最終更新日:
2024/08/30

特別保存論文

「魏志倭人伝を考える」シリーズ

鉄について

著者:塩田 泰弘
初出:2022/03/28
目次
  1. はじめに
  2. 鉄の起源
  3. 鉄の精錬
  4. 倭国における製鉄の可能性

1.はじめに

弥生時代、特にその中期から後期にかけては、鉄の時代と言っても過言ではない。弥生時代の中期ごろから、特に九州北部で石器、木器、青銅器に代わって鉄器が急速に普及し始める。木器、石器や青銅器に比べて硬く、軽く、強く、鋭利で加工しやすい鉄は、様々な機器に加工され、急速に社会の変革・発展をうながした。鉄器の普及は、森林原野を耕地に変え、食糧を増産し、人口を増加させ、著しい貧富、身分の差を生じさせ、小さな氏族集団を小国家に、さらに中国が国家と認める倭国に変貌させた。

弥生時代の遺跡、特に弥生時代後期の遺跡からはおびただしい鉄器類が出土する。鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄戈、鉄鏃、刀子などの武器類、鉄鋤、鉄鍬、手鎌、鉄斧、釣針、ヤス、鉄のみ、鉄鎚、鉄やりがんななどの農漁業具・工具のほか鉄片、鉄滓などの鉄の加工工程の産物など種類も豊富である。

これらの鉄器は、当初は朝鮮半島や大陸から鉄器そのものが流入し、のちには併せて、摩耗や破損した鉄器を加工・再利用し、さらには鉄素材を得てこれを加工して必要な鉄器が作られたと考えられている。この時期は弥生時代中期ごろからで、この頃の遺跡から鍛冶遺構が出土し、後期になると特に北部九州の遺跡から多くの鍛冶遺構が発掘され 、鉄器の製造、加工が盛んになったことをうかがわせる。さらにはこの頃の遺構の中には、鉄原料から鉄の製造が行われていたのではないかと考えられるものも出現している。

これらの鉄はどのように生まれたのか、そして、倭国ではいつごろから鉄がつくられたのか考えてみたい。

2.鉄の起源

地球は、鉄、酸素、ケイ素、マグネシュウム、アルミニュームなどから成り立ち、このうち最も多いのが鉄であり、総重量の 34.6 パーセントを占める。鉄は重いため中心核にいくほど量が多くなるが、地表でも酸素(46.6 パーセント)、ケイ素(27.7 パーセント)、アルミニューム(8.1 パーセント)に次いで 4 番目(5.0 パーセント)に多い。

地球が誕生した 約 45 億年前は、大気には酸素がなく、二酸化炭素(CO2)、塩酸(HCl) 、窒素 (N2) 、亜硫酸ガス(H2SO3)などのガスが充満しており、鉄は降り注ぐ酸性雨に溶け、海中に 大量に溶け込み、あるいは地上のくぼ地に堆積した。 だが、海中にも酸素がなく、鉄は化合することなく海水中にそのまま鉄イオンとして存在していた。その後約 27 億年前になるとシアノバクテリアが生まれ、光合成を盛んに行い、海中に酸素を放出し始めた。鉄はこの酸素と化合し、酸化鉄となって沈殿し、海底に分厚い鉱床を形成した。これが地殻変動により隆起し地上に現れ、鉄鉱石の鉱山が出来上がった。人類はこの鉱山の鉄鉱石から鉄を作り利用しているのである。

人類が鉄を使用するようになったのは、BC5000 年頃に始まるといわれている。BC3000 年頃になると鉄製の短剣などが発見されるが、このころまでは隕鉄を使用したと言われている。その後、BC2000年~1500 年頃の古代オリエント年頃の古代オリエントのアナトリア(現在のトルコ地方)に出現したヒッタイトで木炭を炭素源として鉄鉱石をで木炭を炭素源として鉄鉱石を還元して鉄を製造する製鉄法が登場した。ヒッタイトは、この製鉄技術を背景として強大な国家を建設し、当時最強と言われたエジプトのラメス二世最強と言われたエジプトのラメス二世と戦と戦う(カデシュの戦い。BC1286年~BC1269年和平)など隆盛を極めたが、BC1190 年頃突如として消滅し、鉄の製造法は、四方に拡散した。

図1 古代オリエント(前十五世紀)

注 「グローバルワイド 最新世界史図表」(第一学習社)から作成した。

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中国においては、殷代(BC 17 世紀~BC 11 世紀)の遺跡から鉄器が発見され、鉄が使用されていることがわかっているが、この頃 主に使用されていたのは青銅器であった。本格的に製鉄が開始されたのは、春秋時代中期の BC 600 年頃と言われ、鉄製農具が使用されており、戦国時代には広く普及した。

なお、東アジア北部には中国より早く鉄器が伝わり、沿海州では BC1000 年ごろに鉄器時代を迎えたと言われている。北部遊牧民族の匈奴が鋼の武器を使用して、強勢を誇り、前漢の劉邦(高祖)を破り BC200 年)、その後も前漢を悩ますことになった。当時の前漢の武器は、青銅製、鋳鉄製と言われている。前漢の鋼使用は武帝(BC141 BC87 年)の頃と言われ、この頃から匈奴に対抗できるようになっていく。

