臣品治らの数万の軍を倭へ向かわせる。また、村国連男依らの数万の軍を不破経由で近江へ入らせる。軍には近江軍と区別するために赤いものを身につけさせる。

    一方、近江は数万の軍で派遣して不破に向かわせる。その途中の犬上川で山部王が蘇我果安・巨勢臣比等に殺され、軍は混乱して蘇我果安は自殺する。近江の将軍の羽田公矢国は降伏して大海人王子側の将軍になる。

  • * 7月4日:大伴連吹負の軍は大野君果安の近江軍と乃楽山で戦闘になり、吹負軍は敗走するが、東国から紀臣阿閉麻呂からの援軍などで盛り返す。
  • * 7月5・6日:近江側の副将田辺小隅は奮戦するが、倉歴(三重県から滋賀県へ抜ける道)で村国連男依の軍に撃退される。
  • * 7月9日:村国連男依は近江の秦友足を鳥籠山で殺す。
  • * 7月13日:村国連男依は安河で戦って勝利し、社戸臣大口・土師連千嶋を捕まえる。
  • * 7月17日:栗太の軍を征伐する。
  • * 7月22日:村国連男依は瀬田に到着する。近江陣営は橋の西に陣を敷き、橋を壊して、長板を置き、敵兵が渡ろうとすると板を外して落とした。大分君稚臣が甲を重ねて着て刀を抜いて突撃した。近江側の兵は混乱して、散って走って逃げた。敵将の智尊を斬り殺す。大友皇子と左右大臣たちは逃げた。
    「瀬田の唐橋」の写真
    村国連男依は粟津岡で軍を起こして、羽田公矢国・出雲臣狛が合流。三尾城を攻めて降伏させた。

    一方、大伴大伴連吹負は完全に大和を制圧した。大坂を越えて難波に。他の将軍も三つの道から進んだ。吹負は難波の小郡に止まり、国司たちに官鑰・駅鈴・伝印を提出させた。

  • * 7月23日:村国連男依は犬養連五十君・谷直塩手を粟津市で斬り殺す。

    大友王子は山前に隠れて、自ら首をくくって死んだ。そのとき左右大臣と群臣たちは皆、散って逃亡していた。ただし、物部連麻呂と舎人だけが付き従っていた。

  • * 7月24日:大海人王子側の将軍たちは筱浪(滋賀県)に集まり、近江の左右大臣や臣下を捜索して捕えた。
  • * 7月26日:将軍たちは不破宮へ行き大友皇子の頭を大海人王子に捧げた。
  • * 8月25日:高市皇子に命じて、近江の群臣の犯した罪状を宣べさせました。重罪の8人を極刑にした。右大臣の中臣連金を斬り殺した。左大臣の蘇我臣赤兄・大納言の巨勢臣比等と、その子孫と中臣連金の子、蘇我臣果安の子は皆、配流にした。それ以外は全員を許した。

★以上のように大海人王子側の完勝であった。近江朝側には、大友王子を真に支える氏族が少なかったことになる。

(3)近江朝側には内通者や寝返った者が多数存在した

★大津王子が鈴鹿で合流したときに、山部王と石川王がやってきたのと情報があったことが記されている。近江軍の不破へ向かった山部王と蘇我臣果安らの軍は内紛を起こして自滅している。おそらく山部王は大海人側に参加しようとしたがそのことが発覚して蘇我蘇我臣果安に殺されたのであろう。

★大伴馬来田と吹負兄弟(孝徳朝で右大臣だった大伴長徳の弟たち)は朝廷側の役人だったが、吉野側に転じて軍兵を集めている。吹負は大和の将軍に任命され、多くの豪族が将軍の旗の下に集まっている。

★大和の留守役の高坂王、稚狭王も大伴吹負に従ってしまう。坂上直熊毛一党はかねてから大伴吹負に内応していたので、槻の樹下の陣営は吹負に制圧されてしまう。この寝返りは初めから計画されていた可能性が高い。

★河内での戦いのとき、近江側の壱岐史韓国の配下だった来目臣塩籠は、吉野側への内通の疑いで殺されている。来目臣塩籠は天武天皇側に寝返るつもりで兵士を集めた。壱岐史韓国はその密議を知って来目臣塩籠を殺そうとした。来目臣塩籠は自殺した。

