最終更新日:2020/11/29

季刊「古代史ネット」創刊号

記紀神話を歴史として読む

丸地三郎

III 事件の順序に従って、一連の神話を見直す

1) 天孫族と出雲族の対立と抗争
  1. 天照大神と須佐之男命の対立

    武装して、須佐之男命の到来を待つ天照大神、須佐之男命の乱暴狼藉の物語は、きな臭いものを感じる。 天孫族と出雲族に対立が、この時点から発生しており、天の岩戸事件は、その対立が、抗争に至ったように見える。その対立は、天孫族が巻き返し、須佐之男命を罰し、追放で一段落してように理解する。

  2. 天孫降臨

    天孫降臨の部分を読み直すと、アマテラスから指示を受けた天忍穗耳尊は、天橋立から下界を見て、躊躇して、降臨を止め(日本書紀「一書」)、子ができたとして、瓊瓊杵尊を降臨させた。従者を多くて付け、工人も同行させ、出発するが、途中の道が分かれる処に立つ猿田毘古神に怯える。人を出してみるがうまくゆかず、天宇受売命(アメノウズメノミコト)が出て、そこに立つ理由を聞き、安堵する話が載る。この緊迫感のある記述から、天孫降臨は、危険のある中で、決死の行動であったとの印象を深める。 「一書」には、国譲りの後であるので、平穏になってから安心して出発したように読める記述もあるが、実際には、緊迫した状況の中で挙行されたように読める。 須佐之男命を追放して、一段落したはずの対立が、再び、厳しくなったと考える。

  3. 武装対立と戦争

    記紀神話では、須佐之男命を捉え、爪を抜くなど凄惨は罰を与え追放するが、戦争を意味するような記述はしていない。天照大神が存在し、天岩戸事件の発した処が九州だったと唱える学者も多い。 争いの発生場所が、九州だったとすると、戦傷遺跡を考えざるを得ない。 弥生時代の九州の遺跡からは、多くの戦傷遺骨が発掘されている。 戦傷遺跡は、図のように、北九州で3つに区分される期間で、多く発生している。 縄文時代には、戦傷遺骨は極めて少なく、弥生時代だけに多い。弥生時代でも、多くの場所は平穏で、戦傷遺骨は、北九州に集中している。 北九州以外は、弥生の初期の山口県土井が浜遺跡、その外は、弥生の後期のもので、鳥取県の青谷上寺地(アオヤカミジチ)遺跡、長野県の松原遺跡、大阪湾近辺の複数遺跡。

北九州の戦争遺跡

長野県は、建御雷神により、建御名方神が追い詰められた地域。 大阪は、神武東征で、五瀬命が負傷し、撤退した場所で、その地域では激戦が行われたと考えられる。 共に、神話に登場する争い・戦争の記述の残された場所。 その外は、日本海側の青谷上寺地遺跡で、戦傷遺骨が大量に破棄されたような状態で発掘された処。調査の結果、大量虐殺の時期は、弥生後期とされている。 出雲の国譲りの際に、反抗した建御名方神に関わるものかと推定される。建御名方神は、「手をつかみ批(ヒシ)ぎ投げ離ちたまへば、すなわち逃げ去にき」と力比べに負けた。 青谷上寺地遺跡は、後ほど図で示すように、管玉の加工・集積地で、奴奈川姫・建御名方神の拠点で作られた勾玉と合わせて、装飾品としていた地域であったと最近の研究成果が報告している処。 建御名方神が深くかかわった土地で、虐殺が行われたことが、古事記では、「手を引きちぎられて逃げた」と柔らかく記載したものと考える。 記紀では、戦闘・戦争の記述を殆どしない、しても、軽微な争いと記述している傾向が見られるため、天孫族と出雲族の対立や天孫降臨の緊迫感が、実際には、戦闘や戦争であった可能性がある。 まだ、九州の戦傷遺跡と神話の関連については、明らかにされていないが、今後、検討すべき課題と考える。

2) 大国主命の国造り(出雲国の広がりと産業)