倭国には、鉄は青銅器と同じころ BC3~4世紀ごろに伝わったと言われている。当初は青銅器の製造がさかんであったが、ほどなく実用的な器具は鉄器に代わり、青銅器は主に祭祀用具となっていく。

3.鉄の精錬

鉄は鉄鉱石を製錬して作られるが、ここで原料となる鉄鉱石や鉄の性質について大雑把に述べる。

(1) 鉄鉱石

鉄は酸化しやすい金属で、地表上の鉄はほとんどが酸化鉄として存在している。鉄(Fe)と酸素(O2)が化合したものである。この鉄と酸素の化合物である酸化鉄の鉱石が鉄鉱石であり、この鉄鉱石を製錬して、言い換えれば、鉄鉱石から鉄と化合している酸素を取り除いて(「還元反応」という。) 鉄を作るのである 。その原料となる鉄鉱石の主なものは次のとおりである。

  1. 赤鉄鉱(酸化第二鉄 red haematite Fe2O3
  2. 磁鉄鉱(四三酸化鉄 magnetite Fe3O4
  3. 菱鉄鉱(炭酸第一鉄 siderite FeCO3
  4. 褐鉄鉱(酸化第二鉄・水和物 limonite Fe2O3・nH2O 水酸化鉄 Fe(OH)2
  5. 黄鉄鉱(二硫化鉄 pyrite FeS2

黄鉄鉱は鉄と硫黄の化合物で、硫黄は鉄を脆くするので、まずこれを焼いて酸化鉄にする必要がある。しかし、完全に硫黄を取り除くことは困難であるので、製鉄の原料としては適さない。

また、砂鉄は、鉄鉱石(主に磁鉄鉱)が風化し、風、水に運ばれ、集積したものである。なお、褐鉄鉱は、本質的に微細な鉄原料であり、還元が容易である。

(2) 鉄の性質

鉄は含まれている炭素分の多寡によって性質が異なる。

①(純)鉄 (錬鉄):

炭素をほとんど含まない鉄。柔らかく常温でも曲げることができる。赤く熱すると簡単に変形できるが、焼き入れ(金属を所定の高温状態から急冷させる熱処理のこと。鉄材を硬くし、耐摩耗性や引張強さ、疲労強度を向上させることができる技術)はできない。

融点は 1530 度 電磁気材料、釘、針金等 に使用

② 鋼:

炭素を2パーセント以下含む鉄。硬く常温では簡単には曲がらない。赤く熱すると簡単に変形できる。炭素を含むので焼き入れができる。 炭素量によって極軟鋼、軟鋼、硬鋼、最硬鋼などに分類される。

ちなみにたたらで作られる玉鋼は炭素量1~1.5 パーセントで刃物に最も適している。

融点は(純)鉄と銑鉄の間。刃物、工具 等、ぜんまい、ばね、土木建築材料、車体、船体等幅広く使用

③ 銑鉄 (鋳鉄):

炭素を2パーセント以上含む鉄。非常に硬いが、脆い。無理に曲げようとすると折れてしまう。炭素分が多いため焼き入れができない。溶けやすく、容易に鋳込めることができるため、鋳物の材料として広く使われている。

融点は 1200 度程度。

なお、炭素が 4.2~4.3 パーセント入ると融点が 1145 度に下がる(共晶点温度)。この温度が、鉄が全て液体となる最も低い温度である。

(3) 鉄の精錬

鉄鉱石から鉄を作る 過程は、還元反応を起こすに十分な高温の中で、鉄よりもさらに酸化しやすい一酸化炭素 CO を作り、これに酸化鉄の酸素 O2 を奪いとらせるのである。この方法として、木炭と鉄鉱石を層状に封入し、ふいごで空気を送って燃焼させ、その時発生する一酸化炭素によって酸化鉄から酸素を奪い取るのである。この化学反応を起こすことができる温度は 400 度~800 度程度である。これによって得られる鉄は、個体のまま還元して酸素を失った孔だらけの海綿状の塊(海綿鉄になる。この鉄は、炭素分が少なく、また、還元しきれなかった酸化鉄、ケイ素、アルミニュームなどの不純物を含んでいるため、これを取り除かねばならない。鉄塊を赤く熱し、打ち叩き、不純物をたたき出して(「鉄を鍛える」という。)取り除くと純鉄になる。さらに木炭と純鉄を交互に重ねて熱し、純鉄に炭素を吸収させれば「浸炭」 、「加炭」という。)鋼になる。この製鉄法を直接製鉄法という。

ちなみに鉄塊を熱する温度が 730 度以上では、鉄に吸収される炭素の濃度は 0.8 パーセントまで、1145 度で 2 パーセント、それ以上の温度ではさらに炭素が含まれ、1150 度では炭素濃度が 4 パーセントを越え、鉄が溶融する。