紀大人は、天智十年(671 年)1 月 5 日の新体制のときに、蘇我果安、巨勢人臣と共に、御史大夫に任じられていた。ところが、壬申の乱後、乱後の処分で中臣金が死刑、蘇我赤兄と巨勢人臣が流刑となっているのに、紀大人は罰せられた形跡はない。吉野側に内通していたのであろう。息子の紀麻呂は、出世して大納言兼中務卿正三位になっている。

(4)物部臣麻呂も大海人側の内通者

★最後の瀬田橋での戦いで「近江軍は大混乱になり、左右の大臣たちは、辛うじて逃れて皆散り逃げた。大友王子は逃げ入る所もなく身を隠して自ら首を縊って死んだ。ただ物部連麻呂と、一、二の舎人だけが王子に従った」と記している。他の大臣たちが逃げ散ったのに、物部連麻呂だけが大友王子に最後まで従ったのは、大海人に通していたからこそできたと考えられる。同族の朴井(物部)連雄君は大海人王子側に側近として活躍している。紀大人と同様に、吉野側と通じていたと推測できる。

★当時、物部氏は没落していたが、蘇我石川麻呂一家誅殺事件のとき、物部二田造塩が大臣の死体を斬り刻んでおり、死刑執行の役だった。物部麻呂も大友王子の死刑を執行したと考えられる。

★天武朝になると早速、新羅遣使として派遣されている。しかも最高責任者である大使である。天武 10 年には、小錦下の位を、天武天皇 13 年には物部連は他の多数の臣姓の氏と共に朝臣の姓を与えられた。天武の殯のときも、八番目に法官の誅をしている。近江側であったもので、ここまで出世したものは皆無である。天武から強く信頼されていたことがわかる。大友王子に極めて忠実な臣下であったなら考えられない。さらに持統朝では筑紫総領、大宝元年には大納言となって、政治の中枢に携わり、藤原不比等の先輩として右大臣、左大臣に任じられた。717 年で死去するまでの数年は太政官の最高位者であった。

【補足:天智の皇后・倭姫王の戦いへの関与や伊勢神宮との関係については、未検討】

5.天智・天武は異父兄弟(大海人王子=漢王子)

(1)天武の年齢の謎

★天智大王が崩御した天智 10 年(671 年)での年齢は、日本書紀の記述から 46 歳であったことがわかる。父である舒明大王の崩御の 641 年に天智(中王兄王子)は 16 歳と記すからである。また、天智・天武の母である皇極(斉明)大王の崩御のときの年齢も 68 歳であったことがわかる。ところが天武の年齢は日本書紀には一切記されていないのである。天武は天下をとった偉大な天皇であり、日本書紀 30 巻のうちには 2 巻が天武に関係する。それなのに年齢がわからないのである。意図的に記さなかった以外考えられない。ところが後世の文献である『一代要記』や『本朝後胤紹運録』には、天武の崩年(686 年)を 65 歳と記されている。

資料による歴代天皇の崩年表(推古~文武)

おそらく天武の崩年が 65 歳ということが何らかの史料に記されていたのであろう。それなら、天智崩御のとき天武は 50 歳になり、天智の 4 歳年上になってしまう。それ故に『一代要記』は、天智崩御を 53 歳、『本朝後胤紹運録』は天智崩御を 58 歳として、天智は天武の兄であることにつじつまを合わせている。その他の中世の文献でも、天智・天武について様々な年齢が記されている。天武の崩御年は 65 歳が大半である。天智が天武の兄であることを示すためなら、日本書紀の天智の崩御年の 46 歳を元にして、天武の崩御を55 歳前後とすればよいはずである。ところが後世の学者たちは、日本書紀の天智の崩御年をあえて 46 歳とは異なる年齢としていることは、天武の崩御年の 65 歳が真実と考えていたからであろう。筆者は、「天智(中王兄王子)は舒明の崩御のとき(641 年)16 歳」とする日本書紀の記載が間違いとは考えにくい。よって筆者は天智の崩御年は 46 歳で天武の崩御年は65 歳であったと考える。つまり天武は天智より年長であったのである。

★この年齢矛盾に関して、様々な説が出されている。佐々克明氏の「天武=新羅の金多遂」説、小林恵子氏の「天武=高句麗の淵蓋蘇文」説などである。しかし、これらの説は根拠が弱い。なにより倭国の大王に外国人が即位出来るとは到底考えられない。倭国の大王には、古来からの氏族たちの推戴があってこそ即位できるものである。倭国に限らず中国・新羅・百済も同様である。顕宗・仁賢や継体がそうであったように、大王の血統を引いていることが絶対条件である。そして、筆者が全面的に賛同できる説として大和岩雄氏の天武=「漢王子」説がある。
 ≪参考文献「大和岩雄『日本書紀成立考~天智・天武異父兄弟説考~』大和書房 2010」≫

