最終更新日:2020/11/29

季刊「古代史ネット」創刊号

記紀神話を歴史として読む

丸地三郎

IV 神武東征と手研耳命(タギシミミノミコト)の乱

今回は、この一つの歴史課題:神武東征と手研耳命の乱について、具体的な実在の証拠を示しながら、記すこととする。

1) 大和攻略開始

九州を出発し、筑紫の岡田宮・阿岐国の多祁理宮・吉備国の高島宮を経由し、戦力を整え、いよいよ、大和を目指し、大阪湾から攻略を開始する。 出発時は、大和に入っている饒速日命が同族の天孫族であることが判っており、敵対するとは予想していなかったと推定する。しかし、饒速日命が敵対することが判り、安芸や吉備で戦力を整えて、戦闘態勢で大阪湾に入ったものと考える。 では、護る側の饒速日命は、その攻撃に準備体制をとっていたのか、これを考古学資料から検討する。

まずは、神武軍のルートを確認する。
古事記は、簡潔に記述され、日本書紀では詳細に記述されている。特に目立った矛盾はないと見て、日本書紀の記述に従い、経緯を示す。

  • 浪速の渡を経て、草香邑(クサカムラ)の白肩津(シラカタノツ)に至る。 4月
  • 徒歩で龍田(タツタ)へ向かう。難路で断念。
  • 戻り、生駒山を越えようとした。
  • 孔舎衛(クサカエ)の坂にて長脛彦軍と戦う。
  • 流れ矢が五瀬命の肘に当たる。「皇師(ミイクサ)進み戦ふこと能わず。」
  • 「日に向かうのは間違い、日を背にして戦う」と神武軍撤退 東側から攻めるとの意味か。
  • 大阪湾を退き、南下する。
  • 五瀬命死亡、紀伊国の竈山(カマヤマ)に葬る。 5月
  • 名草邑に至る。 名草戸畔(ナクサトベ)を殺す。 6月

神武東征のルート 大和攻略開始

現在の大阪では、日下(草香邑)は海から遠く離れて平野の真中にあるとして、このルートの信ぴょう性が問われたが、大阪湾の地質図が作られ、古地図が復元されると、海岸線にあり、港であったことを否定できないことが判った。 大阪の古地図を参照。龍田 (タツタ)へのルートも、大和川の古い流れに沿っており、白肩津から移動が可能だったと思われる。しかし、日本書紀に記載される「其の路狭く嶮しくして、人並み行くこと得ず」 「乃ち還りて更に東胆駒山 (イコマヤマ) を越えて、中洲にはいらむと欲す」とあるが、地形から見て、龍田への道は、そんなに嶮しい道であったとは、思えない。別の理由があったのかも知れない。

大阪の古地図

神武東征の経路と第2次高地性集落

この当時の戦争に関わる遺跡である高地性集落を見る。 高地性集落は、交通の要所に見張り台を兼ねて作られた場合は、恒久的に、長期間使われたケースや、極めて短期間だけ存続し、特定の戦争・戦闘のために、見張りと戦うための山城として作られたケース、やや長期間に渡り存続し、敵の襲撃に備えたケースなどがある。

この図の神武東征のルート上には、高地性集が配置され、大和を護る。 饒速日命側が、神武東征に備えて構築したものと見られる。 若林邦彦氏の『「倭国乱」と高地性集落論・観音寺山遺跡』に掲載された図上の高地性集落を見ると、白方津から龍田のルートに沿って、高地性集落が並んでいることが判る。

龍田から大和川を遡り奈良盆地に至る付近には、饒速日命と、随行した物部氏一族の拠点地域が並んでおり、庄内式土器・布留 (フル) 式土器の産地ともなっている。饒速日命側の要所であって、守備を固めていた処と推定される。 従って、五瀬命・神武軍が徒歩で進もうとして龍田へ至るルートは、大和を守備する側の軍備や設備が整った地帯で、日本書紀に記すように、単に「其の路狭く嶮しくして、人並み行くこと得ず」 では無く、ここでも激戦が行われ、五瀬命・神武軍が退却を余儀なくされた結果を、日本書紀ではさらりと「路が狭く、嶮しかった」と記したものと、考える。