このほかの製鉄の方法としては、間接製鉄法がある。これは還元温度をさらに高温(1200 度以上)にする。そうすると還元作用により酸素はとり除かれるが、鉄が炭素を吸収し、炭素を多く含んだ銑鉄ができる。このままでは炭素分が多いので、この炭素を適当な量になるまで取り除く必要がある(「脱炭」という。)。このために再度加熱して溶融し、ふいごで空気(酸素)を送り、炭素と反応させることで鉄に含まれる炭素量を下げる工程が必要となる。

直接製鉄法は、地面に穴を掘り、粘土で壁を作って、木炭と鉄鉱石を封入し、ふいごで空気を送るという極めて簡単な設備で行うことができる。

参考までに弥生時代よりは新しいが、古代の製鉄の様子を残していると思われる図を「鋼の時代」(中澤護人 岩波新書)から引用する。

図2 ボルネオにおける直接製鉄
Scnwaner の 1843 1847 年の旅行記)

注 「鋼の時代」(中澤護人)による。

一方、純銅(Cu)は、 1085 度以上でなければ溶けないし、軟らかくて道具にならないが、銅に錫(Sn)を混ぜると融点が下がり、700 度~900 度で溶け、硬くなり、道具の材料となる。青銅器を作るには、まず、 1000 度以上で、純銅を溶融し、更に錫(融点 232 度)を溶かし、これを混ぜ合わせ、鋳型に流し込むと様々な青銅器ができる。一方、鉄は青銅器を作る青銅器を作る温度よりも低温で、鉄鉱石から固体のままで鉄に変えることができ、これを鍛えれば使用できる鉄ができる。製鉄は、青銅器を作る技術があれば可能であるのである。

問題はここからである。(純)鉄は、先に述べたように、1500 度以上でなければ溶けない。炭素分を多く含み融点が低い銑鉄でも 1200 度程度必要である。鉄を溶かして鋳型に流し込んで鉄器を作ることは、青銅器よりさらに 高温でなければできないのである。 融点が低い銑鉄は硬く、脆くて武器や農工具などには利用しにくい。武器や農工具に適しているのは鋼であるが、鋼は融点が高く、炭素を適度に含んでいなければならない。鋼を作るには、高い温度を維持し、さらに鉄に炭素を吸収(加炭)あるいは余分な炭素を抜(脱炭)技術の取得もまた必要であった のである。

鉄器と青銅器はほぼ同時に倭国に伝わったと言われるが、まず、青銅器の製造が盛んになり、遅れて鉄器文化が栄えるようになる。 鉄は、作ることはそれほど難しくはないが、武器や農工具に利用できる鉄にするには、高い融点の克服と加炭、脱炭の技術の習得ができて初めて可能になり、青銅を凌駕できるのであって、青銅器を作るよりも 高度な技術が必要であったのである。

4.倭国における製鉄の可能性

鉄そのものの製造は、上記のごとくそれほど難しいことではない。このことから考えられることは、倭国においては青銅器の製造が盛んになるころには、小規模にではあろうが、製鉄行われていたのではないかということである。倭人がBC3~4世紀に 鉄が伝えられてからAD5世紀後半にまで 800 年ほども鉄を作る能力を持たなかったというのは、理解できないのである。

「魏志韓伝」の弁辰の条に国(弁辰)は鉄を出し、韓・わい・倭は皆従いて之を取る。もろもろ市買しばいに皆鉄用うこと、中国の銭を用うが如く、又以て二郡(楽浪郡、帯方郡)に供給す。という記述がある。朝鮮半島南部の弁辰で産出する鉄を韓、濊 、倭がとっており、この鉄が中国の貨幣のように使用され、さらに帯方郡・楽浪郡にも供給されていたというのである。この記述は、弁辰では鉄鉱石から鉄の精錬が行われ、取り出された鉄が貨幣のように流通するために一定の質・形態に加工されていたことを意味する。そして、この過程に倭人が関与しているということは、当然のことながら、製鉄にもかかわっていたことを示唆している。そしてこれらの倭人が、その技術を倭国にも伝えたであろうこともまた考えられることである。ただし韓国においても未だこの頃AD1~3世紀)の製鉄炉は見つかっていないといわれており、どのような製鉄炉を使い、鉄を製造していたかはわかっていない。

倭国における製鉄は、5 世紀後半になって始まったと言われているが、弥生時代においても鉄原料から製鉄が行われていたのではないかという説は根強く主張されている。それは上記のような背景と弥生時代の遺跡からそれを推測される遺構・遺物が出土しているからである。その例をいくつか挙げると次のとおりである。