★斉明紀に次の記述がある。

大和岩男氏は、天武はこの漢王子であるとする。天武が天智の異父兄であることは、年齢矛盾が説明できる。また、天武が天智の兄であったことを日本書紀が隠して、「皇弟」「太皇弟」「東宮」などをことさら何度も強調しているは、天武が簒奪者ではなく天智の正当な後継者であることを示すためだった、と大和氏は述べている。この説について次節で詳しく解説していくことにする。

(2)天武=漢王子である根拠決定的な根拠(天武と当麻氏との血縁関係)

*天武が漢王子であることの根拠はそれなりにあるが、決定的なものは天武は当麻氏と血縁があることである。当麻氏は用明大王の子供である当麻王子(麻呂子王子)を祖とする真人姓の氏族である。漢王子の父である高向王も用明大王の孫であり、高向王と当麻氏の初代とは従兄弟の関係になる。一方、舒明大王と当麻氏とは何の血縁もない。

≪天武と当麻真人国見≫

*朱鳥元年(天武 15 年:686 年)9 月 9 日に天武が崩御する。そして 9 月 27 日に誄(しのびごと)がなされる。その誅の四番目に当麻真人国見が「左右兵衛の事」で誅を奉じている。

「左右兵衛」とは天武朝で制定された親衛隊のことである。後のことであるが、藤原不比等が亡くなったとき、不比等の異母妹の子である新田部親王が当時の親衛隊長の「授刀舎人」になっている。このように当時の親衛隊の長には、信頼できる血縁者が任じられたのである。当麻真人国見が天武の血縁者であったことになる。

当麻真人国見はその後、持統 11 年に、軽皇子(文武天皇)の「東宮大傳」に任じられている。「東宮大傳」は皇太子に帝王学を教える教師である。首皇子(聖武)の「東宮傳」には血縁者である藤原武智麻呂が任じられている。同様に当麻国見は軽皇子の血縁者であり、持統が信頼できる人物であったのである。当麻真人国見は當麻寺(奈良県葛城市)の開山に携わったと伝えられている。

≪天武の殯と当麻真人知徳≫

*天武の崩御から 1 年後、持統元年 9 月 9 日から殯の宮で設斎(儀式)が始まる。様々な人物が誅を奉じているが、翌年の11月11日の最後の誅は「当麻真人知徳」による「騰極(ひつぎ)の次第」であった。

ちなみに、舒明大王の葬儀のとき、最後の誅は「息長山田公、日嗣を奉じ誅る。」とある。息長山田公は舒明の親戚である。よって当麻真人知徳は天武の血縁者であったのである。さらに当麻真人知徳は、持統の葬儀にも誅を奉り、文武の殯のときも、「誅人を率いて誅奉る。」と記す。

★以上のように、当麻国見と当麻知徳は天武と血縁関係があることは100%間違いない。天武が天智と同じ舒明と皇極(斉明)の子なら、天武は当麻氏とは血縁はないはずである。ということは、天武の父は舒明ではないのである。皇極(斉明)大王が舒明の妃になる前に嫁いだ高向王は用明天皇の孫である。その高向王と皇極(斉明)大王との間に生まれたのが漢王子である。漢王子は当麻国見や当麻知徳と又従兄弟の関係である。よって、天武が当麻氏と血縁があるということは、天武が漢王子であること以外考えられないのである。下に筆者が推定する系図を示しておく。

≪その他、当麻真人と天武との強い絆≫
  • 当麻広島:672年の壬申の乱の際、吉備国守だったが、「元より大皇弟に隷きまつる・・」と記され大海人王子側であったので、近江朝から派遣された樟使主磐手に殺される。
  • 当麻豊浜系図では当麻王子の子(漢王子の叔父にあたる)で天武10年「小紫位当麻公豊浜、薨る。」と特別に死を記している。
  • 当麻国見(豊浜の子)も、壬申の乱における功により食封を下賜されたことを続日本紀に、記されている。
  • 当麻広麻呂当麻知徳の父で天武天皇14年(685年)死去。壬申の年の功によって、直大壱の位を贈られた。