2) 熊野灘の遭難

指揮官の五瀬命を失った神武軍は、その後、海路を順当に航行し、熊野に至り、天磐盾(アメノイワタテ)(現在も観光地であるゴトビキ岩)を登るとの記述がある。 日本書紀には、「海の中にして卒 (にわか) に暴風に遭ひぬ。」とあり、神武の兄二人が遭難死する場面が記述される。 因みに古事記では、この遭難の記述は無い。神武の二人の兄については、その誕生の記事に、「波の穂を踏みて常世國に渡りまし」 「妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)した」とだけ記し、熊野灘の惨劇の記述を回避したと考えられる。

この遭難をどのように受け取るべきか、考えてみたい。 神武軍は、船団を組み、軍船を連ねて航行したものと考える。通常、指揮官の乗る旗艦は、最も大きく優秀で安全な船で、もっとも遭難し難いと考えられる。その船に乗る、神武の兄二人が遭難したことは、艦隊の大多数が遭難したと考えるのが妥当。 神武とその息子手研耳命達だけが難を逃れ、上陸したと推測する。 上陸する時は、重い刀や武器を捨て、身一つで高波の中、岩場や浜に泳ぎついたと想像する。

古事記に比べ詳細ルートや経緯を記している日本書紀を読むと、上陸後の神武軍の人員数は、本当に少ない数になっているように、読める。 大和へ向かう神武軍の武器は、艦船で運んだものでは無く、高倉下の発見した剣であった。

考古学者は、神武東征に疑問を投げかける人も多い。その理由として、九州から畿内に、大挙して人が移動したならば、大量の九州産土器などが発見されるはずだが、出土しない。鏡・武器なども、出土しない。技術も移転したようには見えない。だから、神武東征は無かったのだ。 このように理由を述べるが、熊野遭難の記述を読めば、神武軍と一緒に到着するはずだった土器・鏡・武器、さらに、技術を持った人々も全て、熊野灘に沈んでしまったため、失われたことが判る。 考古学者の指摘は、鋭いものが有るが、文献と照らし合わせると、そ の答えが明らかになる場合がある。 熊野灘の遭難はその例と云える。

3) 事代主の娘(伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を皇后に選定

熊野から神武一行は、予定しない遭難地点から日本で最も年間降水量の多い地域を越え、苦難を越え、大和に入った。日本書紀はその詳細を記す。 少数の手勢を率いて、味方を増やしながらの行軍は、大変の苦労があったと思われる。 最終的には、天孫族の印である天の羽羽矢と歩靭(かちゆき)が示されたことにより、 饒速日命 (ニギハヤヒノミコト)が、守備側の武将で義理の兄弟である長脛彦(ナガスネヒコ)を殺し、神武一行を大和に迎え入れた。

この結果、神武は即位したが、九州から来た天孫族は極僅かで、饒速日命達の正規軍はほぼ全員揃っている。このアンバランスな状態で、即位したが、安定した政権・勢力になったとは言えない。 その不安定な状況を打ち破る秘策が、「事代主の娘(伊須気余理比売)を皇后に選定」と云う政略結婚である。 神武の戦った相手である饒速日命について、記してみる。

饒速日命は、記紀には出雲へ派遣されたとの記述はないが、派遣された天孫の一人で、大国主命の娘の天道日女命を妻とし、子の天香語山が生まれている。天道日女命は事代主と兄弟。大和に入った時に、長脛彦の姉妹の登美屋姫を娶り、子の可美真手命が生まれている。 饒速日命にとって、事代主は義兄弟に当たる。 大和元々は、この近畿・大和を支配下に置いたのは事代主であったと推定する。 少数派の神武が、この大和の地を治めるためには、以前の支配者である事代主の娘との政略結婚は、最良の手段だったかもしれない。