(1) 遺跡から見た製鉄の可能性

弥生時代後期の西日本各地の 遺跡からは、製鉄が行われていたのではないかとみられる遺構・遺物 が発掘されている。いずれも明確に製鉄遺跡であるという遺構は見つかっていないとして、製鉄が行われていたと認められているものはないが、そのうち、①発掘された炉跡が製①発掘された炉跡が製鉄炉ではないかと考えられているもの(広島・小丸遺跡)、②出土した遺物(鉄滓)の分析かの分析から製鉄に必要な高温をを達成していると考えられるもの(熊本・下扇原遺跡)、③住居址の地理的条件、遺物の状況からみて製鉄が行われていたのではないかと考えられるもの(熊本・狩尾遺跡群)の3つの遺跡について記してみたい。

① 小丸遺跡(広島県 三原市八幡町)

小丸遺跡については、発掘結果報告書を入手していないので、詳細はわからない。手元の資料は発表当時の新聞記事しかないので、これを掲載する。もとより新聞報道は、読者に迎合する傾向があり、よりセンセーショナルな記述になり、実態を忠実に表現しているとは言えない面があるので、これをそのまま利用することには問題があるかもしれないが、他に適当な資料がないのでやむを得ない。その記事は以下のとおりである。

広島・小丸遺跡 日本で最古の製鉄炉を発見 3世紀に工具類作る?

弥生時代後期の遺跡とされる広島県三原市八幡町の小丸遺跡から、三世紀のものと推定される製鉄炉が見つかったことを、広島県埋蔵文化財センターが明らかにした。

これまで各地で確認された製鉄炉は、六世紀後半以降がほとんど。国内での鉄の生産は、西日本全域で大陸系磨製石器が減り、鉄器が急に増えた弥生時代後期ととらえる説もあり、小丸遺跡はこの説を裏付けるという。

広島県埋蔵文化財センターによると、製鉄炉は、弥生時代後期の集落跡近くに約 50 メートル離れて二基並んでいた。うち一基は、直径 50 センチ、深さ約 25 センチのすり鉢状の穴で左右に鉱滓が詰まった土壙があった。放射性炭素年代測定の結果、土壙は三世紀のものとわかった。

同センターは

  1. 三つの穴は一緒につくられたと考えられる
  2. 近くから弥生時代後期前半の土器片が見つかっている
  3. 形が他に比べて原始的・・・

などから三世紀のものと結論付けたという。

国内で鉄生産が始まった時期は五世紀後半以降とする説が有力だった。

川越哲志・広島大学教授(考古学)の話
遺構の周辺から弥生式土器の破片が出たことを考えれば、製鉄炉も弥生時代につくられたものに間違いない。製造した鉄はおそらく工具類をつくるのに使ったのだろう

(1995 年(平成 7 年)1 月 13 日朝日新聞夕刊)

下扇原しもおうぎばる遺跡 (熊本県阿蘇市阿蘇町大字三久保下扇原)

下扇原遺跡は阿蘇カルデラの北西部の外輪山麓にあり、黒川の自然堤防上の弥生時代後期の集落遺跡である。遺跡の標高は遺跡の標高は475メートルで面積は19,800平方メートルである。この遺平方メートルである。この遺跡跡からはからは1,522点に及ぶ大量の鉄製品が出土した。このうち、918点が器種分類され、うち506点が報告書に実測図を示された。このなかには鉄器生産の副産物も大量に含まれている。鍛冶遺構出土の鉄製品は620点でうち531点について器種を分類され、205点が実測図を示点が実測図を示された。鍛冶遺構が検出された住居遺構は88軒で、鍛冶遺構の形態は、平面円形を基調とし、平面円形を基調とし、周堤を有する例(周堤を有する例(2棟)、周堤に高台が付設する例(2棟)、円形で二段彫りの構造の例例(4棟)などバリエーションが豊富である。鍛冶遺構出土鉄製品620点のうち77点は鉄塊である。多くの鍛冶工房と豊富な鉄製品は、海岸から遠く離れた内陸である、この地において盛んに鉄豊富な鉄製品は、海岸から遠く離れた内陸である、この地において盛んに鉄製品が作られていたことを反映している。さらに次に述べる鉄塊の金属学的分析から、炉内温度はは1,180度以上の高温が確保され、局所的には局所的には1,310度まで上昇があると指摘されており、この鉄塊を生成した鍛冶工房においては、鉄の精錬を行うための高温を発生させる技術があった可能性があることが指摘されている。この鉄塊は、SB46竪穴住居跡から出土した鍛冶関連遺物であることが明らかなものもの(熔着遺物熔着遺物(KNO―1))で、長さ48ミリメートル、幅51ミリメートル、厚さ18ミリメートルの不整形の塊である。肉眼観察では、溶結した鉄塊ないしは鉄滓3点と板状遺物1点が溶着状態になっていてるものである。この溶着遺物は重要な資料であるとして金属学的分析がなされた。その結果、次のようなまとめになっている。

図3 SB46 住居出土鉄滓の実測図と写真
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  1. 注1「熊本県文化財調査報告第 257 集 小野原遺跡群」(熊本県教育委員会)から作成した。
  2. 注2 左上の小片3点は、金属学的分析のために鉄滓から採取された鉄滓片。