(このように当麻氏は壬申の乱において、一族が全て大海人王子側であり、
その後の天武朝に於いて優遇されている。)

★天武十三年に制定された「八色の姓」のトップである真人姓からも、天武が漢王子であったことを補強できる。「真人姓」には皇族の子孫から13 氏を選んでいるが、5 番目が当麻真人である。用明大王の王子・当麻王子(別名麻呂子王子)の末裔である。天武の父が舒明であったなら、当麻氏は天武の血縁ではないので、真人姓には入らないはずである。

(3)大海人王子と高向王・漢王子をつなぐもの
① 大海氏と忍海漢人

★天武天皇の殯の記事における誅のトップは大海宿禰蒭蒲で「壬生の事を奉る」と記す。壬生とは養育係りのことで、天武は大海氏に養育されたことになる。この大海氏は、尾張・海部氏系である。壬申の乱に尾張氏が協力している。新撰姓氏録にも「凡海連・火明命の後なり」とある。『続日本紀』には「大海宿禰麁鎌を陸奥に遣わして金を治たしむ」とある。この大海宿禰麁鎌は大和忍海部に居住する。新羅から渡来したとされる「鍛冶金作の韓鍛冶」の根拠地である。ちなみに当麻氏も当麻鍛冶と称せれるようになっている。近くの笛吹神社の元の祭神は天香山命で尾張氏が祭祀していたと考えられる。

★大海宿禰麁鎌が居住していた忍海は新羅系の「忍海漢人」の本拠地でもある。この地域から新羅系の白鳳期の瓦が出土している。鍛冶技術に秀でていた。 忍海漢人の氏寺とされる地光寺の寺院跡からは新羅系の鬼瓦が発掘されているため、彼らの出自は新羅であると考えられる。「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に引用されている「塔露盤銘」には忍海漢人の一人である「意奴弥首辰星」が元興寺の建設に携わり鍛冶を行ったと記されている。意奴弥(オヌミ)とは忍海のことである。忍海漢人も大海氏と同様に鍛冶に携わっていた。このように居住地が隣接している大海氏と忍海漢人とは、鍛冶で連携していたと考えられる。大海人王子=王子の根拠の一つになる。

② 高向王(漢王子・天武の父)と三国真人の関係

★天武の母である皇極・斉明大王は、幼少期は宝王女と称された。宝という名から、養育氏族は、江財(沼)氏と考えられる。江財氏の本拠地は越前江沼郡である。その隣接地に越前高向郷(現在の陸前高田市)が存在した。よって宝王女は江財氏によって養育されて、その隣接地に居住していた王族の高向王と結婚したと推測できる。その根拠は、真人姓の3番目の高橋真人と4番目の三国真人である。両氏とも本拠地は越前坂井郡で、漢王子(天武)の父である高向王を養育した高向臣の原郷の高向郷の近くである。太田亮によれば、高向臣は越前坂井郡高向郷から、畿内の河内錦部郡高向(現河内長野市)に進出したとする。高橋公と三国公とは高向王と何らかの血縁があったと推測できる。天武の父が舒明であったなら、高橋公と三国公は真人姓にはならないはずである。

(4)天武系の天皇は桓武朝以降排除されている

★天武系は称徳天皇で皇統が途絶える。そして天智の孫である光仁天皇が即位してその子である桓武天皇は長岡京へさらに平安京へ遷都する。その桓武天皇は天武系を正当な天皇と認めていないのである。桓武朝において天武系が排除されたことについて解説する。

① 天皇家の菩提寺には天武系の位牌が無い。

京都に泉湧寺という寺がある。別名「御寺」ともいう。明治以前には、天皇家が事実上、菩提寺としていたところだ。ところが、驚くべきことに、天武以降称徳まで七人の天皇の位牌が無いのだ。・・・つまり祀られていないということで、無縁仏として扱われていることになる。泉湧寺が発行しているパンフレットすら、そのことを次のように明記している。

② 平安時代の「奉幣の儀」からも天武系は排除

奉幣の儀」とは天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献することである。小林恵子氏によると、平安時代の記録を調べると、歴代の天皇陵に対する「奉幣の儀」が、天武系の天皇に対しては、まったく行われていない、とのことである。