大国主命の国造りに関しては、具体的な事実を示すものは少ないが、女性にまつわる物語が意味を持っていたことが、判って来た。

  1. 奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の物語と勾玉(マガタマ)・管玉(クガタマ)の産地・加工・流通ルート

    奴奈川姫の物語、その子の建御名方神と話に繋がり、新潟・長野まで出雲の勢力範囲であった事を示唆する。 勾玉・管玉の生産と流通の研究からみると、奴奈川姫の生まれた土地、糸魚川(イトイガワ)で産出するヒスイとその加工品である勾玉の生産地と、管玉の複数の産地が、日本海ルートで結びつき、勾玉・管玉を合わせた装飾品として、青谷上寺地や出雲を経由して、最終消費地である北九州までつながっていたことが、この図で明らかに示された。 奴奈川姫とその子の建御名方神が、このルートを完成させる役割を果たしとすると、奴奈川姫のエピソードは、大国主の出雲国拡大を示すものであったとも考えられる。

  2. 須勢理毘売命 (スセリビメノミコト) の嫉妬の物語  ― 出雲と大和の重要な関係 -

    嫉妬深い正妻の話で、やや艶めかしい描写と歌が入った話としか読めなかったが、興味深い話題が入っている。 出雲の正妻の元から、倭国(やまとのくに)へ旅立とうとすると云う地名の入った場面設定の記述がある。 この地名の記述は、出雲と大和が結びついた地域であることと出雲族にとって重要な地域であることを、文献から示したものと言える。 出雲と大和の関係を示す考古資料としては、最近の青銅の祭器の研究がある。この資料によって、出雲と大和について、検討する。

勾玉・管玉の生産・加工・流通ルート

A)青銅の祭器

古い日本史の教科書では、銅鐸圏と銅剣・銅矛圏と云う分布図が掲載されていた。銅鐸は近畿圏を中心とし、銅剣・銅矛圏は北九州を中心とした二つの文化圏の存在をきれいに図示していた。処が、1983年に神庭荒神谷遺跡、1996年加茂岩倉遺跡が発見され、大量の銅鐸と大量の銅剣・銅矛が発見された。 このことによって、古い教科書にあった二つの文化圏は、否定された。しかし、青銅器の文化圏について、何であるのか、どんな文化圏であったのか、誰も説明しないことになってしまった。

神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で発見された大量の銅鐸と銅剣・銅矛の意味を次のように考える。

  1. 銅鐸の出土・同伴関係を見ると、出雲と大和は密接な関係がある。
  2. 銅鐸と武器型青銅器が一緒に出土したことは、同じ文化圏・勢力の物である。
  3. 埋納された青銅器は出雲のものであったこと。

二つの文化圏の図では、出雲と大和の繋がりを示していないが、埋納された青銅器の分布を検討すると、出雲と大和の関係が明瞭になる。 初期の段階=第一段階では、武器型青銅器は、出雲から瀬戸内海沿岸に広がり、銅鐸は、近畿圏に拡大する。 第二段階・第三段階では、銅鐸は、近畿から東海に拡散する。この拡散の動きは、大和を中心とする近畿圏が、出雲一族の新たな中心地になっていたことを示唆する。 嫉妬深い須勢理毘売命を嫌がって出雲から倭国(ヤマト)へ移動すると云う大国主命の行動は、もっと大きな事情があったと考えられる。

埋納された青銅器の分布

B) 青銅器の生産地

因みに、青銅器の主要な生産地は、吉野ヶ里に近い佐賀県エリアと、福岡平野の南側の丘陵地帯にある須玖岡本遺跡、更に前原・糸島地区にある。 鋳型の出土地を生産地と見ている。 

鋳型の出土地は、第二段階では、大阪湾沿岸に広まる。 大阪湾沿岸の第三段階では、鋳型が出土しない。しかし、これは、石を彫刻して作成した鋳型から技術が進歩し、現代の鋳物でも使われる砂型に替わった時期で、大阪湾沿岸や東海地方に砂型の破片が出土している。石の鋳型に比べ砂型は遺跡として残ることは少ない。 遺物として残る可能性の少ない砂型鋳型が、破片でも見つかったことは、第三段階では大阪湾から東海までが主要な生産地となっていたことを示すと見える。