    「異形ながら36gの小型椀型 鍛冶滓に分類できる。 古墳時代前・中期以降の鍛冶工房出土にある鉄滓のうち、高温沸し、鍛接・鍛錬鍛冶滓に準じた組織であった。

    鍛冶操業は、土器片を炉壁や炉底に転用した可能性を持ち、鉄滓の鉱物相にウスタイトやファヤライト共存から FeO-SiO2 状態図により 1,180 ℃以上が確保され、局部のヘイシナイト晶出を根拠にすると FeO-Al2O2 状態図から 1,310 ℃前後まで上昇がある。温度ムラの大きい加熱状況が窺えた。古墳時代の強制送風にもとづく本格鍛冶への萌芽であり、滓の溶融具合が間歇かんけつ的なのも、これを裏付ける。 滓の重量が 36 gと少なく、小型鉄器の製作が推定される。」

    (「熊本県文化財調査報告書第 257 集 小野原遺跡群 32 March 2010」の「4-10 下扇原遺跡出土鍛冶関連遺物の金属学的調査 大澤正己」による。)
③ 狩尾遺跡群 (熊本県阿蘇市阿蘇町大字狩尾字湯ノ口 ほか)

狩尾遺跡群(湯ノ口遺跡、方無田遺跡、前田遺跡、古園遺跡は阿蘇カルデラ北西部の外輪山麓 にある。外輪山は、標高 960 メートルから 700 メートルまでは垂直の断崖で、その後は傾斜をゆるめながら 500 メートル付近で終わり、狩尾遺跡群が立地する黒川に迫る丘陵地の標高 472 から 477 メートルの地点が続く。この地理状況が遺跡の性格に大きく影響している。狩尾遺跡群は、弥生時代後期の集落遺跡で、近くには、宮山遺跡、下山西遺跡、小野原遺跡群(下扇原遺跡)などの弥生時代の遺跡が密集し、リモナイト(褐鉄鉱)を産する明神山鉱山もある。

図4 阿蘇山カルデラ内の弥生主要遺跡
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  1. ① 狩尾・湯の口
  2. ② 狩尾・方無田
  3. ③ 狩尾・前田
  4. ④ 古園
  5. ⑤ 池田

「熊本県文化財調査報告第131集 狩尾遺跡群」(熊本県教育委員会)から作成した。
一部加筆及び図のトリミングをしている。

狩尾遺跡群からは、報告書に記録された 鉄製品 だけで 526 点 (湯の口遺跡 339 点、方無田遺 跡 28 点、前田遺跡 4 点、池田・古園遺跡 155 点 「熊本県文化財調査報告書第 191 集 狩尾遺跡群」の「住居跡別出土鉄器」より筆者算出)出土している。鍛冶遺構を出土した住居址は、湯の口遺跡 5 棟、池田・古園遺跡2棟である。

このうち、特に出土する鉄製品が多いのは、狩尾遺跡群・湯ノ口遺跡で、鉄製品を出土した住居跡は、34 基で全住居址の 76 パーセントに上る。遺構の残存状況と調査の精度を勘案すればほとんどの住居址から鉄器が出土しているとみられる。また、鉄滓を検出した住居址は 12 基である。

狩尾遺跡群の鉄製品の 発掘結果について、その報告書においては、次のようにまとめている。少し長くなるが引用する。まず「鉄製品のまとめ」として次のように記している。

「狩尾遺跡群に属する遺跡は、弥生時代後期の遺跡として比類なく鉄製品を多く出土した遺跡であり、鉄製品を抜きにして遺跡の性格を語りえない。

遺跡全体の鉄製品は 318 点である。鉄製品の出土状況には注目すべき2つの特徴があり、ひとつは床面の鉄片の出土であり、他は遺構埋土より廃棄状況での鉄製品の出土である。出土した鉄製品の過半が床面を離れていることは、一見、資料価値を貶めるようであるが、実はそうではなく、再利用されず廃棄された鉄製品の多さこそが、この遺跡群では鉄製品が貴重品ではなく、ありふれた「捨てるほど」ある品物であることを如実に示している。

さらに床面での鉄片及び鉄滓の出土は、集落の中で鍛冶ないし鉄器の製作がなされていたことを示している。」

参考までに狩尾遺跡群の湯の口遺跡2号 住居址の鉄遺物の分布状況を示す。2号住居址は、鍛冶 炉遺構を持ち、鉄滓の出土はないが、鉄鏃5点、鉄鉇2点、手鎌2点、鉄片 16 点を出土している。

図5 狩尾・湯ノ口遺跡2号住居址実測図
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注 「熊本県文化財調査報告第131 号 狩尾遺跡群」(熊本県教育委員会)
から作成した。一部加筆している。