③ 桓武天皇による郊祀

称徳女帝の死により天武系が途絶えて、天智の子孫・白壁王が光仁天皇として即位する。その子が桓武天皇である。延暦4 年桓武天皇は、中国皇帝に習って長岡京の南の「交野柏原」で郊祀を行った。さらに延暦6年天神に合わせて父帝・光仁天皇を合わせ祀ったという。中国では天帝に、その王朝の初代の皇帝を配祀するのが慣例であった。桓武天皇は、中国の王朝交代になぞらえて、皇統が光仁天皇から王朝が交代したことを示したのである。

④桓武天皇の宣命からも天武系は排除

★桓武は自分が皇位につく正当性を、「光仁が、天智天皇の定めた法に従って、(桓武に)皇位を賜り仕え奉れ、」と命じたというのが、皇位継承の最大の根拠とされている。

(「大系日本の歴史③ 古代国家の歩み」吉田孝著 小学館刊)

実際は、称徳から光仁に受け継がれているのに、桓武は皇位につく正当性を「天智が定めた法」に置いている。天武から称徳を無視している。泉湧寺における仏教祭祀と同じである。つまり、桓武の真意は「光仁こそ新しい王朝の始祖であり、皇位継承の正当性は天智の子孫であるということにある。」ということだ。天武には正当性がない、ということである。天武が天智の弟で舒明の子であったなら王統が続いていることになり、天武系が排除される理由はない。このことからも天武は天智の弟でなかったことは間違いない。

6.日本書紀の嘘

これまで聖徳太子時代から壬申の乱まで、4 回にわたり、日本書紀を中心とする史料を検討しながら、隠された事実を探ってきた。その学習で筆者が理解することになったことは、『日本書紀』は歴史の真実とは到底思われない創作記事が多く記されていることである。神代や神武~景行・神功紀のような古い時代なら、伝承が元になっているので創作記事があるのは仕方ないが、推古朝~天智・天武朝は、日本書紀成立720 年から、わずか 50 年~120 年前のことである。この時代の出来事を当時の王権に関わる人々が知らなかったはずがない。現代以上に子や孫に伝えていたはずである。それなのに、「史実とは思われない聖徳太子の説話記事」や「賛美ばかりの中臣鎌足記事」が堂々と「正史」の中に記載されている。もちろん、日本書紀には、真実と思われることのほうが多いのは事実であるが、聖徳太子・乙巳の変・中臣鎌足については、「奈良時代における現代史捏造」と思ってしまった。捏造だけでなく、当時の権力者にとって都合の悪い事実が消されてしまっていることを知ることになった。天智暗殺や天智・天武の関係も隠されていることがわかった。

★日本書紀の成立を 720 年とする根拠は、次の「続日本紀」の記事である。

≪大和岩雄 『日本書紀成立考~天智・天武異父兄弟説考~』大和書房」より≫

「養老四年五月条:太政官奏すらく『諸司の国に下す小さけき事の・・(150 字省略)・・便ち、太政官の印を以って印せむ。』とまうす。奏するに可としたまう。尺の様を諸国に領つ。是より先、一品舎人親王、勅を奉けたまはりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀州巻系図一巻なり。」

本記事ではない「太政官奏」記事付記として、たった27字で記しているだけなのである。

*上山春平は「日本書紀は天皇家のためというよりはむしろ藤原家のためとみるべきでは ないかと思われてならない。そして、そのような方向づけを与えた広義の製作主体とし て、藤原不比等を想定してみたいのである。」と書く。

*上田正昭も「日本書紀完成のときの主幹であった舎人親王の傍で、大きな役割を果たし ていた形跡がある。当時の最高権力者である不比等が、日本書紀の最終仕上げに無関心で あったとは考え難い。」と書いている。

★続日本紀三十巻のうち、二十巻は、淡海三船と石川朝臣名足が執筆していたとされる。淡海三船と 石川名足は藤原氏と血縁がなく非藤原氏であった。彼らにとっては、「日本紀」は「正史」とは認 めていなかったのであろう。

以上 了


第6号 目次
  1. 巻頭言~古代からのメッセージ……河村哲夫
  2. 邪馬台国の時代②~卑弥呼の外交……河村哲夫
  3. 魏志倭人伝を考える~鉄について~……塩田泰弘
  4. 吉備の古代史シリーズ第 4 回
    ~温羅伝説を考える(上)―こんな物語だった……石合六郎
  5. 記紀に隠された史実を探る④
    ~隠された天智大王暗殺と天武天皇の真実……飯田眞理