4) 手研耳命(タギシミミノミコト)の乱と後継天皇

神武の死後、破廉恥な事件が起きている。 神武の九州時代に生まれた息子の手研耳命が、神武の皇后であった伊須気余理比売を、強引に娶り、政権を奪取した。 その後、伊須気余理比売と神武の間に生まれた子が、手研耳命を殺して、二代目の天皇となっている。 

この乱が、その後の社会や記紀の記述にも、与えた影響は大きかったものと推定する。 手研耳命の乱に加担した人々は誰で有ったろうか。 熊野灘の遭難を超えて、大和を勝ち取った九州から同行してきた人々は、どちらの側に付いたのだろうか? 共に戦ってきたメンバーの絆は固いものだったと考え、九州から同行した人々が手研耳命の側に付いたとする推定する。手研耳命の乱が収束する時には、主要なメンバーは、抹殺されたのではないかと懸念する。

この結果、天皇家には、九州時代からの天孫族の風習・伝統行事を伝える人も居なくなったと考える。又、伝承を伝えるも失われ、過去を伝える記述が不正確になったのではと、危惧する。 天孫系の世代の少なさや、神武東征の出発からのルートの不正確な記述なども、ここに原因があるのかも知れない。

後継の天皇の妃について記すと、初代神武の皇后は、事代主の娘、二代綏靖天皇の皇后も事代主の娘、三代の安寧天皇の皇后も事代主の孫娘。(日本書紀による) 九州から来た一族が抹殺され、三代にわたる天皇の皇后が事代主の娘と孫娘であることを考えると、事代主の権勢の大きさが覗われる。 日本神話の大和朝廷成立までの物語・神話は、出雲が敗北し、天孫族が勝った物語のように記されているが、実質は、負けたはずの出雲の勢力と饒速日命の一族は、しっかりと生き残り、大和朝廷の有力な勢力となったと理解できる。

おわりに

古墳時代以前の文献を神話の時代として、歴史から除外されてきたことの不合理を指摘し、歴史的事実を捉えて、考古資料を裏付けに「歴史として読むこと」の意義を例示してみた。 神話中の事件とその登場人物及びその系図の関連を検討した結果、事件の発生した順番は ①天の岩戸事件 ②天孫降臨 ③出雲の国譲り ④神武東征であることが判った。 この順序で事件を読み解くと、神話は架空の物語では無く、実際に起きたことを物語っていると理解できる。 ここでは、僅かな例しか示していないが、考古資料などと、注意深く照らし合わせると、日本神話が、実際にあった事実や歴史を記述したものであることが更に明確になるものと考える。 近い将来に、「神話を歴史として読む」ことにより、解明されてくる歴史的事実を順次つなぎ合わせ、「弥生時代の始まりから、古墳時代まで」を一望する俯瞰図を作成したいと考えています。

著者(丸地三郎)上半身写真著者紹介:丸地三郎(まるち・さぶろう)

  • 1944年 東京都に生まれる。
  • 1969年3月横浜市大文理学部卒業(日本史専攻)。コンピュータ畑に職を得て、半導体や最先端科学の製品を取り扱う。
  • ある時、米国で取引先の研究者から「日本人と日本の成り立ち」を問われ、答えに窮し、古代史の勉強を始めた。
  • 仕事を離れ、2014年より「古代を語る会」を主宰し、講演活動中。 累計37回(2020年9月)
  • 全邪馬連理事を務め、討論型研究発表会で、ほぼ毎回、論者として発表・討論を行った。
  • 2020年全邪馬連を脱会。 2020年10月 日本古代史ネットワーク 副会長
著書
「マシンビジョン入門」2009年日本工業出版
HP
「日本人と日本語 邪馬台国」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/index.htm

創刊号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. 日本古代史ネットワークの設立総会……丸地三郎
  3. 緊急レポート!! 炭素14年代:国際較正曲線INTCAL20と日本産樹木較正曲線JCAL……鷲﨑弘朋
  4. 年輪年代法の弥生古墳時代100年遡上論は誤り……鷲﨑弘朋
  5. 記紀神話を歴史として読む……丸地三郎
  6. 卑弥呼の鏡――金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を中心として……河村哲夫
  7. 天照大神の鏡――八咫鏡を中心として……河村哲夫