次に、「鉄製品生産の技術について」として次のように記している。

「狩尾遺跡群でどの様にして鉄製品生産がなされたか技術については今後の研究課題であろう。ここでは技術的問題に関わるいくつかの指摘に留めたい。狩尾遺跡群では鍛冶操業を行っ ているにもかかわらず1点のふいごの羽口も出土しなかった。炉の深さからみて強制送風は必 要であり、何らかの送風装置あったとみられるが実態は明らかでない。狩尾・湯ノ口遺跡では 2基の大型住居が浅い浸食谷の谷頭部分にあり、池田古園遺跡でも後世に溝として開かれた同 様の谷に面して鉄製品生産のなされた住居址があり、明らかに谷からの通風を選好した立地で あるが先に論じたように自然風は操業の必須条件ではなく、その意義は今後の課題である。

操業の中心施設である炉は周囲からやや盛り上がる皿状の掘り込みで、一部の炉はさらに中央を深く掘り下げ柔らかい草本類の炭化物が充填されている。恐らく断熱及び防湿効果を期すものとみえ、後世の製鉄炉の地下構造を思わすものがある。

最後に何ゆえに狩尾遺跡群で鉄製品の生産がなされたかを考えたい。鉄製品の出土状況はほとんど使い捨てであり、破損品を補修あるいは回収して再利用されていない。これは生産地ならではの鉄製品の消費状況であるが、仮に舶載品である鉄素材にすれば、あまりに浪費的な消費にすぎ、また、陸揚げ地点からもかなりの遠隔の山間地で地金を鉄製品に加工する必然性は乏しい。こうした困難は、ただひとつ地金は舶載品でなく在地での製鉄からなされたとして氷解するものであるがこの解明は今後の課題である。なお狩尾遺跡群の近くには戦前まで稼働していた鉄鉱山があり、また遺跡の背後は強風が吹き上げる外輪山南麓で、技術があれば充分に製鉄を可能とする。弥生時代に製鉄の開始が遡りうるとすれば、それは局地的にせよ日本列島内での鉄地金の内での鉄地金の自給自給であり、当時の大陸との交渉の意味も改めて問い直されねばならないだろう。」

「熊本県文化財調査報告書第 191 集 狩尾遺跡群」 第Ⅶ章総括より抜粋)

これらの遺跡においては、いずれも製鉄の直接的な遺構が発掘されていないことをもって、いずれも製鉄が行われていたと認められてはいない。これらの遺跡のうち、小丸遺跡は中国山地の中央部付近にあり、下扇原遺跡、狩尾遺跡群は、九州山地中央部の阿蘇外輪山の中にあり、いずれも海から遠く離れた山中にある。これらの遺跡が鉄素材を海外から得て、これを海岸から遠く運んで山中で加工しなければならない必然性は見いだせない。山中であれば、強風が崖を駆け上がる勢いを利用する必要があったとも考えられるが、当時はふいごを使った炉の技術が確立しており、敢えて崖を吹き上げる風を利用する必要はないと考えられる。

さらに、小丸遺跡がある中国山地は、砂鉄が豊富で、たたら製鉄が近年まで行われていた土地柄であり、下扇原遺跡、狩尾遺跡群がある阿蘇カルデラは、リモナイト(褐鉄鉱)の大きな埋蔵地があり、かつては製鉄が行われており、現在も消臭剤等に加工されて利用されている。いずれの遺跡も鉄の原料には事欠かないのである。

狩尾遺跡、下扇原遺跡は鉄製品の扱いがぞんざいであり、貴重なものとしては扱われていないことを考え合わせると、狩尾遺跡群の報告書が言うように、現地の鉄原料を使用し製鉄を行っていたと考えることにより、海から遠く離れた山中(有明海から約 40 キロメートル、豊後水道から約 80 キロメートル)に多くの鍛冶遺跡があり、ふんだんに鉄製品が出土するという謎が解消するのである。

(2) 研究者の見解

弥生時代の製鉄について、研究者の間では様々な説が主張されているが、通説ともいえる説は、弥生時代には国内では製鉄は行われておらず、膨大な鉄器は、朝鮮半島からの舶載、あるいは、鉄素材を輸入し、これを鍛錬鍛冶し製造したというものである。一方で弥生時代にも小規模ながら製鉄が行われていたのではないかと考える研究者も少なからずいる。ここでは、そのうちの 2 人の説を照会する。

a 北部九州における製鉄

考古学者で古代の鉄に詳しい村上恭通氏は「倭人と鉄の考古学」(1998 年)において、北部九州の弥生時代の製鉄の可能性について次のように述べている。

「以上のように、半島との往来が頻繁であった北部九州の倭人のなかに、鉄業者が現れ、朝鮮半島からの鉄素材の受容を促がした。ただし、其の過程を想定すると、弁辰において製鉄・精錬に関与した倭人が、列島にその技術を伝える媒介者の役目を果たしたとしても不思議ではない。彼の地での経験者が、九州でも採鉱から製鉄にいたる工程を試みた可能性は彼の地での経験者が、九州でも採鉱から製鉄にいたる工程を試みた可能性は否定できない。事実、中九州には朝鮮半島では使用が認められない菱鉄鉱や褐鉄鉱を原料とする鉄器がみられる。菱鉄鉱であれば大分県大野郡にその鉱山があり、褐鉄鉱は熊本県阿蘇郡に有名な鉱床が存在する。また中九州の鍛冶遺構では、しばしば表面に溶融状態を残す指先大の鉄塊が多数発見される。これは褐鉄鉱を精錬する際に生成する小型鉄塊の特徴にきわめて近似している。現在、冶金学的な分析で鉱石系と判断されている資料の多くは、鉱石の種類までは判断が及んでいないため、今後、鍛冶遺構より得られる鉄塊をこのような視点で分析・調査することも必要となろう。