銅鐸・武器型青銅の生産地域と副葬された青銅器

C)青銅器の埋納と副葬

青銅器の出土状況には、主に二通りの出土がある。 墓に副葬された場合と埋納された場合である。

北九州の大王の墓と見られる墓には、玉・鏡・剣が副葬される。 王の墓でも、この三種又は、二種が副葬されることがある。 青銅器が手に入りやすい地域では、死者に捧げるものとして青銅器を副葬したと考えられ、手に入り難い地域では、青銅器を所有していても、副葬はせず、次の代、次の代に伝世し、使用し続けたと考えられる。 三種の神器とつながる玉・鏡・剣を副葬していたグループは、天皇一族に繋がる天孫族であったと考える。

埋納される場合は、山の中など、人に目に触れることのないはずの場所に、ひっそりと埋められたケースが殆どである。考古学者の埋納の理由説明は、複数の異なったものが有る。例えば、祭祀用のもので、緊急事態などでは、人目に付かない山中に埋め、祭祀に必要な時には掘り出して使うと云う土中保管説。 武器型青銅器は、攻撃的な性格を持ち、敵を呪う:呪禁の為に埋められたとする。 しかし、これらの説明は、納得が行かない。

日本書紀の本文に「矛」の記述 がある。 大国主命が、国譲りを認める時の記述に、「乃ち国平けし時に杖(ツエツ)けりし、広矛を以て、二の神に授(タテマツ)りて」とある。 この文から、大国主命:出雲一族が、青銅の武器型祭器を使用して、支配地を拡大し治めてきたと読める。 このことは、武器型青銅器と銅鐸の分布を基に出雲族の支配地拡大としてきた根拠になる。 又、大国主命が、天孫族の建御雷神に、降伏の印として差し出したものと解釈される。 この戦利品を、建御雷神たちが、二度と使えないように、山中に埋めたものが、荒神谷・加茂岩倉遺跡に埋納された大量の銅矛・銅鐸と考えると、納得のゆく埋納の説明になる。 遠隔地などで、戦利品として回収されなかったものについては、敗者側で、地中に埋め、叛意の無いことを示したケースもあったと考える。

青銅の祭器、特に銅鐸の出土分布を見ると、明らかに出雲と大和の強い関係が判る。 須勢理毘売命の元を去って、大和に行こうとした大国主命の記述は、考古資料と引き比べると、その重大さが判る。

D)青銅器埋納は出雲族 vs 副葬は天孫族

青銅器を副葬していたのが、天孫族・天孫族系で、埋葬された青銅器を使っていたのは、出雲族であった云える。 最も多数の埋納青銅器は出雲から出土する。 埋納された銅鐸は、出雲を除くと、近畿地方を中心に出土する。 ここで、出雲と大和に強い絆が推測される。 埋納された武器型青銅器は、北九州と瀬戸内・四国に多い。この関係も重要と思われる。 今後、青銅器を埋納した地域と副葬した地域を詳細に検討すると、出雲族と天孫族の支配地が区分できる可能性がある。九州で区分できると、「天照大神と須佐之男命の対立」 「天の岩戸事件」 「天孫降臨」などの解釈が一段と進むものと期待する。


創刊号 目次
  1. 巻頭言……河村哲夫
  2. 日本古代史ネットワークの設立総会……丸地三郎
  3. 緊急レポート!! 炭素14年代:国際較正曲線INTCAL20と日本産樹木較正曲線JCAL……鷲崎弘朋
  4. 年輪年代法の弥生古墳時代100年遡上論は誤り……鷲崎弘朋
  5. 記紀神話を歴史として読む……丸地三郎
  6. 卑弥呼の鏡――金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を中心として……河村哲夫
  7. 天照大神の鏡――八咫鏡を中心として……河村哲夫