さらに、

「釜山市の萊城遺跡の鍛冶遺構は、北部九州の工人が彼の地で鉄業に関与し、素材を倭に送る姿を物語っている。このほかにも朝鮮半島南部の人々が直接、鉄素材や鉄器を九州に運ぶことも当然想定される。このような形の舶載素材の入手が、弥生時代を通じての鉄素材受容の主流であったとみられる。と同時に、上述のように鉄器生産量が多い北部九州やその周辺地域では小規模生産を想定してもよかろう。」

と述べ、弥生時代の北部九州における鉄生産を想定している。

b 鉄滓の判定基準の妥当性

日本の製鉄は 5 世紀後半に始まったというのが定説であるが、これはそれ以前の時期の明瞭な製鉄遺構が出土していないことのほか、弥生時代の鍛冶遺構から 出土している鉄滓が全て鍛冶遺物と判断されていることなどが根拠となっている。鉄滓は鉄の精錬作業(精錬滓)と鍛冶作業(鍛冶滓)の際に生成されるが、 工学博士で金属の組成分析の専門家である新井宏氏は、その鉄滓の組成分析から、5 世紀中頃以前の鉄滓を すべて鍛冶遺物と判断する基準について疑問を呈し、容認できないと主張している。その論拠の一部を概略する。

鉄滓の分類は、滓の出土状況、形状、組成などを総合的に判定しているが、組成分析と組織観察が大きなウェイトを持っている。 新井宏氏は、組成のうち TiO2(酸化チタン)、SiO2(酸化ケイ素)と Total Fe (鉄総量)に注目し、そのデータを分析した結果、日本では TiO2 が1パーセント以下の場合、Total Fe が 48 パーセント以上あるいは SiO2 が 25 パーセント以下であればすべて鍛冶滓と判定されており、精錬滓と判定されているものはない。しかし 欧州の場合、精錬滓と判定されたものには、Total Fe が 50 パーセント以上のものが 74 件中 37 件、SiO2 が 25 パーセント以下のものが 68 件中 52 件もある。

表1 日本と欧州の精錬滓組成分布差
(日本の精錬滓は TiO2< 1 % を対象)(単位:件)
Total Fe
(%)
日本の場合 欧州
精錬滓
SiO2
(%)
日本の場合 欧州
精錬滓
鍛冶滓精錬滓 鍛冶滓精錬滓
20~30012 5~101204
30~35142 10~151606
35~40155 15~208023
40~45147 20~2510019
45~501321 25~304916
50~5511026 30~35171
55~6011010 35~40012
60~65400
65~70101
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(注)「金属を通して歴史を観る―24.鉄生産の開始時期(1)」(新井宏 2001 年)による。一部改変している。

さらに、「国立歴史民俗博物館研究報告」第 58~59 集(1998 年)に挙げられている鉄滓の放射化分析結果を FeO―Fe2O3 図上にプロットして得られた鉄滓の種別(精錬滓と鍛冶滓の別)分布の判別図(以下「歴博データによる判別図」 という。)に、5 世紀中頃以前の鉄滓データ(FeO と Fe2O3。16 件)をプロットすると、図6にみるよう 歴博データによる判別図の精錬滓判定の領域に入る場合が多くあること(15 件中 9 件)がわかる。このうち出土時期に疑問があるもの(■印の4件)を除いてもなお7件が精錬滓判定の領域にある。

図6 弥生・古墳中期の鉄滓組成分布
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  1. 注1 「金属を通して歴史を観る 25.鉄生産の開始時期(2)」による。
    一部改変している。
  2. 2 精錬滓判定と鍛冶滓判定の間に引かれた曲線が、歴博データによる判別図における両者の判定の境界線。

これは、製鉄が始まったとされる 5 世紀後半より前の鉄滓にも精錬滓の領域に入る 鉄滓 が数多く存在することを示している。 弥生時代の鉄滓(印)に限ってみても6件中3件が精錬滓の領域に入る。これら6件はいずれも鍛錬鍛冶滓に分類されているが、3件は精錬作業に伴い生成したものであることが考えられ、精錬滓に属する可能性があ る。 弥生時代に鉄の精錬がおこなわれていた可能性があるということである。さらにこれら3件はいずれも FeO が 50 パーセント以上で、SiO2 は 25 パーセント以下であり、表1の欧州の精錬滓の基準からみても精錬滓に分類されるものである。もちろん氏は、これらの鉄滓が精錬滓であると断定しているのではなく、すべてを鍛冶滓と断定することだけは容認し得ないと主張しているのである。

今まで述べてきたように弥生時代の鉄鉱石などの鉄素材から鉄の精錬が行われていた可能性は、遺跡が発掘されるに伴い、まさにはちきれんばかりに膨らみ、今後発掘調査により明確な製鉄遺構が出土した場合、今まで鍛冶作業に伴う遺物と判定されていたものが、一気に見直され、精錬作業に伴う遺物、あるいは精錬遺構と判断されるようになるのではないかと考えるのである。

ちなみに図6にプロットした 15 件について、所在地・遺跡名、推定時期、組成、注記(通説による鉄滓の判定)の一覧表を掲げる。

表2 5 世紀後半より前の鉄滓出土例
所在地・遺跡名推定時期全鉄
(%)
SiO
(%)
TiO
(%)
FeO
(%)
Fe2O3
(%)
注記文献
長崎小原下トレンチ第Ⅳ層炉跡縄文晩期?56.09.23.355.718.2精錬鍛冶滓
長崎小原下J-2トレンチ第Ⅳ層縄文晩期?46.614.93.553.47.3同上
石川加賀市豊町A縄文晩期?34.125.111.314.931.1砂鉄精錬滓
京都扇谷弥生前期末~中期初頭51.720.10.657.510.1鍛錬鍛冶滓
長崎金毘羅祠弥生中期62.110.41.247.436.1同上
岡山津山市押入西弥生中期後半?42.320.89.841.414.5砂鉄精錬滓
京都王子C=15区Ⅱ層弥生中期末~後期前半48.221.20.350.013.3鍛錬鍛冶滓
熊本諏訪原弥生後期~古墳初頭51.716.30.548.819.5同上
福岡春日市辻田弥生終末期55.913.81.248.925.3同上
熊本西弥護免弥生終末期45.821.40.452.17.3同上
福岡松木PD―27号住居址4C中頃48.825.00.153.610.2同上
福岡長野A3区3号住居址5C前半~中頃50.120.50.354.511同上
大阪府松原市大和川今池5C前半~中頃47.324.00.821.243.9同上
福岡野坂一町間SB―55C中頃43.729.00.341.216.7同上
島根関谷33.722.920.135.97.8砂鉄精錬滓
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  1. 注1 「金属を通して歴史を観る 25.鉄生産の開始時期(2)」 の「表4 5 世紀後半以前の鉄滓出土例」 (新井宏 2001 年)による。なお、組成に欠があるもの( 11 件)、5 世紀後半のもの(7 件)は省略した。
  2. 2 注記欄の「精錬鍛冶滓」は精錬で取り出された鉄塊を鉄の地金にする精錬鍛冶の工程でできた鉄 滓、「砂鉄精錬滓」は砂鉄を精錬する行程でできた鉄滓、「鍛錬鍛冶滓」は鉄の地金から鉄器を作る鍛 造鍛冶の行程でできた鉄滓をいう。
  3. 3 文献欄の番号は次の文献を示す。
    • ①大澤正己「古代鉄生産・金属学的見地からのアプローチ」『日本古代の鉄生産』 1991
    • ②大澤正己「冶金学的見地からみた古代製鉄」『古代を考える』36、1984
    • ③大澤正己「日本と朝鮮半島の鉄生産」『季刊考古学』33 成分範囲で示された資料 は中間値を記す。
  4. 4 「島根関谷」については遺跡の「推定時期」に確証が得られなかったため「―」とした。
参考文献
  • 中澤護人「鋼の時代」 岩波 書店 1964 年
  • 浅井壮一郎「古代製鉄物語 「葦原中津国」の謎 彩流社 2008 年
  • 熊本県教育委員会「熊本県文化財調査報告書第 191 集 狩尾遺跡群」 1993 年
  • 熊本県教育委員会「熊本県文化財調査報告書第 257 集 小野原遺跡群」 2010 年
  • 新日本製鉄(株) 「鉄と鉄鋼がわかる本」 日本実業出版社 2004 年
  • 山本 博 「古代の製鉄」 学生社 1975 年
  • 新日本製鉄(㈱)広報企画室編 「鉄の文化史―五千年の謎とロマンを追って」 東洋経済新報社東洋経済新報社 1984年
  • 村上恭通 「シリーズ日本史のなかの考古学 倭人と鉄の考古学」 青木書店 1998 年
  • 村上恭通 「古代国家成立過程と鉄器生産」 青木書店 2007 年
  • 新井 宏 「金属を通して歴史を観る 24 鉄生産の開始時期(1)」 2001 年
  • 新井 宏 「金属を通して歴史を観る 25 鉄生産の開始時期(2)」 2001 年
  • 「グローバルワイド 最新世界史図表」 第一学習社 1998 年 改定3版
  • 赤沼英男 「最古の鋼片の検出とその意味―ヒッタイト帝国が鉄生産に果たした役割の再検討―」 岩手県立博物館だより№ 106 2005 年